#1 ロシア1日目
―1―
「わあ〜」
ふんわりとした黒髪が特徴的な星空勇太は、黒い瞳で同じ高度にある昼過ぎの空を見る。
窓にくっつかんばかりに顔をつけ、飽きることなく外を見続けていた。
大小様々な雲が気持ち良さそうに水色の海を泳いでいる。
緑のシャツの上に赤チェックのネルシャツを着たユウタは、ある雲を指差す。
「あ、あの雲見て、母さん!コッペパンみたいだよ」
窓から顔を引き剥がし、隣に座る安塗に勢いよく顔を向けた。
赤茶のポニーテールを揺らしながら母は首を向ける。
「どれ? 本当ね。ジャムとか塗ったら美味しそう」
ボーダーのシャツの上に淡いグレーのパーカーを羽織ったアンヌが、黒い瞳で窓を見ながらそう言った。
「そうだね。あっ……」
ユウタは空腹を覚えるも、お腹の音は抑えきれなかった。
隣でアンヌが口元に手を当てて笑いを堪える。
「聞こえた?」
ユウタの小さな問いに、母は微笑みながらも頷く。
「さっきアナウンスがあったから、そろそろお昼が運ばれてくる筈……ほら来たわよ」
アンヌが指を指す。
視線を追うと、黒い制服を着た女性がワゴンを押して現れた。
一列ずつ止まりながら、一人一人にトレーを渡している。
ユウタとアンヌが座る列にやってきた。
スムーズにワゴンから出されたトレーをアンヌは受け取る。
首にスカーフを巻いた女性がスマイルを浮かべてユウタに話しかけてきた。
「どうぞ」
母より若く、共に戦うサヤトより少し年上に見えた。
近くに来て視線を向けられただけで、耳が赤くなるのを感じる。
子供を見守るような笑顔を向けながらユウタに昼食の載ったトレーを手渡してくれる。
「あ、ありがとうございます」
受け取ると、蓋がされた容器から微かなスパイスの香り。
お腹がならないように腹筋を引き締める。
これで終わりかと思ったが、女性は立ち去らずに話しかけてきた。
「お飲み物は何になさいますか?」
ドリンクを選ぶのを思い出し、慌ててメニューを開く。
「え、えっと! ミッ! ミネラルウォーターをください」
焦りすぎて思わず「ミッ」のところで噛んでしまった。
「はい。ミネラルウォーターですね。どうぞ」
制服の女性は笑顔を崩さずに、よく冷えたミネラルウォーターを渡してくれた。
「ご家族で旅行ですか?」
アンヌが女性の質問に答える。
「ええ。ゴールデンウィークを利用して、親子水入らずで旅行をしようと思いまして」
本当の事なのでユウタも小さく頷いた。
「仲良しで良いですね。素敵な空の旅を」
「ありがとう」
女性は終始笑顔のまま、頭を下げて二人の元から離れていく。
「はぁー」
ユウタは緊張が解け、思わず大きな息を吐いた。
「ふふ。さあ、お昼食べましょうか」
「うん」
容器のフタを開けると、スパイスの香りから予想した通りカレーだった。
アンヌもフタを開けたので、更に濃厚なスパイスによって空腹が増強され、またお腹が鳴った。
「あらあら。朝ごはん早かったからね。早速食べましょう。いただきます」
「いただきます」
スプーンでご飯とカレーを一緒にして口に運ぶ。
白いご飯の甘みとカレー旨味と辛さが口の中で混ざり合う。
「んっ。おいしい〜」
出てくる言葉は、これしかなかった。
「本当ね」
ユウタはアンヌの優しげな視線に気づく事なく、一気に機内食を平らげる。
「ふう。ごちそうさまでした」
食べ終えたユウタは、ミネラルウォーターを一気に飲んで口の中をサッパリさせる。
まだアンヌは半分ほど残っている。
「もう食べたの。早いわね。足りた? お母さんの食べる?」
「大丈夫だよ!」
だが、アンヌには本心を見抜かれていたようだ。
「すいません」
アンヌは、ちょうど通りかかった先程の女性を呼び止める。
「はい。如何致しました」
「あの、お代わりできますか」
「はい大丈夫ですよ。同じ物でよろしいですか」
アンヌはカレーを受け取る。
「ありがとう。はいユウタ」
「ありがとう母さん」
「お礼は、お母さんにじゃないでしょ」
指摘され、恥ずかしさで目を逸らすのを堪えながら改めてお礼を言う。
「ありがとうございます」
「いいえ。余った物なので遠慮しないで食べてね」
「はい……あとアイスクリーム貰っていいですか」
今逃すと、頼まないと思い早口で追加注文した。
「ええ。今用意しますね」
「よく言えました。えらいえらい」
アンヌは褒めながら息子の頭を撫でる。
「母さん。僕高校生だから」
恥ずかしがるも、頭を撫でられて嫌な気はしなかった。
ユウタは二杯目のカレーとデザートのアイスクリームを平らげ、満腹になったお腹をさすりながら窓の外を見る。
日光で白く輝いた雲海の上を滑るように目的地に向かって飛んでいく。
暖かい五月。ユウタは北の空を飛んでいた。
―2―
二人が乗っているのはフリフンV という旅客機だ。
オランダ製で、名前の通り上から見ると、主翼と一体化したV字型。
そして日本製の電動エンジンにより、長い航続距離と静粛性を誇る機体だ。
なので、乗っていても全く無音で振動も感じず、窓がなければ動いているかも分からないくらいだ。
エンジンの性能も上がった事で、以前なら日本から十時間かかる場所も二時間短縮することに成功していた。
因みに日本では非公式な愛称としてビートルと呼ばれている。
戦い以外で初めて空を飛ぶユウタは、ずっと窓の外の景色を眺めていたが……。
「ふわぁ〜あ、あふっ」
お腹が満たされたおかげで、大きな欠伸をしてしまう。
「朝早かったから眠くなっちゃったのね。寝てもいいわよ。お母さん起こしてあげるから」
「うん。じゃあちょっと寝る」
手渡された毛布を掛けて瞼を閉じると、すぐに周りの音は聞こえなくなっていく。
ユウタはここに来るまでの経緯を夢に見る。
―3―
「お帰りユウタ。そうだ今度の連休に旅行に行くわよ」
ある日学校から帰ると、アンヌが開口一番にこう言った。
「えっ? 旅行に行く?」
おうむ返ししてしまった。
「そう。以前懸賞でチケット当てたって言ったでしょ」
「ああ。そういえば……」
ボナモールに閉じ込められた前に聞いた話だったので、今の今まで忘れていた。
「チケットがあるから無料でいけるんだけど、その代わり使える期限が短いの。だから今度のゴールデンウィークに行く事に決めたのよ」
「でも、怪獣の出現に備えないと……」
地球を狙う存在が現れた場合、変身して立ち向かうのが今や当たり前になっている。
その自分が旅行に行っていいのかと思った。
「大丈夫。CEFのゲンブ隊長さんにはもう許可は貰ったわ。よっぽどのことがない限りは向こうで対処してもらうことになってるから」
「早っ!」
なんでアンヌがゲンブの連絡先を知っていて、しかも説得できるのか謎だったが、嘘を言っている雰囲気ではなさそうだった。
そこでユウタは思い出す。
「じゃあ、フワリ姉やホシニャンとも一緒に行くんだね」
フワリやホシニャン達と一緒に初めての海外旅行。
想像しただけで、身体の中が楽しい期待で温かくなってくる。
けれどアンヌは首を横に振った。
「ううん。今回の旅行はお母さんと二人よ。ホシニャンはフワリちゃんのところに預けるつもり。
ホシニャンには話してあるから、後はフワリちゃんに許可を貰わないと。
もう帰ってきてるかしら?」
「多分」
一緒に帰ってきたので家にいるはずだ。
「そう。じゃあ早速……」
アンヌはシャツにデニム、その上にエプロンを着けたいつもの格好で家を出ると、数分で戻ってきた。
「フワリちゃん。オッケーしてくれたわ」
「……それは、良かったね」
いつも以上に主導権を握られているような気がするユウタ。
そしてそのまま事件が起きる事なく旅行当日を迎え、親子で羽田空港を飛び立ったのだ。
―4―
「……タ、ユウタ。ほら起きて」
母の声で目を覚ます。
「ん? もう朝……?」
左側から差し込む日差しからそう思うが、いつものベットよりも寝心地が少し固く感じる。
「寝ぼけてないの。飛行機の中よ」
瞼を開けると、前には整列するように並ぶ椅子と日差しが差し込む窓。
そこで自分が雲と同じ高度にいる事を認識すると同時に、飛行機に乗っていた事を思い出す。
「起きた? そろそろ空港に到着よ」
アンヌの声と同時に女性の機内アナウンスが流れてくる。
『こちらは機長です。当機は定刻通りドモジェドボ空港に到着します』
「ほら到着ですって。毛布貸して。トイレ大丈夫」
「行ってくる」
ユウタはシートベルトを外してトイレを済ませて―幸いなことに空いていた―戻ると、しっかりとシートベルトを締めた。
窓を見ると、クロワッサンに似た雲を見つけた。
(まだお腹空いてるのかな)
目でクロワッサンを追っていると、どんどん上昇し、やがて窓から見えなくなった。
それは飛行機が着陸する為に高度を下げている事を意味していた。
(楽しい旅行になるといいなぁ。後、せめてゴールデンウィーク中は平和でいてください)
青空を見ながら本気で願うのだった。
―5―
V型の旅客機は着陸の振動を全く感じさせることなく空港に降り立った。
「母さん。到着したね。僕荷物取るよ」
上の棚にしまった荷物を取ろうとすると、アンヌに止められる。
「焦らないの」
フリフンV が完全に停止すると同時に、乗客が一斉に立ち上がり荷物を取っていく。
無数の手が荷物に殺到する姿に圧倒され、ちょっと涙目で見上げるだけのユウタ。
「ほらね。焦って取ろうとしたら吹き飛ばされてたかもしれないわ」
アンヌが支えてくれるように両肩に手を置いてくれる。
「そ、そうだね」
見ていると、大分人の手が少なくなってきた。
「そろそろ荷物取りましょう」
アンヌが先に立ち上がり荷物を取り出し始めたので、ユウタも続いて立ち上がった。
「はい。ユウタの荷物」
「ありがとう」
通学にも使う愛用のリュックを受け取り、身体の前に持つ。
アンヌも旅行用のリュックを持った。
「じゃあ降りましょう」
アンヌを先頭に飛行機の降り口へ。
そこではお揃いの制服にスカーフを巻いたキャビンアテンダント達が見送りをしてくれる。
ユウタは、先程お昼ご飯を渡してくれた女性と目が合う。
女性はユウタに気づくと笑顔のまま小さく手を振ってくれた。
顔が赤くしながら会釈したユウタは、フリフンV のタラップを降りた。
アンヌはグリーンのパンプスで、ユウタは黒のスニーカーで始めてロシアの大地に足を踏み入れる。
まずは入国審査の長蛇の列に並ぶ。ここで許可が降りなければ入る事は出来ない。
アンヌとは別々の列になってしまった。一人でできるか不安である。
(でも、パスポートと入国ビザ見せるだけだから。楽勝楽勝)
そうやって気合を入れている間に、前の人達が癒されたような笑顔で離れていくことに気づかなかった。
自分の番になり対面したのは強面な係員だ。
「パスポート」
係員は机を見たまま、ロシア語で短く告げてきた。
悪い事はしてないけれど、少し焦りながらオーパスを取り出し、インストールしたパスポートを見せた。
係員から滞在の目的や滞在先を質問されたので、正直に答える。
視線を下げて待っているが、中々パスポートは返ってこない。もう一時間もここにいるような気分になってくる。
すると新たな視線に気づく。
係員は未だにパスポートと睨めっこしている。
向けられる視線は正面からではなく、左側の机の上からだった。
ユウタは正体を知って思わず声を出しそうになる。
机の上にパンのように座り込む一匹の猫がいたのだ。
宝石のような青い瞳は照明の光を反射して輝き、青みがかった黒い毛並みは手入れされて艶めいている。
ロシアンブルーはユウタと目が合うと、係員の方に小さく、本当に小さく鳴いた。
同時に係員がパスポートを返してくる。
「問題なし」
その一言で終わりとばかりに、係員は後ろの人を呼ぶ。
ロシアンブルーが「もう言っていいのよ」と言わんばかりに尻尾を左右に振る。
ユウタは帰ってきたオーパスをしまい、その場を後にした。
机に鎮座する女王はすでにユウタの事を忘れてしまったかのように、次の人に青い瞳を向けるのだった。
―6―
空港のターミナルビルでユウタとアンヌは旅客機に預けた荷物が戻ってくるのを待っていた。
「猫? 机の上にいたの?」
「うん、綺麗な青い瞳の猫だったよ。毛並みも凄くツヤツヤしてた」
「お母さんは見れなかったわ。残念」
アンヌと合流したユウタは先ほど遭遇した猫の事を話していた。
ベルトコンベアに自分達の荷物が流れてくるのを今か今かと待ち構えていると、ふとロシア語のニュースが聞こえてきた。
ユウタは声がする方に顔を向けて意識を集中させる。
ロシア人と思われる男性キャスターが喋っていた。
『今日、早朝。ここロシアにあるナヌーク核廃棄施設から発射された核廃棄物搭載ロケットが、無事に衛星軌道上を離脱しました』
液晶画面に、重力を振り切るように飛び上がるロケットが映し出された。
『今回のロケット発射は三度目で、先に発射された二つのカプセルは順調に太陽に向かっています。
政府は大きなトラブルが起きなければ、今後もソーンツァ計画を継続していくと発表しています』
「ユウタ。来たわよ」
母の声でテレビからベルトコンベアの方を見る。
言われた通り、今日の為に買った銀色のスーツケースが流れてきた。
近づいて自分の名前が書かれている事を確認すると、隣からブラウンのスーツケースがやってくる。
もしかしてと思って名札を確認すると、母の名前が書かれていた。
自分とアンヌのスーツケースを両手で取り出して持っていく。
「母さんのあったよ」
「あら、ありがとう」
アンヌは携帯端末を取り出して、ブラウンの旅行ケースに向ける。
するとスーツケースから電子音が鳴り響く。
ユウタも同じように自分のオーパスのアプリを起動して銀のスーツケースにカメラを向けた。
アプリが旅行ケースを認識し、それを知らせる電子音が鳴る。
「荷物も来たし、空港出ましょうか」
アンヌの言葉に頷くと、二人揃ってスーツケースから手を離したまま歩き出す。
すると、ケースが見えない糸で繋がっているかのように動き出し、二人の主人の後をついていく。
先ほどのアプリで、スーツケースが自動で動いているのだ。
後をついてくる姿はまるで雛鳥のようであった。
―7―
二人は駅に記された赤い星印を頼りに進んでいく。
「駅の入り口あったよ」
彼らが目指したのは空港と首都モスクワを繋ぐ交通機関だ。
チケットを買ってホームで電車を待つ間、ユウタはアンヌにこんな疑問を投げかける。
「バスやタクシーは使わないの」
「電車の方が空港から直接行けるからね。それに渋滞に巻き込まれたら時間かかってしまうし、白タクなんかにも注意しないと」
「白タク? 白いタクシー?」
ユウタは真っ白なタクシーを想像する。
(光を反射するほど真っ白なのかな?)
「国から許可をもらってないタクシーの事よ。ナンバープレートが白色のタクシーは乗っちゃ駄目。
嫌な思いするだけだからね」
「はーい」
一人で行動するつもりはないので、あまり考えずに返事する。
リニアモーターカーがホームにやってきた。
ボディは季節外れのサンタさんのように真っ赤で、吊り目のライトがちょっと機嫌悪そうに見えてしまった。
乗ってみると車内は日本の電車と同じくらい綺麗だった。
(落書きだらけの地下鉄とか映画で見たことあるけど、外国の電車全部がそういう訳じゃないか)
少しホッとしながら指定された座席へ。
外の景色が見たかったので窓側の席に着き、隣にアンヌが座る。
リュックはそれぞれの膝の上に置き、スーツケースは出入口近くの荷物置き場に電子ロックして置いてある。
電車が動き出す。モスクワ市街地まで三十分ほどで到着だ。
外を見ていると、ビルを建設しているらしい工事現場を発見。
作業員や重機が忙しなく動いている。
「あっS-90!」
ユウタが熱い視線を注ぐのは現場で働く重機に対してだ。
ストラーウス-90という二足歩行汎用重機で、人は乗っておらず遠隔操作されている。
関節が逆に曲がった細い二本足に比べて、幅広の胴体とビデオカメラのような小さな頭が特徴的だ。
腕らしきものはなく、代わりにクレーンが装着されている。
ストラーウス-90は一九九〇年代からロシアで活躍している。
今から五〇年前の地下逃避時代のシェルターもこの重機の活躍によるところが大きい。
クレーンやドーザーブレードに軍用と、汎用性の高さが売りだが、最大の特徴はその見た目が、ある動物に似ている事だった。
「母さん。あのロボット見える?」
「うん? あの二本足のロボットの事かしら」
ユウタはアンヌにクイズを出す事にした。
「それそれ。ある動物に似てるって有名なんだけど、分かる?」
アンヌは考えているのか、しばらくストラーウス-90を見つめていた。
「うーん。ちょっと難しいわね。ヒント欲しいわ」
少し険しい表情のアンヌは頤に手を当てたままそう聞いてきた。
「じゃあ、あのロボットの名前はね、ストラーウスって言うんだよ」
すると分かったのかアンヌの表情が和らぐ。
「ダチョウね」
「ピンポーン」
ストラーウス。ロシア語でダチョウの名をつけられたロボットを改めて見てみる。
逆くの字の関節を持った二本足に、幅広の胴体は翼を畳んでいるよう。
小さな頭部を伸ばした姿は、飛ばない鳥として有名なダチョウによく似ていた。
「名前言われてすぐ分かったわ」
「チェッ。ヒント優しすぎたな」
「もう、拗ねないの」
不貞腐れてむくれたユウタのほっぺをツンツンするアンヌだった。
―8―
電車がパヴェレツキー駅に到着した。
二人はスーツケースを持ち上げて電車とホームの隙間を超える。
駅から出たユウタの眼に映るのは、道路を走る国内外の様々なメーカーの電気自動車。
そして歩道を歩く人々は、色白で鼻が高く、金色の髪にブルーの瞳。
改めてここは日本じゃないんだと実感するユウタ。
歩く人々は半袖短パンなど軽装で、ロシア=寒いというイメージとは違っていた。
ユウタは二の腕をさすりながらこう思う。
(今春なんだから、厚着してる人なんていないよね)
「寒い?」
「えっ?」
アンヌが声をかけてきた。
「腕こすってるから、寒いのかなって」
その時、冷たい風がユウタの頰を撫でていく。
「ちょっと寒いかな」
「少し冷えるわね。風邪ひいたら大変だから暖かい服装にしましょうか」
二人は邪魔にならないように駅の壁の方へ行き、スーツケースを開けた。
ユウタは着ているネルシャツを脱いで、赤いセーターを、アンヌはグレーのパーカーから同色のハーフコートを纏う。
「待ちなさい」
着替え終えてスーツケースの蓋を閉じようとすると、アンヌに止められた。
「これ忘れてるわよ」
「えーいいよ」
アンヌが取り出したのは、黒いニット帽だ。
あんまりカッコよくないので被りたくなかったのだ。
「冷えるんだから。ほら被ってみて。うん可愛い」
「……ありがとう」
(可愛いよりかっこいいって言われたいよ)
冷たい風を防げるようになったので、改めて二人は観光するために地下鉄へ。
アンヌの後をついているため、ユウタは左右にある建物やキリル文字で書かれた看板を見ながら歩く。
だからアンヌが前からやってきた人を避けた事に気づくのが遅れた。
慌てて避けるが、前から来た人と肩がぶつかってしまう。
ユウタはよろけただけで済んだが……。
「あっ」
相手は悲鳴を上げながら、道路に向かって倒れていく。
その左手からは小さな紙片が飛んでいき、右手に下げた買い物袋が落ちる。
「危ない」
ユウタが助けようとする前に、いつのまにか戻ってきたアンヌが倒れそうになった相手を抱きとめる。
ユウタもすぐに駆け寄った。
「すいません。大丈夫ですか?」
相手が一人で立ち上がると、白いショールを被った頭を左右に振る。
「大丈夫よ。ごめんなさいね。余所見しちゃってて」
相手は白いショールに花柄のワンピースを来た可愛らしいお婆さんだ。
「申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
アンヌが老婆の落とした紙片と荷物を拾って手渡す。
「大丈夫よ。こちらこそごめんなさい。メモ見てたら坊やが来ることに気づかなくて」
老婆が袋の中を確認した。肉に野菜に卵。料理の材料のようだ。
「ぶつかってごめんなさい」
「もう謝らなくていいのよ。私は大丈夫だから。坊やも気にしないで。それじゃあね」
老婆は終始ニコニコしていて、ユウタを非難する様子は微塵も感じられなかった。
「もう、気をつけなさい!」
アンヌの雷がつむじに落ちた。
「ごめんなさい」
しゅんとしたユウタは、いたたまれない気持ちでいっぱいになり、その気持ちが目尻から溢れそうになる。
「次から周りに注意するのよ。ユウタが事故に遭うなんてお母さん嫌だからね」
「ごめんなさい」
アンヌに頭を撫でてもらって、やっと許してもらえた気持ちになれた。
「ほら気持ちを切り替えて。観光に行きましょう」
「うん」
ユウタは改めてアンヌの後をついていく。
今度は誰にも迷惑かけないように前を見て。




