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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
本編
15/64

第15話

 夕食の後は私が食器洗い(ほとんどは食洗機がやってくれる)をして、谷崎さんがお風呂掃除をする。

 谷崎さんは一人暮らし歴が長いだけあって、家事全般を要領よくこなせる。お風呂掃除やゴミ捨てとか、私がやらなきゃと思っている間に片付けてくれたりする。

 共働きとはいえ、今の私は居候みたいなものだ。谷崎さんは私より多忙だから私よりもずっと疲れているはずだ。だから、申し訳なくなって「私がやりますから、休んでいて下さい」とお願いした。そしたら、「できる方がやればいいだろ」と返された。

 この家での生活を一言で表現すると「できる方ができることをする。感謝も忘れずにね」って感じだ。

 谷崎さんは私のあんな食事でも「ありがとう」と言ってくれる。

 私はというと、谷崎さんがしてくれたことに対して「すみません」とばかり言っていた。谷崎さんはそんな私を「できれば、ありがとうの方がいいな」と窘めた。

 確かに「すみません」って謝罪だ。言葉の持つ力を意識したことはなかったけど、「ありがとう」って言ってもらえた方が嬉しいし、もっと頑張ろうとか、もっと相手のためにしてあげたいという気持ちになる。

 他人と一緒に生活するって気まずいけど、学ぶこともある。


 後片付けを終え書斎に入る。谷崎さんがお風呂に入っている間、ここでマンガを読む。それが私にとっての至福の時間。

 私の本棚には所狭しとマンガが並べられている。その下段の片隅には、ボロボロになった公認会計士の参考書が置かれている。

 あの日の私が使っていた参考書。処分しようかと思ったけど、そこそこキレイだった参考書をあんなにするまで頑張ったんだと思うと、切なさがこみ上げてきて触れることができなかった。

 その隣には使った形跡のない参考書とクリアファイルに入れられた資格証明書が無造作に置かれていた。何だろうと思って手にしてみたら、それは日商簿記検定一級のものだった。最後の公認会計士試験の年に試験を受けて合格したらしい。

 その扱いから察するに、谷崎つぐみさん的には別にって感じだったんだろう。今の私もそれは同じだ。難しい資格ではあるけれど、公認会計士試験の勉強をしていれば合格できる試験だから、ふーんという感想しか湧いてこなかった。

 記憶喪失になってよかったことはないけど、ちょっとだけ得したかもって思えることはある。それはマンガを読んでいる時だ。

 何度も読んでいるんだろうけど、今の私にとっては初めてだから、新鮮な気持ちで楽しむことができる。あの頃は未完になるんじゃないかって、ハラハラしていたマンガの最終巻を読んだ時は、感慨深い気持ちになった。封印していた頃より、種類も冊数も増えているので楽しみが増えている。

 もっとも、そんな気分に浸れるのは谷崎さんがお風呂から上がって来るまでだ。谷崎さんはお風呂から上がった後、ここで仕事をしていることが多いので、邪魔にならないように退散して私もお風呂に入る。名残惜しい気もするけど、それくらいでちょうどいい。熱中しすぎると日々の生活に支障をきたしちゃうだろうし。

 お風呂から上がった後は、テレビを見ながらぼーっとする。見たい番組はないけれど、画面を眺めているうちにいい感じに眠たくなるのだ。そして私は程よい睡魔と共に客間に向かい、敷いておいた布団に潜り込み、あっという間に眠りに落ちる。そうして私の一日は終わる。


 お風呂上がり、今日もいつもと同じようにリビングに行く。

 ん?

 今日は先約がいる。谷崎さんだ。ソファーに腰掛け、缶ビール片手にテレビを眺めている。

 ここで暮らし始めた当初、じぶんのすっぴんを谷崎さんに見られるのが嫌で、お風呂上がりにも薄化粧をしていた。だけど、この人は私のすっぴんを何度も見ているのだと気づいたらバカバカしくなった。なので、今はすっぴんでも気にすることなく、谷崎さんに話しかけることができる。


「お仕事、終わったんですか?」

「いや、気分転換。つぐみも飲まない?」

「そうですね」


 一人の時はミネラルウォーターをお供にするけど、谷崎さんが飲んでいるのを目にすると、ゴクリと喉がなる。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、「おじゃまします」と言って、クッション一個分のスペースを空け谷崎さんの隣に腰掛けた。

 クッション一個分──それが私の中で谷崎さんとの距離。

 近くも遠くもない微妙な距離。でも、今の私には必要なものだ。

 谷崎さんもそれを察してくれているようで、気にする素振りも見せず「どうぞ」と言ってくれる。


 子供の頃は兄とチャンネル争いを繰り広げたテレビっ子の私だけど、今はこれという番組はない。ここ数年は勉強一色の日々でテレビ番組を気にする余裕なんかなかった。

 谷崎さんもこれという番組があるわけじゃないらしくて、適当にチャンネルを合わせ、面白そうと思う番組を流している。今はバラエティーだ。

 お互い集中してテレビを見るようなタイプじゃないのでビールを飲みながら、三年間の間に誰が結婚したとか、その間に人気が出た人の話を聞いたり……たわいのない世間話をして、穏やかな時間を過ごしている。

 でも、そんな時間をぶち壊すものがある。それは結婚式や結婚情報誌のCM。意識しているのは私だけだと思っていたけど、谷崎さんも意識してしまうらしい。その手のCMが流れると、谷崎さんは必ずと言っていい程、チャンネルを変える。

 今日もそう……って変えた先のチャンネルがウェディング特集。しかもプロポーズシーン。

 夜景のキレイなレストランで、デザートと一緒に出てくる指輪、そして甘いプロポーズ。

 見ているだけで胸焼けしそう……。あまり感情を顔に出さない谷崎さんが、珍しく困った顔をしている。

 私にはその手のプロポーズをしていないから気に病んでいるんだろうか?

 付き合うまでは色々あったらしいけど、結婚した経緯はあっさりしたものだと谷崎さんに聞いた。

 きっかけは兄と南ちゃんの結婚。

 二人が実家で生活すると知り、新婚生活の邪魔をしないために一人暮らしをしようと私が決意。そこで一人暮らし歴の長い谷崎さんに物件の選び方とかを相談したら、谷崎さんのマンションの部屋が空いてるから、一緒に暮らせばいいんじゃないという流れになったらしい。

 その時の谷崎さんは、あくまでも同居を提案したのであって、結婚を意図したつもりはなかった。それは私も同じでルームシェアみたいなものだと捉えていたらしい。

 だけど、お互いの家族がそれを許さなかった。同棲するなら籍を入れろという声に従い、結婚するという形に相成ったそうだ。

 外堀がしっかり埋まった上での結婚だから、決まってからは慌ただしく過ごしていたらしい。そんな状況だからプロポーズをしている余裕はなかったはずだ。味気ないかもしれないけど、私にはその手の願望はないし、谷崎さんと私のキャラには合ってる。だから気にすることなんてないのに……。


「参っちゃいますね」

「え?」

「甘っていうか……照れるっていうか。もっとシンプルでいいのに。こういうのって若さの特権なんですかね?」

「……ああ、そうだな」


 一応、フォローしたつもりだった。

 でも、何? 

 今の妙な間は……。

 それに谷崎さんの顔がこころなしか赤い? まさか……顔を赤らめるようなプロポーズをしたとか? って、一体どんなプロポーズ? 予想外な谷崎さんの反応に何があったのか気になってしまう。

 でも、聞けない。

 顔を赤らめるくらいのプロポーズの再現なんて、谷崎さんには酷だし私も反応に困る。

 結局チャンネルを変えるタイミングを逃し、ウェディング特集を最後まで無言で見る羽目になり、微妙な雰囲気のまま「おやすみなさい」とそれぞれ客間と寝室に別れた。


 わからないことだらけ。

 三年間の主要なニュースは把握したけど、自分のことになるとさっぱりだ。恋愛も結婚もプロポーズも、飲んでいた薬のことも。

 私はこっそりピルを服用していたらしい。

 事故にあった時、私のカバンにはきちんと服用しているとわかるピルのシートと処方箋が入っていた。それを知らされた時、谷崎さんは複雑な顔をしていたらしい。奥さんが自分に黙って避妊薬を飲んでいたって、気持ちのいい話ではないだろう。謝るべきなのかもしれないけど、それを服用するに至った記憶がない以上、谷崎さんに説明のしようがない。

 少しでも思い出せないかと、結婚式や新婚旅行の写真を見直してはいる。私の知らない私には相変わらず戸惑うけど、少しは免疫ができた。でも、何も思い出せない。それどころか食に関する悔しさが募っていく一方だ。

 披露宴の料理がおいしそうなのなのはもちろん、新婚旅行で出てくる食べ物達ったら……。ハワイだからなのか、出てくる料理の量の多いこと。大きなステーキ肉に興奮している私。それをこれでもかと言うくらいの幸せそうな顔で頬張っている私。クリームたっぷりのパンケーキなんて眺めているだけで生唾ものだ。食べてる写真が多いせいか、羨ましさを通り越して自分に怒りさえ感じてしまう。


『肉の日貯金』だってそうだ。

 私の誕生日は二月九日。つまり、にくのひ(・・・・)

 お肉大好きな私にピッタリの誕生日だ。そんな私にとって二十九歳の誕生日、つまり去年の誕生日はとても重要だった。

 二十代最後の年の始まりは旨い肉を食べて始める。

 そんな野望の元、二十歳になってから、毎月二千九百円ずつ貯金していた。詳しい計画は立てていなかったけど、それなりの金額になるから贅沢しようと楽しみにしていた。

 三十歳になっている今、その日はとうに過ぎているわけで……。その日をどう過ごしたかというと、その当時は谷崎さんとの結婚が決まっていたので、二人で神戸に行き神戸牛を食したそうだ。神戸で神戸牛……私らしい計画だ。旨かったよと谷崎さんは言っていた。……そりゃそうでしょうよ。

 思い出すだけで腹が立ってきた。私が九年間の間、温めていたものが「旨かった」の一言しか残らないなんて。思い出したところで、神戸牛が私の目の前に現れるわけではないってわかってるけど。


 わからないことと言えば、谷崎さんの課にいる近江さんもそうだ。

 仕事の関係上、市場開発課に行くことがある。私の記憶にはないけど一緒に仕事をしていた人達だから、みんなそれなりに温かく迎えてくれる。ただ、一人だけ妙に冷たい反応をする小柄で華奢な女の子がいる。

 その子は近江さんという派遣社員。私の後任で来た子で真面目できちんと仕事をするので、谷崎さんも彼女を褒めていたりする。南ちゃんは、大人しくて笑顔を見せるタイプじゃないからそう見えるじゃないかって言っていたけど、それとは違う刺々しさを感じる。気にしても仕方ないってわかっているけど、すっきりしない。

 色々考えても仕方ないからさっさと寝よう。

 寝る前に手帳を開いて明日の予定を確認する。

 私は事故の前の記憶を失っているけど、それ以降の記憶は毎日繋がっている。けれど時々、日付の感覚がおかしくなりそうになる。だから寝る前に手帳を眺めて明日の予定を確認するついでに、日付を頭に叩き込んでいる。

 そう言えば……もうすぐ五月が終わるし、六月のスケジュールを確認しておいた方がいいかも。そう思い、手帳のページをめくる。


「え?」

 

 そのページを開いた瞬間、自分の目を疑った。そこには私の字でこう書かれていた。


『タカノリを祝福する』

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