失う悲しみ
途中で早めの昼食をとった後、最初の目的地についた。
奈良市にある、奈良公園。
天然記念物の鹿が、飼われること無く歩いていることで有名な場所だった。
走るバスの中からも鹿が見える。
檻越しではない鹿の存在で、自然と生徒達のテンションが高くなった。
「かわいい!」とか「すごい!」といった歓声が、そこかしこで上がる。
駐車場にバスが停まって一時間程度の自由時間となり、誠やまどか達はグループで公園の中を歩くことにした。
やはり定番の鹿せんべいを購入してみる。
一番乗り気だったのは、曜子だった。
誠は間近に見る鹿に、いくらかビビリ気味だった。
そんな誠の様子に、まどかが笑って手を引く。
「師匠、怖がらなくても大丈夫ですよ。食べているときはけっこう大人しいです」
そういって、まどかは鹿の鼻のあたりをゆっくりとなでる。
確かに曜子の手から鹿せんべいを食べている間は、じっとして動かない。
誠も恐る恐る、鹿を撫でてみる。
「あっ、温かい」
「でしょ?」
嬉しそうな二人を見て、悠太は落ち着かなかった。
「ほら」
曜子が悠太にせんべいを渡す。
悠太は戸惑いながらも、せんべいを受け取り、近くに寄ってきていた別の鹿に与えた。
「あっ、悠太の鹿も可愛いね!」
まどかが気づいて声をかけてくれる。
悠太は一瞬笑顔になったが、そんな自分が恥ずかしくなったのか、すぐにいつもの表情に戻ってしまう。
それを見て、曜子が悠太に思わず声をかける。
「素直じゃないね」
「うるさい」
悠太は表情を曇らせた。
悠太自身も感情のコントロールが効かない状態を持て余していたので、曜子の一言は耳に痛い。
まどかと誠が自然に仲良くしている様子を見てしまい、なおさら辛い。
悠太はひとつ、大きなため息をついた。
鹿は人の様子など気にせず、もぐもぐとせんべいを食べ続けていた。
奈良公園の次は、同じ奈良市内にある興福寺へ行く。
興福寺といえば、仏頭や阿修羅像が有名なお寺。
とは言え、高校生にそれらの魅力や楽しさが解るはずもなく、ガイドさんの案内を聞くこともなく、よそ見をしたり話をしている生徒ばかりだった。
そんな中、誠は阿修羅像の前で立ち止まった。
そして、ずっとその像の顔を見続ける。
まどかはそんな誠の様子を不思議に思い、声をかける。
「師匠、どうしたんですか?」
まどかの質問に答えようとしたが、誠は一瞬声が詰まって言葉が出せなかった。
「…………こんな表情をしていたなんて……」
「え?」
他の生徒達が通りすぎていく中、誠とまどかだけが阿修羅像の前に立ち尽くす。
「教科書で見たことはあったのですが、勘違いしていました。阿修羅というと、鬼神、仏法の守護神。修羅という言葉の通り、怖い表情をしているものだと思い込んでいました。それが……」
「…………」
「こんな悲しげな顔をしているなんて」
阿修羅像は思っていたほど大きくはない。
眺めれば、すぐ近くにその表情を見ることができる。
阿修羅の顔は、何かを耐えるような、今にも泣きそうな顔にも見える。
「そうだ」
「……?」
「阿修羅は愛する娘を取られたために、戦い始めた。愛するものを失った悲しみなんだ……」
「そうなんですか……」
阿修羅はもともと良い神だった。
それが、娘を奪われた怒りや悲しみにとらわれ、破れても戦い続けるうちに、悪神と呼ばれるようになってしまったのだ。
愛する娘を失った悲しみは、どれほど強かったのだろう。
誠は自分がまどかを失ってしまった時の悲しみ、悠太が抱えているかも知れない悲しみを、垣間見たような気がした。
愛するものを失いたくない。
誠はまどかの手をとって握りしめた。
まどかは他の生徒が見ていることに気付いて恥ずかしがったが、しっかりその手を握り返してくれた。
どうか、この手のぬくもりが離れていきませんように。
愛する人を守ることが出来ますように。
強く、なりたい。
阿修羅像を眺めながら、誠はそんなことを考えていた。




