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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
17/64

第17話

 あれから二週間。

 何事もなかったかのように過ごしている。表面上・・・は、だけど。

 谷崎さんとは相変わらずクッション一個分の距離だけど、休みの日には一緒に買い物に行くし、くだらない話だってする。

 何も変わっていない。

 私が谷崎さんに罪悪感を抱いている。ただ、それだけのこと。


 そんな谷崎さんは現在、海外出張中。

 谷崎さんが率いる──市場開発課は、その名の通り新しい取引先や業界を開発する課だ。現在、谷崎さんが抱えている案件の一つが鉄道会社。数年後に開業する路線の新型車両と線路の部品の受注を狙っているらしい。

 それと海外出張に何の関係が? って思うけど、ちゃんと理由がある。

 MS精工は国内と海外に工場を持っている。国内工場は複雑な処理が必要で量産しにくい製品や開発直後の製品を担当し、海外工場は量産しやすい製品の製造を行っている。全製品を国内で製造するのが理想的だろうけど、取引先の工場が海外にあることや人件費等のコストを考えると難しい。

 今回の案件の製品は海外工場で担当する予定だ。でも、客先である鉄道会社がそれに難色を示している。開業する路線は最先端の技術を使うので、その情報管理に細心の注意を払っている。海外の工場だと情報漏洩のリスクが高いのではと思われている。

 その不安を払拭してもらうには、工場を見てもらうことが一番と、谷崎さんは客先の担当者を連れて、海外工場に行っている。


 というわけで今、このマンションにいるのは私だけ。

 この機会に普段は長居できない書斎にこもって、思う存分マンガを読もうとしている。

 一人だからと夕食はコンビニ弁当で済ませ、お風呂もシャワーで済ませた。


「何を読もうかな」


 本棚をじっくり眺める。今日は時間があるから、巻数が多いものを攻めてみるのもいいかも……。


「ん? 何でこのマンガがここに?」


 巻数が多いマンガを探していたら、とあるマンガが目に入った。女子高生向けの雑誌で一番に人気のマンガらしいけど、私はその雑誌を読んでいない。不思議に思い、取り出そうとしたら、そこからノートが落ちてきた。


「うわっ……」


 落ちてきたノートを見るなり、ビクッと体が震えた。

 見覚えのある分厚いノート。

 ……それは、私の日記だ。


「日記やブログとかないの?」


 自分の記憶喪失の話をすると、大抵の人にそう聞かれる。その度に私は、


「面倒くさがりなんでそういうのつけてないんです」


 と答える。

 ……嘘。私は日記をつけていた。

 タカノリのことが気になった時、日記には書いているかもと思った。だけど、日記の在り処はわからなかったし、見つけたとしても読む気はなかった。

 私が知らない間の柏原つぐみや谷崎つぐみさんは、私であって私ではない。ある意味他人。他人の日記を読むのは……という気持ちがあった。でもそれだけじゃない。私が日記の存在を無視していたのは、日記には嫌なことしか書いていないって知っているからだ。

 私は嬉しかったことやありがたかったことは、絶対に日記に書かない。

 そういうことを文章にすると、私の場合は嘘っぽくなってしまう。それに書いたってことに安心して思い返そうとしなくなる。

 だから、自分にとっていい事は日記には書かず、何度も何度も思い出して、自分の中で噛みしめて味わう。少しでも長く覚えていられるように、いつでも鮮明に思い出せるように。

 そうやって、自分の中にいい事をたくさん貯金していこうと思っている。二十七年間そうしてきたんだから、三年間の間でもそこは変わっていないはず。記憶喪失になるなんて想定していなかったし。

 そんな私が日記に書いていることは、すごくムカついたことや嫌だったこと、そして自分が反省ずべきこと。

 ムカついたことや嫌だったことは、日記に書き殴ることによってスッキリするため。現にそうやって自分の中から嫌だったことを追い出してきた。でも、ムカついたりするのにも原因があって、そこに至った経緯や自分の思考を書いていたりもした。そうすることで、客観的に考えるようになったり、その手のことに免疫ができて、同じようなことが起こった時に違う対応ができる。

 そして……反省すべきこと。

 これは主に試験のこと。試験に落ちた原因の考察や勉強方法の仕方とか……去年は二ページ分くらい書いた気がする。

 こんな感じで日記には嫌なことしか書いていない。書いた時に自分の中で消化しているので、ほぼ読み返さない。日記というより闇ノートと言った方が正しい。

 私の知らない私の心の闇なんて、今の私に受け止められるわけがない。これはもう少し落ち着いてから読もう。

 ノートを本棚に戻そうとしたら、手が滑ってしまった。

 バサッという音とともに、開いた状態のノートが落ちている。


「やっちゃった」


 あーあ、私って基本的にドジなんだよね。さっさとしまって、マンガを読もう。そう思ったのに、開いてあるノートのページに無意識に視線を落としてしまった。


「……」


 さっさとノートを閉じろ!

 私の中の冷静な私が警告する。でも私はノートを閉じることができず、その文面を目で追ってしまう。



◆200X年4月15日◆

 やってしまった。

 書きたくない、でも書かなきゃいけない。

 広岡に本音をぶちまけてしまった。

 きっかけは、広岡から送られてきたメール。「幸せのおすそ分け」という件名のメールには画像が添付されていた。

 赤ちゃんのエコー写真だ。要はおめでた報告。

 余裕のある私だったら、どこかざわつきながらも、おめでとうって一言メールを返した。でも、今の私にはそんな余裕はない。

 仕事内容は変わらないと言われていたのに、技術営業支援課より分量が多く複雑な市場開発課での仕事。それを時間内にこなそうとすることによる疲労、そのせいで滞る試験勉強。最近受けた模試試験の結果は過去最悪だった。

 だから、無視するつもりだった。なのに……電話をかけてきた。

 おめでとうと告げ、あとは広岡の話を適当に聞いていた。

 妊娠の喜びやバレンタインとホワイトデーの痴話喧嘩話や協力的でない職場の先輩社員の愚痴話。社員の妊娠のせいで、面倒な部署に行かされた私にとって、協力的でない先輩の愚痴なんて、全く同情する気になれなかった。でも、平和に会話を終えたくてスルーした。それなのに……なんで、私の近況を聞くかな?


「そういえば、バレンタインどうだった?」


 私の中では思い出したくない一日。

 詳細に話すと自分の傷口が開くような気がしたので、彼が会社の女の子とできちゃった結婚する事になったことを手短に告げた。


「あーあ。もったいない。自覚した時に伝えればよかったのに」

「……」


 カチン、ときた。

 確かに彼女の言っていることは正しいのかもしれない。

 今の彼女の幸せは傷つくことも厭わずに、告白するという行動を起こした結果だ。でもそれが全て正しいとは限らない。恋したからと言って必ず想いを伝えないといけないのか? そんなことはないはずだ。

 さらに、彼女は私の地雷を踏んだ。


「ぼやぼやしていると、また他の人にとられちゃうよ。柏原可愛いんだしさ……もったいよ」


 その一言で、自分の中で何かが切れた。今思えば、それは理性だったのだと思う。

 理性が切れた私は、今まで押し殺していた本音をぶちまけた。


「幸せな人間は無神経ってホントだよね」

「……何言ってるの?」


 明らかにいつものトーンとは違う私に彼女は怪訝そうな声を出す。

 やばい……でも、もう止められない。


「確かに、椎名さんにアタックし続けてゲットしたあんたの行動は立派だったよ。その陰で私は死ぬほど泣いたけど……」

「……」


 今度は彼女が沈黙した。かまうもんかと私はまくし立てる。


「私が椎名さんのこと好きだって知らなかった? 気使ってるってわからなかった?」

「ねぇ、ど」


 どうしたの、と言いかけた彼女の言葉を遮る。


「いいよねぇ。広岡は……好きな男をゲットして好きな仕事にも就いて、オマケに赤ちゃん? 幸せで幸せでしょうがないんでしょ。私に幸せ自慢して、自分の幸せに酔いたいわけ?」


 ダメだ、もうやめよう、これ以上言ったら……でも、止まらない。


「職場の先輩が協力的じゃないって何? そんな愚痴話を独身の私にしてどうしたいわけ? 一生結婚できないかもしれない私に対する嫌み? 大体さぁ、あんた転職してまだそんなに経ってないでしょ? 産休とれる程、ちゃんと会社に貢献したの? 理解してくれないって言うけど、中途半端な仕事しかできないくせに急な休みやら産休取られて、そのフォローをさせられる側のこと考えたことあるわけ? あんたのせいで先輩に余計な負担がかかるって理解してるの? してないよね。してたらあんな悪口言えないはずだし」


 ……最低。

 これって仕事を盾にしたやつあたりだ。

 広岡が採用試験に合格するために、どれだけ頑張っていたか知ってるのに。けれど、今まで押さえつけていた感情が私に冷たい言葉を吐かせる。 


「あんたの幸せ自慢を聞かされる度にこっちは古傷をかき回されてる気分だった。こんな思い、もううんざり」

「ごめん……ね」


 彼女は絞り出すような声でそう言った。声が震えている。

 その声にハッとした。言い過ぎだ。彼女のお腹の中に小さな命だっているのに……。

 私は深く息を吸ってゆっくり吐き出した。色々手遅れ……もう取り繕えない。


「こめんね、今のはやつあたりだから。今、余裕なくて、模擬試験の結果がすごく悪くて……悪いけど、試験に集中したいの。試験が終わったら連絡するから、それまでそっとしといてくれないかな?」


 彼女は、そうね、ごめんねといって電話を切った。

 多分、もう二度と連絡はしないと思う。私も彼女も……。

 やってしまった。

 今まで飲み込んで来たものを全て、吐き出してしまった。

 前々から思っていた小さな不満が爆発した。彼女のせいじゃないのに。電話を持っていた私の手は震えていた。深呼吸を繰り返して、自分を取り戻していく。

 落ち着いた私を襲ったのは猛烈な自己嫌悪だった。

 私の中の冷静な私が、私を責め立てる。


「試験勉強が上手く行かない自分の能力不足と、好きな人に好きって言えない自分の臆病さを他人にぶつけてどうする?」

「あんたが彼女に言ったことは単なるやつあたり、単なる僻み。本当は好きな人とやりたい仕事の両方を持っている彼女が羨ましくてしょうがないくせに」


 そう、羨ましいだけ……でも、それを認めたくなかった。認めてしまったら負けだと思っていた。

 それって単に自分の中にある「妬み」という感情をごまかしてるだけだ。

 広岡にひどいことを言ってしまった。

 後悔はしているけど……謝らない。

 彼女には慰めてくれる存在──椎名さんがいる。

 私にはそんな存在はいない。言われた広岡より言った私の方がずっと惨めで可哀想だ。

 謝るもんか。謝らせるもんか。



 読み終えた私を襲ったのは激しい動悸だった。

 バクンバクンと自分の胸が強く脈打っている。後ろから首を絞められているみたいに、首の辺りが苦しい。

 何かの呪いにかかったみたいに、自分の中が干からびていく感じがする。

 このままじゃヤバいと、日記を閉じて台所へ駆け込んだ。


 冷蔵庫からミネラルウォータを取り出し、思いっきり呷る。水が喉を通っていく感覚はわかるのに、喉が潤う気がしない。


 読まなきゃよかった。

 あの日から二ヶ月後の私は、今の私と近い位置にいる。

 書かれていることは最低だ。

 だけど、日記の中の私の怒りだったり悲しみだったりは痛いほどわかる。広岡への気持ちだってそう。

 日記の私と今の私は別人なんて言えない。

 結婚式の写真を見て疑問に思っていたことがあった。

 それは広岡や椎名さんがいなかったこと。何で呼ばなかったんだろうって思っていたけど、この日記を見て事情がわかった。


 広岡が羨ましい──私の中にある広岡の気持ちはこんな単純なものだった。

 単なる嫉妬。

 それを認めようとも見ようともせずに、「幸せな人間は無神経」とか「仕事に対する姿勢が……」という正論ぶった言葉で批判する私。

 なんて浅はかなんだろう。

 谷崎さんはこんな私を知らない。

 なんて卑怯なんだろう。

 それなりの結婚生活を送りながら、夫にばれないように他の男の人を恋愛していた私。

 なんてあざといんだろう。

 自分の汚さに吐き気がする。

 どうして何も覚えていないんだろう。

 記憶がなくなるくらいなら、死んでしまえばよかったのに。

 大嫌い。

 柏原つぐみも谷崎つぐみも。

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