#2 ロシア1日目その2
―1―
観光場所へ向かう地下鉄に乗った二人。
周りにはロシアの人と思われる男女が数人しかおらず空いている。
ユウタは窓側の席で頬杖をついて真っ暗なトンネル内を見ていた。
だがその意識は視界からの情報をシャットダウンしている。
(あのお婆さん。怪我してなくてよかった。けれど気をつけないと、こんなんじゃヒーロー失格だよ)
「ユウタ」
隣のアンヌに呼ばれて意識を現実に戻して振り向く。
「何、母……ヒャン!」
振り向いた途端、両のほっぺをつねられた。
痛みはないが頰の肉を伸ばされたことで変な言葉が出てしまった。
「こーら。いつまでションボリしてるの」
アンヌはお餅を伸ばすようにユウタのほっぺを伸ばしたり縮めたりを繰り返す。
けれど力は入ってないので痛みはない。
「ションボリにゃんて、してにゃいよ」
相変わらず、上手いこと喋れない。
「全身から『僕はヒーロー失格だ』オーラ出てるの」
「そ、そんにゃ〜」
図星なので言い訳する気も失せてしまった。
「もう落ち込むのはおしまい。お婆さんも許してくれたでしょ」
アンヌの指が離れた。残ったのは頰の熱さと爽やかな石鹸のような香りだった。
「うん」
「起こしてしまったことはしょうがない。だから次はそういう事しないって心掛けなさい。分かった?
分からないなら分かるまで、ほっぺたいじくりまわすわよ〜」
アンヌの両指がほっぺに向かって近づいてくる。
「分かったよ。もうウジウジしないよ。これから気をつけます」
「よろしい。ほら着くわよ。旅行沢山楽しもうね」
列車が次第に減速していく。
地下鉄を乗ってアンヌとユウタが初めにやってきたのは赤の広場だ。
―2―
赤の広場。そこは世界遺産に登録されているモスクワ都心部にある広場だ。
「「赤の」というけど、古代スラヴ語だと「美しい」という意味もあるらしいわ」
アンヌは、広場の入り口前でインストールしたガイドブックのアプリを見ながらユウタに教える。
「へぇ。確かに綺麗で凄い大きな公園だね」
「長さは約七百メートルあるらしいわ」
「じゃあ、東京スカイツリーを横倒しにしてもまだ余裕があるんだ」
アンヌが頤に指を当てて考え事をするように上を見る。
「確かにその通りね。あそこに荷物預けて中歩いてみましょう」
二人はスーツケースを預けて広場の中に入る。
世界遺産に登録されているだけあって、沢山の観光客と思われる人達が広場のそこかしこを歩いていた。
広場に設置された銅像を見上げたり、歴史博物館でロシアの歴史を知ったり、大統領官邸を見学したりした。
赤の広場にあるグム百貨店は、日本の百貨店と違い、まるでお祭りムードのように賑わっている。
「ここにいるだけで一日経っちゃうわね。最終日にまた来ましょう」
一通り見て回った後、アンヌは自分の考えをユウタに伝える。
「確かに、ここなら一日中いても飽きが来なそう」
「次の所へ向かう前に、少し小腹を満たしておきましょう」
アンヌが指差したのは、ロシアのローカルフードを売ってるファストフード店だ。
お店には列ができていて少し時間がかかりそうだ。
周りを見ていると、あるお店に興味が湧いてくる。
「母さん。あそこ見てきていい?」
「いいけど。何食べるの?」
「適当に選んでおいてよ」
ユウタはアンヌの返事を待たずに列を飛び出す。
「人とぶつからないでよ」
「分かってる!」
ユウタが見つけたのはホビーショップだ。
完成に一年はかかりそうなほど大きなプラモデルもあれば、日本のアニメのフィギュアなども売っている。
その中で一番気になったのは、女性ヒーローのグッズ売り場で、他の商品に比べて大きなスペースを占めていた。
ユウタの知らないヒーローで、近寄ってよく確認してみる。
「名前は……リム・レギナ」
それは三種の神器を扱える美しき戦女神。
フィギュアは勿論だが、女神の神器のおもちゃも売っている。
子供向けかと思ったが、中々クオリティが高く、高校生のユウタの物欲を刺激してくる。
「この炎を出せそうな剣は……」
オーパスのネットでリム・レギナの神器を検索。
《炎の曲刀プラシュコー》
魔族を焼き払う炎の刀身を持つ剣で、愛と勇気を表している。
《青き海の盾モシチート》
名誉と純潔性を表し、海のように全ての攻撃を受け止め悪を呑み込む盾だ。
(これ、男女兼用らしいけど……)
ユウタが見ているのは翼の生えた白い鎧だ。
《天の鎧ニェスペーヒ》
高貴と率直を形にしたような女神を守る純白の鎧で、背中の翼は空だけでなく、天界や冥界、宇宙にまで行き来することも可能。
両手で持ってみると意外と軽い。
しかし、女性が着用するので、括れた腰と胸の膨らみにどうしても目が行ってしまう。
(……大きい)
背後から人が近づく気配がしたので、慌てない風を装って素早く元の場所に戻した。
「ふう……」
一つ息を吐き、今度はフィギュアに目を移す。
変身前のボロを纏ったフィギュアもあるが、ここはやはり、変身後の煌びやかな姿のフィギュアが気になる。
肩まで伸びた金髪はウェーブがかかっていて、少しタレ目で赤い唇は笑みの形になっていて、とても優しそうだ。
表情だけ見ると、とても母性溢れていて、戦う姿はまるで想像できない。
「……フィギュア買おうかな」
金額を確認すると、一ヶ月のお小遣いと引き換えに買える事が分かった。
「コレ買ったら他の買えなくなっちゃう。けど日本じゃ売ってないからしょうがないよね」
心の中ではすでに購入が決定しているので、自分へ言い訳していると、後ろから足音がこっちにやってくる。
ユウタの隣で立ち止まったのはロシア人だ。しかも……
(すっごい綺麗)
リム・レギナに負けるとも劣らない綺麗な金色の髪は前髪を隠すように伸ばしたショートカットで、ボーイッシュな雰囲気を醸し出している。
(あれ?)
何となく違和感を感じたので、フィギュアを見らふりをしながら横目で窺う。
透けるような白い肌に、切れ長のグレーの瞳は確かに女の子だ。
しかし服装は半袖の白いサマーニットに、スカイブルーの七分丈パンツ。
履いている靴はショートブーツより短い革のチャッカブーツだ。
(男の子みたいな服装だけど、男装している女の子なのかな?)
そう考えていると、隣に立つ人物が口を開く。
「こんな架空の存在よりママの方が百倍みんなの役に立ってるのに」
ユウタが観光客だからロシア語が分からないと判断したのか、中々大きな独り言だ。
聞きたくはなかったが耳を塞ぐわけにもいかず一字一句鼓膜を震わせてくる。
隣の人物はチラリとユウタの方を見てこんな事を言い放った。
「ヒーローなんて、観光客のお土産くらいの価値しかないのにな!」
少女のような高い声音だが口調は男っぽいところから、どうやらとても綺麗な少年のようだ。
ユウタの事などまるで気づいていないかのように、そのまま回れ右して去って行ってしまった。
残されたユウタは持っていたフィギュアをゆっくりと元の場所に戻してお店を後にする。
(またヒーロー批判されちゃった)
真顔でアンナの元に戻ったが、心は涙で溺れそうだった。
―3―
「お帰り。何か見つかった?」
「うん。欲しいフィギュアあったんだけど……」
「誰かに悪口でも言われたの?」
テーブルで座って待っていたアンヌがそう聞いてくる。
まさかの当たらずも遠からずな予測である。
「いや、今月のお小遣いと引き換えになるから迷ってるんだ」
ロシアの少年の事は言わず、もう一つの理由をアンヌに話す。
「そう。でも最終日にお土産買いに行くからその時にまた考えましょう……どうしても欲しかったらお母さん出してあげてもいいわよ」
「……ありがとう。それで何買ってきたの?」
気分を変えるために買ってきてもらった軽食に話題を変える。
「これよ。美味しそうでしょ?」
現れたのは、丸い形とフットボールのような形をしたカレーパンだ。
「カレーパン? でも揚げてないね」
空気を含んだ柔らかい生地を持ってみると、ずっしりしていて、たっぷり具が入っていそうだ。
匂いを嗅いでみるとカレーの匂いはせず、香ばしい小麦の香りがするだけ。
勿論それだけでお腹は空いてくるが、
「食べてみなさい」
勧められて丸形のカレーパン?を食べてみる。
「甘っ! 何これ、イチゴジャム⁈」
見ると、赤いジャムが中につまっている。
「ふふふ。正解」
「カレーパンじゃないの」
「お母さんはカレーパンなんて一言も言ってないわよ」
アンヌはフットボール型のパンを持つと二つに割って中身を見せてくれる。
「これはピロシキって料理なの。ユウタの食べたジャム入りの菓子パンや、お惣菜パンもあるのよ」
半分に割ったピロシキを貰った。中には肉汁溢れる牛肉と卵が入っている。
アンヌは持った半分を口に運ぶ。
「ん。美味しい。食べないと冷めちゃうわよ」
「いただきます」
一口食べると、牛肉の旨味が溢れ卵が脂っこさを緩和してくれて、何個でも食べれそうだ。
ひとつ完食してから、食べかけのイチゴジャムが入ったピロシキも食べる。
ボリュームたっぷりのジャムパンという感じで、変に奇抜な味じゃなくて、日本のコンビニパンを食べているような安心感を覚えた。
「ごちそうさまでした」
惣菜ピロシキ三個とジャム入りピロシキ一個を完食。
二人はゴミを片付ける為に、テーブルから立ち上がる。
「母さん。ピロシキ、家でも作れないかな」
「あら気に入ったの。いいわ。今度調べてみるわね」
ピロシキの美味しさのお陰で、さっきの嫌な事は何処かへ吹き飛んでしまうのだった。
―4―
ユウタとアンヌは都心部にある赤の広場から移動し、西の公園の凱旋門を潜り抜けた。
防衛戦争勝利公園。
ロシアの歴史に刻まれた様々な戦争の記憶と記録が残された場所である。
防衛戦争とは、日本では怪獣守戦と呼ばれる、一九四五年に突如現れた怪獣との戦争の事だ。
蟹と蟷螂を混ぜ合わせたような怪獣バガーブとの初遭遇からしばらくロシアは他国と協力せずに戦っていた。
怪獣が敵国の生物兵器だと信じていたからだ。
日本、アメリカ、ドイツ、イギリスが連合軍を設立してもロシアは頑なに拒否。
数年間もの間、説得を聞き入れず、国民すべてを動員して怪獣を迎え撃っていた。
しかし、多大な人的被害によって国力は大きく消耗。
怪獣の攻撃によって首都が蹂躙されそうになった時、駆けつけた連合軍の応援によって撃退する事に成功した。
ロシア政府は自らの失敗に気づき、連合軍の参加を決意したのだ。
この公園では戦争で亡くなった人々の名が刻まれた鎮魂のモニュメントがあり、怪獣と戦ってきた兵器が展示されている。
中には百年以上前に活躍した兵器も……。
「母さん! 戦車走ってるよ」
勝利公園に着くなり、一台の戦車がエンジン音を響かせている。
観光客がオーパスのカメラを向けているのはカクカクした車体に幅広の履帯。
角ばった砲塔の上にはネズミの耳のようにハッチが開いている。
T-34という戦車だ。
戦車はマフラーから黒い煙を吐き出しながら走り出し、地面に轍を作り、勢いよく泥に飛び込んでいく。
ユウタもその雄姿を逃すまいとオーパスのカメラのシャッターを切りまくる。
一通り走って空砲を発射したT-34は、家路につくように走り去ってしまった。
終わったのを見てアンヌが話しかけてくる。
「お母さんよく分からないのだけれど、さっきの戦車ってそんなに珍しいものなの」
「あの戦車はね。今から百年以上前に動いていた戦車なんだよ」
「つまり、レプリカじゃなくて本物?」
「そう。二十年前に瓦礫の中から発見されて、塗装とか細かい部品は新品だけどエンジンとかは整備したら普通に動いたらしいよ」
「凄い生命力……いえ凄い物持ちがいい戦車なのね」
理由を聞いたアンヌは納得したように二、三度頷いた。
「お母さんも見習って、今使ってるフライパン百年は使ってみせるわ」
と、ボケなのか本気なのか分からない言葉が帰ってくるのだった。
戦車ショーを見た後、公園にある博物館を見学していると、そこに見慣れたヒーローの姿を見つける。
「父さんだ」
父であり、世界を救ったヒーロー、スティール・オブ・ジャスティスの銅像が館内に置かれていた。
「ええ。お父さんね」
どこか懐かしそうな声音のアンヌは、銅像周囲に展示されているパネルに目を落としている。
見てみると、当時の首相と固く握手する変身前の父の姿があった。
アンヌは父に触れるように写真を指でなぞる。
ユウタは邪魔しちゃいけないような気がして、少し距離をとって父の勇姿を見上げるのだった。
―5―
防衛戦争勝利公園を出た時には、空は暗くなろうとしていた。
預けていた荷物を受け取り、二人は滞在中の宿に向かうことにした。
「疲れた?」
欠伸を噛み殺したところを見られてしまった。
「うん。ちょっと眠い」
「今日は飛行機降りてから歩き回ったから疲れちゃったのね。ホテル着いたらご飯食べてお風呂入って寝ちゃいましょう」
「うん。そうするよ。ふぁ〜〜あ」
遂に欠伸が我慢できなくなってしまった。
(早くホテルで落ち着きたい)
しかし、そんな願いは無残に打ち砕かれてしまう。
「ええっ! 部屋がない⁈」
ホテルのラウンジでオレンジジュースを頼んで待っていたユウタは大声を出して立ち上がる。
「しー」
アンヌは指を立てた。
周りの人がこっちを見ていることに気づいて、慌てて口を抑える。
「取り敢えず座って」
勧められるままに椅子に座る。
「ホテル間違えたって事?」
隣に座ったアンヌは首を左右に振りながら、周りに迷惑にならない声量で話し始める。
「聞いて。ホテルは合ってるんだけど……お母さん間違えて来月に予約入れちゃったみたいなの」
「えっ、日にちを間違えちゃったの?」
アンヌは申し訳なさそうに頷く。
「一部屋くらい空き部屋はないの。僕ベッド一つでもいいよ」
「ごめんね……満室らしいのよ」
更に近くのホテルも空きがないことを伝えられてしまった。
「そんなぁ……」
「それでね。空港の宿泊所なら利用できるらしいの。今日はそこで泊まって明日の朝ホテル探すって事で、いいかしら?」
一瞬、駄々をこねたくもなったが、アンヌの瞳から彼女自身も堪えているのが伝わり、責める気になれなかった。
「いいよ。じゃあ早く行こう」
「ええ。ごめんね」
「もう謝らなくていいから! ションボリしないって言ったのは母さんだよ」
ユウタは明るく勤めると、率先してホテルを後にした。
「ユウタ。明日はお母さん貯金使って、一番良いホテルに泊まろうね」
ドモジェドボ空港に向かうためアエロエクスプレスの駅に向かっていると、アンヌがそう宣言した。
「出た。お母さん貯金」
お母さん貯金とは、専業主婦のアンヌだけが使えるお金の事だ。
いつも家事を頑張るアンヌが何処からともなく出してくるお金で、その出所は本人しか知らない。
アンヌは働いていないが、誕生日もクリスマスも毎年パーティしてくれて欠かさずプレゼントもくれた。
恐らくその、お母さん貯金から出してくれているのだろう。
だからひもじい思いはしたことなかった。
「そんな奮発して大丈夫なの」
「お母さん貯金はこういう時の為にあるのだから心配しないの」
「でも、空港の宿泊所ってどんなところだろうね。逆に気になってきたよ」
二人でそんな会話をしていると声をかけられた。
「あら、あなた達……」
嗄れた老婆の声。でも二人共聞いたことのある声。
振り向くと、白いショールに花柄ワンピースの可愛らしいお婆ちゃんがいた。
「貴女は……」
アンヌも見知った人物に再会して、思わずといった様子で口に手を当てる。
「また会ったわね。こんばんは」
「「今晩は」」
二人で同時に挨拶を返す。
先程ぶつかってしまった、あのお婆さんだ。
「先程は息子が失礼しました」
「すいませんでした」
ユウタとアンヌは再び謝罪。
「もう、謝らなくていいのよ。私は全然気にしてないから」
お婆さんは笑顔で二人の頭を上げさせた。
「ところで沢山荷物持ってるみたいだけど何処行くの?
お節介かもしれないけれど、ホテルに荷物置いてきた方がいいんじゃない?」
「それがですね……」
アンヌはホテルの予約を間違えてしまったことを話した。
「まあ。それは大変ね。宿泊場所は見つかったの」
「はい。空港の宿泊所で一泊させてもらう予定です」
それを聞いたお婆さんはこんな提案をしてきた。
「ねえ。良かったら私の家に来ない?」
「えっ、でも突然お邪魔しては失礼じゃ」
お婆さんは右手を顔の前で振る。
「そんなこと全然。むしろ色々なお話聞かせてもらいたいわ。もちろん貴方達が良ければだけど」
「どうするユウタ」
アンヌが質問してきた。どうやら彼女は行く事に賛成のようだ。
「僕も、それで構わないよ」
ほぼ初対面の人とはいえ優しそうなお婆さん。
何か悪いことを考えてはいないだろう。
(もし事件に巻き込まれたら、僕が母さんを守ればいい話だよね)
「じゃあお世話になります」
アンヌが謝罪のためでなく、お礼の気持ちで頭を下げる。
「決まりね。家には歩いて数分くらいで着くから。良かったわ。さっきの買い物で夕飯の材料買い忘れて」
―6―
「階段急だから気をつけて」
お婆さんはそう言ってハシゴみたいに垂直な階段を苦もなく登っていく。
アンヌに続いてユウタも登っていくが、大きなスーツケースを持ち上げて階段を上がったので、両腕が筋肉痛のような痛みを訴えてきた。
板チョコのようにぎゅうぎゅう詰めの窓が特徴的な五階建ての集合住宅。
その最上階がお婆さんの部屋のようだ。
「ちょっと狭いけど、どうぞ入って」
ドアを開けて手招きしてくれる。
「お邪魔します。ほらユウタ」
先に入ったアンヌがドアを支えている間、ユウタも室内へ入る。
「おじゃまします」
中に入ると、まっすぐ廊下が続き、左右の壁にはドアが二つずつ。
突き当たりにもドアがあり、お婆さんはそこに入っていった。
半開きのドアから見えるのはテーブルと椅子、どうやら突き当たりの部屋はリビングのようだ。
扉を閉めて靴を脱ぐと左側に大きな姿見があった。
天然パーマの黒髪が一房飛び出ていたので、すぐに手で押さえつける。
「説明するの忘れてたわ。もう私も歳ねー」
老婆は廊下に出てきて各部屋の説明を始める。
「左側の玄関側に近いドアはトイレとバスルーム。その隣は私の部屋」
次に右手側の部屋の説明。
「反対側の玄関に近い部屋は孫の部屋で、二人の泊まる部屋はその隣なんだけど」
老婆は右手側奥の部屋のドアを開ける。
「ここは私の娘夫婦の部屋でね。今は誰も使ってないの。こんな所で良いかしら?」
「全然、充分です。ありがとうございます」
アンヌは何も尋ねかったが、ユウタはここの部屋の主がどこに行ってしまったのか、少し気になる。
(でも、聞いたら失礼だよね)
「クローゼットやベッドは自由に使って。今お夕飯作るから。出来るまで寛いでいてね」
「手伝います」
アンヌが部屋を出ようとすると、お婆さんは掌で止める。
「大丈夫よ。ゆっくりしていて。ね?」
その笑顔にアンヌは足を止めた。
「……そうさせてもらいます」
そんなやりとりをしている時、ユウタはベッドに腰掛けてこう思っていた。
(ベッド、一つしかない)
―7―
リビングに呼ばれ、テーブルに座ったユウタとアンヌに振る舞われたのは、高さ二〇センチはありそうなホットケーキだった。
息を吸うたびに、ほんのりと甘い香りと濃厚なバターの香りが飛び込んでくる。
けれども、フォークやナイフは見当たらず、周りにはイクラやサーモン。
チーズやサワークリームにジャム。
「これはブルヌイといってね。一枚とって好きな具を巻いて食べるのよ」
老婆が説明しながら、山のように積んだブルヌイの一枚をとって、イクラとサーモンをクレープのように巻いて食べる。
「自分で作ってなんだけど美味しい。さあ二人も食べて食べて」
二人も老婆の食べ方を習って、色々な具材を混ぜて食べる。
「美味しい」
アンヌが口を覆いながら素直な感想を述べる。
ユウタも一口食べてみる。生地が薄く、味付けもシンプルな為どんな具材も合いそうで、何枚何十枚も食べれそうだ。
「坊や。どう、美味しい?」
「はい。とってもおいしいです!」
ユウタの感想を聞いたお婆さんは嬉しそうに顔をくちゃくちゃにする。
「沢山食べて。この前のお祭りで買った材料が余ってるから追加もできるからね」
「ありがとうございます」
ユウタは一枚食べるたびに別の具材を巻いて食べる。特に気に入ったのがジャムだった。
ジャムの果物の甘さと、ブルヌイに塗られたバターの風味が合わさり、全く飽きが来ない。
頬袋に貯めるリスのようなユウタの姿を見て、母は勿論、お婆さんも優しく微笑んでいた。
テーブルには四人目のお皿も用意されていたが、食べ終わっても誰も来ることはなかった。
―8―
「はいどうぞ」
夕食後、老婆は二人にロシアンティーを振舞ってくれた。
「良い香り。頂きます」
アンヌが香りを楽しんでから一口飲む。
「はぁ……ホッとします」
ユウタも湯気の立つロシアンティーに口をつける。
「ん!」
香りから想像できない濃厚な茶葉の味に、ちょっとビックリしてしまう。
「苦いと感じたら、そのジャムを舐めてから飲んでみて」
老婆のアドバイスに従い、イチゴのジャムを舐めてから飲んでみる
甘酸っぱい酸味が広がった口の状態でお茶を飲むと、苦味が薄れ、爽やかな甘さが喉から全身に伝わっていく。
「ほうっ」
温かいお茶を飲むと、身体の緊張がほぐれていくように感じられた。
ロシアンティーを飲んでいたお婆さんが、何か思いついたように手を叩く。
「いけない。すっかり忘れてたわ。自己紹介してなかったわね。私の名前はポリーナ・アルチョモヴィナ ・メドベージェワよ」
(呪文みたい……なんて呼べばいいんだろう?)
ユウタはお茶を飲むふりをして考える。
解決策はアンヌが出してくれた。
「私はホシゾラアンヌといいます。今日はありがとうございました。ポリーナさん。それでこの子が息子の――」
「はい。えっと、ホシゾラユウタです。泊めてくれて、ありがとうございます。ポリーナさん」
「アンヌさんにユウタ君ね。ところでお二人はどちらから? 中国かしら?」
「いいえ。私達は日本から来ました」
「あらそうなの。中国からの観光客が多いからてっきり。
それにしても二人共ロシア語すごいお上手ね。ロシアに住んでいた事があるのかしら」
「母さんと二人で今回の旅行の為に勉強したんです」
「まあ。偉いわね」
「えへへ。ありがとうございます」
二人がロシア語を理解できて言葉を喋れるのにはこんな理由があった。
―9―
旅行にいく数日前。
「母さん。翻訳アプリ入れた?」
海外旅行に行く為に必須ともいえる翻訳アプリ。
これがあれば、何処へ行ってもコミニュケーションが取れる優れものだ。
でもアンヌは首を横に降る。
「入れてないの。何で?」
「必要ないからよ」
「でもロシア語分からないんだけど……」
ニュースとかで時々ロシア語が流れるが、字幕がなければチンプンカンプンである。
「それは意識が字幕に行っているからよ。字幕じゃなく音声に意識を集中させるの」
アンヌは自分の耳を人差し指で示す。
「そうすると耳に入ってくる言葉が日本語になっていくわ」
「それ出来たら苦労しないよ」
「出来るわよ。お父さんもお母さんもそうやって地球の人達と交流してきたのよ」
ユウタはアンヌが地球人とは違う存在である事を思い出すと同時に、自分の正体も思い出した。
「つまり、GN星人の僕にも出来るって事」
「その通り。じゃあ当日までに練習しておきましょうか」
アンヌが提案した方法は、今まで観た番組を全てロシア語の音声に変換するというものだ。
勿論字幕もロシア語。
一見すると辛そうだが、好きな番組で練習したおかげで、特に嫌になることもなく、旅行に行く前日にはロシア語が理解できるようになって自分でも驚いてしまう。
更に驚くべきことに、自身では日本語を喋っているだけなのに、相手の耳にはロシア語になって変換されていた。
だから二人はロシアに来ても言葉の壁にぶつかる事はなかったのだ。
―10―
「そんな短期間に話せるようになるなんて、ユウタ君は頭がいいのね」
「いえ! そんな事ないですよ」
「自慢の息子さんね」
「ええ。とてもいい子なんです」
アンヌにそう評されて、ユウタの耳が真っ赤になる。
ふと見ると、ポリーナは隣の席に目を向けていた。
置かれたロシアンティーはすっかり冷め切ってしまっていた。
そこで一度会話が途切れ、リビングに静寂が訪れる。
不意に玄関が開く音で静けさが破られた。
「あの子、帰ってきたみたい。ちょっと失礼するわね」
ポリーナは立ち上がりリビングのドアを開けると、帰ってきた人物を出迎えに行った。
リビングのドアは閉まってしまい、帰ってきた相手は見えない。
しかし壁が薄いせいか、途切れ途切れの話し声が聞こえてくる。
「お帰り……今お客様……ね。挨拶して……」
「やだよ。俺……るからもう寝る」
全部は聞こえなかったが『やだよ』だけはハッキリと聞き取れてしまった。
リビングに入ってきたのはポリーナだけであった。
「ごめんなさいね。孫帰ってきたんだけど、ちょっと疲れてるみたいで。また明日改めて紹介するでもいいかしら?」
「ええ。それで構いません。私達もそろそろ部屋に行きましょうか」
アンヌに言われて部屋の時計を見ると、時刻は夜十一時を回っていた。
「おそくまで付き合ってくれてありがとうね。ゆっくり休んで」
「はい。失礼します。いきましょうユウタ」
「うん。ポリーナさんお休みなさい」
「はい。お休みなさい」
ユウタは部屋に戻る前に帰ってきた孫の部屋の扉を見る。
しかし中の人が出て来ることはなかった。
「今日はもう寝ましょう」
部屋に戻ると、ベッドに腰掛けたアンヌが、おもむろに服を脱ぎ出す。
肉付きが良いのに、引き締まったお腹が見えたところでユウタは両手で目を覆う。
「母さん。お腹、隠して隠して!」
「あらあら。ごめんね」
ユウタは、家で使っているパジャマに着替え、アンヌと一緒に一つのベッドに入る。
最初は母と一つの布団で寝るなんて「恥ずかしくて無理」と思ったが、目を閉じて三秒で深い眠りにつくのだった。




