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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
29/64

第29話

 椎名さんが好き。

 自分の気持ちに気づいた時、わかっていた。

 この恋は叶わない──と。

 椎名さんの想いがどこにあるかなんて、百も承知だった。

 気持ちを伝えなかったのは、答えがわかっていたから。

 振られるとわかっているのに告白する勇気なんて無かった。椎名さんと違う部署で、時々顔を合わせる程度の関係だったら、想いを伝えてスッキリしていたかもしれない。

 でも、私達は直属の上司と部下。振られてすぐに割り切れるような関係じゃなかった。想いを伝えても、椎名さんは変わらないでいてくれたかもしれない。だけど、私はそれまでの自分でいられる自信なんてなかった。今まで築いてきたものが確実に壊れる。そう思ったから、自分の気持ちは心の奥の方に閉じ込めていた。

 それなのに……。

 相手に気持ちを気づかれてました?

 バクバクしてくる心臓と熱を持っていく頭をなんとかしたくて、アイスティーを一気に呷ったら、思いっきりむせてしまった。


「大丈夫か?」


 心配そうな声が聞こえる。

 大丈夫です──そう告げたいのに私の喉は声を出せない。代わりに何度か頷いた。口元をハンカチで押さえ、俯き喉が落ち着くのを待つ。

 数分後、ようやく咳が治まった。

 けれど、私の視線は下を向いたまま。椎名さんの方を見ることなんてできない。

 私の気持ちが椎名さんにバレてました──なんて、想定外だ。 

 広岡から聞いて私の気持ちを知る。

 椎名さん自身が私の気持ちに気づいていた。

 この二つは、似ているようで全然違う。

 気づいていたってことは、それなりに私のことを見ていてくれたってことの裏返しかもしれない。そう考えたら……ダメだ。ちっとも嬉しくない。

 恥ずかしい……。

 超恥ずかしい……。

 ていうか、この二ヶ月の間にどれだけ、恥ずかしい思いをしてるんだ。

 神様の呪い?

 私があの日、バーカって言ったから?

 ……だったら、もっと言ってやる。

 短気! 意地悪! 陰険! %△$♪¥●!


 ──コトン。

 一人、心の中で神様を罵っていたら、小さな音が聴こえた。反射的に顔を上げたら、水の入ったグラスが視界に入った。

 どうやら、椎名さんが頼んでくれていたらしい。

 しまった。椎名さんの存在を置き去りにしていた……恐る恐る椎名さんの方を見る。


「落ち着け」


 目が合うなり言われた。


「……すみません」 


 ああ……この感じ。

 椎名さんの少し強めな口調。ピシッと背筋が伸びる感じ。上司と部下だった頃みたいだ。

 懐かしい。

 予想外のトラブルでテンパった時も、椎名さんのこの一言でどこか冷静になれた。

 そうだ。心の中で神様に文句を言ったところで、椎名さんが私の気持ちに気づいてたという事実は変わらないんだ。

 もう開き直るしかない。


「どうして……気づかれたんですか? 自分で言うのもあれですけど、あの頃の私って仕事バカって感じだったと思うんですよね。当然、女子力も全然なくて……忠犬ツグ公なんて色気のないあだ名をつけられるくらいだったし」

「懐かしいな……そのあだ名。確かに、あの頃の柏原はガツガツ仕事してたよな。最初の頃はビクビクしたくせに、いつの間にか堂々と働くようになって……失敗してもそこから何かを得てやるって気迫は凄まじかったし。他の男どもより、男気に溢れていて……色気は無かったのかもな」


 ふっと笑いながら、椎名さんがあの頃の私について話している。褒められてはいるんだろうけど、ちょっと複雑。


「だったら、どうして?」

「だからだよ」

「だから?」


 返ってきた意外な答えに眉をひそめ、椎名さんの顔を見た。椎名さんはさっきまでとは違い、真剣な表情で私を見つめている。

 流れる沈黙に、椎名さんの躊躇いが見えた気がしたので、私は平気ですと椎名さんを見つめ返し、頷いた。言葉を交わしたわけではないけど、思いは伝わったらしく、椎名さんが再び口を開いた。


「柏原はさっき女子力なかったって言ったけど、そんなことはない。他の奴らの前では、ふわっとした女性社員の顔をしていた。ただ、俺の前ではそれを一切見せなかった」

「それは、上司だからじゃないですか?」

「いや、最初の頃は俺にも見せてた。それがいつからか硬い感じになって……最初は嫌われているのかと思ったが、その割に褒めると嬉しそうな顔するし。敢えてそうしてるのかと考えたら、腑に落ちた」


 鋭すぎ……普通、そこはスルーするところでしょ。広岡だって私が言うまで全く気づいてなかったし。同僚達も私の恋心を知っていたら、忠犬ツグ公なんて、あだ名をつけられなかったはずだ。

 だから、私の頑張りは無駄ではなかった。ただ、目の前にいる人の前では通用しないどころか、裏目に出てましたってことだ。


「……私ってバカですよね」

「バカなのは俺だ」

「え?」

「柏原の気持ちに気づいておきながら、何も言われないのを都合よく利用していた」

「利用するも何も、私が言わなかっただけだと思いますけど」

「じゃあ、何で黙っていた?」

「それは……」

「俺の心の中には前の奥さんしかいないって、わかってたからだろ。言ったところで、俺がどう答えるかも知っていた。他の部署ならまだいいが、直属の上司と部下だからな……言うのを躊躇うのもわかる」


 自分の気持ちを隠したくて、色々なものを装備していた。けれど今、時を越え……一つ、また一つと剥がれていく。自分の気持ちを丸裸にされているようで、恥ずかしくて、心細くて、逃げ出したい──はずなのに、不思議だ。私の気持ちがスッキリしていく。装備が外れた分、身軽になったって感じ?


「その通りですね。あの頃の私は、椎名さんの前にある奥様という高くて厚い壁を見て諦めていました。だから、椎名さんの部下というポジションだけは、守りたかった」

「だろうな……。上司と部下のラインを守るために、柏原は何も言ってこないだろうってわかってた。だから、柏原の気持ちを知っても動揺しなかった。それどころか、間違っても告白などしてこないようにって色々予防線を張ってたくらいだ。嫌になるくらい冷静だった」

「それを壊したのが、広岡なんですよね」

「……」


 あの頃を思い出したのか、椎名さんが渋い顔をしている。

 話が重くなりそうな気がして、少しだけ茶化してみた。広岡にアプローチされてた時の椎名さんは本当に面白かった。最初はクールに対応していたのに、段々それが崩れていって……。思えば、広岡は高くて厚い壁に色々していた。叩いたり、蹴ったり、穴を掘ったり……。最初は跳ね返されていたけど、その一つ一つが椎名さんの壁を脆くさせた。そして、最後はその壁を拳で粉々にした。


「凄まじかったからな……。あれから色々と慌ただしくなって、柏原の気持ちに配慮することを忘れてしまったんだ。結婚が決まった時も……これで柏原も諦めるだろって軽く考えてた。人の気持ちはそんなに単純じゃないのにな」

「でも、私は何も言わなかったんだから……仕方ないじゃないですか」

「だからって、自分に好意を持っている相手の気持ちに胡座をかいていいわけじゃない。本当に悪かった」


 そう言って椎名さんは頭を下げた。

 どっかで読んだことのある話だ。

 ……日記だ。

 谷崎さんとのあれこれの件で、書いてた。

 好きでもない相手の好意に気づいたところで、自分が相手に同じ気持ちを持っていない以上、どうすることもできないとか、だったら……曖昧のままにしておいて、相手の気持ちが変わるのを待ちたいとか。

 ……私も最低だ。


「いえ……私も同じようなことを夫にしていたみたいなので、そのお気持ちはわかります。それより、私の方も広岡に酷いことを言ってしまったみたいで申し訳ありません。そのことの記憶もなくて……本当にごめんなさい」

「ああ……」


 私の微妙な謝罪は、何とも言えない空気を作り出してしまった。ここまで来たなら、広岡のことを聞いてもいいような気がしてきた。


「そう言えば、広岡はどうしたんですか?」


 良い結果でありますように──そう願いながら尋ねた。すると、椎名さんは表情が柔らかになった。


「昨日の朝、無事に出産した」


 良かった……。

 無事に生まれたんだ。


「おめでとうございます」


 自然と言葉が出た。

 今、私はどんな顔をしているのだろう?

 きちんと笑えているかな?

 自分の表情が見えないから不安だった。でも、目の前の椎名さんが私に向けてくれた笑顔は、今まで見たことのないくらい優しいものだった。それが、私がきちんと笑えていると肯定してくれている。


「ありがとう」


 ほっとした。

 椎名さんの言葉や表情に心から良かったと思える──そんな自分に。そして、そんな自分を少し誇らしく思える。

 ちょっと前の私だったら、初めて見る椎名さんの表情に胸を痛めていたかもしれない。でも今の私は、その表情をこんなに素直に受け取れる。

 誰かの幸せをこんな風に祝福できるのは……私が今、幸せだからだ。何だかんだ言ってもこの二ヶ月間、私は幸せだったんだ。それは多分……。

 そういえば、赤ちゃんの名前ってもう決めているのかな。

 ……ん? 自分の中で何かが引っかかる。


「あの、椎名さんって下の名前って何でしたっけ」

「……高史たかふみ


 私は、手帳を取り出し、あのページを確認した。

『タカノリを祝福する』


 私の頭の中にとある会話が浮かんだ。確か広岡が結婚するちょっと前……。

 ──私ね、子供には二人の字を入れたいんだ。

 ──男女どっちでも?

 ──そう。でも、私は男の子を産む気がする。

 ──じゃあ、高倫たかのり君? 

 ──うん

 

 そうだ!

 タカノリって二人の子供の名前だ。

 浮気と不倫じゃなかった。ほっと胸をなでおろすと同時に崩れ込んでしまう。

 紛らわしい。あなたの中途半端な書き込みのせいで夫婦の危機ですよって谷崎つぐみさんに言いたい。


「柏原? 大丈夫か」


 手帳を眺めてうなだれている私を椎名さんが心配そうに覗き込む。


「大丈夫です。すみません。あの……もしかして、お子さんの名前ってタカノリ君?」


 椎名さんはきょとんとした顔をしつつも、名前の響きにピンと来たみたいで、わかりやすく教えてくれた。


「いや女の子だった。だから、ふみをとって、史香」


 私はカバンの中から手紙を取り出し、椎名さんに差し出した。


「これは、結婚してからの私が書いた手紙です。ずっと前に書いてたみたいですけど、ポストに投函するのを躊躇っていたらしくて……。何を書いたかはわからないんですけど、その時の私の気持ちが書いてあると思うんです。よかったら、広岡に渡して頂けませんか? 何なら先に読んでもらって……変な内容だったら破って捨てて頂いても大丈夫なので」


 椎名さんは手紙を一瞥し、私に提案をした。


「なあ、倫香に会ってみないか? この手紙も直接渡せばいい。あいつも会いたがってたし……というより柏原のことを気にしててさ。安心させてやって欲しい」


 椎名さんの言葉に迷ってしまう。確かに、赤ちゃんの誕生は素直に祝福できた。でも、広岡に会ったら……傷つける言葉を吐いてしまうような気もする。


「私と会って広岡や赤ちゃんのストレスになったら……」

「心配し過ぎだ。あいつは案外強い。自分の苦労をネタにしてしまえる奴だぞ?」 


 それはコラムの内容からわかる。でも、今は精神的に不安定なはずだ。マタニティーブルーだってある。


「広岡の了解は取って下さいね」

「ああ」


 二人で広岡の病室に向かう。入り口の前で私は待機することにした。一応、簡単な説明を椎名さんから広岡にしてもらうことにした。私と会うことが産後の広岡のストレスにならないかの確認の意味もこめて。

 数分後、椎名さんが病室から出てきた。


「会いたいってさ。俺は喫茶室に行くから、ごゆっくり」


 そう言って、椎名さんは再び喫茶室の方に向かって行った。

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