表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
28/64

第28話

 低くて艶のある声。


「柏原だよな?」


 その声に私の体はビクっと反応し、カバンを落としてしまった。

 その声の持ち主は驚かせて悪いと言いながら、私が床にぶち撒けてしまったものを拾ってくれている。手渡されたものをカバンにしまうこともせずに、私は椎名さんに見入っていた。


 懐かしい。

 会いたくて……会いたくなかった人。

 怖かった。

 椎名さんを目の前にしたら、心が乱れてしまう気がしていたから。

 でも、私の心は波立つことなく穏やかだ。それどころか密かに椎名さんを観察する余裕すらある。

 初めて見る。

 スーツ姿以外の椎名さん。

 ボーダーのカットソーにGパンというシンプルな組み合わせだけど、それが椎名さんの顔立ちの良さを際立たせている。

 それにしても……。

 変わってない。

 声も、どこか仏頂面なところも……。私が知っている椎名さんそのものだ。

 最後に会ったのは結婚式? 私の中では一年ぶりな感じだけど、実際はどれくらいぶりなんだろう?

 

「椎名さん」


 気まずい。

 何か言わないと……ご無沙汰してますとか? なんか違う気がする。

 じゃあ謝罪? 広岡に暴言吐いたみたいですみません? これもわざとらしい。

 かけるべき言葉が見つからない。記憶がないってこんな時不便。


「結婚したんだな」

「え?」


 どうして椎名さんがそれを知ってるの?

 結婚しましたハガキは送っていないはずだし、結婚指輪だってしてない。……誰かから聞いたとかだったら最悪。


「……悪い。保険証を拾った時に見えてしまった」

 

 私のリアクションを見て、椎名さんが申し訳なさそうにしている。悪いことしちゃったと思いながらも、ほっと胸を撫で下ろす。

 単純な理由でよかった。


「ええ、そうらしいです」

「……?」

 

 しまった……これじゃ他人事みたいだ。椎名さんが怪訝な顔をしているのがわかる。


「何で病院に?」

「……」


 どこから話せばいいんだろう。記憶喪失から? 事故から?

 言い淀んでいたら、困惑していると思われたようだ。


「悪かった。……三年以上も会ってないのに、いきなり声かけて驚かせて。あれこれ聞かれても困るよな。けど、元気そうでよかった。じゃあ」


 椎名さんは寂しげな顔でそう言い、私に背を向け歩き出した。


「ダメっ!」


 気がついたら、椎名さんの腕を掴んでいた。考えるより前に体が勝手に動いていた。このまま別れたら、絶対に後悔する──そんな予感を感じ取ったのかもしれない。


「ごめんなさい」


 椎名さんの腕を離した。椎名さんは、キョトンとした顔で私を見ている。

 何を言えばいいかなんてわからない。

 考えるな。

 何でもいいから口を開こう。

 そう言い聞かせ、思いついた言葉をかけてみる。

 

「えっと……そうじゃなくて。びっくりして。椎名さんこそ、どうしてここに? どこか具合が悪いんですか」

「いや、俺じゃなくて倫香が入院してるんだ」

「広岡が?」

「ああ」


 そうだった。時期的に広岡が入院していても不思議ではないんだ。

 私が通院している病院に広岡が入院していて、旦那さんの椎名さんとその病院で顔を合わせている。

 ……偶然が重なっている? 運命とか奇跡だとは思わないけど、自分の気持ちにケリをつけなさいって事かもしれない。

 勇気を出してみよう。


「あの……少しだけお話できませんか。私がこの病院に来ていた理由ってちょっとややこしくて」


 待合室の椅子でと思っていたけど、私が緊張しているのを察してくれたのか、椎名さんは病院の喫茶室につれて行ってくれた。

 最上階にある喫茶室は、病院とは思えないほど明るくて、おしゃれなカフェに来ているような気分になった。

 椎名さんはアイスコーヒー、私はアイスティーを頼んだ。飲み物が出てくるまで、久々の晴れですね、今日は洗濯日和ですね──と天気の話ばかりしていた。椎名さんはただ相槌を打っていただけど。場が持たない時は、とりあえず天気の話をするのが無難だ。

 数分後、出されたアイスティーを一口飲み、私は病院に来ていた理由を説明した。

 取引先に書類を届けた帰り道に事故に遭遇したこと。

 側にいた妊婦さんを庇って一人、車に跳ねられたこと。

 大した怪我はしなかったけど、記憶喪失になり三年間の記憶がないこと。

 その三年間の間に結婚していたこと。

 私自身、それを覚えている訳じゃないから淡々と話すことができた。

 それなのに、目の前にいる椎名さんの表情が暗い。初めは冷静に反応してくれていたけど、途中から言葉を失っているように見えた。アイスコーヒーには一口も口を付けていなかった。

 重苦しくならないように、さらっと事実を説明したつもりだったけど、失敗したみたいだ。

 二人とも飲み物を飲まなかったから、お互いのグラスは氷が溶けて水滴だらけになっている。


「大変だったな……辛かっただろ」


 そう言って、椎名さんは俯いた。心なしか声が震えているように聞こえる。私が知っている椎名さんじゃない。そんな顔させたくて話したんじゃないのに……。


「いえ、体は元気ですし。記憶喪失って言っても、たかが三年ですし」

「たかがじゃないだろ! 三年もだろ」


 少し怒ったような言い方に涙が出そうになる。もう……相変わらず優しい。三年もって言ってくれたのは椎名さんだけだよ。


「悪い。きつく言い過ぎた。でも、たかがなんて言うな。柏原にとっては大事な時間だっだんだろ」

「はい」

「それにしても、無茶しやがって……。こうして生きているから、いいものの……そうじゃなかったら? 旦那の立場だったら、やりきれないぞ」


 その言葉にハッとした。旦那の立場──谷崎さんの立場を考えもしなかった。

 今にして思えば、病室で見た時の谷崎さんは少し怒った顔をしていた気がする。

 自分の配偶者が他人を庇って、車に跳ねられましたと聞かされたら、どんな気持ちになるんだろう? それで命を落としてしまったら?

 ……やりきれない。

 私はあの人にそんな思いをさせてしまったんだ。


「ごめんなさい」

「それは旦那に言え」


 確かにそうだ。

 これは谷崎さんに言わなきゃいけないことだ。このまま別の道を歩くことになっても、ちゃんと話そう。


「でも、ありがとう」

「え?」

「旦那の立場からすればたまったもんじゃないが、妊婦を妻に持つ夫の立場からは感謝する」

「あっ……」


 そう言えば、広岡は入院しているんだった。出産絡みなんだろうけど聞いて大丈夫かな?


「ごめん」


 広岡のことを聞いていいのか迷っていたら、椎名さんが謝ってきた。椎名さんに謝られることなんてないので戸惑う。


「え?」

「俺達、柏原を傷つけていたんだよな」

「……」

「倫香から聞いた」


 その一言でわかった。椎名さんは知っている。私が隠し続けていた想いを……覚悟を決める時なんだ。


「広岡から聞かれたんですね」

「ああ。いや、違うか。それもあるけど……俺は柏原の気持ちに気づいていた」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ