病院
大きな病院だった。
地下1階、地上8階建てで、病院の前には広い駐車場スペースまで確保されている。
そのあたりでの中核的な総合病院で、300床のベッドを有し、医師も50名以上も在籍しているのが入口近くの案内で解った。
内科、外科、整形外科、産科婦人科、小児科、眼科、耳鼻科……多くの科の名前が連なっていた。
今から誠が会おうとしている人は、その病院長だった。
午前8時。外来の受付のためか、すでにまばらながら人が椅子に座っている。
誠は受付の前に立ち、緊張しながら待っていた。
カッ、カッ……。
まだ暗い廊下の奥から足音と共に、白衣を着た人物が歩いてきたのが見える。
近くなるにつれ、しだいにその姿がはっきりとしてきた。
背格好は誠と似ているが、ややがっしりとしている。
白髪が多く混じった髪をていねいに整えてあり、ネクタイに白衣のたたずまいなど、清潔感を感じさせる。
眼鏡をかけていて、すべてを見通すような瞳が見える。
真穂に似ている誠との容貌とは、幸いそれほど似ていない。
これならば他の人にもばれないだろうと、誠はややほっとした。
相手も迷わず誠の元まで歩いてきて、眼の前で立ち止まった。
院長らしい威厳のある顔が、わずかに緩んだ。
「一柳誠くんだね。遠目からでもすぐに解った。真穂さんによく似ている」
低い、落ち着いた声だった。
誠は一礼した。
「一柳誠です。今日は一日お世話になります」
「私は惣島正平といって、ここの院長であり、理事長であり、内科部長を兼任している。よろしく」
惣島は誠に握手を求め、誠もそれに応えた。
握った手は意外に大きく、温かかった。
「うん。じゃあ付いて来てくれ。まずは白衣を渡そう」
「はい」
彼はそう言っていま来た道を歩き始め、誠もそれに付いて歩き出す。
歩きながら、簡単な病院の説明と一日の流れの説明を受けた。
朝の会議、午前外来、午後に病棟回診、委員会に出席して、夕食を外で食べる、ということらしかった。
解ってはいたが、けっこうな過密スケジュールだ。
院長室で白衣を受け取って羽織り、名札を受け取って胸につけた。
白衣は理科の実験のようで、まるで着慣れない。
板についた惣島とはまるで違うが、惣島は目を細めて、
「なかなか似合うじゃないか」
と褒めてくれた。
「さて、では椅子を置いておくから、座ってくれ。これから看護部長や事務長が来て、報告を聞かないといけない」
「はい」
ほどなく、看護師の格好をした50代の女性がノックと共に入ってきた。
おそらく、看護部長なのだろう。
「失礼します」
「おはよう。家田部長」
「おはようございます」
「紹介する。先日話した、友達の息子さんで一柳誠くん。今日は一日、私について見学をする」
家田と呼ばれた女性は、誠の方を向いて頭を下げた。
誠も慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「一柳誠です。よろしくお願いします」
看護部長はわずかに微笑んだが、すぐに惣島の方に向き直り、報告を始めた。
入院患者数、本日の手術の概要、夜間帯の報告、救急車の台数……。
誠には理解出来ない数字や、内容が次々に報告されていく。
惣島は軽くうなずきながら、手元の紙に何か書いている。
一通りの報告が終わると、惣島から指示が出た。
「夜間帯に救急車を断った件について、原因をあとで報告してくれ。病床利用率が高すぎる。ワーカーに伝えて調整を。新しい看護職員のオリエンテーションは佐々木くんに頼んで」
矢継ぎ早の指示を、看護部長はメモにまとめ、解らないところを質問して確認する。
一通りの問答がすむと、一礼をして院長室を出ていってしまった。
それと入れ替わりで、今度は事務長が入ってきた。
こうして、各部署や委員会の長が、次々と報告と指示を仰ぎに来る。
ほとんどの問題は即答で指示をだすが、難しい問題は簡単な方向性を示して、もう一度検討してくるように指示する。
明確で、平等で、間違いがないように、誠にも感じた。
やはり惣島は頭がいい。
切れるというか、回転が早い。
「これで全部か。さっ、行こうか」
惣島はそう言って立ち上がり、歩き出す。
向かった先は外来だった。
自分のブースに入り、椅子に座る。
コンピューターに何かを打ちこみ準備を整えると、さっそく看護師が患者さんを中に招き入れた。
「おはようございます」
「おはようございます、山田さん。痛みはだいぶ和らいだかい?」
「はい、先生。お陰さまで……」
惣島の外来は、誠が想像していた以上に優しく、穏やかなものだった。
院長であるからもっと尊大な態度で患者さんと接するかと思っていたが、どの患者さんにも親身になって耳を傾け、相手にかける言葉も優しい。
どうやら馴染みの患者さんが多いようで、気を使う様子もなく、べたべたと触ってくる人もいる。
そんな時も嫌そうな顔ひとつせず、逆に相手の身体にも必ず手を当てる。
置いたその手で、患者さんが笑顔になったり、落ち着いてくのが見ていて解る。
薬だけではなく、言葉も手もまた治療の一環なんだと、誠は驚きとともにその様子を眺めていた。
そんな惣島を慕う患者さんは多いらしく、外来は昼時間を過ぎる。
途中でサンドウィッチが机に置かれ、惣島は合間につまみながら外来を続けていた。
サンドウィッチは誠のところにも置かれたところを見ると、これが本日のお昼ご飯らしい。
誠もノートに気づいたことを書きこみつつ、迷惑をかけないように素早くサンドウィッチを食べた。
「お大事に」
最後の患者さんを見送ると、 時計はすでに午後2時半を過ぎていた。
「さて、では次は回診に行こう」
休む間もなく惣島は立ち上がり、病棟へ向かって歩き始めた。
階段を使って5階まで上がると、ナースステーションに入る。
若い医師から簡単な患者さんのプレゼンテーションを受け、質問に答えながら検査や治療のアドバイスを加える。
医師はそれをメモに書き取り、医師が次々に交代する。
「よし、じゃあ行くか」
回診は惣島とこの病棟の看護師長のふたりで行うようだ。
もっと沢山の医師や看護師を連れて回診をするものだと思っていた誠は、それを意外に思った。
「お具合はいかがですか」
病室をひとつひとつ回り、患者さんに声をかけていく。
やっぱりというか、年老いた方が全体に多い。
50代で点滴はしているものの元気そうな男性がいるぐらいで、多くは70から90代。中には言葉を発することも出来ない、寝たきりの人もいた。
そんな人達にも、惣島は優しく声をかけて、手で触れていく。
院長の回診を待ちわびていた患者さんが、惣島が病室に入るだけで嬉しそうに笑顔を浮かべ、2つ3つほどの会話をとても楽しそうに交わす。
そこには、入院している悲壮感はほとんど無く、何の病気で入院しているのか忘れてしまいそうになるほどだった。
その中でひとりだけ、誠と同い年ぐらいの女の子が入院していた。
個室の扉を開けて中に入ると、その女の子は不機嫌そうな顔でベッドに横になっていた。
起き上がる様子もなければ、挨拶に答えることもしない。
見た目にはやや痩せているぐらいで、何の病気かも解らない。
点滴1つしていない。
惣島が、
「痛いかい?」
と一言だけ聞くと、
「痛いに決まってる」
とその女の子は不機嫌そうに、答えた。
「そうだよな。よく耐えている」
惣島が優しく声をかけるが、女の子は不機嫌そうに顔をそらして目をつぶってしまった。
横にいた母親らしい人物が代わりに頭を下げ、惣島も一礼して病室を出てしまった。
同い年ぐらいの、入院をしないといけない、痛みを伴う病気。
何の患者さんか解らないが、誠の印象には強く残った。
総勢50名近い回診を終わったときには、すでに午後5時を過ぎていた。
それでも休みなく、各種委員会に顔を出し、報告を受けて指示を出している。
どこからその体力と精神力が出ているのか。
どうしてここまで続けて集中し、間違いなく答えを出し続けられるのか。
誠ですら、感心するしか無かった。
そして患者さんとの向かい方。
いつかあんなふうに人と向かい合い、相手に安心と喜びを与えられる人間になれたら、と誠も思わずにいられなかった。
すべての仕事が終わったのは午後6時半。
それでもいつもはここから書類整理があり、家に帰ってからも夜に医学の勉強をしているのだという。
思っていた以上に過酷な仕事だ、と誠は感じた。




