昨年のこと──美鈴と渉【秘密】
「私忘れっぽいからねぇ。 散歩が楽しかったことは覚えてるけど、ごめん、思い出せないや」
「そう、ミーちゃんらしいよ」
呆れるかと思っていた渉は、笑顔で美鈴にそう返す。それを武志はとても意外だと感じた。基本的には女性に優しい渉だが、いつも美鈴には遠慮がないのに。
(犬の死という内容のせいだろうか……)
不意に、武志はなんだか不安な気持ちになった。
自分が理解してない美鈴の一面が、渉には見えるのではと。
嫉妬ではなく、不安。
わかっているつもりになって、見ていなかっただけなんじゃないか。そんな気持ちになって。
渉を送る車内で、武志は渉に先程の事を尋ねる。軽い瞠目。
「……俺の方が意外だよ。 そんなこと今更武志が聞くとか……なに、嫉妬?」
「いや……そういうんじゃなくてさ……」
躊躇する武志を見かねたのか、まだるっこしく感じたのか、渉は武志の話を待たずに答える。
「悲しみや苦しみをどう扱うかっていうのはきっと人によって違うんだろう。 ……俺はまあ……多分人より器用じゃないけど……ミーちゃんはミーちゃんなりに、あると思う。 他人の気持ちなんてわからないけど……ミーちゃんは優しいだろ?……それだけだよ」
「そう……だよね」
美鈴は優しい。当然武志にもわかっていたことだ。
たとえ、初代を忘れてしまっていたとしても、きっと子供の美鈴なりに可愛がってはいたのだろう。
渉は窓の外に目を向けた。
複雑な思いを抱えながら。……それを、武志に悟らせてはいけない。
「ミーちゃんが忘れるのもさ、悲しいからじゃないのかな……」
──本来ならば何も言うべきでないと、わかってはいる。だがこれくらいは許されるだろう。
エアコンの微かな作動音に隠すくらいにそんな気持ちが過る。
少し悩んで、武志は渉に自分の今の気持ちを言うことにした。
「…………僕はさ、美鈴とそういうのを共有してない。 僕も美鈴も上手くやり過ごす方だから……今の生活も互いに納得してて、どこかこれで良いような気になってるんだ。 でも……それは違うんじゃないかって、薄々感じてる」
「……そうか」
それだけ言うと、渉は反射する窓越しに、武志に笑顔を向ける。
後はふたり、黙ったまま車に乗っていた。
「ありがと。 もう、ここでいいよ」
「そう?」
渉は自宅アパートの近くのコンビニに車を停めさせると、武志になにかを言いたそうな素振りを一瞬見せたが、誤魔化すように笑って降りた。
「じゃあな、今日はありがとう」
「……渉」
「あ?」
「いや…………年末、連絡頂戴。 待ってるからさ」
渉は武志に笑って手を振る。
さよならの形ではなく、もう行け、とでも言うように。
それがあまりにも渉らしくて、武志も笑ってエンジンをかけ直した。
──昨年のある日、渉は町で偶然美鈴に会った。
まだ蝉の声がワンワンと辺りに広がる、残暑の厳しい年だった、と渉は記憶している。
Tシャツが汗でじっとりと貼りつくような嫌な暑さの中、美鈴は一人だけ違うところに居るような真っ白な顔をしていた。
「ミーちゃん?」
「……あ、渉くん」
渉が呼び止めると美鈴は力なく笑う。
「どうした?」
「んん、なんでもない」
「なんでもないって顔してない。 とりあえず店にでも入ろう。 武志に今連絡……」
「やめて!」
具合が悪いにしても渉は車を持っていない。だが、美鈴は強い口調でそれを止めた。
「タケちゃんに連絡はしないで。 大丈夫だから」
「ミーちゃん?」
あくまでちょっと日射しにやられただけ、と言う美鈴を宥めながら近くの喫茶店に入る。
声を荒げたのは一瞬だけで、いつもと同じフリをしているが明らかに様子がおかしかった。
「武志に秘密にしたいことなら言わないから」と言う渉に「絶対に言わないなら」と美鈴は漸く重い口を開く。
「…………流産してた。生理にしてはおかしいな、と思ったら」
「! そう、なんだ」
「実は……2回目なの」
ふたりは避妊をしていない。特別作ろうとしているわけではないが、自然にできたらそれに従うつもりで同棲を始めていた。
「できづらい体質なのかも……」
「……慰めにならないかもだけど、だとしても武志は」
「気にするよ。きっと気にして、『結婚しよう』って、言う」
だから、言わないで。
──そう言った美鈴に何も掛ける言葉は見つからず、そんな言葉の代わりに……絶対に言わないと約束をした。
渉は美鈴の気持ちを慮って部屋を貸してやり、自分は武志と美鈴の部屋に泊まった。
美鈴には『急に旅に出たくなった』と武志にメールをさせて。
偶然会ったことだけは、正しく武志に伝えて。
それくらいしか、できることはなかったから。




