恋ではなく、愛よりも濃く
生まれた時にはすでに婚約者が決まっていた。
この国の第一王女であるアルディーラ殿下。
強い意志と覇気を感じさせる炎のような赤い髪と真っ赤なルビーのような瞳に見つめられると、どんな無茶な要求であろうとも、僕には「諾」としか言えなくなる。
「お前の様な者を傍に置いて上げる私に感謝して、よく尽くしなさい」
何度も言われ過ぎて、夢にまで出てくる。
視界を遮る自分の黒い前髪。それを忌々しく見つめる瞳すら、黒いという事実が、僕を苦しめた。
多分きっと、この黒髪黒瞳を、誰より恥じているのは僕自身だ。
太陽神を頂くこの国では、太陽の熱と光を発現する炎属性がもっとも尊ばれる。
王族は皆、炎の魔法を持って生まれてくる。炎を持たない者は、その血筋を疑われるほどだ。
それ以外の貴族籍にある者は、炎を強く舞い上がらせることができる風属性と熱を帯びることのできる土属性。
そうして、炎を遮り消してしまうことすらある水属性は貴族から平民に落とされてしまう。それほどに炎属性は尊ばれ、それ以外と区別されている。
「なのに、僕は……」
王族ではない僕が炎でないのは当たり前としても、風でも土でも、水ですらない。
これまで誰も持たなかった、ある属性を持って生まれてしまった。
黒い前髪を、ぎゅっと握りしめる。
誰に何も言われなくともすぐ傍に誰かがいるというだけで、誰もかれもが僕を胡散臭そうに思っている気がするようになっていた。
「誰も、婚約者であるアルディーラ殿下すら、僕を視界に入れようとしないし、僕の名前を呼んだりしないのに」
自意識過剰。そう自嘲して、机の上に積み上げられた書類の束を、手に取った。
その書類を、奪われて顔を仰いだ。
「はい、お茶。メルト・ジーン。お前、仕事ばっかりしてないで、休憩も入れろ」
「ラーラ様! ありがとう」
書類の代わりとばかりに差し出された、蜂蜜がたっぷり入ったミルクティを受け取る。
温かな甘い香りを吸い込むだけで、ホッとした。
勿論、口に含むと疲れまで一気に吹き飛んでいく。それほどラーラが淹れてくれる紅茶はいつも美味しい。
「まったく。俺のメルトは傍にいないとすぐに無理をする。いつから食事を取っていないんだ?」
ぐいっと強引に顔を引き寄せられ、目の下のクマをラーラの温かな親指がなぞっていく。頬を包む手も、指も、温かくて気持ちがいい。
「えっと。あの、そういえば、今朝は朝食を食べ損ねてるから、昨日のお夕飯、いや、お昼、かな」
いいや、そういえば昨日の午後はお茶も運ばれてこなかった。
視界の端、昨日のお昼を食べ終えた後の器がそこへ残っているのを認める。
食べ終わったら廊下へ出しておかなくてはいけなかったのに。昨日は忙しすぎて、すっかり忘れてしまっていた。
そうして今は、すでに夜というべき時間だった。
今から廊下に出しておけば、夕飯を用意して貰うことはできるだろうか。
「僕が、食べ終わった物を廊下に出しておくのを忘れちゃったから」
あの可動式ワゴンは僕専用だ。あれが返されなかったせいで昨日は午後のお茶も夕食も運ばれてこなかったに違いない。そうして今日の食事一切も。
「またそんなことを言って。お前はこの国の王太女の婚約者なのだぞ。あの役立たずの王女を支え国を治める未来の王配なんだ。それを、王宮で働く使用人ども如きが。誠心誠意傅くのが当然だというのに」
イライラしているラーラ様に、目が弛んだ。
そうだ。僕にはラーラ様がいる。たったひとりの僕の親友。領地が隣り合わせている幼馴染みでもある。
とは言っても、僕は5歳で「未来の王配として相応しい教育を受けさせる」という理由で王宮に引き取られているのでラーラ様との記憶はまったく覚えていなかった。
突然この執務室へ訪ねてきたラーラ様から教えて貰った時は、本当に吃驚した。
最も、ラーラ様と僕に付き合いがあると知っている者は少ない。
もしかしたらいないかも。ラーラ様はいつだって突然やってきて、いなくなってしまうから。
ラーラ様は由緒あるギブレイン侯爵家の人間だし、僕実家は、僕がアルディーラ殿下の婚約者として相応しくするために実家の爵位を上げて貰うまでは、単なる子爵家だった。引き上げて貰っても伯爵家でしかない。ラーラ様の友達とか幼馴染みを名乗るには相応しくない。
「ホラ。サンドイッチも持ってきた。これを食べてろ」
そう言って美味しそうなチキンの挟まっているものやクリームと果物が挟まったサンドイッチを乗せた皿を差し出される。
そうしてラーラ様は、僕の机の上に堆く積まれた書類の束を睨みつけるようにして掴み上げると、ソファーにどかりと座った。
「メルトはゆっくり食べるといい。その間に書類の仕分けをしておくよ」
「いつもありがとうございます、ラーラ様」
すごい勢いで書類をめくっていき、あっという間に最終ページまで捲り終えると、メモを走り書きして却下の箱へと放り込む。
そうしてすぐに次の書類の束に目を通し始めた。
ラーラ様でなかったらやり直さなくちゃいけないところだ。
けれど、僕の数倍の速度で目を通していくラーラ様の仕事に不備があったことはない。
止まることのない綺麗な手が動いていく様子を、僕は憧れを込めて見つめた。
「おい、早く食べろ」
「は、はい!」
慌てて、止まっていた食べる手を動かす。口も動かして咀嚼していく。
「押し込むな。味わえ。そして茶も飲め」
「はい。はい」
いつの間にか傍まできていたラーラ様が、慣れた手付きでお茶のお替りを淹れてくれた。
「メルトは、綺麗な所作ができるようになったな。ホント、王宮の奴等は勝手だ。幼いメルトを金で買い取ってまで此処へ連れてきた癖に、ちゃんとしたマナーも教えずに貶す。しかも仕事だけは押し付けるんだから」
本当のことなんだろうけど、父母が僕を王宮へ引き渡す代わりにお金を受け取ったという言葉に胸の辺りが重くなった。
僕に、貴族としてのマナーを教えてくれたのはラーラ様だった。
お辞儀の角度も、カトラリーの正しい使い方も。見よう見真似だけではどうにもならない部分を、優しく丁寧に何度も教えてくれたのだ。
「はは。でも、未来の王配となれるように、勉強はたくさん教えてくれましたよ」
「勉強より先に教えるべきことはあるって言ってるんだ。そもそも親に甘えていい年頃から始めるなんて」
そう怒りながらも、ラーラ様の手は止まらなかった。
紅茶を淹れてくれた後はソファに戻って書類をどんどん処理していく。こんなに優しくて、その上仕事もできるのだ。凄いとしかいいようがない。
そんなラーラ様の活躍を眺めつつ、紅茶を口へ運んだ。
ラーラ様が新しく淹れてくれたのは軽く苦みのある紅茶だった。色味も濃い。香りは少ないけれど、その分食事の味を邪魔しないし、デザートのフルーツサンドを食べる前に、口の中に残ったチキンの脂を流してくれる。美味しい紅茶だ。
「ふう。ご馳走様でした」
書類仕事に戻ろうとした僕を、けれどもラーラ様は許してくれなかった。
あっさりと抱き上げられてラーラ様が据わっていたソファに連れていかれる。
「あの、ラーラ様?」
「少し休んでろ。食べてすぐ熟睡するのは良くないが、俺に寄り掛かって目を閉じているだけで、身体は休まるはずだ」
「でも」
仕事はまだまだたくさんある。さっさアルディーラ殿下が侍従に運び込ませた王太女の仕事も手つかずなのだ。休んでいる時間はない。
「食事を取って、適度に休憩を挟むことでミスも減る。腹が減って疲れた頭のままでは仕事も捗るまい」
「すみません」
書いてある文字が頭の中で意味を成さずに何度も読み返したのは、書類に不備があったというだけじゃなくて僕自身の不養生のせいもあるのだろう。
指摘されて顔が赤くなった。
「ホラ。目を瞑る」
「お、おじゃまします」
「なにそれ。ここはお前に与えられた執務室だろう」
吹き出したラーラ様の弾けるような笑顔。そのまま伸ばされてきた片腕で頭を抱き寄せられて、撫でられた。
大きな手だ。温かなその手で撫でられると、僕のこの忌々しい黒い髪もそれほど悪くないという気がしてくる。
「メルト。ゆっくりおやすみ」
「はい」
僕は言われるままに目を閉じて、ラーラの肩へと頬を寄せた。
細身に見えるラーラ様の肩は厚みがあって、服の下にある筋肉を感じさせる。
仕事の早さも性格さ、太陽のようにおおらかな性格、温かな心配り。そしてその男性的な体つきも大きな手も、すべてが僕の憧れそのもの。
目を閉じるだけのつもりだったけど、ラーラ様の温かな肩と手に甘やかされて、僕はそのまま夢の国へと落ちて行く。
眠りについてしまう前。ラーラ様の声がした。
「メルト。早くこちらへおいで。ずっと待ってるから」
何処で待っているのだろうと不思議に思ったけれど、眠すぎてそれを訊くことはできなかった。
***
「すっかり寝ちゃってた」
気が付いた時には、仮眠室から持って来たらしい毛布を肩に掛けられてソファでぐっすりと眠り込んでいた。
山積みだった書類は、却下、資料不足要再提出、議会へ提出するものなど細かく分類されており、それぞれに理由が書かれたメモが付いていた。
「さすがだな」
付けられたメモを読んで書類を確認すると、どれも納得の分類だった。
「的確な指摘に、判断に足る知識。僕よりずっと、未来の王配になるべき御方だと思うんだけどな」
生まれてすぐに僕がアルディーラ殿下と縁組をされた理由は何度も聞かされて知っている。
その神託が僕に対するものだとは今でも思えないし、自分で疑問でしかない。
だから、アルディーラ殿下とその周辺が僕を胡散臭く思うのは当然だと思う。ラーラ様は憤慨してくれるけど、冷遇されても仕方がない。
『今宵、ついに夜の主、闇の魔法を掌る者が産まれ出づる。天に感謝を! この世に安らぎの喜びを!』
炎と風と土と水。その4つの魔法と唯一太陽の光だけがある世界に、これまで誰も使えなかった魔法を持った赤子が生まれるという、神の喜びの声が響き渡ったのだという。
そうしてその夜、僕は黒い髪と瞳を持って、産まれた。
闇魔法がどんなものなのかも分からないまま。
そう。僕は魔法が使えない。
魔法属性は、髪や瞳の色に現れる。
だから確かに僕はその闇属性にあるのだと思う。
魔力がない訳ではないようだけれど、その闇属性の魔法というものがどんな風にしたら使えるのか、どんな魔法なのかも分からない。
だから18才となった今でも、僕とアルディーラ殿下は婚約者のままなのだ。
***
その日は大規模な夜会が開かれていた。
勿論僕は招待されていない。主宰者側だから、という意味ではもちろんなく、招待状も持っていなければ、席を用意されてもいなかった。
その筈だった。
少なくとも、僕が手配した時点ではそうだった。
だからきっと今夜もひとりで部屋に持ち込まれた軽食を取りつつ、書類仕事を進めることになるのだろうと思っていた。
アルディーラ殿下は、僕のような者から婚約者としてエスコートされるのは我慢がならないと言って、どんな夜会や会議の席にも僕を伴って出席したことはなかった。
それが、突然「今夜の夜会に出席するように」と招待されて、慌てて髪だけ撫でつけて新しいシャツと用意だけはしてあったものの一度も袖を通したことのなかった夜会服に着替えて指定された会場にほど近い部屋へと駆け込んだ。
「ふう。なんとか時間に間に合った」
見渡すまでもない狭いその部屋には、硬い木の椅子が二脚置いてあるだけだ。
暗くて寂しい。
窓の外からは、夜会で演奏されている音楽が聞こえてくる。
音楽と共に、人々の歓談する囁き声が波の音のように耳へと届いた。
今は丁度晩餐会の真っ最中だろうか。
窓の外の煌々とした灯りと、楽し気な雰囲気が微かに伝わってくる。
けれど僕が呼ばれたその部屋には、僕の外には誰もいなかった。
夜会はとっくに始まっているのだ。もしかしたら時間を間違って記入してしまったのかもしれない。
そもそもの呼び出し時間が、晩餐会が終わった後のダンスタイムになってた。今回の夜会の手配をしたのは僕だから、間違いない。
「もしかして僕は大遅刻したことになっているのかもしれない。アルディーラ殿下、
怒ってるよな」
気の強い赤毛の婚約者から詰られる未来の自分を想像して、ため息が出た。
情熱的な赤い瞳に嫌悪を浮かべ、僕と婚約した不運を嘆くように僕と話す。あれは会話ではない。アルディーラ殿下と会話なんてしたことがない。
ただひたすら貶める言葉を投げつけてくる相手を畏れ敬い頭を低くして通り過ぎるのを待っているだけ、だ。
僕は彼女のすべてが苦手だった。
ちいさな待合室を照らす蝋燭は最初から短かったけれど、さすがにそろそろ消えてしまいそうだった。それほど待った。
「どうしよう。探しに行った方がいいかな」
招待状を何度も確認して、やはりここで良いのだと座り直した。
確認しても、誰も来ない場所でひとり待つ不安に、立ったり座ったりを繰り返していると、突然扉が開かれる。
「お急ぎください。アルディーラ殿下がお待ちです」
慇懃な態度の侍従が呼びに来た。
良かった。初めての夜会でお会いできないままになってしまったら、どれほど叱られるか分からない。また落胆されてしまうところだった。
後ろをついていく僕の歩幅を気にすることなく、ツカツカと大股で侍従が進んでいくのを小走りになって追いかけた。
「ちょっと、待って」
声を掛けてもお構いなしだ。そういえばまた午後から何も食べていなかった。着替えるのに必死になっていたし、冷えたお茶を一杯飲んだだけだ。
「ちっ」
はるか先で立ち止まり、振り返った侍従の舌打ちに心が怯んだ。
「すまない。僕、背が低いから、足も遅くて」
ようやく追いついて、無様すぎる言い訳を口にする。
冷たい視線の侍従がくいっと顎を動かすと、その前にあった大きな扉が開かれた。
「メルト・ジーン子爵令息、来場です」
「え、あ。うわっ」
ドン、と侍従に背中を押されて会場へと足を踏み入れることになった。
足を縺れさせた僕は、そのまま入口に転んでしまった。なんてことだ。
爵位が違うと訂正したかっただけなのに、まさか侍従も僕が転んでしまうとは思わなかったんだろうけど。急かすにしてもやり方があるだろう。
床に打って、痛む膝を擦って立ち上がった。
冷たい視線が、僕に突き刺さる。
遅れてきたのは確かに悪いことだけれど、待合せの時間には呼び出された待合室にいたのだ。そうは思っても、それを声に出して主張する勇気はない。
へらりと笑って会場の隅へと移動しようとしたところで、もう一度、名前を呼ばれた。
「メルト・ジーン子爵令息。あなたが不当に結んだ私との婚約。不当で不名誉で端でしかないその契約をあなたの有責で破棄することを、ここに宣言します!」
「え、あ。アルディーラ殿下、僕が、不当に結んだというのはどういうことでしょうか。それにジーン家の爵位も間違ってます」
そんな僕の主張は誰の耳にも届いていないようだった。
わっと周囲が盛り上がる。拍手でもって、アルディーラ殿下の宣言を受け入れた。
誰もかれもが、その綺麗な顔に満面の笑顔を貼り付けている。
「僕の有責とは、どういうことですか。僕が生まれてすぐに、この婚約は王命により結ばれたとお聞きしています。なのにどうやって僕が不当に婚約を結んだりできるというのでしょう」
懸命に声を張り上げた。
婚約が無効になるのは構わない。元々僕には過ぎたものだ。
けれど、家に迷惑を掛けるようなことだけはしたくなかった。
「ジーン家が伯爵家となったのは、お前が不敬にも、神託にあった闇属性を自らの身に宿しているのだと周囲をたばかったから。哀れにも新婚夫婦の間にようやく生まれようとしていた本当の息子の命を奪い、存在を乗っ取るなど。悪魔の所業としか言いようがない」
突然の断罪に、目を瞠った。
驚きに周囲へ視線を廻して、父と母の顔を探した。
まさか、まさかこんな馬鹿げた主張を、父さまと母さまが信じるなどということがある筈は……
「私達の息子を、返せ!」
「ずっと私達をだましていたのね。この悪魔! ううぅっ」
「アクマめ。息子を、かえ、せ」
泣き出してしまった母の言葉を引き受けたのだろうか。僕を睨みつけ詰ってくる父さまの、母さまの肩を抱く手が、震えていた。
父の咽喉がわなわなと震えて、それ以上何も言えないようだった。
ふたり抱き合い、その場に頽れる。
「あらあら。それにしても子爵も哀れよね。まさか、悪魔に息子の身体を奪われてしまっていたなんて。ずっと騙されて、辛かったことでしょう」
捏造の断罪を泣きながら受け入れる父母を、嘲りあげつらうアルディーラ殿下を見ていたら、分かった気がした。
この場は、僕から婚約者の地位を奪うために作られた舞台なのだ、と。
父母はきっと、言う通りにしなければ子爵家を潰すと言われたのだろう。
貴族家に生まれ爵位を継いだ者にとって、自分の子供以上に家の存続は重要だ。
血は薄まろうとも、親族から引き取って継がせることもできる。
子供の命乞いをして家を失くすことなどありえない。受け入れることはできない話なのだ。
僕だって嫌だ。自分の命で家を存続させることができるなら、喜んで……は、無理だけれど飲みこんで受け入れることくらい、できる。やってみせる。
すべてを受け入れることに決め、はぁ、と大きく息を吐いた。
ラーラ様ならきっと「戦わずに逃げるのか」と怒られそうだとちょっと思った。
それでも、もう決めたのだ。
「アルディーラ殿下の仰せのままに。メルト・ジーンは、あなた様との婚約の破棄を、受け入れます」
膝をついて、頭を垂れた。
「婚約破棄は、当然よ! でも、ねぇ。それが謝罪する態度なの? 王家をたばかった罪人らしく、床に這いつくばって頭を下げなさい」
ぐいっと扇で頭を床へ押し付けられた。
アルディーラ殿下の態度と言葉に、何故か僕ではなく、母さまが呻いた。
両手で口元を抑えつけ、声を上げることを堪えている。父さまも同じようにしていた。
少しは僕を、心の中でだけだとしても、息子だと認めてくれていたのだろうか。
見開いて僕を見つめる父と母を見ていたら、安心させて上げたくて、ふっと笑顔が浮かんだ。
僕が浮かべた笑顔。それがアルディーラ殿下の怒りに触れたらしい。
「早くなさい。できないというならば、力づくでさせてもいいのよ」
殿下が手を上げると、会場の隅に控えていた近衛たちが集まってきた。
まっしろい制服を着た背の高い大きな男たちに囲まれて、その手が僕へと伸びてくる。怖い。
「!!」
思わず目を閉じた。
「愚かな人間め。ようやく不快で方法で一方的に交わした契約を解除したと思ったら、更なる愚行に出るというのか」
周囲に真っ白な光が満ちた。
熱いほどの光。まるで太陽がそこに生まれ出たようだった。
「ラーラ様! ラーラ様、駄目ですよ、こんなところに来ちゃ駄目。ギブレイン侯爵家にも迷惑を掛けてしまう」
僕を抱え込む腕に縋って説得する。
その言葉に、アルディーラ殿下が目を眇めた。
「ギブレイン侯爵家、だと? お前は何を言っているんだ、メルト・ジーン。ギブレイン侯爵家には子息はいない」
「え?」
吃驚し過ぎて、アルディーラ殿下とラーラ様の顔を何往復も行ったり来たりして見る。
「俺は、お前にギブレイン侯爵家の人間だなんて一度も言ったことはないさ。覚えていないか。俺は、ずっと幼い頃から君のすぐ傍にいたのに俺のことが分からないのかと言ったんだ。メルト・ジーン」
「えぇ!? 領地が隣り合っているという意味じゃ、なかったんですか」
「俺としては幼馴染みという関係もいいものだと思ったからな。否定しなかっただけだ」
開いた口が塞がらないとはこう言う時のことを指すのだと思う。
目も口も、本当に開きっぱなしだ。
「あははっ。メルト・ジーン、お前も騙された方だったか。しかし、被害者だという主張は受け入れる訳にはいかない。お前は加害者だ。王家に不当なる婚約を押し付けた詐欺師なのだから!」
アルディーラ殿下がメルトを指差し、言い切る。
「だから私に婚約者などいない!」
そう晴れやかに宣言したアルディーラ殿下のその言葉に、けれど僕だってホッとした。
僕が詐欺師扱いを受けることには納得している訳じゃないけれど、それでも解消したいとずっと願っていたのだから。婚約が無くなったことは素直に喜ばしい。
でも、一番喜んだのは僕ではなくラーラ様だった。
「お前に婚約者がいないというその言葉を、どれほど願ったことだろう! メルト・ジーン。今日という日を俺がどれだけ待ちわびことかお前には分かるまい。その辛い夜も今日で終わった。ついにお前を迎え入れることができるのだ! 感謝を! 我が世に安らぎの喜びを!」
どこかで聞いたことのあるけれど、まったく違う言葉だった。
「え、あ。ラーラ様? あなたは、この国の貴族では、なかったのですか」
ならば一体、誰だというのか。
「その説明はひと言で済むが、長くなる。どうか今は、素直に俺の手を取って欲しい。メルト・ジーン」
ぎゅっと手を取られ、引き寄せられる。
視界の中で震える両親が目に入った。
彼らは先祖代々続いてきたジーン子爵家を守ることを選んだ。
そうして僕も、それを善しとした。したんだ。
だから僕も、父母を置いて出て行ってもいいはずだ。
でも何故今それを選ぶことに躊躇してしまうんだろう。
僕は、素直にラーラ様の手をとって、この国から去るべきなのかもしれない。
そうすることこそ、彼らの望みを叶えられるのだろう。
ほんの一瞬のことかもしれないけれど、ぐるぐると悩んで、瞳を揺らす。
悩んで止まる僕が答えを出すのを、ラーラ様は笑顔で待っていてくれた。
その笑顔に引き寄せられるように、手を差し出した。
「この手を取ってほしい、メルト。でも、お前が俺の手を取らなくとも、俺は君を、ずっと守るよ」
「ラーラ、さま」
そうだ。僕を欲しがってくれるのは、ラーラ様だけ。
「この世を惑わす偽者め。不敬な詐欺師メルト・ジーンと共に、この私が断罪してくれる!」
自分が会話から弾かれていることに気が付いたアルディーラ殿下が、手を掲げた。
その手の前に、大きな炎が生まれる。
ぐるぐると渦巻く炎は大きさを増していき、このままでは王城そのものすら壊しかねない規模の魔法となっていく。
悲鳴を上げて逃げ出す貴族たち。
近衛たちも、どうしたらいいのか分からなくなっているらしい。
僕は目を見開いたまま、アルディーラ殿下の魔法を見上げてしまった。
瞬間。アルディーラ殿下の後ろへと移動してきた父母の口が、僕に向かって動いていることに気が付いた。
いいや、ちがう。
「息子を奪い、更にジーン子爵家の名誉を奪わんとする傲慢な王族に、報いを!!」
父と母が、特大の炎を手に掲げたアルディーラ殿下に対して渾身の風魔法を放ちながら飛び掛かった。
「なにっ!?」
炎をより高く大きくできる風魔法の効果により、アルディーラ殿下にはコントロールできないほど大きくなってしまった炎魔法が暴発した。
辺り一面が炎に巻かれていく。
「うわああぁ!」
「うわー!」
「熱い! あついぃぃ!!」
「父さま! 母さま!!」
叫ぶ声すらそこに置いていくように。
ラーラ様の腕に捕われて、城から連れ出される。
「っ。父さま、母さま……そんな」
大きな音を立てて、城が崩れていく。
「ぎゃあああああぁぁぁぁ!!!!」
その城の中から聞こえてくる誰のものとも知れない断末魔が、いつまでも長く耳に響く。
強引に馬に載せられ、あっという間に遠く小さくなっていく城が、瓦解していく。
遠くなっていく城の姿が、涙で滲んだ。
***
「ごめんね、メルト。俺が上手く立ち回れなかったせいだ」
跪いて僕の両手を取るラーラ様が、真摯に謝罪してくれた。
「いいえ。ラーラ様のせいでは」
ふるふると顔を横に振る。
どちらかといえば、僕の髪と瞳が、黒いせいだと思う。
父さまと母さまは、自分で最後を選んだ。
それは、僕を守るため、ではなかった気がする。
アルディーラ殿下の言葉を信じることができなくなってしまったのだ、と思う。
跪いて恭順を示し、冤罪すら飲み込んで婚約破棄の謝罪をした僕に対して、更に深い謝罪を要求したアルディーラ殿下のお姿に、未来のジーン子爵家の姿を見たのだ。
息子を切り捨てて家を守ったとしても、きっと社交界で、あの時の僕のように、未来永劫見下され、常により深い謝罪を要求され続ける。そんな未来。
それでは、とてもジーン子爵家を存続させることに成功したとは言えない。
息子を見捨てても見捨てなくとも、どうせジーン子爵家の名誉を守ることはできないならば、メルトの持つ血を未来へ繋ぐことに掛けたということだろう。
『息子を奪い、更にジーン子爵家の名誉を奪わんとする傲慢な王族に、報いを!!』
あの言葉に、夢見てしまうものがない訳じゃない。
もしかしたら、僕は、父母から愛されていたんじゃないか、と。
もしかしたらメルト自身に対する愛が、一連のあの自殺行為につながった可能性だって無い訳じゃない。
けれど、産まれたばかりのメルトを捨てることを選んだ父母をそこまで信じることは、夢見がちすぎる気がして、できなかった。
「僕には、ラーラ様がいてくれるから、いいんです」
握られた手に力を込めて握り返す。
ラーラ様はとても綺麗な満面の笑顔を見せてくれた。
「ねぇ、ラーラ様。それで、ここはどこなのかな」
真っ白な空間。
さすがにメルトも、もうラーラ様が領地が隣なだけの侯爵家の人間だとは思っていない。
むしろ人間ですらないと感じていた。
「メルトはどこだと思う? 何処だったらいいと思ってる?」
ニコニコと笑って問われて口籠る。
「問い掛けに、問いで返すのはずるいです」
「ふふ。そうだよ、知らなかった? 俺はずるいんだ」
歌うように答えるラーラ様が笑っている。
それを見たら、ここが地上ではない何処かであることなんて、どうでもいい気がした。
ラーラ様が望むと手元に光が集まってティーポットになるし、きらきらと光る茶葉とお湯が中空から生まれて注がれていく。
「はい、どうぞ。俺のメルト」
「ありがとうございます」
手を掲げれば、僕の手の中にも光が集まってティーカップとソーサーが出来る。
コポコポコポコポ。
輝くカップへ黄金色の茶が注がれて、芳醇な香りが辺りに漂う。
ラーラ様が望めばなんだって手に入るこの場所で、僕はずっとラーラ様とふたりで暮らしていくんだから。
これは、恋、なのだろうか。
たぶんきっと、恋ではない。
もっと別の、何か。でもそれがなんであっても、どうでもいい。
ラーラ様が僕へ笑いかけてくれること以上の幸せを、僕は知らない。
「メルト」
ラーラ様が僕の名前を呼ぶ。笑ってくれる。
それだけが、僕の幸せ。
***
この世界が生まれたばかりの頃は、精霊たちは存在していなかった。
それは、善く生きたいという人々の祈りの中から生まれたモノ達だ。
太陽が輝き、人々はその光と暖かさへの感謝は捧げたけれど、夜の闇に感謝を捧げる者は少なかった。
けれど、夜が来るから人々は休もうと思うのだ。
闇夜にひとりでいるのは怖いから、誰かと仲良く暮らしたいと願うのだ。
やさしさを作り出すのは、夜の闇が与える安らぎだった。
明るいばかりの陽射しの中だけの暮らしは、疲れ切って膝をつく者を敗者として晒しだす。
少しずつ人々の心からやさしさを削り取っていく。
少しずつ、少しずつ溜まっていく夜の闇への感謝がようやく生みだした精霊は、けれどあまりにもちいさすぎた。
それこそ強すぎる昼の光に、消し飛ばされてしまいそうなほど儚い存在だった。
だから。
丁度、同じように儚く消えそうになっていた赤ん坊の身体の中に匿ってもらう事にしたのだ。
闇の精霊と共にいれば、赤ん坊の命も繋ぐことができた。
けれど、ちいさく頼りない闇の精霊には、そのちいさな力で赤ん坊の命を繋ぐことしかできなかった。
儚くなりかけていた赤ん坊も、生まれ出るだけの力がないほどちっぽけで力のないな存在だったから、闇の精霊と一緒にいても魔法は使えなかった。
命を繋ぐことはできてもそれだけ。
何もできないふたりは、もう分かつこともできないほど同じ存在となった。
たぶんきっと。赤ん坊だった者の命が、消えるまで。
***
誰よりも仲間である闇の精霊の誕生を待ち望んでいた光の精霊は、それを知って歯噛みした。
人の理の中で存在を繋ぐことしかできなくなった仲間。
自身の喜びをうかつにも謳った己の声のせいで、人間どもの誓約に囚われてしまった仲間を、光の精霊は諦められなかった。
願いはやがて形を得た。
夜の闇の時間だけ、人の振りができるようになったのだ。
昼間は駄目だった。人々が、光への感謝を捧げるから。
人の形を取れるようになった光の精霊は、少しずつ、闇の精霊でもある人へ、近付いた。
人の振りをして近付いてみれば、闇の精霊でもあるその人は、まるで幸せそうではなかったことに気が付いた。
勉強ばかり仕事ばかりさせられて、いつも辛そうな顔をしている彼を、笑わせたくなった。
お腹を空かせてたまま、夜を徹して仕事する彼に、お腹いっぱいに美味しい物を食べてゆっくり眠って欲しかった。
泣いて欲しくなかったし、論われて恥ずかしそうに俯いていても欲しくなかった。
いつも笑っていて欲しかった。
「ありがとうございます、ラーラ様」
名前を呼ばれ感謝の言葉を告げらるだけで、心が浮きたつ。
その笑顔を、独り占めしたくなったのは、いつ頃だっただろう。
「そうだ。まずは人の掛けた誓約を解こう。彼から解かせるのは無理のようだ」
ゆっくりと。彼への不満を高めていく。
強い魔法を使えることが自慢な婚約者は、魔法が一切使えない彼との婚約が元々不満でしかなかったから、簡単だった。
「人としての繋がりも切らせてしまうのがいいか」
親は、王に言われてさっさと息子を差し出した屑だ。
なのに、彼がただ血が繋がっているというだけで家族に対して夢を見続けていることが不満だった。
「俺の事だけを見ていて欲しいのに」
少しずつ、少しずつ。いつの間にか、ちいさな水滴が石に穴をあけてしまうように。
今の境遇を作った者たちへ疑問が持てるように。言葉に毒を潜ませる。
「俺にだけ、甘えてくれればいいのに」
欲がどんどん濃く濁る。
もうすでに自分は光の精霊ですらなくなっているのかもしれないと思ったけれど、彼と共にいる為なら、それでいいかと思うのだ。
「だって。この国の人間を守り導いてやりたいとは、思えないから」
守り導いてやりたいのは、たったひとり。
目の前の、メルトだけ。
笑って、名前を呼んで欲しいのも。
頼って欲しいと願うのも。
「ラーラ様」
ただひとりメルトだけ。
これは、恋ではないのかもしれない。
けれど、この想いは愛よりずっと濃くて深い。高い粘性を持った、執着より強い想いが、この胸にあるから。




