第27話
雲ひとつないキレイな青空を見たのは久しぶりだ。
何気なく窓越しに見える空を眺めていたら、ふとそう思った。
そんな日に会社を早退し、病院で会計待ちをしている私。何だか悲しくなってきた。このまま損した気分でいるのも癪なので、会計が終わったらお茶して帰ろう。
今日は心療内科の通院日だ。
記憶を取り戻すのではなく、記憶を失ったことによる変化とかストレスのフォローのための通院。
困ったことや不安なことはありませんか?
食欲はありますか?
きちんと眠れていますか?
といったことを聞かれ、答えるというシンプルなもの。
不安や困ったことはそれなりにある。
三年間の記憶がすっぽりと抜けちゃっているから、気を抜くと三年前の日付を書きそうになるし、谷崎つぐみさんって呼ばれてもすぐには反応できない。けれど、生きてく上で重大な支障はない。
たかが三年だから大丈夫でしょと言われるし、自分でもよく言っている。でもその台詞を口にすると、少しだけ心がヒリヒリした。だけど、三年後の現在に追いつくのに必死で、それを気にする余裕はなく、傷ついたりもしなかった。
家事や仕事でそれなりに疲れる毎日。そのおかげで美味しくご飯を食べ、ぐっすり眠る日々を送ってきた。
だから、色々なことをぼかしてきた。曖昧なままで時を過ごしていけばいいと思った。そうしているうちに、気づけば三年間の間のことや谷崎さんと向き合うことから逃げていた。
そんな中で目にした、知らない男の人の名前を書いた手帳と日記。知らなかった過去を中途半端に知ってしまったせいで、今まで知らんぷりしていた自分の醜い部分に触れて、それに引きずられるように谷崎さんに感情をぶつけ、挙句の果てに逃げ出してしまった。
蘭ちゃん一緒と見たDVDをきっかけに、自分の知らない過去とちゃんと向き合おうと思った。
それは、日記──闇ノートを開くことだった。
広岡に暴言を吐いたところだけは読んでいたけど、それ以外もかなり衝撃的だった。
【姫島さんに仕事のことで説教した話】
南ちゃんが言っていた通り、やつあたりとかじゃなくて、敢えてキツイ言い方をしたと書いてあった。でも、他に言い方があるだろうって落ち込んでいた。大路さんに聞かれたこともショックだったらしい。間違ったことは言ってないけど、大路さんにどう言葉をかけるべきか悩んでいた。
そして、谷崎さんに関しては一言だけ。
ムカつく! と。
仕事を増やされることに関しては、仕方ないと思ったみたいで、やるだけやって無理なら勉強一本にしようと腹を括ったらしい。
【今までで一番いい成績で試験に落ちたこと 】
自分の力を全て出し切ったんだから、悔いはないと書きつつも、やっぱり悔しくて、憎みたくて……。「神様のバーカ」とノートにたくさん書き殴っていた。
それはもう……呪いの日記みたいだった。思いっきり引いたけど、その文字や言葉に込められた私の気持ちがダイレクトに伝わってきて、声を上げて一人で泣いた。
ただでさえ、涙をたくさん吸っていたページを更にグシャグシャにしてしまった。だけど、そのおかげで公認会計士という夢にピリオドを打つことができた。
【広岡のこと】
試験に落ちて落ち込んでいた時に、広岡が流産したと前の会社の同期の子から教えてもらった。それを聞いた時、私はざまあみろと思ったらしい。けれどそれは一瞬のことで、すぐにそう思った自分に激しく落ち込んだ。
その後、何気なく読んだ少女マンガで広岡のコラムを知った。
それがマンションにあった私の好みと違うマンガだ。
ふとしたきっかけで子供を育てることになった高校生の話。読んでみると面白かったけど、明らかに中高生向けっぽくて、それをわざわざ購読している自分が謎だった。
その謎は巻末おまけページでわかった。そのマンガの担当編集は広岡だっだ。多分、漫画家さんの意向が絡んでいると思うけど、広岡は巻末ページに流産や不妊等の自分の経験を赤裸々に書き綴っていた。
次々と産休を取る職場の女性のフォローに嫌気が差していたこと。
二人だけでいいという椎名さんと大喧嘩した話……等々。
今まで見たことのない広岡のネガティブさに驚かされた。
その中のエピソードの一つに私が登場する。
それは年賀状の話。
その年に届いた子供の写真付きの年賀状に、子供がいない相手にそんなものを送りつけるなんて無神経だと広岡が毒づいたら、独身の人間に夫婦二人のツーショット写真の年賀状を送るのは無神経じゃないのか──と、その漫画家さんに指摘されて言い返せなかったらしい。それで、「幸せな人間は無神経」と言った私の気持ちがわかったと綴られていた。
当時の私は、その内容に衝撃を受け罪悪感を感じていた。でも、罪悪感を感じることを免罪符にするのは卑怯だ、と訳のわからないことを書いていた。
痛いことしか書いていないけど、幸せな人間は無神経の本質を書いているのは中々面白かった。その本質にあるのは妬みであって、妬みという感情が湧くうちは自分の中でそれを叶える力が残っている証拠で、自分の中から可能性が消えた時、妬むという感情から解放される──といった論文みたいな考察をたくさんしていた。
それからの私は考えるのをやめたくて、その暇をなくすようにクリスマス向けのバイトをしたり、ジムに通ったりしてスケジュールを埋めるようになった。
物理的に忙しくなれば余計なことは考えない。私らしい発想だと思った。
【谷崎さんとのこと】
自分の中で忘れたいことや反省すべきことを書くから、日記にあるのは痛いことばっかりだった。
その中で一番はこれだ。
日記によると、私は谷崎さんの気持ちに薄々気づいていたらしい。だけど、私はその気持ちに全く気づいていないフリをしていた。
上司と部下以上にはなるまいとバリアを張っていた。椎名さんや大路さんに対する気持ちは消えていたけど、谷崎さんに恋愛感情を向ける気はなかった。
関係ないとわかっていても、谷崎さんと出会わなければ、公認会計士になれていたという思いが、心の中に巣食っていた。
谷崎さんも頭のいい人だからその辺りを考慮して、しばらくは上司と部下でいいと思っていたらしい。
そんな関係を変えたのは、大路さんと姫島さんの披露宴。
あのDVDの……。あれは、私が勝手にやったのではなく、二人に頼まれたものだった。
披露宴で歌うにあたり、私はとても緊張していたみたいで、いつもよりお酒を飲んでいたようだ。そのせいで披露宴が終わる頃にはすっかり酔っ払ってしまった。谷崎さんはそんな私を家に送ろうとしてくれたけど、私はタクシーの運転手に谷崎さんの住所を告げ、無理やり谷崎さんのお宅訪問をしてしまったらしい。
そこで、私のこと好きなんでしょ? 好きなら抱いてみなさいよと挑発し……そういうことになった。その時の私は前日のことなど、すっかり忘れていた。そこが谷崎さんの部屋だということも。
目覚めたら、知らない部屋に真っ裸な自分。そして隣で枕に顔を埋めて眠る知らない男──という恋愛マンガみたいな展開に動揺し急いでそこを飛び出した。慌てたせいでその部屋の主の下着を履くという大失態を犯して。
逃げ出したのはいいものの、ここがどこだかわからない。そこで、使ったことのない携帯電話のGPSと格闘して、何とか自分の居場所を割り出した。そこが会社の最寄り駅の二つ隣の場所だという情報を得た私は、会社の最寄り駅に向かい、コンビニでタイツや化粧品を買い、ファミレスの化粧室で自分の身なりを整え、いつもどおりの時間に出社した。
そして、自分に妙な違和感を感じつつも、いつも通りに仕事をしていた。
違和感の正体に気づいたのはトイレだった。何気なく下着を眺めたら見覚えがないもの……そこで初めて、自分が男物の下着を身に着けていることに気づいた。しかも、ノーブラというおまけつき。
気づいてしまった以上、いてもたってもいられなくなり谷崎さんに早退を申し出たら、何も聞かずに了承してくれた。
けれど、会議室に呼び出され……「そっちは新品だから気にしないで」という言葉の後に自分が着ていた下着を返された。その言葉で、自分が身に着けている下着が谷崎さんの物だと知り、逃げるように会社を去った。
帰宅して速攻でシャワーを浴び、頭がスッキリしたのと同時に色々思い出した──という情けないエピソードが書き綴られていた。そこに書かれている私の字は誤字脱字だらけで、ものすごく動揺していたことがわかる。
読まなきゃよかった。
過去と向き合うと決めておきながらと思うけど、これに関しては記憶を消し去りたい。
何で私と結婚したの? って聞いた時、谷崎さんが黙ってしまったのも納得できる。結婚に至る経緯の全てではないだろうけど、絶対これがあの人の脳裏に浮かんだはずだ。
……言えないわ。
私だって聞きたくない。
谷崎さんや谷崎つぐみさんにしてみれば、そんな過去さえ愛おしいのかもしれないけど、私には無理。
これはどう見ても消し去りたい黒歴史だ。
その後のことは書かれていないけど、結婚しているんだから、いいようにまとまったんだろう。
【最後の日記】
最後に書かれていたのは広岡のこと。
広岡のコラムは妊娠を公表したところで止まっていた。
「結果がどうであれ、生まれてくる時期までは何も書きません。無事に生まれてくることを一緒に祈ってとは言いません。ただ、今はこの事だけを考えさせて下さい」
最後のコラムは、そんな言葉で締めくくられていた。
そのコラムから逆算すると、そろそろ生まれてくる時期。
そっとしておいて欲しいだろうから連絡する気はない。でも、自分に何かできないか。谷崎つぐみさんはそう考えたらしい。迷った末に出した答えは、その命が生まれてくることを願うこと。
だから、安産の神様のところに行きお願いをして、安産祈願のお守りも買った。そのお守りを広岡に送ろうと手紙を書いた。けど、それをポストに投函することができないと書いていた。
その手紙は今もカバンの中に入っている。
切手も貼ってあり、あとはポストに入れるだけなのに……谷崎つぐみさんは、何度も躊躇い投函できずにいたらしい。
私が今使っているカバンは事故の時と同じもの。事故に遭ったその日も手紙をポストに投函するかしないかで迷っていたのかもしれない。
そして、そんな時に妊婦さんと事故に遭遇……。
谷崎つぐみさんが妊婦さんを庇った理由がわかった。でも、私の中で何かが引っかかっている。
覚悟の上で読んだ日記には、思っていた通りよかったこと等の記述はなく、痛いことばかり書かれていた。
向かい合った過去に落ち込みはしたけれど、わかったこともある。
それは、私にとってこの三年間がとても重要だったこと。戸籍を変えてしまうくらいだし。
試験のために全力を尽くしたけど、ダメで……。たくさん泣いて、とことん落ち込んで、自分のことを嫌いになって。でも、そこから抜け出そうと必死で足掻いていた。
そして……日記には書いていないからわからないけど、自分なりに谷崎さんの思いを受け止め、結婚するまでの関係を築いて、幸せな生活を送っていた。だから他人の幸せを願えたのだ。
そこまでの過程は自分で言うのも変だけど、頑張ったと思う。それが今の私にはない。私にとって大事な部品だったのに……。失くしたものを嘆いてもどうしようもないし、嘆いている暇があったら代わりの部品を作れって思うけど、どうやって? と途方に暮れてしまう。
「谷崎つぐみさん。十五番窓口までどうぞ」
マイク越しに自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
やっとか……。今日は待たされた。谷崎つぐみって呼ばれても、スルーしないように意識してたから余計に疲れた。
「柏原?」
会計を終え病院を出ようとしたその時、聞き覚えのある声が私の足を止めた。




