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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
19/64

第19話

 小さいけれど芯の通った声。

 相手をすると面倒だとわかっているのに、その声の存在感に足を止めてしまった。

 近江さんは険しい顔して私を見上げている。緊張しているのか、両手をぎゅっと握りしめている。

 狼に対峙する子鹿ってこんな感じなのかな? なんて思ってしまう。

 一五五センチの私よりも、小さくて華奢な体。小さな顔に大きな瞳。重たい前髪に一つ結きという髪型のせいで、気がつかなかったけど、綺麗な顔立ちをしている子だと思う。

 そんな子に睨みつけられている私。

 一体、何なんだ? 私が何をしたって言うの?

 少しの沈黙の後、小さな口が動いた。


「どうして怒らないんですか?」

「え?」


 ……は?

 怒る? 誰に? 何を?

 何を言っているのか意味がわからないと言う顔をしたら、近江さんは語気を強めた。


「今の……あの人達の話、聞いてましたよね?」


 その一言で、状況がわかった。

 さっきの会話、近江さんも聞いたんだ。あの三人め……マジ恨む。

 でも、何で近江さんが怒っているわけ? 私のこと嫌いなんでしょ? 嫌いな人間の悪口なんて放っておけばいいのに。

 問いかけに黙ったままの私の態度が気に入らないのか、近江さんは声を荒げてゆく。


「あんなこと言われて悔しくないんですか? 柏原さんはともかく、谷崎課長が侮辱されたんですよ?」


 ……ああ、そっか。そっちか。

 やっとわかった。この子の私に対する態度の理由が。

 近江さんは谷崎さんの悪口に、そしてそれを聞いても平然としている私に怒っている。私に対する悪口なんてどうでもいい。

 その根底にあるのは、谷崎さんに対する恋愛感情。

 参ったな……。想定外だよ、これ。

 谷崎さんを好きな人のことなんて、想像もしなかった。

 なんて答えればいいのだろう。

 好きな人の奥さんって片想いしている方からすれば、複雑な存在だ。それは過去の経験でわかる。

 わかるからこそ、下手なことは言いたくない。


「柏原さんは呑気すぎるんですよ」

「谷崎課長や周囲に甘えすぎなんじゃないですか?」

「思い出す努力はしてるんですか?」


 返す言葉を見つけられずにいる私に構うことなく、今までの鬱憤をはらすかのように近江さんは私に言葉をぶつけてくる。

 ……どう言えば、この子は満足するのだろう?

 最初は真面目に聞いていたけど、何回も同じような文句を言われ続けると、鬱陶しくなってくる。

 ごめんなさい? 

 でも、何に対して? 

 谷崎さんの奥さんなのに不甲斐なくてごめんね?

 いや、それは違う。私がこの子の立場ならムカつく。

 逡巡している私をよそに近江さんはヒートアップしている。

 その姿に妙な既視感を感じる。それが私を苦々しい気持ちにさせていく。


「無神経なんですよ」

「え?」


 無神経・・・

 その言葉に体が強張っていくのがわかる。

 自分の中で必死に隠していた何かが溢れてくる。

 何を言っても様子を変えなかった私の変化に気づいたのか、近江さんは口元に歪んだ笑みを作り、吐き捨てるように私に言った。


「普通だったらできないですよ。記憶がないのに仕事復帰なんて。優秀な旦那さんがいたり、大して勉強してないくせに試験に合格したり……柏原さんは色々なことに恵まれいるから、そんなに無神経でいられるんですよ!」

「……」


 なんて醜いんだろう。

 広岡を責め立てた私も、こんなだったのかな。

 やっとわかった……私を苦々しくさせる既視感の正体。

 私だ。

 私が重なって見えるんだ。

 近江さんは、大学卒業時に就職が決まらなかったそうだ。それで派遣社員という選択をしたけど、中々顔合わせに通らなくて……やっと決まったのがこの会社らしい。

 多分、この子は頑張っても報われないという場面をたくさん経験してきたんだと思う。私もそうだったから、わかる。

 色々なことがうまく行かなくて、相手に正しいことを言っているふりをして責め立てる。それは単なるやつあたりで、その根底にあるのは単なる妬みなのに。

 同じだ。

 広岡を傷つけた私と。

 痛いことを言われているのは、私。

 でも、目の前のこの子だって痛い思いをしている。

 バカだ。私に文句言ったって何も変わらないのに。確かにスッキリするかもしれないけど、それは一瞬で、後から激しい自己嫌悪に襲われるのに。だったら……。


「私が消えれば、あなたは満足するの?」

「……っ」


 黙って文句を聞いていた私の言葉に、近江さんが怯んだ。

 さっきまでとは逆に今度は、近江さんが押し黙った。小さな肩が震えているように見える。でも、かまうものか。


「呑気だとか、甘え過ぎとか好き勝手言ってくれたけど、あなたに何か関係あるの?」

「それは……」

「好きなんでしょう? 谷崎課長のことが」

「……」


 小さな顔がみるみる赤くなっていく。それが答え。


「奪ってみれば?」

「……」

「そんなに言うなら、気持ちを伝えて奪えって言ってるの。あなたの子供を産みたいですとか言えば、案外なびいてくれるかもよ? あの人の奥さん、夫に隠れてピル飲むほど子供欲しくないみたいよ?」


 自分のことなのに、他人事のように伝える。そのシュールさに笑いかけた時、バシッという音と共に左頬に痛みが走った。近江さんの震える右手を見て、叩かれたんだと気づいた。


「何? 怖いの? 行動も起こせないくせに、文句言わないでくれる? あなたの境遇はわからないけど、自分の不運を他人に乗せるなって言うのよ!」


 この子に言ってるんじゃない。

 私に言ってる。

 どうせダメだからって、想いを伝えようとしなかった。ダメでもアクションを起こし続けていれば、覆すことができたかもしれない。何もしなかっただけのくせに、広岡を責め立てた──悲劇のヒロインぶってた私に。

 近江さんはただ俯いている。

 あーあ、やっちゃった。

 谷崎つぐみさんなら、どうしていたかな。少なくても、叩かれるようなようなことは言わなかったはずだよね。

 でも、私は柏原つぐみ。色々なことがうまくいかなくて、やさぐれてる。そんな最低な人間だ。

 早く仕事に戻ろう。黙ったままの近江さんに構うことなく、その場から抜け出した。

 休憩室を出ると、谷崎さんが立っていた。

 お互い何も言わず、視線を合わす。久しぶりに見る谷崎さんは、相変わらず淡々とした表情をしている。でも、どこか悲しそうな目をして私を見ている。

 きっと近江さんとのやり取りを聞かれていたんだろう。何であんなこと言うんだ? って言われている気がする。

 ごめんなさい。そんな目をさせて……でもね、どうしようもないの。これが私なの。どんなに頑張っても私はあなたの奥さんみたいに器用になれない。

 私は取り繕うこともせず、無言のまま谷崎さんの横を通り過ぎて行った。

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