#3 トカゲラ、大口を開く
無数の平行世界には様々な大和が存在する。
数の暴力に蹂躙された大和もいれば、国を勝利に導いた大和もいる。
更には宇宙へ飛び出したり、果ては擬人化した大和も。
なら怪獣と激闘を繰り広げた大和がいることを知っているだろうか……?
戦争終盤、日本が作り出した巨大な戦艦は無用の長物と化していた。
敵軍の、航空機による攻撃の前では、四万メートルも届く自慢の主砲でも敵艦を捉えられない。
最終的に上層部が下した陸地に座礁させて砲台になるという作戦は、戦艦にとって死刑宣告に等しいものであった。
それでも乗組員たちは、この頼もしい威容の軍艦に愛着と誇りを抱いていた。
この艦が姿を見せれば、追い詰められ飢えに苦しむ仲間達を救えると本気で信じていた。
十七歳の丸谷英三もその一人である。
牛乳瓶の底とからかわれる程、度が強いメガネを掛けた彼は、甲板のモップがけをこなしながら、太陽の光を反射する蒼い海に目を奪われていた。
底の見えないほど濃く青い海は、ずっと見ていると、飛び込んで泳ぎたくなる衝動にかられる。
上官に殴られるまで海を見つめていたヒデゾウは、他の者と一緒に双眼鏡で空を見つめる。
空を掛ける鉄の翼を探しているからだ。
正体は、唸りを上げてプロペラを回し鋼鉄の翼を持つ敵軍の飛行機であった。
飛行機の絶対数で負けているヒデゾウたちにとって、敵に見つかるより早く見つけるのが得策。
しかし、空を自由に飛ぶ鋼鉄の鳥たちに対抗できる武器が満足にないことも事実であった。
ヒデゾウは『お願いだからこの辺を飛んでないでくれ』と強く祈り続けていた。
願いが通じたのか、その日は一機も敵の飛行機は飛んでこなかった。
だが、数日前に敵の偵察機と思われる機体が目撃されたのは事実。
乗組員たちは交代で昼も夜も見張り続けている。
一日の仕事が終わり、艦内に戻ろうとしたヒデゾウは視界の端に気になるものを捉えた。
それは大きな水柱であった。
大和の左舷側から数キロ離れた場所で、海中から上空に向かって海水が放たれたのだ。
高さは数十メートルにも達しそうなほど。
敵の砲撃か爆弾かと思ったヒデゾウは、双眼鏡を向けてみるも、船の姿も飛行機の姿もない。
外にいた乗組員も何人か気づいたようだが、結局水柱の正体は掴めなかった。
最後の晩餐で振舞われた汁粉を堪能しながら考えていたが、結局何も思いつかない。
その内、汁粉の甘さと温かさに癒されたヒデゾウは、波で揺れる船の上であるにもかかわらず、熟睡してしまった。
目覚めた原因は幾多の大きな足音と怒号だった。
慌てて起きたせいで、頭の上に置いてあった瓶底メガネが床に落ちる。
同室の兵士達の足で踏み潰される前に何とか取り上げて、顔に掛ける事ができた。
また上官に殴られては叶わんと、素早く身支度を済ませ甲板に上がる。
甲板上では対空戦闘の用意が行われていた。
どうやら敵の飛行機らしき影が近くを通り過ぎたらしい。
敵軍の偵察機と判断し、甲板上では敵を迎え撃つ準備が整いつつあった。
ヒデゾウは自分の担当の対空機銃に向かう。
彼が受け持つのは弾倉の交換手だ。
機銃本体に弁当箱ほどの大きさの弾倉を差し込み、いつでも交換ができるように身構える。
その体勢のまま、十分は過ぎたが何も飛来しない。
まるで巨大な羽虫の羽ばたきのようなエンジン音は、一向に聞こえてこなかった。
偵察機というのは見間違いだったのだろうか。
気が緩みかけていると、上官達が呼ばれて艦橋に向かっていく。
殴られては叶わんと、気を引き締めて待っていると、数分もしないうちに上官は戻ってきてヒデゾウ達にこう告げた。
米軍艦隊が何者かと戦っている。もしかしたら友軍かもしれないのでその場へ向かい確認する。
命令に逆らうことなどはしなかったが、ヒデゾウはじめ多くの兵達は内心こう思っていた。
馬鹿な。米軍に正面切って戦える味方がどこにいるんだ。と。
何者かと米軍艦隊が戦闘中らしい。
ヒデゾウが乗った大和を中心とした艦隊は、その何者かの正体を見極めるために波を大きくかき分けて進む。
不意に乗組員の一人が海面を指差し叫んだ。
見ると、青く美しかった海が黒や赤と混じり合い変色している。
水面に浮かぶ黒い液状のものは日光で所々虹色に反射している。
同時に鼻をつく、まるで長時間揚げ物をした部屋に放り込まれたような異臭。
それは重油であった。
じゃあ赤い色は一体……。
そう思って水面を見ていたヒデゾウはその正体を突き止めて後悔する。
人が、上半身を見せて仰向けに浮かんでいる
服装と顔つきから米軍の兵士のようだ。
大量に血を流し、何か長いものがが腰のあたりから伸びている。
何が起きたか分かっていない顔で水面を漂う米軍の兵士は、まるで食いちぎられたように腰から下がなかった。
ヒデゾウはすぐに目をそらしたが、その光景が焼き付いてしまい、胃袋の中のものが逆流するのを止められなかった。
ひとしきり吐いた後、遠く前方を見ると、米軍艦隊が砲撃している。
だがこちらにではない。
まるで見えない敵と戦っているかのように、辺り構わず撃ちまくっているように見える。
更には爆撃機隊が友軍の近くにも構わず水面に爆撃していた。
潜水艦でもいるのだろうか。大和の甲板で見ていたヒデゾウはそんな事を思いながら目を凝らす。
一隻の米軍の駆逐艦が魚雷を放ちながら、まるで何かから逃げるように旋回する。
その駆逐艦の下から大きな洗濯バサミが飛び出した。
洗濯バサミは駆逐艦を両脇から挟み込むと、鋭い牙を船体に食い込ませる。
そして駆逐艦が下から押し上げられるように持ち上げられた。
米軍と戦っている存在が判明する。灰色の巨大な蜥蜴だったのだ。
顔のところしか見えなかったが、口だけで長さは四十メートルもありそうだ。
ヒデゾウは気づいてしまう。
巨大な蜥蜴の口の付け根に豆電球のような黄色い目があって、それと目が合ってしまったのだ。
蜥蜴のような鋭い牙の生えた口にクジラのように大きな体躯。
それを見たヒデゾウは思わず呟く。
「蜥蜴と鯨の化け物……トカゲラ……」
次は自分が喰われる早く逃げろ。と本能が告げている。
それが通じたのか大和が左に回頭する。
見ると津波がこっちに迫ってくるではないか。
巨大な蜥蜴が新たな獲物を見つけたのだ。
米軍の爆撃機が後を追い、ヒデゾウ達に目掛けて爆弾を投下する。
勿論狙いは大和ではなく、海中を突き進む怪獣に対してだが、
トカゲラはそれを気にする風もなく、どんどんとこちらに近づいてくる。
爆弾が尽きたのか、爆撃機が離れていくと、トカゲラが口を大きく開けた。
真っ赤な口内には沢山の大人の身長と同じくらいの長く鋭い牙が生えていた。
海水を吸引するように喉に入れながら距離を詰めてくる。
大和の回避が間に合わない。
あと少しで噛みつかれる直前、護衛の駆逐艦から魚雷が発射された。
トカゲラはそれに気づいたのか、大きく開けていた口を閉じると、百メートルはありそうな身体をしなやかに動かして魚雷を回避。
そのまま大和の腹の下に潜り込んだ。
同時に大和を襲う横揺れ。
下を見ると、トカゲラの背中にある鋸のような背びれが船体を削っていた。
金属が擦れ合う甲高い音が甲板に響く。
ヒデゾウは付近のものにつかんで落とされないように踏ん張る。
中には揺れに耐えられずに甲板から海面に落ちていくものが何人もいた。
救助する暇がない。腹を削られた大和の内部に海水が侵入し、自ら沈まないようにするので精一杯だった。
上空から轟音が聞こえて仰ぎ見る。
爆装した爆撃機が頭から墜落するような急降下爆撃を始める。
海面のトカゲラに命中するも金属の板が跳ね返すような音が聞こえるだけで決定打にはならないようだ。
爆風で起きた水柱の雨を浴びながら、ヒデゾウは鉄の飛行機とトカゲラの戦いを見つめる。
再び急降下爆撃が開始された。
水中にいるから飛行機のパイロットは反撃されないと油断していたのかもしれない。
しかし、海面から飛び出した大きなムチが振るわれ、避けきれなかった数機が破壊される。
片翼を失った一機が螺旋を描きながら落ちていき、友軍の駆逐艦と激突。
弾薬に引火したのか大爆発を起こし、駆逐艦は物の数秒で炎に包まれた。
すると、下から突き上げるように現れたトカゲラが炎に包まれた駆逐艦に喰らいつき、海中に引き込んでしまう。
これ以上被害が広がるのを懸念してか、米軍の爆撃機隊が高度を上げていく。
しかしヒデゾウ達の上空にとどまっているところを見ると、反撃のチャンスを伺っているようだ。
ヒデゾウの周りでは、友軍の艦隊が大和を守ろうとトカゲラを攻撃している。
だがその行動の甲斐なく、トカゲラによって一隻また一隻と海中に没し、黒と赤の液体で海面を染めていた。
海を見つめていると、突然頭上に影が降り注ぐ。
見上げると大和の長大な主砲が動き出しているではないか。
四つの砲塔は何もない方向に向けられた。
その射線の前に友軍の軽巡洋艦矢矧が現れた。
ヒデゾウはこの時知らなかったが、大和と矢矧では無電が交わされていた。
トカゲラはどうやら大きな音に反応するらしく 、砲撃したり機関全開で逃げようとした船が狙われているらしい。
そのため大和はわざと機関を停止して反撃の機会を待つ。
大和の発射準備完了を知った矢矧は、攻撃を繰り返しながら機関全開でトカゲラを引きつける役目を買って出たのだ。
思惑通り、騒がしい矢矧の後をトカゲラの背びれが追いかけていく。
矢矧が大和の射線上で停止する。
停止した軽巡洋艦にトカゲラが迫るが、まだ大和は撃たない。
必中の時を待っているのだ。
トカゲラの背びれが海中に消える。
ヒデゾウは周りの兵士たちが避難していることにも気付かずに、一部始終を見ていた。
このまま甲板上にいれば死ぬのが分かっていても、彼は石のごとく動くことはない。
大和の主砲が微調整を終えたのか動きを止める。
直後、矢矧の両脇に大きな水柱を上げながら現れた両顎が囮となった軽巡洋艦に食らいつく。
そして自分の手に入れた獲物を周りに見せつけるように海面から矢矧を持ち上げた。
トカゲラの腹部が覗く。
灰色のビーズ状の背中と違い、まるで鯨のように白くて柔らかそうな腹が無防備に射線に入った。
大和はその機を逃さず一斉射撃。
哀れ甲板上にいたヒデゾウは、それだけで人を殺せる主砲発射の衝撃で吹き飛ぶ。
宙を舞いながらもヒデゾウの両目は矢矧に食らいついたトカゲラを映し続ける。
音速を超えた十二発の砲弾は一発も外れることなく腹部に命中。
柔らかな脂肪を貫き、内臓を完膚無きまでに破壊しながら、肉片と共に装甲のような背中を突き破った。
自分に傷を合わせる存在がいるなど思ってもいなかったのか、
トカゲラは驚いたように目を限界まで見開いて咥えていた矢矧を落とす。
噛みちぎられた矢矧は二つに分かれて、トカゲラと一緒に沈んでいく。
勝った! と誰もが思ったのも束の間、何隻もの船を噛み砕いたあの大きな口が現れた。
トカゲラはまだ生きている。
けど、何処か様子がおかしい。
砲撃で三分の一程吹き飛んだ体を苦しげに動かし、まるで酸素を求めるように、大きな口を何度も開閉させている。
トカゲラにトドメを刺したくても、大和を含め艦艇に戦う力は残されていなかった。
空を飛ぶものを除いて……。
上空で攻撃の機会を待っていた米軍の爆撃機隊は今が好機と言わんばかりに急降下。
トカゲラの開いたままの口内に向けて全ての爆弾を投下した。
爆弾は次々と炸裂し、牙と舌を吹き飛ばす。
何発かの爆弾が喉を通り内部で炸裂し、気管と食道を引きちぎる。
もがいていたトカゲラは喉の奥から血を吐き出すと、見えない手に引かれるように海中に沈んでいった。
吹き飛ばされたヒデゾウは甲板の端にいた。
突然腕を引っ張られる。
見ると、数人の兵士が口を動かしながらヒデゾウを引きずるように避難させていく。
砲撃の直後、総員退艦の命令が出ていたのだが、ヒデゾウには届いていなかった。
彼の耳は、衝撃で吹き飛ばされてから黒板を引っ掻くような耳鳴りしか聞こえなかったのだ。
大和を脱出したヒデゾウ達を助けてくれたのは、何年も殺しあっていた米軍だった。
大きな音を発しながら、役目を終えた大和が沈んでいく。
誰に強制されたわけでもなく、日米双方の将兵達は皆静かに敬礼していた。
ヒデゾウは、アメリカの病院の清潔なベッド上で、終戦を迎えた事を知る。
しかしトカゲラ一体を倒しただけで終わりではなかった。
それは、長い戦いの始まりを告げるゴングが鳴ったに過ぎなかったのだ。




