第106話 ありのままの自分
冰鞠が現れたタイミングから時は遡ること20分前。
石田学人は、星谷たちと別れた直後、追ってくる敵の気配を感じ取り、冰鞠の手を強く握り、運動場方面を全速力で息を切らしながら走る。埃っぽい空気が肺を焼くが、石田は振り返らない。真面目な瞳を前に向け、ただ前進する。
「石田君……離して……!」
冰鞠が、初めて感情を露わにしたような声で抗議した。彼女の声はいつもより震えていた。
「いいや、離せない!今は一緒に逃げるのが最優だ!」
私は疑問に思っていた。なんで石田君は、私の手を取ってくれたのだろうか?近くにいたからだろうか?それなら合理的だ。だが、ペアを組むとして何故、私なのだろうか?近くにはまだアンディーもいたはずだ。私のZONEは、前のように冷徹で強大な力なんてものは、みんなと一緒に仲良く過ごして、関わってしまったが為に弱くなっている。
弱いのは嫌い、だってすぐに死んでしまうから。
冰鞠には年が離れた兄がいた。兄はハンターとして、区の外でクリーチャーを狩る仕事をしていた。妹と同じく氷を操るZONEを発現していたが、悔しいかな、妹ほどの才能は無かったが、誰に対しても優しく、クリーチャー相手にもコミュニケーションを取ろうとするほどの優しいハンターだった。冰鞠はそんな兄のことを尊敬していた。
そして事件は起こった。そう、10年前に起きた七区襲撃事件である。兄はハンターとして区を守る中、他のハンターを庇って戦死したと訃報が入った。あんなにも、優しい兄が死ぬのは間違っている。いや、違う、兄は優しいから死んだ。弱いから死んだ。弱いとすぐに死んでしまう。優しいとすぐに死んでしまう。その現実が、曲解が、わずか8歳の冰鞠の心を蝕み、いつしか呪いのようにそれがZONEにも刻まれたのだった。
弱い自分は嫌い。だって弱いと死んでしまうから。強くなるには、生きるためには、他人に対して優しくせず、冷徹で傲慢にならないと。演技でもいい、弱い自分は嫌だ……
襲撃事件の後の冰鞠は変わった。冷徹、超ドS、自分が思う強く、恐れられる自分を演出し、他者との関わりを断っていった。学校では誰とも話さず、視線で人を凍りつかせ、孤高を貫いた。だが、彼女がどうしても切れなかった縁がある。それが、唯一の理解者である一式網玉の存在だった。
「どうして、私と関わろうとする……答えろ」
「だって、あなたがそう在りたいと思ってるからじゃないの?」
「黙れ!貴様に私の何が分かる!」
「だって、わかるんだもん。」
「どういうこと……私が人と関わりたいと思ってると言いたいの?」
「わかっちゃうんだもん……(聞かないようにしても、聞こえるんだもん!)」
当時、網玉のZONEは手で触れるという条件は無く、半径10mの他者の心の声が無作為に聞こえるという言うならば、半ば制御できていない暴走状態だった。網玉のその制御しきれない能力は、いじめの引き金となり、毎日心無い罵声を浴びせられていた。そんな中、冰鞠の心の声だけは、彼女を決して罵倒することなどなかった。網玉は苦しみながらも、冰鞠の孤独な叫びを聞き取っていた。
「誰も信じられない」「弱くなるのが怖い」「でも、優しくなりたい」
そんな本音を。
「貴様……いえ、あなたも苦労してるのね……」
「え……?」
「網玉ちゃん、一緒に頑張ろう。」
理解者を得た冰鞠は、そのまま中学を卒業し、狩人高校の狩人科へと入学。二年の歳月が流れ、その間も、氷の女王として畏怖され続け、能力は日々強くなっていった。しかし、三年生になってから星谷世一が編入してから全てが変わって行った。理解者が一人増え、打倒火野先生に燃えるクラスの熱に当てられ、クラスメイトと関わるようになり、心を覆う氷はジワジワと溶け始めていた。サッカーの試合で、みんなと協力した時。サバイバルフォレストで笑顔を交わした時。少しずつ、氷が薄くなっていた。
「な、なんで、私の手なんか握れるの……?」
「どういう意味だい?」
「だって……今まで、みんなに冷たい態度を取ってきて……」
石田が息を切らしながら答える。敬語ではない、素の言葉が出たのは、焦りからか。
「だって、当たり前じゃないか。冰鞠さんは俺たちと同じ狩高3-Aのクラスメイトじゃないか。」
石田の言葉が、冰鞠の胸を突く。
クラスメイト……みんなと同じ……
「待ちやがれ!」
石田たちの行く手を阻むように、グラサンに黒リーゼントのずんぐりむっくりな見た目の男子、大高郁弥。茶色のボーイッシュ短髪に垂れうさ耳が付いた女子、兎咲愛。左が刈り上げ、右がカールの赤髪の気怠そうなイケメン男子、飛翔鷹斗の三人の南高生徒が空中から飛び降り立ちはだかった。
「ふぁ~、郁弥。こいつらがオレたちの獲物か……?」
「その通りだ鷹斗。相手は、あの氷の女王様の氷道冰鞠、うちの監獄といい真面目勝負ができそうな石田学人だ。両者とも戦闘向きのZONE持ちだ。鷹斗、兎咲、気を抜くんじゃねえぞ。」
「うっせえ!だが、ワタシら三人相手とは、テメエら運がねえな。」
石田は即座に地面に手を叩きつけ、刻む石の巨人を発動。周囲のアスファルト、土、瓦礫を吸収し、10メートルのゴーレム形態へと変身した。岩のような硬い装甲が体を覆い、巨人のような威容を現す。
「冰鞠さん、下がってください!ここは俺が食い止めます!」
「随分と威勢がいいじゃねえか。それじゃあ早速、お前にはここで退場して拠点の位置や諸々教えてもらうぜ。巨大縮小の魔人発動。」
そう言って中央に立つ郁弥は手で自分の胸を叩き、兎咲と鷹斗の背中に触れると、体が10メートルを超える巨体に膨張し、周囲の空気を歪め、地面が震える。さらに、鷹斗と兎咲も巨大化。鷹斗はタカに変身し、鋭い翼を広げて上空を旋回、風圧で木々が揺れる。兎咲はウサギに変身し、強靭な後ろ足で地面を蹴り、瞬時に距離を詰めてくる。土煙が巻き上がり、視界を塞ぐ。
「さあ、狩りの時間だぜ!」
郁弥のその一声で、三人同時に石田へと襲い掛かる。まず一番最初に、ゴーレム化した石田と同じ大きさの郁弥が石田へと組み付き、身動きを封じる。巨体同士のぶつかり合いで、地面が陥没し、衝撃波が広がる。
「くっ……パワーなら負けない!」
石田が郁弥の腕を掴み、力づくで振り払おうとする。ゴーレムの岩肌が擦れ、砂埃が舞う。
「そうかもなあ。だが、俺に気を取られてちゃマズいぜ?」
上空から急降下した鷹斗の鋭いかぎ爪がアスファルトの体を抉り、岩の装甲を剥がす。そしてそこに兎咲の強力な脚力から繰り出される蹴りがめり込む。アスファルトの体がバキバキと音を立ててひび割れていく。
「ぐっ……まだまだ!俺は倒れんぞ!南高!」
石田は郁弥の拘束を解き、郁弥を殴り飛ばす。ゴーレムの拳が郁弥の腹にめり込み、巨体が後退する。だが、鷹斗の翼が石田の背中を切り裂き、兎咲の連続キックが追撃。石田のゴーレムが膝をつき、装甲にひびが広がる。劣勢は明らかだった。
その後ろ姿を見て、冰鞠は氷を生成しようとするも、冰鞠の手が震えている。
冷たく、冷たくしなきゃ……でも、優しくしたら、もっと弱くなる。優しくしたら、余計に助けられなくなるかもしれない……
10年前の記憶が蘇る。
優しかった兄は、弱いのに他人を庇って死んだ。「弱いから死ぬ」「優しいから死ぬ」だから私は冷たくならなきゃいけない。そうでなきゃ、私も死んでしまう、きっと壊れてしまう。今だって氷が薄い。氷柱一本すら、まともに作れない。こんな弱い私なんて……なんで……なんで、私の手を握ってくれたの?私はみんなに冷たくしてきたのに……なんで、私を置いていかないの?
石田は再び地面に手を突き、ゴーレムを修復する。
「俺は……冰鞠さんが冷たいなんて、思っていない!」
上空で羽ばたく鷹斗が急降下してくる。
「だって……!」
石田は咆哮と共に立ち上がり、鷹斗のかぎ爪を両腕で受け止めた。岩の腕がひび割れ、血が滴る。
「だって、冰鞠さんは……みんなのために動いてくれたじゃないか!」
その瞬間、冰鞠の脳裏にみんなのために動けていた記憶が蘇る。火野戦の時、作戦に協力しみんなを守るための壁を作った。サッカーの時、疲れているだろうみんなの体を冷やして周った。蜘蛛に連れていかれた二人を追って敗れはしたけど共に戦った。
私は弱い自分になるのが怖くて、もう自分から動けないと思っていた。兄が亡くなってしまったのは事実、だけど、兄の行動は無駄じゃなかったはずだ。きっと、誰かのためになっていた……私も、誰かのために動けていた……冷たくなくたっていい。優しくありたい。だって、優しさが、誰かを救うんだ。私も、兄のように優しくありたい……!
「さあ、これで終いだあ!!!」
兎咲の蹴りが、崩壊したゴーレムの腹へと叩き込まれそうとなる次の瞬間、巨大な氷の壁が兎咲の足を受け止める。
「こいつは……氷ッ!?」
そして、氷の壁を中心に運動場全体が極寒の領域に変わる。地面が凍結し、空気が白い霧に包まれる。冰鞠は、氷の壁を挟んだ石田の前に立ち、両手を広げた。そうすると無数の氷柱が氷の壁から直線状に伸び、鷹斗と兎咲の体へと到達すると、二人の体はそこから凍り付いていく。それを見た郁弥が、二人に伸びる氷柱を折って救出し、冰鞠との距離を置く。
「冬の球技大会と比べて、明らかに威力が増している……お前らまだ動けるよな。」
「ちぃ……左足が凍傷してやがる。さっきみたいに動けるかって言われたらノーだ。」
「オレもだ……さっき以上のスピードを出すのは厳しい。寒いの弱いこと知ってるだろ。」
三人が離れたところを見た石田は少し緊張がほぐれ、地面に片膝をつくと、再び地面に手を突いてゴーレムを形成していく。アスファルト、岩、砂利、冰鞠の氷を使って作られたゴーレムを完成させた石田は、冰鞠の方を向いて静かに呟いた。
「なんて温かくて、優しい氷なんだろう……」
冰鞠は涙を浮かべながら、微笑んだ。初めて、心からの笑顔だった。
「石田君……ありがとう」
「私、もう冷たくしない。優しく、ありたいの」
石田はそのまま、優しく頷いた。そして、郁弥たちの方へと体を向ける。
「冰鞠さん、反撃開始だ!」
ヒマリチャは トラウマを 克服した!




