希望
由香里は白い服に着替え、病院の一階にある霊安室に横たわっていたが、いま葬儀会社の人達によって病院を出ようとしていた。
両親が、医師や看護師に「有り難うございました」とお礼を言って、頭を下げている。
母親は、誠にも一礼してくれた。
誠も深く頭を下げた。
最後まで、かける言葉は見つからなかった。
何も言えぬまま、何も出来ぬまま、誠の視界から由香里を載せた車はゆっくりと遠ざかって行った。
誠は院長室に戻り、白衣を脱ぎ、たたんでいた。
もうこの病院に来ることも、白衣を着ることもないだろう。
最後に名札を白衣の上に乗せ、一礼した。
そこに、惣島が部屋に入ってきた。
誠に近寄ると肩を叩き、「ご苦労様」と声をかけてくる。
「有り難うございました」
「大変だったな。よく最後まで通ってくれた。有り難う」
「いや……何も出来ませんでした」
誠の言葉に、惣島は深くうなずく。
「私たちは、たいしたことは出来ないものさ。それでも救いはあるんだ」
病院の院長とは思えぬ言葉に、誠は黙って惣島を見た。
「いつか、あの娘を救ってあげてくれ」
あの娘を救う。
惣島のつぶやきは、誠の胸に響いた。
いつかあの病気を治すことができる日が来るのだろうか。
そのための研究に、自分が役に立つ日が来るのだろうか。
思っていた以上に、一歩が重い。
それでも歩き続けないといけない。
あの娘から生命の証を受けてしまったのだから。
「……医学部、目指してしみます」
「……そうか。頑張れ」
「はい」
「力になれることがあったら、何でも相談してくれ」
「有り難うございます」
誠は扉のそばまで来ると、もう一度、惣島に一礼した。
惣島も立ち上がって、深く頭を下げてくれた。
誠はそのまま扉を開けて、ひとり院長室を出た。
その夜、誠はまどかに電話をした。
いつものように、まどかはすぐに電話に出てくれた。
恒例の報告会で、まどかも待っていてくれていたようだ。
「もしもし」
「誠です」
「うん。今日はどうでした?」
「今日は……」
由香里が亡くなったことを言わないといけない。
そう思って口を開こうとしたら、誠の目から涙がこぼれた。
亡くなったときも、見送った時も出なかった涙が、今になってこぼれてくる。
涙を止めて、伝えなくちゃと思うが、嗚咽しか出なかった。
「……亡くなられたんですね」
「はい……」
「つらいですね」
「僕は……何も……出来なかった」
「そんなことないです」
「本当に何も」
誠は悔しくてしょうがなかった。
目の前で人が亡くなるのを、見ているしか無かったことが。
助けたかった。
助ける力が欲しかった。
いつかではなく、いま助けることが出来れば。
まどかはそんな誠を、優しく慰めてくれた。
「私、想像してみたんです。もし私が年をとって身体を悪くして、ベッドに横になっていたとして」
「…………」
「もうすぐ天国からのお迎えが来るかな。そんな時に、師匠がベッドの側に座って見ていてくれたら、どんな気持ちになるのか」
「……僕は寂しいな」
まどかがくすっと笑った。
「残された方はそうですね。でも、私は幸せな気持ちになりました。死ぬ間際だというのに、満足な気持ちになりました」
「本当?」
「はい。とても安心できたのです。側にいてもらうだけで」
「…………」
「由香里さんも両親がいらして、師匠もいて、少しは不安が和らいだんじゃないかな、と思うのです」
「そうだと、いいのだけれど」
「そうですよ、きっと。だから、何も出来なかったわけじゃないと思います」
「はい、有り難うございます」
涙もおさまり、誠は少しだけすっきりすることができた。
そして落ち着いてきたことで、伝えなくてはいけないもう一つのことを思い出した。
「まどかさん。僕も医学部を目指します」
「はい。そうなるかな、と思っていました」
「もっと勉強をして、助けられる人になりたい」
「一緒に頑張りましょうね」
「はい。一緒に行きましょう」
「はい」
まどかが嬉しそうに返事をしてくれた。
まだ言葉にしただけの思い。
かなえるには、まだまだたくさん乗り越えなくてはいけない壁がある。
ただそれでも、歩いて行く道が見えた。
あとは歩き続けるだけだ。
しかも、ひとりではない。
誠の心は悲しみから、ゆっくりと希望が湧いてくるのを感じていた。




