#5 バガーブ、鎌を振り下ろす
一九四五年。勝利に勝利を重ねていたソ連は、宿敵の領土へ土足で踏みこもうとしていた。
目的はもちろん、首都に居座る最高司令官の首を取るために。
モスクワに召集された部隊は敵を殲滅するために西へ進む。
その歩兵の中に一人の若い女性がいた。
歳は十代後半。
美人で命令に決して逆らわない。
だがとても無口で近づきがたい雰囲気を放つ少女であった。
名前を名乗らないので、周りからはバラライカと呼ばれている。
母親と二人暮らしだった彼女は戦争が始まる前、町の酒場で弦楽器のバラライカを相棒に歌って生活費を稼いでいた。
彼女の澄んだ歌声と、バラライカの優しい囁くような音色が、みんなの耳を楽しませる。
スラヴ神話に出てくる火の神を題材にした歌が寒々しい村の空気を暖めていた。
酒場の主人も常連客達も、皆親戚のように親しく、彼女の歌声に対して十分な対価を払ってくれていた。
お陰で、病弱で働けない母と二人暮らしでも何不自由ない生活を送れていた。
戦争が始まるまでは……。
国境に近かった彼女の町は、侵攻してきた敵に占領された。
いきなり銃殺されることなどはなかったが、物資が厳しく制限されてしまう。
彼女は耐えられたが、母は耐えられない。
毎日服用していた薬が手に入らなくなってしまったのだ。
必死に敵兵に薬を求めても手に入らない。
手ぶらで帰るたびに、母親はいつも『自分は大丈夫だから』と言って慰めてくれた。
けれど、そんな母も病状が悪化し、二度と瞼を開ける事はなかった。
彼女は泣いた。泣き続けた。そして喉が潰れ涙が枯れた頃、味方の軍によって町は解放された。
すぐさま彼女は軍に入隊を志願する。
軍は前線で戦う女性兵士がプロパガンダになると思ったのか、思いの外簡単に彼女は兵士となれた。
男性兵士の後を苦もなく行軍する彼女は、両手にいつもバラライカを持っている。
人々を楽しませた弦楽器ではなく人の命を簡単に奪える短機関銃を。
モスクワを出発したバラライカは、ロシアとポーランドの国境沿いで本隊と別行動を取っていた。
国境沿い近くの町トーアにドイツの敗残兵が潜んでいるとの情報を掴んだのだ。
彼女を含めた十人の少隊が徒歩で向かう。
本隊は隣町ボーニェで待機している。
もし件の町で敵兵を発見した場合は、九人が様子を伺い、足に自信のある一人が本隊に知らせる事になっていた。
敵の姿がない場合は、何も心配する事なく本隊を呼びに行けばいい。
敵がいても、負けて逃げている歩兵が数人。
偵察隊はそう楽観していた。
町に近づくと、突然季節外れの大雪に襲われる。
最初はゆっくりと落ちていた結晶は、次第に数と勢いを増し偵察隊を覆い尽くしていく。
風も強くなり、無防備な顔面に白く冷たいものがぶつかってくる。
誰もが天候を呪う中、バラライカは無言で歩く。
白い息を吐きながら町に向かう道を歩くと、途中に白い雪の塊が現れた。
幅四メートル、高さ二メートルほどのそれは雪に埋もれたトラックだ。
道の真ん中で停車し、降り積もる雪に埋もれていたようだ。
荷台はもぬけの殻。
運転席に一人の男がいる。
ドイツ兵の格好をした男は、左側面が穴だらけになっていた。
運転席のドアが穴だらけになっているところを見ると、どうやらドア越しに撃たれて力尽きたようだ。
死体しかないトラックをその場に残す。
雪掻きするように道を進んでいくと、明るい光が見えてくる。
偵察隊は皆、帰ってきた船乗りが灯台の明かりを見つけたような安堵感に包まれた。
町に着くのを見計らったように吹雪は止んでいた。
目的の町は東から西を切り裂くように大通りが伸び、南北に建物が立ち並ぶ。
明るい光の正体は、大通りの中央で激しく燃え盛る炎の柱であった。
三階建ての家より高い火柱は、吹雪の中でも変わらず燃え盛っている。
外に人の姿がない事を確認した偵察隊は町に踏み込む。
バラライカ達はまず、炎に惹かれる蛾のように火柱に近づいて手を伸ばす。
寒さに負けない炎の温かさが、皮膚を通して十人の体内の凍えを溶かしていく。
身体を温めて気が緩んでいた間も、敵はおろか住民は誰も出てこなかった。
温まって身体が動くようになった偵察隊は、逃げたと思われる兵士を捜索することにした。
部隊を半分ずつに分けて南北を捜索。
切っ先鋭い三日月が見下ろす中、バラライカは北の捜索隊に加わった。
家には灯りが点いている。
それだけなら異常はない。
けれどノックしても誰も出てこない。灯りが点いているどの家もだ。
バラライカはノックしても反応のない扉のドアノブを回してみる。
やはり鍵が閉まっていて開かない。
そんな時、捜索隊の一人が大声を出した。
行ってみると、兵士が灯りの漏れた壁を指差している。
レンガ造りの壁が砕け、人が二人通れるほどの大きさの穴が開いている。
まるで砲撃されたようだ。
偵察隊は逃げた兵士が犯人かと思った。
では、住民は恐怖におののいて逃げ出したのだろうか。
それにしては家に鍵をかけるという余裕があったようだ。
バラライカは考えても何も思いつかないので、大きな穴から家に入ってみる。
廊下の壁や天井には、何かが擦れたような傷が無数についている。
床には杭を突き刺したような跡があるが、その杭は見当たらなかった。
廊下を抜けてリビングに入る。
淡い照明に照らさらた木目のテーブルの上には夕食と思われる食事が残されていた。
カップに入ったお茶と鍋から取り分けたシチューがお皿に盛りつけられている。
バラライカは周りを警戒しながら、シチューを口に運ぶ。
すでに冷めていた。
住民は数時間前に消えたのだろうか。
テーブルは綺麗だが周りの椅子は倒れ壊れている。
僅かに血のような赤色が付着していた。
人間の仕業には思えないような気がして、バラライカは寒さのせいではない震えに襲われた。
住民が消えた原因が結局分からないまま、バラライカ達は待ち合わせ場所である炎の柱まで戻る。
一時間ぐらいして戻ってきたが、大通りの炎は少しも弱まっていない。
一体何が燃えているのか気になったバラライカは火傷しない距離を保ちつつ近づいてみた。
まるで油をまいたように激しく燃えている。
火が巻きつている薪は自分の腕より太い。
正体が掴めないまま、南の捜索隊が帰ってきた。
皆一様に顔が真っ青だ。
口を開きたくないほどの恐怖に襲われたのか、しばらく誰も喋らない。
はじめに口を開いたのは南を捜索していた隊長だ。
北と同じく人の姿はなく、一軒の家の地下室で誰かが匿われていた形跡があったらしい。
隊長が吐き気を堪えるように口を抑える。
手をどかして再び話し始めた。
ある大きな貯蔵庫、その中に無数の卵が産み付けられていたと言うのだ。
しかも自分たちより大きくてカマキリの卵に似ていると言うではないか。
聞いた途端、バラライカの全身に怖気が走り、震えを和らげるために炎に近づく。
一人の兵士が、その卵をどうしたのか聞くと、隊長は全員が持っていた火炎瓶で火をつけたそうだ。
南の夜空を見ると、確かに黒煙が登っていた。
バラライカは無意識に、手に持っていたバラライカを強く抱きしめる。
隊長は本隊に報告するため足の速い一人に、隣町に向かうように指示を出した。
指示を受けた兵士が走り去っていくのを見届けてから、隊長は炎に近づき身体を温める。
そこで何かに気づいたのか、顔を手で覆った。
火炎瓶で倉庫に火をつけた時、短機関銃を置きっぱなしにしてきてしまったらしい。
身体を温めていた隊長は名残惜しそうに炎の柱から離れると、銃を取りに踵を返す。
雪を踏みしめながら丁度三歩歩いた時、隊長の目の前に何かが落ちてきた。
大きな音にバラライカを含む全員がそちらに視線を向ける。
落ちてきたのは、硬質な水色の塊だ。
蟹のような胴体からは細長い首が伸び、蟷螂によく似た頭が下を向き、二つの濁った白い眼が一番近くにいる隊長を見ていた。
隊長が突然の事に唖然としている間に、怪物の胴体の側面から六本の脚が伸び、そのうちの四本が雪積もる地面に杭のように突き刺さる。
立ち上がった怪物は、二階の窓に達するほどの大きさだった。
鎌のような二本の左前足が、手を開くように二つに分かれて隊長に向かって伸びる。
避ける間も無く隊長は怪物の鋏に挟まれてしまった。
骨がまとめて折れたような音と隊長の悲鳴が重なり合う。
怪物は気にする風もなく、そのまま自分の方に寄せると腹を開き、そこに隊長を押し込んでいく。
隊長は跡形もなく腹の口に呑み込まれてしまった。
怪物が獲物を咀嚼する音が聞こえている間、バラライカ達は凍りついたように見ていることしかできなかった。
食事を終えた怪物が新たな獲物を探すように、こっちに近づいてくる。
バラライカは大きく目を見開いて動くことが出来ない。
それは自分が哀れな犠牲者でしかないと、突きつけられているようだった。
絶望の空気を吹き飛ばすような、大きな声が鼓膜を刺激する。
銃声だった。
怪物の胴体に火花が散って動きが止まる。
一人の兵士が迫る怪物に向けて小銃を発射していた。
それに続くように周りの兵士達も銃を構え発砲を開始。
バラライカも、少し遅れて、怪物に向けて持っていたバラライカを向け引き金を引く。
閃光が網膜を灼き、耳を切り裂くような高音と共に弾丸が放たれる。
引き金を引くたびに暴れる銃を押さえつけながら、撃ち続けた。
百発を超える銃弾が怪物に殺到し、水色の甲殻に当たって火花を散らす。
当たるたびに、鐘の音のような音が、銃声に負けないほどの大音量で鳴り渡る。
銃声が止み、引き金を引く乾いた音だけが繰り返される。
全員の銃は弾切れになっていた。
無数の弾丸を喰らった怪物は、紫色の体液を流して地に伏している。
勝った。と誰もが思った。
だから気が大きくなった兵士が、銃で突っついても誰も注意しなかった。
その兵士が腹を挟まれて投げ飛ばされる。
頭から雪に落ちた兵士はそのまま動かなくなった。
代わりに動き出したのは怪物だ。
まるで怒ったように、二本の前足を振り回しながら迫ってくる。
振り回すたび、小さくひしゃげた弾丸がばら撒かれ、熱で落ちたところの雪が溶けていく。
バラライカ達は反撃しようと、再度銃を構え引き金を引くが、弾丸は発射されない。
気が抜けて、新しい弾丸を誰一人装填していなかったのだ。
後悔する間も無く、兵士達は鎌に切り裂かれ貫かれていく。
バラライカは震える手で、缶詰を大きくしたようなマガジンを銃本体に差し込む。
作業を終わらせ構えた時、八人目の兵士が犠牲になっていた。
理由は分からないが、怪物は両鎌を振り上げたまま近づいてこない。
バラライカは怪物に向けて引き金を引きつづける。
円形の弾倉に詰まっていた七〇発の弾丸は数秒で空になった。
しかし怪物は腹を守るように前脚で銃弾を全て防いでいた。
怪物が防御を解いて前脚を振り下ろす。
避ける間も無く、持っていた銃を破壊されてしまう。
後ろに飛び退いたバラライカは背中に焼けるような熱を感じ動きを止める。
前に怪物、後ろには炎の柱。
逃げ場が無くなってしまった。
死を覚悟したバラライカだが、一向に怪物は襲ってこない。
威嚇するように、前足を振り上げるだけだ。
バラライカは怪物の頭部が、自分を見たり、その後ろを見たりを繰り返している。
どうやら燃え盛る炎が気になっているようだ。
火が怖いのかもしれない。そう判断して炎の柱に添うように移動して逃げようとする。
だが怪物は獲物を逃さまいと、一定の距離を保ってついてくる。
背中が長時間炎に近づいているので、だんだんと耐えきれない熱さが迫っていた。
しかし離れようとすれば、前にいる怪物が前脚を振り下ろしてくる。
バラライカは怪物を睨みつけ、ここから抜け出す方法を考える。
倒れた兵士の銃を拾おうとしたか、それに気づいた怪物が鎌で銃を破壊してしまう。
全速力で走って逃げようとも思ったが、六メートルもある巨大から逃げ切れる気はしなかった。
万事休すと思われたその時、背中の炎が爆ぜる。
振り向くと、炎に呑まれる寸前の大きな薪だ。
よく見ると少し違う。
自分の腕より太くて異様に長く、先端がまるで鎌のように鋭く尖っていた。
バラライカはここから抜け出す唯一の力を発見する。
炎の中にある長い鎌を両手で引き抜く。
両手全体に無数の焼けた釘が突き刺さるような激痛に襲われた。
痛みを堪えて引き抜きざま、怪物に向けて振り降ろす。
思いのほか簡単に、怪物の左前脚を切り落とした。
怪物が痛みに慄くように何歩か後退する。
左前脚が上から半分ほど無くなり、断面から炎が上がる。
怪物は火を振り払うように右前脚で自らの左前脚を切り落とした。
バラライカは炎で両手が焼けていくのも構わずに燃え上がる鎌を槍のように構えて突進。
振り下ろされる右前脚に左肩を切り裂かれても止まらずに突き刺す。
何十人も喰らってきたであろう腹の口に深く突き刺した。
大きな口から炎を吐き出しながら暴れる怪物はまるで油に火がついたように一瞬にして燃え上がり火達磨になる。
そして動かなくなり、三階建ての家に達するような火柱と化した。
バラライカは力尽きたようにしゃがみ込み、その炎を見上げながら呟く。
「……家に帰ろう」
数時間後、本隊が町に到着する。
兵達は勢いが収まる気配のない二つの炎の柱の中で気味の悪い怪物二体を発見する。
偵察隊は一人を残して全滅。
唯一バラライカと呼ばれた女性兵士の姿は見当たらない。
怪物に喰われたとも逃げ出したとも言われたが、毎年彼女の母の命日になると、墓に花が備えられていたそうだ。
彼女は兵士達から畏怖を込めてこう呼ばれている。
火の神と。
終戦後、快復したヒデゾウは自身が体験した怪獣トカゲラとの戦いを特撮映画にして、その類稀なる才能から特撮の師匠と呼ばれるようになる。
そして、ドイツに現れた巨人、ロシアに現れた六本足の怪物を映画化する。
晩年ヒデゾウはこう言っていた。
『実際に怪獣に襲われる前に、怪獣という存在がどれだけ恐ろしい存在か知ってもらいたかった。そして僕達の手で怪獣は倒せるんだとも知ってもらいたかったんだ』
数々の怪獣映画を撮ったヒデゾウは一九九九年に永眠。
映画取材の時に出会ったロシア人の妻によると、亡くなる直前まで新しい映画の構想を練っていたそうだ。




