婚約解消後の噂は私関与しておりません
リリアーヌ・フランジェリスには婚約者がいた。
半分程政略結婚で、半分は恋をしていた。
リリアーヌの家は長い歴史を持つ伯爵家であったものの、様々なトラブルによって財政難を抱える羽目になってしまっていた。
国がそれなりに発展しているといっても、それでもどうしようもできない事は沢山ある。
日照り、大雨。土砂災害。そんな自然相手のトラブルはどうにかしようとしたところでどうなるものでもないし、せめて被害を抑えようと手を尽くしても、それすらも無駄に終わる事だってある。
それだけではない。流行り病に害獣による作物の被害。せめてある程度間をおいてからトラブルが発生すればまだどうにかしようもあったかもしれないが、しかしこういう悪い事というのは狙いすましたかのように立て続けにやってくる。
それらの対策や対応に追われて、フランジェリス家の財政は気付けばすっかり傾いていた。
どうにかするにしても、一朝一夕でなどとは到底無理な話。
いっそ国に何もかも返還した方がマシなのではないか……? とフランジェリス家当主、リリアーヌの父は思い悩んでいたのである。
そこに資金援助をするからそちらの娘さんとうちの息子を結婚させないか、と話を持ち掛けてきたのが、マーゴット子爵家である。
貧乏伯爵家と縁を繋いだところでメリットがあるようには思えないが、しかしマーゴット子爵家は歴史の浅い家であり、未だに社交界からは侮られる立場にあった。
成り上りと言われるのであればそちらは事実だが、同時に成金だのなんだのと、それはもう陰で盛大に嘲られる始末。
子爵家の狙いは、歴史と由緒ある家との縁であった。
ロブソン・マーゴットはリリアーヌが思わず見惚れる程に見目の良い少年であった。
なので顔合わせの時にリリアーヌはロブソンから目を離せずにぽうっとなって、そうして恋に落ちたのだ。
フランジェリス家は領地を立て直すための資金を。
マーゴット家は歴史ある家との縁を。
利害の一致であるが故の婚約ではあったけれど、それでも二人の仲は良好だったのだ。
最初のうちは。
婚約をしたのは、二人が十四歳の頃であった。
その二年後、ロブソンの父の弟が病気で死んだ。流行り病だった。
その妻も同じく病死し、残された娘を引き取る事となったのである。
娘の名前はジョセフィーヌ。
引き取られた直後はよく体調を崩し、ベッドからあまり離れる事のできない少女であった。
儚さ故の美とでも言おうか。ジョセフィーヌは触れたら壊れてしまいそうな、庇護欲をそそる存在であった。
そんなジョセフィーヌに、ロブソンはどうやら心奪われたらしい。
新たにできた家族の看病を甲斐甲斐しくするようになったのである。
結果、リリアーヌとの交流の回数が減った。
二人で会う約束をした日であっても、前日にキャンセルの連絡がくるならマシな方だ。大抵は当日、待ち合わせに遅れてやってきたり、ドタキャンであったり。
リリアーヌが何事かあったのだろうかと心配してマーゴット家へ行けば、ジョセフィーヌの具合が悪くて看病していてね……なんて言われて、埋め合わせは今度するから、と追い返される始末。
たまにマトモにやって来たと思えば、体調の良くなったジョセフィーヌを連れての三人でのデートである。
いや、デートとは言えまい。
ロブソンはジョセフィーヌとばかり会話をしていて、リリアーヌには目もくれない。
しかも会話の内容がリリアーヌにはわからず、ロブソンとジョセフィーヌだけがわかり合っているようなものばかり。話にまざろうにも、割り込んだと思われてロブソンに嫌味を言われるのも癪である。
それに、ジョセフィーヌが時折ロブソンにわからないようにこちらを見てかすかに笑うのだ。
その笑みも単純にリリアーヌも楽しんでいるに違いない、と思っての無神経な善意からの笑みならまだしも、あきらかに嘲りを含んでいるのだ。
リリアーヌがそれでもロブソンと交流をしようにも、ある程度楽しんだ後は決まってジョセフィーヌは体調不良に陥って、そうしてすぐさまロブソンと共に帰っていく。
デートというよりは、完全にロブソンとジョセフィーヌの仲の良さを見せつけられるだけに終わるのである。
ちなみに一度だけならそういう事もあるだろう、とリリアーヌだって思っていたが、ジョセフィーヌが来た時は毎回そのパターンだった。たまたま、偶然、そんな言葉では誤魔化せないくらいに毎回のお約束である。
ジョセフィーヌは両親が亡くなってしまった事でマーゴット家にひきとられたとはいえ、彼女は養子となったわけではない。ロブソンはジョセフィーヌを家族だと言ってはいるが、書類上は親戚になっていても正式な家族ではない。
マーゴット家の当主でもあるロブソンの父がそうしていないのは、恐らく余計ないざこざ――主に財産面――を避けるためなのか、それともロブソンとリリアーヌとの関係を清算した上でジョセフィーヌを嫁にするつもりなのか……リリアーヌにはわからなかった。
歴史の浅い貴族故に、マーゴット家はフランジェリス家との繋がりを得るべくして婚約を結んだけれど。
しかしその婚約が解消されたところで、フランジェリス家に資金援助をしたという事実は残る。
そこをとっかかりとして繋がりを持った上で、他の貴族との繋がりを持っていけば歴史の浅さはどうにもならなくても、人脈で補う事が可能――そう、考えているのかもしれない。
家格としてはフランジェリス家が上であるのは言うまでもないが、支援ができるだけの財力があるという点からマーゴット家の立場は決して弱くはない。やり方次第ではいくらでものし上がる事も可能なのだろう。
だからといって、リリアーヌはこの状況を良しとはしていなかったが。
一応それとなく、本当にそれとな~く言葉にしてはみたのだ。
病気がちというのなら、屋敷よりもちゃんとした病院や保養地で治療をさせるべきではないのか、とか。
婚約者同士の交流なのに彼女を連れてくるのは逆に問題ではないのか、とか。
体調に関しては人それぞれ、治療方針だって合う合わないがあるから何とも言えないが、しかしリリアーヌは思うのだ。
自分だったら、婚約者同士の集まりに参加とか、気まずすぎて参加などとてもとても……と。
ジョセフィーヌが過ごしていたところはここと違って田舎らしかったので、都会が珍しいのだろうとは思う。
体調も普段良好とは言い難く、体調の良い時に色々と外に出てみたい、という気持ちがあるのもわからないでもない。
いつ体調が悪化するかもわからなければ、一人で外に出るなんて万が一を考えたらできないという言い分も理解はできる。
だが、それで毎回デートのつもりの集まりにしれっと参加するのはどうなんだろう。
そもそもその場合、気を遣うのはジョセフィーヌであってリリアーヌではないはずだ。
本来の集まりから見れば、邪魔者はリリアーヌではなくジョセフィーヌである。
それなのに彼女はそんな事を気にした様子もなく、ロブソンとのデートの相手は自分だとばかりにリリアーヌを無視しているのだ。
きっと最初からいないもの扱いをしているのだろう。
繊細で儚そうな見た目に反して、彼女の中身はどこまでも図太いのだな、と理解したのは割と早い段階からだ。
資金援助を申し出たのはマーゴット家からで、こちらから強要したわけではない。
けれど、ロブソンの認識はもしかしたら、我が家が身分をちらつかせて金を引き出している、とかそういう風に思っているのではないかしら……?
そんな風にも思えるようになってしまったのだ。
正直ロブソンと出会った時、最初は確かに彼の見た目に惹かれたし、恋に落ちた自覚があった。
だからこそ、ジョセフィーヌを連れてきた時は戸惑いが勝ったしその後何度も連れてきてはこちらの存在を軽んじる様子に怒りも芽生えた。
それでも婚約者となったのだから、と一応、そういうのはどうなんだろうなぁ、というのをきつくならないように言葉にも出して、相手に自分の意思を伝えたりもした。
けれども何を言ってもロブソンの中ではリリアーヌがジョセフィーヌを良く思っていないから排除したいのだろうと、そういう認識になってしまったようなのだ。
えぇ、これ、このまま結婚しないといけないのかしら……?
リリアーヌが恋という名の夢から覚めるまでに、そう時間はかからなかった。
下手をすれば結婚したところでジョセフィーヌこそが真実の愛、とか言い出して実際愛人なのに正式な妻扱いして本当の妻であるこちらを蔑ろにしたり、果ては家を乗っ取るつもりじゃあるまいな……? という疑念が生じてしまって。
流石にそこまではしないだろう、と思いたいがそれでも芽生えてしまった疑いをなかったことにはできない。
リリアーヌは早々に両親に相談したのである。
実際、資金援助を受けて確かに領地は立ち直った。
そういう意味ではマーゴット家に恩はある。
けれども、ロブソンとジョセフィーヌとの事を聞けばリリアーヌとの結婚をこのまま進めるのは……と思うのも無理からぬ事である。
どう見てもそのうちお家乗っ取りやらかしそう。
そんな印象がどうしたって消えなかったのだ。
いや、お家乗っ取りまではしなくても、こちらの存在を軽んじるのは間違いない。
だからこそ。
リリアーヌの両親は援助された資金に利子をつける形でもってマーゴット家へ返し、婚約も解消したのである。
なおその資金は父の友人から借金をする形となった。
元々父の友人は貸そうか? と声をかけていたのだが、知り合いに借金をする、というのをリリアーヌの父が良しとしなかったのだ。だが、マーゴット家との婚約をなかったことにするために、資金は少しずつ返す、などと言ったところで腹いせに莫大な利子をつけられないとも限らない。一括で返す必要があった。
結果として、父は友人に借金をする結果となってしまったが、それでもマーゴット家との――いや、ロブソンとの関係は特に揉めるでもなく無事に終了したのだ。
婚約こそなくなったが、しかし資金援助したという事実は残る。
微々たるものではあるが利子と共に貸した金だって返ってきた。
婚姻という形での縁を結ぶ事はできなかったが、しかしそれでも。
本来ならばマーゴット家はそれをとっかかりにして他の貴族との繋がりを持つことは可能だったはずだ。
ただ、そうはならなかった。
それというのも、他の貴族たちの噂からだ。
何故だかマーゴット家は財政難である、という噂が流れていたのだ。
それというのもリリアーヌとロブソンのデートの時、実は数名、令嬢や令息たちが時としてお忍びで、時として堂々と遊びに出ていて、その様子を見ていたのだ。
ジョセフィーヌを伴った、最早デートとも呼べぬ代物。
第三者から見れば、あれをデートと呼ぶのはどうしたっておかしな話だ。
挙句に、その時リリアーヌはロブソンにやんわりとではあるが苦言を呈していたので、ますますあれをデートと呼ぶ事などできるはずもなかった。
人間は一人一人異なるものなのだから、治療方法だって必ずこうすれば治る、というわけではない。大勢に受け入れられている治療法でも、少数には合わない場合というのは当たり前のように存在するし薬だってそうだ。
大半の人に効果を発揮しても、中には副作用で余計苦しむ者もいる。
だが、ジョセフィーヌが病弱であるというのなら、そしてマーゴット家は彼女を引き取り面倒を見ている以上、相応の扱いをするべきだった。
縁もゆかりもない貴族に資金援助を申し出るくらいなら、それこそジョセフィーヌをサナトリウムに入れるとか、そうでなくたって保養地で面倒を見る事もできたはずだ。
都会は確かに様々な物がすぐに手に入るけれど、しかし病気治療という点においては空気の良い土地の方がやはり向いていると思われるわけで。
中途半端な治療しかさせないで、その上でジョセフィーヌを連れまわして無理をさせている。
周囲の目にはそう映ったのだ。
実際にジョセフィーヌがロブソンに、
「私、具合が悪くなってきました……」
なんて今にも消えそうな表情で言って、ロブソンが彼女をエスコートして婚約者をその場に置き去りにして去って行く場面を見た事がある者もそれなりにいる。
きちんと治療して治してから外に連れ出せばいいものを……
そうでなくとも。それ以前に供はつけていないの?
あの方、マーゴット家の方よね?
家の人間が直々に介護を?
専用の者を雇う余裕すらないのかしら?
あら? でも、確かフランジェリス家に援助を申し出ているのよね?
由緒正しい歴史を持つ貴族との縁を繋ぐための必要投資にしたって、娘一人マトモに治療のための手間もかけられないとなれば、もしかしたらもしかするぞ……?
あら、では他から借金をしてでも援助された金額以上のものを返したフランジェリス家は……
早々に気付いたのかもしれないな。
などと。
早々に気付くも何も、別にマーゴット家が裏で何かあくどい事をしたという事実も証拠もないのだが、しかし人々は憶測で語り、噂はさももっともらしく広まっていった。
フランジェリス家もまた、由緒正しい長い歴史を持つ貴族。その家が手を引くような行動に出た、という部分だけでマーゴット家は何か問題を抱えているのでは……? と思われたのである。事実無根であるのにもかかわらずだ。
マーゴット家の資産は別に大きく減ったりもしていないし家が傾くような状況でもない。
それでも、事実無根の噂は面白おかしく多くの貴族たちの娯楽として尾びれ背びれをくっつけて、どんどん広まっていったのである。
それだけならば、まぁ時間はかかれども我が家は別に傾いたりしていませんよ、と噂の火消しは可能だっただろう。たとえそれが信用されていなくても、表向きその噂を消す事はできたはずだ。
けれども、他にも噂の種は芽吹いてしまっていた。
ロブソンとジョセフィーヌである。
二人の関係は、ロブソンは新しい家族と言っていたし、ジョセフィーヌもまたそれは同様であった。
けれどもロブソンがジョセフィーヌの美しさに心奪われ虜になっていたのは傍から見ても明らかだったし、ジョセフィーヌもロブソンにバレないようにしてはいても、リリアーヌやそれ以外の人間からは彼女が明らかにロブソンとリリアーヌのデートを邪魔しているというのがバレていた。
病弱、まぁ、実際そうだったのだろう。
それこそ、引き取られたばかりの頃は両親が亡くなったという事実と、今後の生活の不安といった精神面での心労が確かに存在していたのだと思う。
それも加わって、ジョセフィーヌの体調不良が長引いた結果、ロブソンが彼女は常に身体が弱いのだと思っていたとしても、何もおかしくはない。
いつ倒れてしまうかもわからない存在だからこそ、蝶よ花よとばかりに、壊れ物を扱うかのように優しく対応していてもロブソンにとってそれは当たり前であったし、そういう扱いが当たり前だと思い込んだジョセフィーヌも同じくそれが当然の事になっていた。
ロブソンはきっと否定するだろうけれど、しかし周囲からして見れば将来の愛人候補を連れて、あまつさえ愛人を優遇すると事前に態度で示しているかのようでもあった。
ジョセフィーヌの思惑はわからないが、しかしロブソンにバレないようリリアーヌ――と周囲の目撃者たち――に勝ち誇った表情を浮かべてすらいたのだ。その上で二人を引き裂くつもりなどなかった、と言ったところでそれを信じるのはロブソンだけだっただろう。
ロブソンとリリアーヌの婚約が決まったという話はそれなりに広まっていた。歴史の浅い貴族が長い歴史を持つ貴族たちの中に入るには、相応の縁を結ぶ必要がある。
婚姻を結ぶにしろ、それ以外の手段で友好関係を結んで派閥に入るにしろ、早めに輪の中に入るためにはそれなりの苦労がある。
そういった事をしないまま認められるのを待つ、となれば、あと数代は家を続かせなければならないし、その上でなお認められるかは微妙なところだ。マーゴット家よりも更に新しく貴族となる家ができあがれば、新参扱いはされなくなるかもしれないが、そうポンポンと新興貴族が増えるわけでもない。
ロブソンは病弱だと言われているジョセフィーヌをリリアーヌとのデートに連れてきた。それは目撃者もいるので今更である。
その後の婚約解消の話が出た時点で、ジョセフィーヌがその病気とやらを治すためにサナトリウムなり、保養地で有名なところへ行くのであれば、周囲も見方を変えたかもしれない。
リリアーヌとの婚約がまだ解消される前までは、病弱な娘を愛人として連れていく事で、病弱な人間を孕ませるつもりはない、という意思表示の一つだとも思われていたのだ。
噂に色々な尾びれ背びれがつきすぎて、果たして真実はどれなのかすら知らない者もいただろう。
だからこそ、リリアーヌとは白い結婚で家を乗っ取るつもりじゃなかったのか、なんて噂も出ていたし、病弱な女を囲う事で家を乗っ取るつもりまでは無かったんじゃないか? なんて逆の意見も出ていたのは確かだ。
婚約が解消された後で、ジョセフィーヌをマーゴット家が相応の場所に連れていったのであれば、あぁ、では正式に彼女を妻にするつもりなのかもしれないな……と納得させるつもりであった者たちもいただろう。
だがしかし、ジョセフィーヌは特に病院に行くでもなければ、医者を呼び寄せるわけでもなく、またサナトリウムや保養地で有名な土地へ行く事もなく、度々ロブソンと街を共に歩く姿を目撃されていた。
実際のところ、ジョセフィーヌは確かにマーゴット家に引き取られた直後は両親が亡くなった事もあって精神的に消耗していたし、そのせいでご飯もマトモに喉を通らなかったからふらふらしていた。結果体調を崩してそこから病弱な印象を植え付けてしまったのもまた事実である。
だが、生来のジョセフィーヌはとても健康だった。
弱った振りを続けていれば、ロブソンやマーゴット夫妻が親切にしてくれるから……と甘えただけに過ぎない。
養子としてマーゴット家の娘になったわけでもないのは、いつか、ロブソンと結婚する事も視野に入れたからではないか? ともジョセフィーヌは考えていた。
リリアーヌと結婚するのであれば、ロブソンが婿入りする事になる。その時はマーゴット家は親戚から他に跡を継げる者を用意するつもりだったらしいし、ではリリアーヌとの結婚がなくなればロブソンとジョセフィーヌが結婚する事も可能だ。血が近くはあるけれど。
そういう風にジョセフィーヌは考えていた。
資金援助もして恩を売る事には成功したのだから、社交界でもそう悪い立場にはならないだろう、と甘い考えで。
だが実際は、病弱なままのジョセフィーヌを療養させるでもなく連れまわしているロブソンには、そういった……女性を嬲る趣味があるのではないか? という疑いが芽生えてしまった。
もしかして過去、既に何度かやらかしていて、それらはもみ消された後なのではないか、とも。
資金援助を申し出たのは、フランジェリス家の威光を利用するためだったとして、だとすればメイドあたりが被害に遭っていたかもしれない……とも。
噂には尾びれ背びれが無数にくっついてしまい、それこそ化け物みたいに変化し続けているせいで、ロブソンは美青年ではあるけれど、しかし裏では女性を甚振る事に愉しみを見出した残虐な男、と本来の性格とはかすりもしていない人間像ができあがってしまっていたのである。
ジョセフィーヌの方も、愛人として囲うだけなら子供を産む必要がないから病弱のまま放置されていたのだろう、という噂から、あれは衰弱するのを観察されるために療養させられないのでは? なんていう噂も出るようになっていった。
最初の頃の愛人云々あたりの噂はマーゴット夫妻もふわっと聞こえていたけれど、そんなつもりはありませんよと否定して後は黙っていたのだ。噂というのはムキになって否定すればするほど何故かそれが真実だと思われるから。
ジョセフィーヌを引き取ったのは事実だが、ロブソンの父は別にロブソンとジョセフィーヌを結婚させようとは思っていなかった。
彼女にはいずれ家を出ていってもらうつもりだったからこそ、養子にはしなかった。それだけだ。
病弱だというのなら、場合によっては多少金を積んでマシな修道院へ。ある程度健康になったのなら、それこそ彼女の人生だ。自由に生きていけるように、多少の支援くらいはするつもりで。
噂を知った後、ロブソンは自分はそんな人間ではないと否定したものの、中々払拭しきれなかった。
全部が全部嘘だったならともかく、実際婚約者とのデートに第三者であるジョセフィーヌを連れてきたのだ。それも一度や二度どころではない。
嘘を吐く時にはほんの少しの真実を入れると信じられる可能性が上がる。
つまりは無責任に広まった噂のロブソン鬼畜説もまた、嘘の中に事実が盛り込まれたせいで妙な信憑性を得てしまったのだ。
マーゴット夫妻が慌てて二人を引き離したところで、手遅れであった。
今更すぎて、結局ロブソンを跡取りにするには難しくなってしまっていたのである。
結局ロブソンは最終的に修道士の道を歩む形となってしまった。騎士団にぶち込むには、流れた噂が酷すぎて、噂を真実だと思い込み義憤に駆られた者にその性根を鍛えなおしてやる! と無駄に痛めつけられる可能性が高すぎた。それならまだ、修道士の方がマシに思えた。
ジョセフィーヌはというと、一応医者などに診てもらい健康体だというお墨付きをもらったものの、弱っていた時に周囲が親切にしてくれたというのが忘れられず、常にか弱く振舞っていたせいで彼女の美しさに惹かれても、でも身体が弱いなら跡継ぎを産むのは難しいだろうから……とロブソン以外の男性からは相手にもされなかった。
何度か男性と上手くいきそうになっても破局するというのを繰り返して、ようやく病弱だから嫁にするにはちょっと……と避けられているという事実に気付いたジョセフィーヌがとても元気です! と振舞うようになった頃には。
悲しいかな、既に彼女は行き遅れと言われる年齢になっていた。
――実のところ、ロブソンが修道士となる少し前に、ロブソンはリリアーヌの元を訪れていた。
流れている噂のどれか一つに、彼女が噛んでいるのではないかと思ったからだ。
だからこそ、噂を撤回してくれないか、と頼みにいったものの。
「噂、ですか? 確かに流れていますけど、でも私、何も言っておりませんの。本当よ?
むしろ、あれは本当だったのか? と色々聞かれましたが否定もしましたわ。
私が否定したところで信じてもらえないのは悲しいですが、ムキになって否定し続ければ逆に怪しまれるでしょう? かといって、軽い様子で肯定したらそっちはあっさり信じられそうですし……
結局のところ、皆さま自分の信じたいものしか信じないのですよ。
ですから私、後は各々皆様の目で確かめればよろしいかと、とだけ言って、それ以降は何も」
いっそ、どれか一つでもリリアーヌが噂を流していたのであれば。
ロブソンはきっとすべての諸悪の根源とばかりに彼女を悪と見做したかもしれないが、噂を流すどころか聞かれても否定していた、と言われてしまえば、彼女が悪いとは言えるはずもない。
それでも無理にリリアーヌが悪いのだ、などと言おうものなら。
ロブソンに対する酷い噂のすべてが真実だった、なんて言われかねないのだ。
最初に噂が流れたのが市井であれば、まだどうにかできたかもしれない。
だが、ロブソンやジョセフィーヌが誘われる事のない、限られた者たちだけが参加できるようなパーティーで広まっていたのだ。噂が流れ始めた初期の段階にマーゴット家の耳に入っていればいくつかの噂は対処できたかもしれないが、彼らの耳に噂が流れ始めた時には市井でも噂は広がり、既にかなり盛り上がっていた。
一つの噂を訂正したところで、それ以上の速度であり得ないけれど、でも少しだけあり得そうな事実無根な噂が流れていくのだ。
勿論中には噂は噂で一部はその場の会話の盛り上がりで勝手な創作である、と理解している者もいたけれど。
わかった上で噂を楽しむ者と、噂が真実かもしれない……と思いながらも話に乗る者。実に多くの人々の話題にのぼって、今更リリアーヌが否定したり訂正したくらいでは事態が収束するはずなどなかったのである。
修道士になるしか道はない、と突き付けられたであろうロブソンの足取りは大層重たいものであったけれど。
その時点でとっくにリリアーヌとの婚約は解消されていたので、リリアーヌがあえて手を差し伸べる事もなかった。
「……身体が弱い、というのなら外に連れ出さないで屋敷の中だけであれば、あんな噂が立つこともなかったでしょうに。
気晴らしに、とか調子が良い時にせめて少しでも楽しい事を、だとか。
もっともらしい事言ってましたけど、そのせいで私以外の目撃者を増やすのだもの。
結局のところ、ご自身でせっせと噂の種を蒔いていたのに最後まで気付かなかったのですね」
――とは、既にロブソンがいなくなってからリリアーヌが呟いた言葉だったが。
ロブソンの父も、こんな展開は想像も予想もしていなかっただろう。
この事態に陥るまでに、引き返せる道はいくつかあったと思う。
ロブソンがジョセフィーヌに心奪われるような事がなければ。
ジョセフィーヌがデートにくっついてこなければ。
婚約せずに援助するかわりに人脈とか伝手を得る方向性で契約を持ち掛けていたのならば。
もしもの話だ。けれど、もしそうであったなら。
マーゴット家はフランジェリス家を援助した後、こちらの紹介で他の貴族たちとも縁を繋ぐ事だってできただろうし、そこから徐々に輪の中に入る事だってできたはずだ。
マーゴット家は確かに歴史の浅い貴族の家として侮られているが、しかし莫大な財を成すだけの才覚を持っていた。……ロブソンにはそういった才覚はなかったようだが。
商人として、噂は侮れないとロブソンの父も理解していただろうけれど、しかしそれらは自分の耳に入ってこなければ、また教えてくれる者が出てこなければ気付きようもない。そして気付いた頃には、とっくに彼の手には負えないくらいに広まり切っていた。
ロブソンの父が市井経由で噂を耳にした時点では、小火どころか山火事レベルで燃え上がっていたのだから、どうしようもない。
結果として、商人としてはともかく、貴族として社交界を乗り切る事には不向きであるという噂も流れてしまっていた。
ジョセフィーヌを連れまわしていたのが、果たしてロブソン個人のやらかしなのか、父親や母親も賛成していたのかはわからない。
ロブソンの事だ、リリアーヌとジョセフィーヌはきっといい友人になれるだとか、それっぽい事を言っていたのであれば両親とて強く反対もできなかったのかもしれない。
家が傾いている、という噂もあるけれどしかし実際のところそんな事はない。
故に、マネーパワーでぶん殴る、という手札はまだあるけれど。
金目当てで近づく家と縁付くなど一方的な搾取をロブソンの父が許すはずもないし。かといってマトモな家はロブソンとジョセフィーヌの行いから関わりを避けるだろうというのは言うまでもない。
「噂については否定した、と私確かに言いましたけれど。
でも、否定しなくてもいい噂まで否定した、とは言っていないのですよね」
ロブソンは自分たちに不利な噂についてのみ口にしたのだとはわかっていた。
それについては一応否定したのも事実だ。
だが同時に、彼らについて否定しなくてもいい、むしろ彼らにとってプラスになるであろう噂もリリアーヌは纏めて否定しておいたのだ。
自分から悪い噂を流したりはしていない。
けれど、デートだというのに無関係の女を連れてきた事に対して、リリアーヌは許してもいなかった。
良い噂に関してまで否定したのは、虚仮にされた事に対する意趣返しでしかない。
とはいえ、あからさまに否定したわけでもなく、まぁそうなんですの? それについては私存じ上げませんでしたわ。と知らない振りをした程度だ。婚約者でもある女性が知らないというのなら、じゃあやっぱ噂は噂に過ぎなかったって事か、と周囲がそれに勝手に納得しただけ。
知っていても知らない振りをする事なんてよくある話で、知らなくても知っている振りをするのだってよくある話。
何も貴族に限った話ではない。平民だって嘘を吐く時は吐くのだから。
きっとマーゴット家は貴族にならないままの方が良かったのかもしれないわ……とリリアーヌが思ったところで。
別に彼女が何をするわけでもないので、その思いはすぐさま彼女の心の奥底に沈んでいったのであった。
次回短編予告
政略結婚に乗り気ではない男と女。
このままだときっと初夜で君を愛する事はない、なんて言い出すのではないかしら、なんて女は思っていたけれど。
そんな展開すら起きなかったのである。
次回 無かったことになりました
結婚式もそれ以外のものも。




