第20話
やっちゃった。
降りる駅を間違えた。
改札を抜けた先には、商店街はなかった。
私の目に映るのは大きな商業施設。そう、私は実家の駅の改札を抜けたのだ。
会社の最寄り駅から二駅目で降りればいいのに、終点のターミナル駅まで行き、ご丁寧に乗り換えたってことか。
……アホすぎる。何で気づかないかな? 前に一回間違えたから、気をつけていたはずなのに。その時でさえ、改札を出る前に気づいたのに。
自分で自分に毒づく。でも、原因は何となくわかっている。
休憩室のやり取りの後のことはよく覚えていない。自分の席に戻ってからは、仕事以外のことは強引に頭の中から追い出した。
仕事以外のことが見えなくなればいいと、PCの画面を睨みつけ、ひたすらキーボードを叩いていた。そして、間違いがないかをいつも以上にチェックをしていた。
少しでも暇ができると、余計なことを考えそうだからって、課にかかってくる電話を無理やり取ってたっけ?
少しでも気を抜くと、休憩室でのやり取りや谷崎さんの悲しげな表情を思い出しそうで……怖かった。
わかっている。これが現実逃避だってことくらい。
後ろめたさや気まずさから逃れる為に、ありったけのHPとMPを使った。不純な動機だったけど、仕事の神様的なものが降りてきてくれて、恐ろしいほど仕事がはかどった。
自分でも無理してるなってわかっていたけど、その反動は会社を出た途端に出てしまったらしい。
ここで考えてもしょうがない。
今日は谷崎さんが帰ってくる日なんだから、きちんとお迎えしないと。気まずいし後ろめたい……けど、私は大人。逃げてはいられない。
踵を返して、再び改札を抜けた。
マンションの廊下から見える空は、とても濃い藍色をしている。それが月をキレイに映し出している。
会社を出た頃は、滝のように降っていた雨が止んだ後で、雲ひとつない澄んだ水色をしていたのに。
今はもうすっかり暗くなっている。当たり前だ……あれから、一時間以上経っているんだから。
昨日のうちに晩御飯の材料を買っておいてよかった。これから買い物だったと思うとぞっとする。
今日の献立はカレーライス。
それは谷崎さんのリクエストだった。出張初日に食べたカレーがとても辛くて、家庭の甘いカレーが恋しくなってしまったそうだ。普段は中辛のカレールウを使っているけど、甘口のルーも買った。今日は子供がいる家のカレーにする予定だ。
カレー肉はカット済みのものを買ってあるし、野菜は今日の出勤前に切って冷蔵庫に入れておいた。あとは、ご飯を炊いて、炒めて煮込めばいいだけだ。
谷崎さんは報告書作成や部長への報告の関係で、そんなに早く帰ってこれないはずだ。急いで準備すれば待たせないですむ。
「大丈夫だから落ち着け」
自分に言い聞かせて鍵を開けて、ドアを開いた。
「……」
玄関にある男性用の靴。
明かりがついている廊下、そこから見える明かりの灯ったリビング。
部屋の中に漂うカレーの香り。
……嫌な予感がする。
完成されたカレー。
リビングのソファーに腰掛け、テレビを見ている部屋着の谷崎さん。
何でもう帰って来てるの?
しかも、カレーまで作ってくれて。ありがたいを通り越していたたまれない。本当にダメな妻だ。
「おかえり」
谷崎さんはいつもと変わらない様子で私に声をかけた。会社で見せたような悲しげな目もしていない。
それは、まるで何も無かったかのようで……。
ただいま──そう言えたら、何も無かったことできるのかもしれない。でも……言えない。
「どうして……」
「ああ、部長の都合で報告は明日に延期になったんだ。報告書は機内で作成していたから、さっさと帰ってきた」
「そうじゃなくて、何で何も言わないんですか? 休憩室のやり取り聞かれてましたよね?」
「ああ、あれか……」
やっぱり聞かれてたんだ。
だったら、あんな言い方は無いだろとか言ってくれればいいのに。あんな表情するくらいなら、私を責め
ればいいのに。
それなのに、どうして何も言ってくれないの?
あなたが何も言わないなら……こっちから言うまでだ。
「ねえ、どうして私なんかと結婚したんですか?」
「それは……」
谷崎さんは言葉に詰まっているみたいだ。やっぱり言えない理由があるんだ。夫婦感が漂っていない二人だものね。
谷崎さんが言い淀むなら、私が谷崎つぐみさんの秘密を暴露してやる。
「自分で言うのも変ですけど、あなたの奥さんすごい嫌な人ですよ。暴言吐いて他人を傷つけて、旦那に黙ってピル飲んで……それだけでも最低なのに、他の男と不倫してたみたいですよ?」
「……」
谷崎さんは淡々とした表情のまま黙っている。特にショックを受けている感じはしない。手帳を見た時の私とは大違いだ。
もしかして……タカノリのこと知ってた?
私だけが罪悪感を感じていたってこと?
それって。
「……バカみたい」
「つぐみ?」
「あーもう、意味わかんない。何にも思い出せないし。そもそも、私が望んでいた未来じゃないし、これ。私がしたかったのは、結婚なんかじゃなくて公認会計士になってバリバリ働くことだったのに!」
「つぐみ……落ち着け」
そう言って谷崎さんは私の腕を掴もうとしたけど、寸前のところで手を止めた。私に対する気遣いだって知ってる。この人がいい人だって、わかっている。だけど、私の口からは残酷な言葉しか出てこない。
「もう、何もかも嫌なんです。何にも思い出せないし。記憶が戻ったら素知らぬ顔で不倫してるかもしれないし。……最低なことしてたくせに、なんで妊婦なんか庇うかな? 記憶が飛ぶんだったら、いっそのこと死んじゃえば」
「止めろ! これ以上言うな」
初めて見る谷崎さんの怒った顔、初めて耳にする強い口調。今までのは違う空気を纏う谷崎さんに怯んだ。その隙に腕を掴まれた。
叩かれる──本能的にそう思った。最低なことを口走ったんだから当然だ。覚悟を決めて目をぎゅっと閉じた。
……。
頬には何の痛みも感じなかった。その代わり……唇を塞がれた。




