第14話
「おじゃまします」
マンションのドアを開け、誰もいない室内にそろりと入る。
「行ってきます」はすんなり口にできるようになったけど、やっぱり「ただいま」は言えない。
ここで過ごすようになって一ヶ月以上が過ぎた。
書斎には私の好きだったマンガやCDがあるし、お風呂には私が使っているシャンプーやリンスが揃っている。洗面所にある歯磨き粉や歯ブラシだって、私のお気に入りのメーカーのもの。
私がここで生活していた痕跡がいたるところにあるのに、この家と今の私との間には距離がある。それは駅前の商店街も同じ。他の人には「おかえり」と言っているのに、私には「こんにちは」としか言ってくれない。
「重かった……って、もうこんな時間?」
ダイニングテーブルに持っていた荷物を全て置いて、何気なく眺めた時計が指している時間に焦る。スーパーで買い物した後にクリーニングの受け取りに行ったから仕方ないか。
急いで要冷蔵の食材を冷蔵庫にしまい、ベランダに干してあった洗濯物を取り込む。
畳むのは後回しにして、一息がてら持ち帰ってきた洋服達を寝室のクローゼットへしまおう。
ハンガーにかけられたビニールをはずし、クローゼットにかけていく。クリーニングの店名が印字されたビニールを見て、思わず口元が緩んでしまう。今日の夕飯の話題はこれに決定。
五月が終わろうとしている。
相変わらず戸惑う日々を過ごしているけど、日々の生活のペースはつかめてきた。
朝五時に起きて自分の身の回りのこと一通り済ませて、朝食の準備をして洗濯機を回す。谷崎さんが起きてきたら、一緒に朝ごはんを食べる。そして、一足早く出勤する谷崎さんを見送ってから、洗濯物を干して会社へ向かう。
今の私の主な仕事は、林田課長や姫島さんのサポート。最近は新人教育用の資料を作っている。復帰した当時は言われたことしかできなかったけど、最近は先読みして行動できるようになって仕事が楽しくなってきた。
お昼ごはんは、姫島さんと一緒に取っている。南ちゃんがいた時は三人で取っていたらしい。私と姫島さんという組み合わせも謎だったけど、南ちゃんと姫島さんという組み合わせはもっと謎だ。
元々、お弁当派ではないので、昼食はその日の気分で決める。時々、姫島さんが私の分のお弁当を作って来てくれるのをごちそうになったりもする。悪いと思ったけど、外でランチを取る時は私が奢るということになっているのでいいらしい。
姫島さんにはすごくお世話になっている。
簡単な料理のレシピをもらったり、記憶喪失関連の資料(という名の漫画や小説)をもらったり。ありがたいのだけど、その中に大路さんと姫島さんの披露宴のDVDがあるのが謎だ。気になって尋ねたら、暇な時にでも見て下さいと言う。
姫島さんから大路さんの話をされても、今の大路さんの写真を見ても平気だったから、披露宴の映像を見てもどうってことはないと思う。だけど、他人の披露宴という幸せ満載の映像を見て微笑ましく思える程、余裕があるわけでもない。だから、まだ目にしていない。
この三年間の間に何があったんだろう?
生活に慣れてきて、それを気にする余裕ができた。
テレビから流れてくるニュースの中で、この三年間の間に重大な出来事があったのだと、薄々感付いてはいた。ただ、みんながその話を避けているような感じがして聞けなかった。
ゴールデンウィークの間に近所の図書館に通い、新聞の縮刷版を読み漁った。
あの頃だって、リーマンショック後の派遣切りとか嫌なニュースしかなかったから、目にする記事に衝撃を受けることはなかった。あの一日の記事を読むまでは……。
一日で……いや、一瞬で多くの人の命を奪い、多くの人の人生を変えてしまった災害。その記事に載っている事実はとても重くて、理不尽で、残酷で……。そこに在った人間として絶対に忘れてはいけないことなのに……事故のせいとは言え、忘れてしまっている自分が許せなかった。
そんな自分を戒めるため、記事に徹底的に目を通し、そこにある現実を頭の中に入れた。
姫島さんからもらった資料も読んでみた。漫画や小説に出てきた記憶喪失の登場人物達は、五年とか十年という私よりも長い期間の記憶を失っている。そして、みんなネットや携帯電話やタッチ式の改札といった、技術の進歩的なものに驚いたり、戸惑ったりしている。
私の場合、ネットも携帯もタッチ式の改札も使っていたので驚きはしなかった。愛用していたMDがカード型の小さいものに変わっていたけど、三年前から調子悪かったし、今度壊れたらこれだなって思っていたやつなので、寂しさはあっても戸惑いはしなかった。
そんな私が唯一戸惑ったのは、あれ。
乗客が携帯のボタンをポチポチ押している──というのが、私が知っている電車の中の光景だった。でも、実家から谷崎さんのマンションへ行く時に乗った電車の乗客達は、カードみたいなゲーム機に親指や人差し指をするすると滑らせていた。
みんないい年した大人なのに、だ。
「みんな、ゲームに夢中ですね。そんなに面白いゲームが発売されたんですか?」
と何気なく聞いたら、谷崎さんに笑われてしまった。
「ごめん。そっか……そうだよな」
そう言って、それがスマホ──スマートフォンだと教えてくれ、自分が
持っていた物をさわらせてくれた。
恐る恐るさわってみると、気軽にネットサーフィンできたり、ゲームや電子書籍とか魅力的な機能がたくさんついていて……そりゃ電車のいいお供になるわと納得した。
でも、私はボタンをポチポチ押す携帯の方が好きだ。スマホを知らなかった腹いせとかじゃなく。
それは谷崎つぐみさんも同じだったらしい。
彼女は三年前と同じ、私がよく知っている携帯電話を使っていた。
機種変更して間もないはずの携帯電話は、塗装が剥がれていて小さな傷もついていて……時の流れを感じてしまったけど、二十七歳の私と三十歳の私を繋いでくれているみたいで少し安心した。
部屋着に着替え、夕食の準備をする。メインのお惣菜は買ってきてあるので、後はご飯とサラダと味噌汁を準備すればいい。お皿を出そうとキッチンのチェストを開ける。
そこにはお皿だけじゃなく、使われた形跡のない器具達が所狭しと並べられている。その存在にため息がこぼれる。これを買ったのは谷崎つぐみさんだ。
キレイに餃子を包む器具やポテトチップスをレンジで作るものやら……谷崎さんがこんなものを買うわけがない。答えはわかりきっていたけど、谷崎さんに聞いてみたら苦笑いされた。彼もその存在を知らなかったようだ。
彼女なりに苦手な料理を楽しみたくて買ったのかもしれない。でもいざ使ってみると、意外と使い方が複雑だったり、洗うのが面倒だったりで、結局使いませんでしたってところだとみている。
今の私なら、この手の便利グッズは買わない。
でも、谷崎つぐみさんは買った。使いこなせるスキルがなことくらいわかっているはずなのに。
本当に同じ人間なんだろうか?
試験に落ちたショックで色々変わってしまったのかもしれない。それだったら、結婚して浮かれて使えもしないキッチングッズを買ったり、妊婦さんを庇って車に跳ねられちゃったのにも納得がいく。
……あれ?
だとしたら、私がここにいていいのだろうか?
谷崎さんが好きなのは、そっちの私であって今の私じゃない。ふと頭の中に浮かんできた疑問に胸がチリリと痛くなってきた。
……止めよう。今それを考えても仕方ない。それより夕食の支度。お腹も減ったし、もうすぐ谷崎さんだって帰ってくる。
「ただいま」
ガチャリとドアが開く音がしたら、低い声がキッチンまで聞こえてきた。営業をやっているだけあって、良く通る声だ。
「おかえりなさい」
「おかえり」と言われると挙動不審になるくらい戸惑うのに、「ただいま」と言われるとすんなり「おかえり」と口にできる。そんな矛盾に蓋をして、私も玄関に届く大きな声で返事を返した。
「いただきます」
二人で向かい合って夕食を食べる。
今日のメニューはお惣菜屋さんで買った鳥の唐揚げにレタスとベビーリーフのサラダ。それと大根と油揚げと豆腐の味噌汁。あとは白ご飯と塩ジャケ。
電子レンジで出汁をとる方法を姫島さんに教えてもらったので、今日は味噌汁に挑戦してみた。
もっときちんとしなければいけないと思う。でも、今の私にはこれが精一杯。
三年前の私の料理ときたら……。週に一回ご飯を炊き、一週間分の冷凍ご飯を作るくらいだった。あとはインスタントの味噌汁とスーパーのお惣菜。そんなズボラな食生活を送っていた私からすれば、こんなのでも大きな進歩なのだ。
谷崎さんには申し訳ないと思うけど、これでいいと言ってくれているので甘えている。平日は私が料理を担当しているけど、土日は谷崎さんが作ってくれたりする。
男の料理って感じで、こじゃれた料理は出てこないけど、私が作るよりも遥かにおいしい。
「ん? この味噌汁はお手製?」
味噌汁を一口飲んだ谷崎さんが不思議そうな顔をして私の方を見る。不味かったのかな? 一応、味見はしたんだけど……。
「はい、姫島さんに出汁の取り方を教わったので作ってみたんですけど……微妙ですか?」
「いや、おいしいよ。頑張ってるね」
「ありがとうございます。でも、谷崎さんの足元にも及ばないですよ」
「いや、俺のは自炊歴が長いだけだから」
谷崎さんは謙遜気味に言う。彼の料理の味を知っている身からすれば、複雑だ。彼の作る味噌汁の方が見かけも味もいい。その理由を自炊歴の長さにしているのには事情がある。
付き合い始めた当初、谷崎さんの料理に感動した私は秘訣を聞いたそうだ。私のことだから、コツとか裏ワザ的な答えを期待していたのだろう。
けれど、その答えは「本の手順通りにやれば大抵おいしいと思うけど」だった。それを聞いた私は「手順通りにやってもできない人間がいるんだ!」とキレてケンカになってしまったと南ちゃんに聞いた。子供だなって思うけど、谷崎さんの言い分は嫌味だとも思う。
そんなこともあり、谷崎さんは自分の料理の話になると、経験の長さを理由にしているそうだ。そうすれば嫌味にはならないし、余計なケンカもしなくて済むという彼なりの配慮らしい。私と違って大人な人だ。
「そう言えば、クリーニング行って来ましたよ」
「ついに行ったか、きのこクリーニング。で、謎は解けた?」
「解けましたよ。でも、事前に教えてくれても良かったのに。笑いそうになっちゃいましたよ」
「見事だろ。あの……きのこ具合」
「やだ、やめてください……っはは」
お互い声をあげて笑い合う。自分の置かれている状況を考えると、微妙な感じがする。だけど、悪くない。
冷蔵庫に貼ってあるカレンダーに、クリーニングと私の文字で書かれていた。引き取りに行くってことねと理解したけれど、クリーニングの文字の前には何故かきのこのシールが貼られていた。そういう店名かと思いきや、引換票にはきのこのきの字もなくて……。何だろうと首をかしげていた。
谷崎さんに聞いてみると、意味ありげな笑みを浮かべて一言。
「行ってみたらわかるよ」
で、今日の帰りに行ってきた。店内に入り出てきた店員さんを見て、その理由に納得すると同時に笑いそうになってしまった。彼女の髪型が見事なマッシュルームカットだったのだ。
谷崎さんもクリーニングを出しに行くので、当然その店員さんのことを知っている。それで何となく、二人で愛着を込めてきのこクリーニングと呼ぶようになったらしい。
周りから見るとくだらないことだと思う。
でも、こういうことを一緒に楽しめたりするのが結婚生活のいいところなのかもと笑いながら思った。




