塾と家庭教師
とある平日のお昼。
まどかと誠の母親同士で、ランチをしていた。
子供たちが学校に行き始めたのを機会に、互いに時間を合わせて一度お会いしようという話になったのだ。
今まで、会話といえば電話で互いにお礼や連絡を交わすぐらいで、 お会いするのも最初の玄関口での短い挨拶だけ。こうしてちゃんと会って話をするのは、ふたりにとって初めてのことだった。
誠の家からほど近く、商店街から一本外れたところに、ケーキが美味しいと評判のお店があり、そこに併設されたカフェでふたりは待ち合わせをした。
先についていたのはまどかの母親だったが、真穂もすぐに店についた。
予約をしていたために、席を案内されることですぐにふたりは出会うことはできた。
互いに立ち上がって、あらためて挨拶を交わした。
「いつも娘がお世話になっております。如月芳子と申します」
「こちらこそ、いつもお世話になっています。一柳真穂と申します」
たがいに席につくと、芳子の方から話を始めた。
「今日はすみません。お仕事をされていて忙しい中にお時間を作っていただいて」
「いえ、今日は休みの日なので大丈夫です。私も一度お会いしたいと思っていました」
「実は、お会いして一度お聞きしたいと思っていたことがありまして……」
「……? なんでしょうか」
顔合わせだけだと思っていた真穂は、芳子からの言葉をやや緊張した面持ちで待った。
「娘が医学部を目指すなんて言うものですから、親として何をしてあげればいいのか、最近悩んでしまって……一度、相談させていただきたいと思っていたのです」
「ああ、そういうことですか」
真穂はほっと胸をなでおろした。
「と言っても、私も誠をほとんど放任していますが」
「そうお聞きしました。でも、それは優秀ですから……うちは今までのことを思うと心配で」
「まどかちゃんは優秀ですよ。ちゃんと真面目に課題をこなしていって、ちゃんと成長しています」
真穂の素直な気持ちだった。
その思いは伝わり、芳子は感謝の気持ちを込めて、頭を下げた。
「はい、有り難うございます。あの子が机に向かったり、図書館へ行ったりして勉強しているのを最近は良く見かけます。一学期も成績が上がっているのを見て、よく頑張っているな、と思います」
「そうですよ。心配することはないです」
真穂は笑いながら、芳子にそう話しかけた。
ふたりは注文を取りに来た店員に、コーヒーとケーキを注文した。
店員は注文をとり終えると、軽く頭を下げて厨房へ戻っていった。
あらためて、芳子が話を続けた。
「あの、誠さんは行かれていないことは解っていますが、塾とか家庭教師とか予備校というのは必要でしょうか?」
芳子の言葉を聞いて真穂はうなずき、ちょっと考える間を置いてから話し始めた。
「私の私見ですがよろしいでしょうか」
「はい、よろしくお願いします」
「それぞれに良し悪しがあると思っています。家ではどうしても勉強できない子、勉強の習慣がない子は、そうしたものを利用したほうがいいと思います。この時間は勉強というメリハリがつきますし、一定のカリキュラムで教えてくれます」
「はい」
「でも良くない点としては、塾は新しい問題、難しい問題を与え、競争心をあおり、本人や家族を不安にさせてしまうところが少なくありません。不安にさせることで、塾への依存を高めたり、勉強をうながしたりしているのでしょうが、私は良いとは思えません」
「……なるほど」
芳子はうなずいた。
「それに塾は、合格した大学名と人数で宣伝をします。ということはどれだけたくさんの塾生を集めるか、優秀な生徒を合格させるかが問題となるため、優秀ではない生徒にそのしわ寄せが来ているのではないか、と心配もしています」
「では、家庭教師は」
「1対1で見てくれるのは、良いと思います。ただ、その人が教えることのスペシャリストで、情報をたくさん持っているとは思えません。確かに志望校の合格者であれば、明確な目標となりますし、良い部分もあると思いますが」
「はい」
「でも、多くの人はもったいない利用の仕方をしているような気がします」
「……というと」
「家庭教師のいる間だけ勉強していては、無駄な時間が多いです。事前に勉強していて解らないところを聞く、次の課題を設定してもらう、現在の評価をして今後の道筋を示してもらう。といったことに時間を使って欲しいのですが、まあそんな先生も生徒もいないでしょうね」
そもそも事前に勉強してくれる生徒ならば、家庭教師も必要ないのでは……と芳子も思いつつ、真穂の考えにうなずいた。
「良い先生というのは稀少価値で、そうした先生と出会えた生徒はその後の人生に大きな影響を与えると思います。もちろん、合う合わないはあると思いますが」
「そうですね」
「親ができることとしたら、そうした良い先生を探すこと。子供の様子を見て、その子にあっているかどうか、見極めること。先生に任せっぱなしにしないこと、でしょうか」
「あの……親が勉強を見てあげたほうがいいのですか?」
芳子の質問、真穂が少し笑って答えた。
「小学生ぐらいだとそれもいいでしょうが、高校ぐらいになるともう私達では教えられません。それに親からの関わりを避けたがる傾向があるので、すこし放任するほうが良いでしょうね。あと気持ちはわかりますが、『勉強しなさい』は逆効果です」
「やっぱりそう思いますか……うちも不安になることはあったのですが、まあ女の子だし、元気に素直に育っていればそれでいいかと思って、勉強しなさい、とは言わずに来たのですが」
「だからこそ、今伸びているのだと思います。勉強に対する苦手感はあっても、やらされている感触がないのは大切です。これからすごく伸びてくると思います」
「そうだといいのですが……」
芳子は不安そうにつぶやき、運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ。
真穂は微笑みながら、しかし大切な話をすることにした。
「残念ながら人にはそれぞれの才能や資質があると思います」
「はい」
「放っておいても勉強する子はしますし、しない子はしないと思います。伸びる子もいれば、伸びない子もいる。残念ながら」
「やっぱりそうですよね」
真穂はうなずいた。
「周りができることは何か、と考えたことがあります」
「はい」
芳子は思わず、居住まいを正した。
「一つは勉強という物を楽しいと思わせること。これは『勉強しなさい』と言わないこと、そして勉強の楽しさを誰かが伝えること、そして褒めてあげること、だと思います」
それが難しいのだが、気づいてみると、誠とまどかはこの条件をみたしているような気がした。何がどう転ぶかはわからないものだな、と芳子は考えた。
「二つ目に環境。自分にあった、でも少し優秀な人達のいる環境があると、それを目標にしたり、ペースメーカーにしたりして勉強するようです。あまりに差があると劣等感ばかりでダメになったりしますが。……進学校の功罪ですね」
進学校に入学することで安心してしまう親子は少なくないが、その中で自信をなくし、勉強が出来なくなる子も少なくない。
本来は運動ができるとか、コミュニケーション能力が高いとか、いろいろな褒めるところがあるはずだが、進学校だと勉強ができるできないで、すべてが判断される怖さがある。
その怖さ故に親子も必死になってしまうのは、正しいことではないと真穂は考えていた。
芳子もうなずいた。
「そして、次が一生懸命です。親が一生懸命生きていること、それが苦しくて嫌なことではなく、自分のためであり他のためであり、充実したものであることを示すこと。そして、その子が何に対してであれ、一生懸命になっていることに対して、寛容であること」
一生懸命であることを笑う人達が多いことは解っている。だからこそ、自分の息子には一生懸命になれること、好きなことは精一杯やらしてあげたかった。
それが例え、勉強でなかったとしても応援するつもりでいた。
真穂も一人で子育てをすることで不安もあった。人に相談することもあった。
ドロシー・ロー・ノルトの「子どもが育つ魔法の言葉」や、千住文子さんの「千住家の教育白書」なども読んだ。
自分の家にそのまま当てはめられるか、行動できるかは別にして、真穂は自分なりの教育方針を固めて、誠を育ててきたつもりだった。
しかし、まどかと知り合った誠を見ていて、人は一人では育たないことを痛感していた。いま誠はゆっくりと、人と関わりというものを憶え、表情が豊かになってきている。
そのことに、真穂は本当にまどかに感謝したい気持ちでいた。
真穂の言葉に、うなずいていた芳子も、やや圧倒されかけていた。ここまでできる親が果たしてどれだけいるだろうか。
「もちろん、家は心が休まるところ。どんな自分でも受け止めてくれる、やすらぎの場所であるべきだとは思います。こうした姿勢や方向性は、むしろ父親の役目かも知れませんね。……うちにはおりませんが」
芳子にはどう返事をしていいか解らなかったが、深い話を聞けていることは解った。誠の時もそうだったが、当初予想していた以上の話が聞くことができ、驚きが頭の中を占めていた。
「あの……では、うちの娘には、特に何もしないで良いのでしょうか?」
話を聞いている間に、自分がすべきことは何も無いのでは、という気持ちになってきていた。食事を作ったり、休める場所を提供するぐらいしか、自分にはできそうになかった。
「高校三年生になったら、他の人と同じように予備校の試験を受けさせて、自分の立ち位置を確認させることは必要かもしれません。あとは、誠が……うちの息子がやってくれると思いますので、任せてみましょう。もちろん、合格を確約するものではないのですが、変に動くよりかは、まどかさんにとって良いのではないか、と思うのです」
「はい」
芳子は明確な答えをもらって、ほっとした。
本当に一から教えてもらってばかりだ。
「今日は本当にありがとうございました。こんなに教えてもらえるとは思いもしませんでした。忙しい中、お呼び立てしてしまった上に、教えてもらってばかりですみません……」
「いえいえ、出過ぎたこと言ってしまいました。あくまで一意見としてお聴きください。結局、私も誠のことは何もしていませんし」
真穂はそう言って笑い、その場の雰囲気を和やかにしようとした。
芳子は、誠の時も感じたが、真穂に対しても誠実で真面目な印象を受け、ほっとした。
「お世話をおかけしますが、娘をよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。まどかさんのおかげで、少しずつ明るく、人と話すようになってきて、私も助かっています。お礼を言うのは私の方なんですよ」
「そう言っていただけると、ほっとします。誠さんも真穂さんもぜひ、うちにも食事を食べにいらしてください」
「はい、有り難うございます」
ふたりは互いににっこり笑い、残りのケーキを食べながら雑談を始めた。
互いの親がそんな会話をして親交を深めていたことを、まどかも誠も知らずにいた。




