図書館での一日
二人は開館と同時に中に入った。
席を確保すると、誠は調べ物のため書架に向かった。
まどかは以前に借りたドリルを開いた。
高校生にもなって開いたのは小学生の算数ドリル。
恥ずかしいが、これが現実。言われたとおり頑張ろうと思った。
ドリルをよく見ると、無数のマルとバツの記号が並んでいた。
おそらく誠が解いて、正解だとマル、間違いだとバツをつけていたのだろう。
それにしても、凄い数だった。
間違えていた問題はさらに凄い回数繰り返されていた。
まどかはその記号を、指でなぞった。
「凄いなあ……」
まどかは、その記号の先に色を変えて自分の結果を書くことにした。
図書館は静かで、涼しい。
確かに家で勉強するよりは、環境が整っている。
まどかもいつもよりも勉強を集中して続けることができた。
それでもドリルばかりだと、疲れてしまう。
ふと顔を見上げると、いつもの集中している誠の姿があった。
彼の勉強の様子は見ていて気持ちがいい。
姿勢がいいのだ。
それに自然体で、凄く楽しそうに集中しているのが伝わってくる。
まどかは、しばらくそんな誠の様子を眺めていた。
この姿を見て、自分も勉強ができるようになれるかな、と思ったのだ。
そして、いま見てもやっぱり、勇気づけられる。
そう思いながら誠のことを見ていたら、誠の手が止まり、顔が上がった。
ばっちりと二人の視線があった。
絶対に誠の集中力が切れることはない、と思っていたまどかは慌てた。
勉強する姿を見られていると思っていなかった誠も慌てた。
二人して顔を真っ赤にして、下を向き、誤魔化すように勉強を再開した。
とは言え、そんな状態で集中できるはずもなく、しばらくしてまどかは勉強の手を止めた。
「あっ、あの……師匠。そろそろお昼です。食事にしませんか?」
「あっ、はい。そうですね。そうしましょう」
誠は下を向いたまま、片付け始めた。
二人はお弁当をもって、図書館に隣接する公園へ歩いていった。
天空高くに輝く太陽のせいで、日なたは汗ばむほどの暑さだった。
しかし、広い公園は背の高い樹木が生い茂り、木陰の下は心地良い温度に保たれていた。
そよ吹く風がときおり、二人の肌を通り過ぎていた。
木のベンチに二人で座ると、誠がつくってきた弁当を広げた。
「夕食の残りで申し訳ないけれど」
「いえ。いつも夕食、美味しいです」
今日は鶏の唐揚げだった。他にはキャベツの千切り、トマト、ブロッコリー。きゅうりの漬物にご飯、そしてお茶だった。
「いただきます」
「いただきます」
お弁当に可愛らしさはなかったが、やっぱり味は美味しかった。
ほっとするというか、味が濃すぎないというか。
懐かしいような、安心する味だった。
「美味しいです。師匠」
「それは良かった」
誠も笑顔になって、うなずいた。
しばらくは二人は黙って食事をした。
食事をほとんど終え、お茶をゆっくり飲んでいると、まどかが誠に質問をしてきた。
「師匠は……勉強は楽しいですか?」
「楽しいです」
「私には、まだその楽しさがわかりません」
まどかの偽ざる素直な気持ちだった。
誠は前を向いたまま、考えながら語り始めてくれた。
「僕にとって勉強が楽しいと感じたのは、確かに先生に褒められたことが初めでした。褒められるから勉強する。勉強するとまた褒められる。しばらくはそれが楽しかった」
「……」
「でも、それだけでは長続きしなかった。ある時、図書館で伝記を読みました。エドワード・ジェンナーという人の伝記で、天然痘という感染症に対して、初めてワクチンを発見して有名になった人です。」
誠にしては珍しく、静かに語り続けた。
まどかも黙って耳を傾けた。
「それまで天然痘は、今のインフルエンザどころではない、すごい感染力と致死率を持っていた怖い病気でした。それを彼がワクチンを発見することにより、撲滅することができたのです。ひとつの発見が、何万人、何百万人の命を救った。僕には衝撃だった」
誠はその時の感動を味わうように、一度言葉を区切った。
「僕には勉強ぐらいしか取り柄がなかった。でも、もしかしたら、この勉強の先に彼と同じような研究がつながっていて、新薬を発見することで、誰かの命を救える自分になれるかも知れないと思ったんだ。そう思えてから勉強に対する思いが変わった」
「……そうだったんですね。以前に話してくれた、夢、のことですよね」
誠がうなずいた。
「それから勉強を進めていくうちに、いろいろな発見があった。たとえば英語は、読めるようになったら、世界中の情報を得ることができる。話すことが出来れば、世界で働くことができる。しかも、中学や高校の教科書を100回読み返してまるごと暗記すれば、その世界が開けることが解った」
「……本当ですか?」
「本当です。海外には行っていませんが、僕だいたい読めて話せます」
「……だって、まだ高校一年なのに……」
「高校三年まで、もう終わりました」
二人の間に沈黙が広がった。
「……今まで師匠を尊敬していました…………今は、遠い星の人のようです……」
まどかは遠い目をして誠を見つめた。
「大丈夫。まっ……まどかさんも、出来るようになります」
誠は言い慣れない名前にすこし顔を赤くして答えた。
「本当ですか?」
「本当です」
「そんな日が、本当に来るのかな」
まどかには自信がなかった。
「時間はまだかかると思うけれど、まどかさんには十分に才能があると感じました。信じてください」
「師匠を、ですか?」
「いや、自分自身を、です。もちろん、僕も手助けしますが」
「…………」
まだ実感はないが、その可能性を信じて歩き始めたし、誠に対して感じたのだ。
まどかはうなずいた。
「よろしくお願いします」
誠もうなずいた。
「勉強は面白いです。授業の内容でも、しっかりとやると一つ一つが無限の可能性を秘めている知識です。イチロー選手は今でも毎日の素振りを欠かしません。素振りは誰もが知っていて、できる程度のことです。しかし、何万回振ってもまだまだ先があり、その一振りで人を感動させ、偉業を達成させることが出来るようにもなります」
「……」
「時をこえて残っているものには、そんな力があります。飽きずたゆまず繰り返し、あらたな発見を見つけ出し、感じることが出来れば、素晴らしい宝物となります。残念なのは、それに気づいてる学生も先生もけっして多くはない、ということです」
「……師匠……凄すぎます。同い年とは思えません」
「そっ、そうかな」
恥ずかしそそうに頭をかく姿は、確かに幼く見えた。
この人はどんな人生を歩んできたのだろう。
同じものを見ても、見えている世界が違うような気がする。
「師匠。楽しかったです。また、ぜひ話を聞かせてください」
「はい。聞いてくれて、僕も嬉しかったです。……他の人に話しても、理解されないか、真面目すぎて馬鹿にされると思っていたので」
「あっ……そうかも知れない」
「まどかさんは、聞いてくれる、受け入れてくれるという安心感がありました。それが嬉しかったです」
まどかの胸が、どきっ、とした。
そして、胸がほわっと熱くなる。
……何となく嬉しかった。
「そう言ってくれると嬉しいです。でも、師匠も自分に自信を持ってください。まだまだたくさんの人が、師匠の話を聞いてくれますよ」
「そうだといいのだけれど……まだ自信がないです」
「師匠が私に可能性を感じてくれたように、私も師匠に可能性を感じます。大丈夫です。自分を信じてあげてください」
まどかがにっこり微笑んだ。
誠も応えるように微笑んだ。
「ありがとう……さっ、戻ろうか」
「はい。……まずは小学の算数からですね」
「馬鹿にできません。算数はすべての知識の始まりです」
「はい」
まどかも誠の言う意味は理解できた。
二人は図書館へ戻り、午後の勉強を再開した。




