1週間前──居酒屋③【一触即発】
「お前ら、いい加減にしろよ!」
菱本が乱暴にグラスを置く。
ブースが半個室になっているからそこまで悪目立ちしていないものの……それでも多少、周囲から視線を向けられたのがわかった。
──21:00を過ぎた頃。
場の空気は険悪に変わっていた。
菱本の恫喝がなければ、渉と三枝は殴り合っていたのでは……と武志が自分の判断を悔やむほどに。
渉の自虐ネタはいつもの事だが、その日はより酷かった。
体格もよく、いかにもワイルドな風貌をしている割に、渉はそんなに酒には強くない。
4人で集まると、楽しさと他の3人の酒の強さからついハイペースになってしまいがち、という部分もある。
しかもあの夜はいつもよりペースが早く、三枝もまた『良い酒』とは言えない酔い方になっていた。
そんな中での事。
そもそもの話が何であったかなど最早誰も覚えてはいないが、その始まりは皆覚えている。
きっかけは、渉の強い台詞からだった。
「──そんなの死んでるみたいなモンだ」
語気自体の強さはないものの、冗談とはとれない口調で彼はそう言った。
妙にハッキリとした重い響きを纏ったそれに、場が一瞬静まる。
テーブルの斜め下に向けている渉の瞳は大分酔っているにも関わらず、何かを捉えた獣の様に鋭い。そこにはただグラスの外側の水滴が流れ、だらしなく広がっていた。
普段ならこういう空気の時、なんとなく場を和ませるように動く武志だったが……事前に渉から『相談したい』というメッセージを受けていたために、敢えてそれをしなかった。
彼になにかがあったのだと感じ、様子を見ようと思ったのだ。
そして、武志が後に悔やんだのは、まさにこの判断だった。
「まぁお前らと違って、俺が生きてよーが死んでよーが関係ねぇけどな!」
顔を上げた渉はいつもの様にへらりと笑い、例の如く自虐で続ける。
だが、それは笑えたものではない言葉だった。
「酔いすぎだよ」と曖昧な笑顔で武志がやり過ごそうとするより先に、菱本が抑揚なく声を発した。
「……替えがきくって意味なら大差ねぇよ」
既に、なにもかもがいつもと違っている。
フォローなのか本音なのかもよくわからない菱本の言葉に、相変わらず笑顔なまま渉は「いや、あるさ」と返すと、とめどなく話を続ける。
それは、蛇口をいっぱいにひねったシャワーのような勢いで。
「俺なんか死んだところで誰かがちょっとの間悲しい気になるだけだ。 なんなら死んでくれて良かったとか思われるんだよ。 そこいらの浮浪者の汚ねえジジイの仲間が増えなくて良かったよね、って」
「そういう発言はやめろ」
「お前はいつもそうだよな、サエ。 生徒にもそうなのか?」
「……なんだと?」
武志はヤバい、と思ったがもう遅い。
「お前らは間違っていない。 正しい。 だが正しい奴等はその原理が誰にでも通用すると思ってやがる。 お前は言うんだろ、生徒に『お前の辛さはわかる』『できるように頑張ろう』と。 成る程、優しくて正しいな? 頑張ればできるかもしれない。 だが一人一人のスペックは違う。 だからかかる負荷や辛さ、強いられる努力量だって違う筈だ。 なのにお前になにが『わかる』って言うんだ、先生?」
「やめろよ渉……」
「他人の苦しみなんかわかるわけないだろう?」
「そうだ、わからない。 だがわかるように寄り添うことが……」
「嘘だね」
ほぼ氷だけになったグラスを煽り、テーブルに置くと同時に渉は吐き捨てる様に言った。
三枝を見つめる目は、先程と同様に鋭い光を纏っている。
「わかろうなんてしていない。 お前らは『個性を大事に』とか言いながら、その実個性なんて認めちゃいないんだ。 認めるのは自分らや社会にとって都合のいい『個性』だけ。 いつだって『普通』にできる能力だけを推し量ってカテゴライズしようとしてる」
「偉そうなこと言ってんじゃねえよ」
「『普通』にできない生徒にもそう言うのかよ」
「やめろって言ってるだろ」
武志の言葉など無視し、渉は口許を歪ませて嘲るような笑顔を作ったまま、畳み掛けた。
「聞かせろよサエ、俺はその中でどの位置付けなんだ?」
滲み出る某かへの憤りは、三枝に向けられたものでありながら、その実三枝本人へのものではない。皆……三枝ですらそれはわかってはいた。
だが三枝はそれに応じた。
「……お前はいつだってそうだ」
「サエ」
誰一人として声を荒げたりはしない。
渉に至っては少し前に話していた時よりも小さいくらいの声で……それは逆に殺伐とした空気を醸していた。
渉の挑発ともとれる発言に三枝が応じたことで、もう決定的に武志にはどうにもできなくなった。
三枝は真面目な教師だ。
彼は彼なりに難しい生徒に寄り添ってきたつもりだが……教職は個人の負担が大きく、なにかにつけてボーダーが曖昧な仕事だ。現実は厳しく、努力をすればできる、というわけでもないのは教師もまた生徒と変わりはしなかった。
渉の言うことも理解できないでもない。それくらいには苦い経験もしてきたが、理想や現実とそれへの葛藤はあれど、『正しいことを教える』のが教師の仕事と割り切るしかない。
そう、割り切るしかないのだ。
だが三枝だってそれをよしとしている訳ではなく……だからこそ一般的に見ていつまでもフラフラしている渉に、改めてそんなことを言われるのは我慢ならなかった。
「ズルいんだよ……戦場の最前線にでもいるようなフリして、その実生温い湯に浸ってるだけのモラトリアム野郎が。 弱者気取りで社会や体制への批判か?」
「あーあーその通りだよ。 言えよ、サエ。 『社会のゴミになる前にさっさと死ね』とでもよ。 死んでるように生きるくらいなら潔く死んでやる」
「馬鹿野郎、てめぇなんか殺しても死ぬかよ。 なにが潔く死ぬだ。 そのうち革命家でも気取りだすんだろ? その面生かして労働者サイドの英雄とかにでもなれよ。 出馬はいつだ? 天城センセイ」
ふたりとも冗談めかしてはいたが、いつ、どちらが相手に掴みかかってもおかしくはない。
武志はどうしていいものかわからずに静観するしかなかった。
こんな状況下でも、どこか映画でも観ているような自分がいることを一部で感じながら。




