友人
Ⅰ
「うーむ」
この世界に来て一週間以上もの時間が経つが、如何せん慣れないことが幾つかある。それは例えば寝具であったり、料理の味であったりするのだが、その内の一つに文字がある。
国が違うだけで言語が違うのだから、世界が変わればそれ以上のことが起こる。はずなのだが、俺には何故かこの国の言葉が日本語に聞こえ。俺が日本語のつもりでエリーに話しかけても、意思の疎通が取れているのだ。
この国の言語が、たまたま日本語と酷似しているのではないか。と、最初は考えていたのだけれど。それはこの世界の本を手に取った時点で、見当違いだと判明した。本に書かれた文字は、見たこともない類いのものであり。尚且つ、俺はその文字を何故か完全に読み書きできたからだ。
エリーはこの国の言葉を話していて、俺はそれを勝手に日本語だと認識している。聴覚だけの情報ではこの事が分からなかったが、それが視覚にまで及ぶと話は違ってくる。見たこともない文字を読み書きできるということは、確実に俺の中で翻訳がなされているということだ。
無意識下で言葉や文字を翻訳し、日本語として意味を理解する。たぶん、その逆も出来るのだろう。だから、俺はこの国の言葉が日本語に聞こえるし、文字の読み書きすら可能となった。
此処までは別にいいのだ。けれど、だとしても、知りもしない文字を書く手が淀みなく動く。それは得体の知れない違和感を産む。ゆえに慣れないのだ。
「はい。では、座学の授業はここまでとします」
そんな違和感と戦いながら、黒板に書かれた文字をノートに写して授業を消化し。鳴り響く鐘の音によって、座学の勉強は終わりを迎えることとなる。授業の内容はこの世界、国における地理歴史だった訳だけれど。おおむね、エリーが教えてくれた通りで、なんとか授業にはついて行けそうだった。
「次の授業は実技なので、みなさん練魔館に集合するように。では」
そう言い残して、先生は教室から退室する。
「エリー、練魔館って?」
「えーっとね。私達生徒が魔法の練習をする場所のことよ。大きくて、広くて、頑丈な建物の中で、魔法を実際に発動させて訓練するの」
「そうか。まぁ、体育館みたいなものか」
エリーは体育館という言葉に小首を傾げたが、それは見て見ぬ振りをしよう。
「この実技の授業って、それ用の服に着替えなくてもいいのか? 俺、そう言うの持ってないんだけれど」
錬魔館が体育館なら、実技の授業はいわゆる体育だろう。体育の授業に必須なのは体操服だ。きっと、この世界にもそれに類する衣服があるはずだと思うのだが、残念ながら俺はそれを持っていない。
あるのは、この制服だけだ。しかも、これはエクイスト家に買って貰ったものである。
「あぁ、着替えならしなくても大丈夫よ。他の学園と違って、アークインドの制服は特別製だから」
「特別製?」
「そう。この制服は、魔力の込められた特別な糸で編まれたものよ。だから、ちょっとやそっとじゃあ解れないし、滅多なことでは破れない。派手に汚しても自動で綺麗にしてくれるわ」
「へー、そりゃあ凄い。……なんだか、高そうだな」
「聞きたい? きっと目玉が飛び出るわよ」
「止めておきます」
聞いてしまったが最後、気を遣いすぎて疲弊してしまう未来が容易く想像できた。
どのくらいの金額なのか見当も付かないが、というか、付けたくもないが。とにかく制服を大切にしよう。物を大事に長く使うことは、とても良いことだ。百年経って付喪神が宿るくらいまで使い古してやる。
「あ、悪い。ちょっとお花を摘みに行ってくる」
「普通にお手洗いって言いなさいよ。いいわ、待ってて上げるから。錬魔館の場所、分からないでしょ?」
「助かる、直ぐに戻るから」
エリーに断りを入れて、小走りに教室を抜けて廊下に出る。
こんなこともあろうかと、トイレの位置だけは予め確認済みだ。備えあれば憂いなし。迷いなく目的地に辿り着くと、手早く用を済ませて花摘みを終える。手をきちんと洗い、さて教室に戻ろうかと廊下に出た。
けれど、教室に向かっていた足は、一度止まることを余儀なくされる。俺の行く手を阻むようにして、迷惑にも廊下の幅を占領する五人ほどの生徒を見付けたからだ。
「トイレなら空いてるよ」
「便所に用はねーよ。用があるのはお前のほうだ」
五人で行く手を塞いで用があるとは、穏やかじゃあないな。
「生憎、暇じゃあないんでね。通せんぼごっこなら他を当たってくれ」
「そんな事をしに来たように見えるのか? お前には」
「じゃあ何ごっこだよ」
「ごっこ遊びをしに来たんじゃあねぇ!」
口調を強めて、そう言ったのは五人のうちの一人だった。他の四人は後ろでにたにたと笑っているだけで何もしていない。たぶん、この男子生徒がまとめ役、リーダー的存在なんだろう。
「なら、用事ってのを早く言ってくれないか? 言ったろ? 暇じゃあないって」
生徒が数多くいる学園内だからこそ、襲われる恐れが少なく。エリーから少々離れても問題ないと思った。けれど、だからと言って、見ず知らずの五人組に付き合ってやれるほど、時間に余裕などないのだ。
「なに、そんなに時間がかかるような事じゃあない。お前が正直に、どんな手を使ってこの学園に入ったのかを吐けばな」
「どんな手って。さっき先生が説明してただろ」
エリーの護衛役だ、という事実は今のところ伏せてある。隠してもいずれはバレることだし、実際にイリアンヌにはバレている訳だけれど。それでも無用な勘ぐりを避けるためなのだそうだ。
その結果がこれでは、さほど結末は変わらなかったみたいだが。
「あの類い希なる剣技って奴か? あんな戯言に騙されるかよ。ただ剣を振り回すだけの技術が、魔法に匹敵するわけないだろうが」
「そうか? 俺にはだた魔法を放つだけの能力と、さほど違わないように思えるがね」
人を傷付け、時として命をも奪うもの。魔法や剣は、身に付けただけで、手に持っただけで人を殺しうる物騒なものだ。魔法を放つ能力と、剣を扱う技術、それらに大きな違いはない。どちらにせよ、他者に危害を与えるための手段だ。
「なっ!? お前! 魔力も操れない分際で、魔法を愚弄する気か!」
「剣で戦うことも出来ない分際で、剣技を愚弄してきたのはそっちだろう。それとも何か? 自分の発言をもとに意趣返しされたのが我慢ならないか」
「こいつッ!」
リーダー格の男子生徒の周りに半透明な流動体が湧き上がった。怒りの感情に呼応するかのように、その魔力は荒れ狂っている。もう一言でも唱えられれば、瞬く間に魔法は発動するだろう。
「おっと。それは止めとけよ」
その様子をみて、俺はそんな彼を制するようにして言葉を発した。
「なんだ? 今頃になって怖じ気づいたか!」
「そうじゃあない。あんたの身を案じているんだよ。たしか、学園内での魔法の無断使用は禁止されていたはずだろ。先生方にバレたら重い処罰が下るぞ。それでも良いのか?」
「かッ……構うものかッ」
「この後の授業が実技でもか? あと少し待てば魔法を使う大義名分が得られるのに、あんたは今ここで戦うんだな? 受けなくて済むはずの処罰を受ける覚悟で」
「う、うるせぇんだよッ!」
怒りに身を任せて、彼は忠告も聞かずに我を通す。湧き上がる魔力は形を変えて、翳された右手に集中した。そして魔法を唱えようと、口は開かれる。
だが、引き際を見誤る者に勝利は掴めない。怒りに浸食され冷静さを欠いた状態で、ただ真っ直ぐに飛ぶだけの魔法が人に当たる道理はない。彼は引くべきだったんだ。引いて、感情を整えて、改めて再戦に臨むべきだった。
「〝突き抜ける風刃〟」
彼の右手から、風を纏う刃が放たれる。その軌道は馬鹿正直な一直線、速度も目で追える程度のもの。ただ突っ立っているだけで、何もしなければ直撃するだろうが。生憎、俺はそんなに親切な奴じゃあない。
体勢を低くして床を蹴り、自ら魔法へと飛び込んでみせる。風の刃の軌道上、その行く先を読み、最低限の身の動きで躱すと、そのまま廊下を駆け抜ける。
「うらッ」
至近距離にまで詰め寄って、駆けた勢いを利用して掌低打ちを放ち。喉に衝撃を与えると共に、右手でしっかりと掴み上げる。そして大振りに硬い床に叩きつけ、身体の自由を奪った。彼は背中に生じた痛みや振動で肺の空気を吐き出しながら咳き込んでいる。
こうなるから、引くべきだったんだ。結局のところ剣を使うことなく、勝敗が決してしまった。彼が冷静なら、怒りに身を任せていなければ、少なくとも抜刀せずには居られなかったはずなのに。
その辺のところは、引き際を弁えていたイリアンヌと大違いだ。
「ぐぅっ……くそッ」
苦しそうな声音を上げて、彼は苦悶の表情を浮かべている。必死になって痛みに耐えているけれど、その意志に身体が追い付いていない。しばらくは立ち上がれもしないだろう。とりあえず、これで一人目の無力化は成功した。
「さて、そっちの四人はどうするんだ? 戦うか? それとも引くか?」
「くっ。……お前等っ、カインズを連れて逃げるぞッ」
残りの四人のうち一人がそう言い出すと、全員で廊下に倒れた彼に駆け寄った。その際、俺は二歩三歩と後ろに下がっている。
そうして俺のことを最大限警戒しつつ。迅速にカインズを担ぎ上げると、気遣うように何度も声を掛けながら、五人はこの場を去って行く。見捨てられず、心配もされていることから、どうやら人望は厚いようだった。実は良い奴なのかも?
「まぁ、いいか。さっさと教室に戻ろう」
さして気にすることでもない。無駄な思考を斬り捨てて、俺はエリーのもとに急いだ。
無駄な時間を喰ったので、教室まで駆け足で舞い戻る。この世界にも廊下を走るなという決まりはあるのだろうか? とか、そんな下らないことを考えつつ、教室に辿り着く。
「えーっと」
敷居を跨いで廊下から教室内に入ると、すぐにエリーの姿を見付けられた。けれど、同時にもう一人の女子生徒が視界に写る。またイリアンヌみたいな奴かと一瞬だけ思ったが、穏やかな表情をして会話に花を咲かせているあたり、どうも二人は友人関係みたいだな。
「よう。お取り込み中、邪魔するよ」
女子の会話に割り込むのは忍びないが、こればかりは仕様がない。女同士の落とし所のない会話が、いつまで続くかなんて分からないからだ。最悪、鐘の音がなるまで話し続けるだろう。それでは、こちらが困るというものだ。
「あっ、戻って着たのね。ちょうどいいわ、シュウにも紹介しておく」
声を掛けると、エリーはすぐに俺の存在に気付く。そして好都合だとばかりに、自信の隣にいる女子生徒に手を差し向ける。ちなみに、その女子が座っているのは俺の席だ。
「こちら友人のレベッカ・オルケイネスよ」
「レベッカだ。よろしく、シュウくん」
レベッカ・オルケイネスを改めて良く見ると、エリーとは真逆の第一印象をうけた。
見た目の容姿から見て取れる情報は、彼女が勝ち気な女であるということだ。顔付きもさることながら、その服装もそれを物語っている。つまりは服装に乱れや、はだけがあり、露出が多いのだ。椅子に座る格好や態度も、決してお淑やかとは言えない。男の目線なんて気にも止めていないに違いない。そんな剛胆な人って感じだ。
「あたしのことはベッキーでいいよ」
そう言って差し出された手を握り返し。俺は彼女と握手を交わす。
「よろしく、ベッキー。俺の自己紹介は……」
「しなくて大丈夫」
「みたいだな」
俺のことはエリーを介してベッキーに伝わっているみたいだ。
でなければ、初対面の俺のことをシュウくんと呼んだりはしないだろう。
「オルケイネス家は七大貴族の一角で、代々、優雅で気品ある大らかな人柄が特徴よ。まぁ、ことベッキーに至っては、その限りじゃあないけれどね」
たしかに見た目から得られる情報だけでは、そう断ずる他にない。
「そんなもんだから、間違っても畏まった態度は取らないでくれよ。身体がむず痒くなるから。堅いことは抜きして、仲良くやっていこうや。シュウくん」
「本人がそう言うなら、そのつもりで接することにするよ。ベッキー」
見た目に違わず、本当に気さくな人だな。
高貴な身分でありながら気取らず、さっぱりとした性格をしている。姉御肌というか、男前というか。ありとあらゆる人から好かれていそうな、そんな親しみやすさを感じられる。話をしてみると、存外、第一印象とは違ったところが見えてくるものだな。




