千尋の谷
Ⅰ
「ああああああああああああああああッ!」
眼界に広がるは、白い雲と深緑の森だった。
そこに空はなく、太陽も、月もない。あるのは見渡す限りに広がる広大な大地だけ。その光景は見上げているのではなく、見下ろしていて。この身体の内側を掬われるような感覚と、全身で風を受ける感触が、ここが地上から遥かに離れた空なのだと教えてくれていた。
そう、俺は落ちていたのだ。上から下へと、空から地面へと。
絶叫を上げた俺は、そのまま為す術もなく下降し。自生する木々の葉を散らし、枝を折りながら落下する。偶然、そこに存在していた小さな湖へと。
「げほッ、げほッ……ぐえぇ、なんだってんだ。いったい」
高く高く水飛沫を上げたのち、身体は深く水中へと沈み込み。手足を大きく動かしてもがいた末に、俺はようやく湖の縁に到達し、そこから地上へと這い上がる。
着水の衝撃で身体中が痛み。服が水を吸っていて酷く重い。ちょっと水を飲んでしまったから、それが肺に入って咳が出る。なんとか土のある場所まで移動できたが、しばらく動けそうにない。
地面に寝転んで仰向けになることで見上げた空は、木々の葉や枝に遮られてとても狭く見えた。俺はあの狭い空のどの辺から落ちたのだろう。そんなことを考えているうちに、次第に瞼は重くなり、俺は意識を手放したのだった。
Ⅱ
「修。お前には桐生家の跡取りとして武者修行の旅に出てもらう」
「武者修行だ? この平成の時代にか? 時代劇じゃあねーんだぞ」
「お前はまだまだ弱い。強くなりたければ、数多の敵と鎬を削るほか有るまい」
「……毎日のようにやってる剣の稽古だけじゃあダメなのか?」
「ダメだ。稽古は所詮、稽古だ。実戦に勝るものではない。だからこその、武者修行だ」
「武者修行って言ってもな。学校はどうするんだよ? 大学受験だの就職だの、色々と考えなくちゃあならない時期だぞ? いま」
「案ずるな。お前はなにも気にしなくていい」
「なにもって……あぁ、もう話にならねーな。わかった、修行でもなんでもしてやるよ。とりあえず何処に行けばいいんだ?」
「異世界だ」
Ⅲ
目が覚めると、そこには見慣れない天井があった。木々の葉や枝で作られた天井じゃあない、それは明らかな建造物の内部を仕切る物だ。
室内にいる? 誰の家だ? いや、そもそも民家なのか? ここは。もしかしたら、どこかの病院かも知れない。そこまで思考が巡ったあと、寝かされていたベッドから上半身を起こして、視線を天井から部屋の内装に向けてみる。
ぐるりと見渡してみて思ったことは、豪華絢爛、この一言に尽きた。
床には真っ赤な絨毯が引かれ、天井にはシャンデリアが吊されている。その装飾は派手で、精巧だ。部屋の中心に置かれたテーブルやイスも、それに負けず劣らずの一級品。その他の細々とした小物にまで、拘り抜かれているのが素人目にも分かる。
どうも病院って赴きじゃあないみたいだ。
「あら? 目が覚めたのね」
此処がどこなのか? という疑問に気を取られていて、人が入ってきたことに気が付かなかった。声がしたほうへ目を向けてみると、そこには綺麗なブロンドの髪をした外国人がいた。やけに流暢な日本語を話す彼女は、部屋の扉をそっと閉じ。そのツインテールの髪を揺らしながら、こちらに近付いてくる。
「ご機嫌はいかが?」
「大丈夫です、けれど。えーっと、此処はどこでしょうか?」
「ここは私の家、エクイスト家の別荘よ。その敷地内で倒れていた貴方を見付けて、私が召使いに言って此処まで運ばせたの」
別荘とか、召使いとか、そんな単語をリアルに聞いたのは初めてだな。
この言葉遣いからして、この人はお嬢様と言ったところか。外国企業の社長令嬢とか? それともゴシップ記事に書き立てられるようなセレブの娘さんとか? まぁ、なんにせよ、助けて貰ったのはたしかみたいだ。
どうしてこの別荘の敷地内に倒れていたのかは、ちょっと思い出せないけれど。
「貴方、名前はなんと言うの?」
「桐生修哉。あっ、いや、シュウヤ、キリュウと言ったほうが良いでしょうか」
「シュウヤ、キリュウね。私の名前はエルサナ・エクイストよ」
エルサナ・エクイスト。うん、聞き覚えのない名前だ。
どこの国の人だろう。すくなくともアジア系じゃあないことは確定しているけれど。アメリカか? ロシアか? まぁ、これだけ日本語が話せるなら、出身地はさした問題じゃあないか。意思疎通ができるなら、それで十分だ。
いや、まて。なにかが引っ掛かる。なんだ? なにを忘れている?
「貴方の武器なら、危ないから私のほうで預かっているわよ」
「武器?」
何かを思い出そうとした俺の表情をみて、エクイストは誤解したのか、武器という言葉を口にした。預かっている、と言っていたが、それは俺の所持品ということで良いのか? はて、武器なんて持ってたっけかな。
「そう、武器。片刃のとても美しい剣のことよ」
「片刃……もしかして刀?」
「カタナって言うのね、あの武器。いいわ、返してあげるから、ちょっと待ってて」
「返してって。あのっ……行っちゃったよ」
呼び止める前に、部屋を出て行ってしまった。
いいのか? どこの馬の骨とも知らない男に武器なんて返して。もしかしたら武器を片手に襲ってくるかも知れないのに。警戒心がまるでないと言うか、そもそも警戒すらされていないのか? まぁ、返してくれるというのなら、それでいいか。襲うつもりなんて微塵もない。
けれど、問題は刀のほうだ。どうして俺は刀なんてものを持っていたんだ? 下手をすれば銃刀法違反だぞ。このご時世、ナイフ一本持っていただけで手首に錠がかけられるってのに。
あれ? まただ。また何かを忘れているような気がする。
そもそもだ。ここはどこなんだ? エクイスト家の別荘という所までは分かったが、ここが何県であるかはまだ知らない。いや、それ以前にここは日本なのか? やけに現実離れした部屋に、流暢な日本語を話す外国人。窓の外から他の建物は見えず、木々だけが覗える。これじゃあどこか異なる世界に迷い込んだような気分になってしまう。
んんん? 異なる世界? 異世界?
「あ……思い出した」
頭の中に浮かんだのは、空から湖に落下するより前の出来事だ。
あの時、日課である剣の稽古をするために道場に入った後、親父と武者修行がどうのこうのと話をした。その会話が途切れる瞬間に、親父が言っていたのが異世界という言葉だったはず。
「これ……全部、親父の所為かよ」
状況から鑑みて、俺はどうやら異世界に来てしまったらしい。となると、此処は日本という国でもなく、地球という惑星でもないということになってしまう訳だ。
言葉にしてみるとかなり間抜けな話だが、そう断ずるほかにない。親父が異世界と言った拍子に、俺はタイムラグなく空に放り出されていたのだから。この体験は否応なく常識というものを吹き飛ばし、有り得ないことに納得してしまうほどのインパクトがあった。
一時的に記憶が混濁してしまうほどに、だ。
「刀は親父からの餞別ってところか。昔から無茶苦茶な人だったけれど、まさか此処までとはな。普通、息子の武者修行のために世界の壁を越えさせるかよ」
こう言う場合、パニックになるのが普通の反応なのだろう。けれど、俺は頭が混乱するより、自分の親父に呆れ果てるという感情が先に来ていた。
どうしてかと言えば、俺の親父が常軌を逸した人外だったからだ。
俺の親父は人間ではない。人間の皮を被った、別の何かだ。そう実の息子に思われてしまうくらい、親父のすること成すことは異常だった。たとえば、真剣の一振りで巨木を切り倒してみせたり、素手の拳で岩石を殴りつけ、粉々に砕いてしまったりとかだ。
アニメ漫画的演出を生身の身体で再現できる。それが俺の親父という存在だった。
そんな親父と十八年ほど一緒に過ごしてきたのだ。大抵のことには動じないよう、俺は育ってしまっている。そりゃあ物事に驚くということはある。だが、その先。その先にあるパニックや混乱には、基本的にならないのだ。
だから俺は、こんなにも冷静でいられる。パニックよりも先に、親父に対する呆れがくる。
「とりあえず、どうしようか。言葉は通じるみたいだし。必要なのは寝床と食料と、あとは金くらいか。まったく、あのクソ親父め。帰ったらただじゃあ置かねーからな」
エクイストの話によれば、ここは別荘ということだった。
それはつまり、都心から離れた場所にあるということだ。周辺の地理をまったく把握していない以上、自力で人の多い場所に向かうのは自殺行為だろう。かくなる上は、エクイストに頼み込んで、都心にまで連れて行ってもらうしかない。
倒れていた所を助けてくれたんだ。心の底から懇願すれば、承諾してくれるだろう。たぶん。
そう決めて、寝かされていたベッドから絨毯に足を付ける。そして足の裏に感じる感触から、そう言えば裸足だったことを思い出した。この世界に来るまえに道場にいたから、服も胴着のままだ。まずは、まともな服をなんとか用意しないとだな。
「……エクイストはまだ戻ってこないのか」
足裏の感触によって、ふと我に返ってみると、エクイストの帰りが遅いことに気が付く。
時計がないから飽くまで体感なのだが、すでに結構な時間が経っている。刀を取りに行くだけで、そんなに時間を喰うものだろうか? 俺の気が早いだけか? はてさて、どうしたものか。
気になりだしたら止まらない。そう考えてみたあとベッドから立ち上がると、何気なく部屋の扉にまで近付いてみる。部屋の外に出たら不味いかな? とか、そんなことを考えつつ、ドアノブを握ろうとしたのだが、その手は寸前で止まってしまう。
誰かと誰かが言い争うような声を、聞き取ったからだ。
「なんだ?」
耳を澄ませてみると、その中に少女の声、つまりエクイストの声が混ざっていた。
エクイストが誰かと言い争いをしているのか? だとしたら相手は誰だろう。一方的に怒鳴っている訳じゃあない、これは言い争いだ。使用人や召使いが言い返すはずもないし、なら親だろうか?
よく考えてみれば、それもそうだ。娘が凶器をもって行き倒れの男のもとに行こうと言うのだから、引き留めるのも無理ない。この言い争いが俺の所為なら、ここでじっとしている訳にも行かないな。何が出来るか分からないが、俺も姿を見せなければ。
そう意気込んで俺が部屋の扉を開けた、その時だった。大きな破壊音と共に、扉が砕け散ったのは。
「……は?」
握っていたドアノブを残して、扉が粉々に砕け散った。それにはもはや跡形もなく、面影もない。あるのは廊下の絨毯に飛び散った木の破片と、手の中に残る金属のノブのみ。まるで開けた拍子に扉の向こう側で何かが破裂したみたいだ。
いったい何が? そう思い、俺が次に目にしたのは見覚えのあるブロンドのツインテールだった。エクイストの背中が見える。彼女の視線の先には、見覚えのない大人の男が数名いた。
「いま、攻撃したわね? この私を。攻撃したということは、それなりの覚悟が出来ていると看做すわよ」
「大人しく我々に従って下さらないからです。アリルド様からは、言うことを聞かないようなら力尽くで、と仰せつかっておりますので」
その会話からして、なにやら退っ引きならない状況にあるらしい。親子喧嘩って訳でも無さそうだ。あれはどうみてもエクイストが襲われている。となれば、あの大人達はさしずめ誘拐犯ってところか。
かなり物騒な世界みたいだな、ここは。まぁ、いい。とにかく、助けに入らないと。そんなことを考えて、一歩を踏み出したのだが。
「〝雪化粧〟」
その一言によって、すべては凍り付く。
彼女を中心にして絨毯から壁へ、壁から天井へと氷は走り。周囲は一瞬にして凍てついた。エクイストの近くにいた大人達も例外ではなく。手と足を氷で覆われ、身動きを封じられている。
その理解の範疇を超えたあまりの光景に、踏み出した一歩も後に続かなかった。




