閑話その25〜寵姫が気付いた己の心〜
連続更新最終日!
本日のお話は、後書きに視点を変えて、蛇足というか付け足しを入れてみました。
後書きもお話に含め、楽しんで頂ければ幸いです。
鈍色の雲から、雪が舞い降りてくる。年が明けて一月以上が経ち、本格的な冬が訪れたエルグランド王国は、国土の大半が雪に覆われていた。王都のある地域は、大きな湖と川に囲まれたおかげか温暖な気候で、冬といえど積もる雪に困らされることは滅多にないが。――それでも、頻繁に雪は降る。
星月の末頃、『紅薔薇派』のソフィアたちと対面したところを、王と『紅薔薇』――ディアナ本人に見られてから、シェイラに対する嫌がらせは、不気味なほどぴたりと止まった。……というよりは、多くの側室たちが、シェイラの扱いに戸惑って、遠巻きにしている印象を受ける。
『シェイラ様、気にしてはダメよ』
『そうよ。シェイラ様は悪くないんだから。堂々としてないと』
変わらず接してくれるのは、それこそリディルとナーシャくらいだ。沈みがち、部屋にこもりそうになるシェイラを、二人はそうやって連れ出してくれる。
リディルとナーシャ、そして侍女のレイとマリカは、シェイラが『紅薔薇派』の側室たちから嫌がらせを受けていたと気付けなかったことを、気に病んでいるようだった。あれほどの騒ぎになるまでは、ソフィアたちは注意深く、人目に付かない場所でシェイラを牽制していたのだから、彼女たちが分からずとも無理はないのに。シェイラ自身、心配を掛けないように――そして、ディアナの不利にならないようにと、必死で気付かれないよう振る舞っていたわけだから。
あの日を境に変わったのは、後宮の、側室たちの空気だけではない。毎日とは言えないまでも、頻繁にあった王の訪れ――それが、ぴたりと止まったのだ。
同じようなことは、以前にもあった。シーズン開始の夜会でシェイラがジュークを突っぱねて、二人の間がぎくしゃくし(もともと和気藹々と穏やかだったわけでもないが)、ジュークが顔を見せなくなったことが。ジュークが突然『名付き』の側室たちを訪問し出したときは、シェイラの方が自らの感情に振り回されて、ジュークを拒絶してしまったし。
以前と今とで違うことがあるとすれば、シェイラの部屋に足を運ばなくなるその前に、ジュークが手紙を届けてくれたことだろうか。内容は抽象的で、彼に何が起こったのか想像することは難しかったが、ジュークが現在深い苦悩の中にいることは、文面から伝わってきた。
『俺は、シェイラに想いを寄せる資格も、寄せられる資格もない』
『それなのに、シェイラを好きだという気持ちを、消すことができない』
『シェイラが俺を見限っても、仕方のないことだと今なら分かる。……それでも、ほんの少しでも、そなたが俺に何かを思ってくれているのなら。あの日の言葉の続きはまだ、言わないで欲しい』
そなたを失ってしまったら、俺は。
これからどう生きるべきなのかすら、分からなくなってしまいそうで怖い――。
率直な言葉で綴られた手紙に、シェイラの心は鋭く痛んだ。
『あの日の言葉』――奇しくもあの騒ぎの前日、部屋を訪れたジュークに、シェイラが言おうとしていたこと。
紅薔薇様こそ、身分、才覚、志を兼ね備えた、正妃に相応しいお方です。
紅薔薇様を正式にご正妃様となさり、もう、この部屋にはいらっしゃらないでください――。
何でもない風を装って言おうとした言葉は、勘の良いジュークに遮られた。かろうじて『紅薔薇様こそ正妃に相応しい』までは言えたが、最後の言葉は……別れの言葉は、言えなくて。
ジュークに別れを拒絶されたことに、心の底から安堵した。
そして、安堵した自分を知って、痛いほどに理解したのだ。――諦めることなどできない、と。
『紅薔薇様』が――ディアナが、誰よりも正妃に相応しい存在だという気持ちは、今も変わらない。
降臨祭の礼拝を通して、ジュークとディアナの距離も近付き、ディアナが素晴らしい人間だということに、ジュークも気が付いたようだ。貴族社会全体から誤解されているディアナにとって、噂の方が間違いだと理解してくれたジュークは特別な存在になったはずで、信頼から愛情が芽生えていても不思議ではない。
ディアナがジュークに、恋しているのなら。シェイラは間違いなく邪魔者で、憎むべき存在だろう。
尊敬し、敬愛するひとに、恨まれて憎まれる。とても苦しくて、辛い。
けれど。――そう、分かっていても。
(私は、陛下が……ジューク様が、好き)
不器用ながらも、他者を思いやる優しさ。
子どものように真っ直ぐで、純粋な心。
壁にぶつかっても、決して諦めない姿勢。
不甲斐ない己を嘆きつつも、そんな自分から逃げずに向き合おうと努力する、誠実さ。
それらに彩られた、ジュークというひとが、愛しい。
彼の優しさに、救われて。純粋さに、癒されて。諦めない姿勢に、励まされて。
誠実さに、憧れて。
自らを不甲斐ないと、足りぬと、情けないと嘆く――ありのままの彼を、支えたいと強く思う。
出逢った頃、シェイラにとってジュークは、『王』という半ば固定された偶像でしかなかった。どれほどジュークに言葉を尽くされても、彼は『王』なのだから、可哀想な娘を憐れんでいるだけだと決めつけて、ジュークの心を見ようとしていなかった。それがどれほど失礼で、彼の心を傷つけていたか。
『王様だって、人間よ。悩むことも、間違うことだってあるわ。王だからってだけで、下手に素晴らしい方扱いされて、本質を見てもらえないのは、陛下にとっても不幸ではないかしら』
――大切な友人が、真に言わんとしていたことが、今になってようやく分かる。聡明な彼女には、最初から全部、お見通しだったのだろう。
『王』の色眼鏡を外し、一人の人間として、ジュークと向き合って。
知れば知るほど、彼は完璧とはほど遠い人間だった。
よくよく考えれば、思慮深くて完璧な王なら、そもそもこんな騒動の種にしかならない後宮を開くはずもない。現在の王国にとって最も益となる令嬢を正妃に選び、内宮の管理を任せて、前女官長の横暴を許したりもしなかったはずだ。
直情径行で、思い立ったらすぐ行動。その結果まずいことになって、しゅんとなることもしばしば。
素直なのは結構だが、本音と建て前を見極めることも、使いこなすことも苦手。
良くも悪くも子どものようなひと、それがジュークだ。
普通なら、相手の欠点が見えてくるにつれ、好意は薄れていくのかもしれない。けれどシェイラには、完璧だと思い込んでいた『王』よりも、欠点だらけの『ジューク』の方が、好ましく映った。
不可侵の偶像ではない。自分と同じように、躓き、転び、悩む――等身大の彼にこそ、シェイラの心は動かされたから。
そして。完璧ではない彼が、死ぬまで完璧を要求される、孤独な場所にいることに気が付いて。
思ったのだ。支えたい――と。
『王』は完璧でなければならない。間違いなど、許されない。
完璧な王が好きならば、彼にそれを望むなら、正妃である必要はない。シェイラとて貴族の端くれ、臣下として、下から彼の治世を支えれば良い。
けれど、シェイラが好きなのは、好ましく思うのは、完璧とはほど遠い、ありのままのジュークだ。情けない自分を嘆きながら、それでも不器用に、必死に前に進もうとするがむしゃらな彼こそを、シェイラは支えたいし、……僭越なのは百も承知で、守りたいとすら思う。
『王』でないジュークも、全部ひっくるめて、大切にしたいと思うなら。臣下であってはいけない。彼と同じ場所に――同じ高さに、いなければ。
名実ともに、それが許されるのは。この国ではたった一人。
――正妃、だけだ。
名門貴族の家に生まれ、上流貴族として相応しい品格を兼ね備えているだけでなく。立場の弱い者を決して見捨てない優しさに満ち、厳しい現実に直面しても投げ出さず、事態を好転させる才覚に優れ、王国の未来を守ろうという志に溢れた娘。自らの欲望のため、民を盾にする卑怯者に、一歩も引かず立ち向かう勇気をも併せ持つ。
誰が見ても、シェイラからすら見ても、ディアナ以上に正妃に相応しい令嬢はいない。正妃に必要なものを、ディアナは全て持っている。
分かっている。全て理解していて、けれど、それでもなお。
ジュークの隣で、ジュークを支え、守りたいと思う気持ちを。
正妃になりたいと、願う心を、捨てることができない――。
ふわり。
雪に降られるままだったシェイラの肩に、不意に、ふわふわした暖かいものが掛けられた。我に返って確認すると、見覚えのない毛糸のショールだ。
「……風邪、ひくわよ。そんな薄着で」
「ディー……?」
顔を知らない、シェイラの親友。考え事に夢中で気付かなかったが、いつの間にか、すぐ近くにいたらしい。
この友人とも、会うのは久しぶりだ。後ろにいる友人には見えないだろうけれど、シェイラはゆっくりと微笑みを浮かべる。
「久しぶり、ディー。元気?」
「……えぇ、元気よ」
元気、と答えながら、ディーの声は沈んでいる。原因に心当たりがありすぎるほどあるシェイラは、後ろを振り向かないように注意しながら、首を横に振った。
「あなたのせいじゃないわ、ディー」
「……何のこと?」
「ソフィア様たちとのこと。気にしてくれているのでしょう?」
ディー相手に、図々しいとは思わなかった。この友人はいつだって、自分のことを気に掛けてくれているから。
問われたディーは、少しの沈黙の後、長い息を吐いた。
「ソフィア様たちとのことも、あるけれど。『紅薔薇』だって、酷かったし」
「ディー?」
「あなたを守るって、偉そうに宣言しておきながら。自分の派閥の統制すら取れずに、ソフィア様の行動を見落として。……挙げ句の果てに、礼を尽くしたあなたに、『紅薔薇』は」
自分を慕っていると言ってくれたひとに、あんな言い方しかできないなんて。
ディーには珍しく、その声ははっきりと震えていた。
確かに、ソフィアたちとの対面をジュークに見られたあの日、駆けつけてその場を収束させてくれたディアナに、シェイラは延ばし延ばしにしていた感謝と謝罪の言葉を告げた。もしもこの先、正妃の座を巡って何かが起ころうとも、それはディアナを憎んで敵視してのことではないと伝えたくて、「慕っている」とも言った。
その全てに、彼女は――ディアナは、丁寧に答えてくれたではないか。だけでなく、自分の部屋の侍女を付けてまで、シェイラのことを気遣ってさえくれた。
『紅薔薇様』から酷い仕打ちを受けたなんて、今の今まで、シェイラは思いもしなかった。むしろ自分の方が、分不相応な望みを抱いていることで彼女を苦しめていると、申し訳ないばかりなのに。
震える背後の優しい友に、シェイラは柔らかく笑う。
「ディアナ様は、何も酷いことなどしていないわ」
「そんなことないわ。守れなかった自分を棚に上げて、あんなの……!」
「そもそも、私は、あの方に守って頂く価値なんてないんだから」
「シェイラ!」
怒るディーに、何となくの目測で手を伸ばし、触れた腕をぽんぽん叩いた。
「怒らないで。自分を卑下して言っているわけじゃないのよ」
「……じゃあ、どういうつもりなの?」
「――だって、誰だって、恋敵は憎いものじゃない?」
少し。
ほんの少しだけ、緊張して。
気付かれないように、全力で、背後の気配を探る。
「恋……がたき? 誰が、誰の?」
――どう聞いても、考えても、清々しいほどに純度百パーセントの困惑が、後ろからは返ってきた。
「私が、ディアナ様の」
「何で? シェイラが好きなのは、陛下でしょう?」
「ディアナ様も陛下をお好きなら、私たちは恋敵だわ」
「ちょっと待った! ……確かに、今、陛下と『紅薔薇様』は仲睦まじいご様子だけど。それは、王宮の様子を探るための演技だって陛下から教えられた、ってシェイラ前に言ってなかったっけ?」
「陛下からは、そう言われたけれど。ディアナ様が、陛下のお心を察して、恋心を封じていらっしゃるなら」
イヤイヤイヤ……と即行で否定される。
「陛下が仰るなら、『紅薔薇様』ときちんと話し合われた末のことだろうし。さすがにそれはないんじゃない?」
「そう思いたいけれど……陛下、本音と建て前を見極めるの、あまり得意ではないし」
「あー……いや、そこは信じてあげよう?」
「ディアナ様と親しいソフィア様たちも、『紅薔薇様は陛下をお慕いしている』って仰っていたし」
「見た感じ、そこまで深い話をするほど、彼女たちの仲が良いようには思えないけれど。あの方々の勘違いだと思うわよ。気にすることじゃないわ」
「……それに、年迎えの夜会でのディアナ様は、これまでとは違ったご様子でいらしたわ。もともとお美しい方だけど、内から光り輝くような、そんな雰囲気で。纏う空気もどことなく柔らくて、……お幸せ、そうに見えた」
演技だという陛下の言葉を信じきれず、ソフィアたちの言葉を嘘だと切り捨てられなかった、一番の理由。
それを思い切って告げれば、……背後の気配は、沈黙した。
じわじわと、足元から、恐怖が這い上がってくる。
無音に耐えきれず、大きく息を吸い込んだ。
「ディ、」
「――言われてみれば、確かに。これまでとは、違っていたかも」
軽い、というよりは、『今気付いた』と言わんばかりの声音。
予想していたものとは違う返答に、出そうとしていた言葉が止まる。
聞こえてくる声は、苦笑が滲んでいた。
「そっか。ひょっとして、それもあったのかな」
「ディー……?」
「あぁごめん、こっちの話。……あのね、シェイラ」
一言、一言、区切るように。親友は言葉を紡ぐ。
「シェイラが言うように、確かに年迎えの夜会……というより、礼拝を境に、『紅薔薇』の空気は変わったかもしれない」
「そうでしょう?」
「――けど、その理由を『陛下への恋心』と決めつけるのは、早とちりが過ぎるわ」
だってそんなの、本人に聞かなきゃ分からないじゃない?
あっさりと、難しいことを、親友は言う。
少し考えて、シェイラは尋ねた。
「ディーは?」
「ん?」
「ディーは、ディアナ様の変化が、陛下とは関係ないと、思ってる?」
「そうね……。全く関係ないとは思わないけど。陛下のご様子から見て、『紅薔薇』との仲が改善したのは確かだろうし。って、その辺は私より、シェイラの方が詳しいでしょ」
「そう、ね」
「ただ、『紅薔薇』が、本気の恋を手放すほど、殊勝な性格をしているかって考えるとねぇ……というか、仮に、万が一、彼女が陛下を好きだったとしても、他人に譲れる程度の気持ちなら、シェイラが遠慮することもない気がする」
ディーの言葉に、シェイラはどことなく違和感を覚える。以前の彼女は、シェイラの話し相手になってはくれても、自分から積極的に恋愛について語ったりはしなかった。「私には分からない感情だから」と、ある意味とても公正に、一歩離れた目線からのアドバイスだったのだ。
それなのに、今の言葉は。性格と恋愛を絡ませたり、『好き』の深度を測ったり。
まるで、彼女自身がその気持ちを知り、それ故に想像できているかのようだ。――もしも自分がその立場なら、と。
「ディー……」
呼び掛ける声が震えないよう、気を付けなければならなかった。
ぐるぐる回る思考の中――出てきたのは、シンプルな質問、ただ一つ。
「ディーは、陛下のこと、好き?」
知っている。
背後の親友は、顔は見せなくても、隠し事はしていても、決して嘘はつかないと。
真剣に聞けば、ちゃんと、真摯に、答えてくれる――。
「……そうね。人間としては、好ましく思ってる」
沈黙の後、彼女は、何かを悟ったかのように、静かに言った。
息を呑むシェイラに、次いで笑う。
「けれどそれは、シェイラが陛下を想うような、『好き』ではないわ」
「……本当? だって、」
「違うの。……違うから、分かる」
囁くような、声。シェイラにしか聞こえないそれは、しかし確信に満ちていた。
短い言葉が意味するものを、シェイラは正確に理解する。
ディーは、見つけたのだろう。特別な『好き』を。
そして、だからこそ、断言できるのだ。
陛下への感情は、『恋愛』ではない――と。
親友の言葉は、他のどんな慰めや励ましより、深くシェイラの心に染み込んでいく。
――あの日。『彼女』を見て、あまりにも自然に浮かんだ、突拍子もない考え。
「まさか」と打ち消し、「あり得ない」と否定して。考えないよう努力してきた。
あの思いつきが、もしも『正解』なら。最悪自分は、この世で一番大切なひとを、恋心と引き替えにしなければならないかもしれない。そんな恐ろしい未来は、死んでも考えたくなかった。
でも。親友は、『ディー』は、言ってくれた。教えてくれた。
『側室』としてはタブーとも言える、彼女の心を。――シェイラを信じて、シェイラの気持ちを軽くするために、教えてくれたのだ。
彼女を疑う選択肢は、シェイラには存在しない。
「……ありがとう。ごめんなさい、ディー。突然変なこと聞いて」
「え……と、それは構わないけれど。何かあったの、シェイラ?」
「えぇ。――気付いてしまったの」
「気付いた? 何に?」
――覚悟を決めて、尊敬する親友へ告げる。
「陛下の隣で、同じ目線で、陛下をお支えしたいの。王である陛下も、そうじゃないあのひとも、私には等しく大切だから。その役目は……たとえ『紅薔薇様』にだって、譲りたくない」
そう思ってることに、気が付いたの。
全部言い終わる前に、後ろからぎゅうっと抱きつかれた。
「偉い、シェイラ! 気付いて、認めて、決意するの、本当に大変だったでしょう」
「ディー、」
「でも、ありがとう。あなたなら、誰かに言われたからじゃなく、自分の心に正直に、その道を選んでくれるって、私は信じてた。あなたの勇気を、私は尊敬するわ」
手放しの歓喜、どころではない。最上級の賛辞である。
この親友には、自分がどんな風に見えているのか、ここまで言われるとちょっと怖い。
「お、落ち着いて、ディー。なりたいとは思っているし、譲りたくもないけれど、現実問題として、私は全然、その立場には相応しくないのよ」
「何で?」
「……あのね。陛下のお隣は、正妃様のもので。正妃様には、身分、気品、社交術、政治能力、後はそうね……民を想う慈愛の心とか、気高い志なんかも必要でしょう。現在の後宮で、それらを全て兼ね備えていらっしゃるのが誰かって聞かれたら、私でもディアナ様だって答えるわよ」
「慈愛も志もシェイラには充分あるし、その他は後付けで全然問題ないやつでしょ? 今から頑張れば、二、三年後には何とかなるって!」
「……身分は?」
「そんなの、裏ワザ使えばどうとでもなるわよ。ってか、この国の法律に、正妃の身分を定める条項ってないからね。慣例として、伯爵位以上の娘が選ばれてきたってだけで」
さすがはディー。法律なんて、政務に関わる官吏しか知らないようなことを、よく知っている。
しかし、問題はそれだけではないのだ。
「喜んでくれているところ、申し訳ないんだけどね」
「まだ何かある?」
「あるわ。――今の後宮じゃ、私が正妃を目指すことは、国難しか招かない」
そう。正妃とは、単なる王の妻ではない。
政治的にも極めて重要な意味を持つ、国の未来を左右する存在なのである。
「今、後宮がある程度落ち着いているのは、ディアナ様が『紅薔薇派』をまとめて、牡丹様と対峙しているからよ。私じゃ、ディアナ様の代わりにはなれない。……牡丹様から戦を仕掛けると言われて、それでも一歩も引かずに闘うなんて、勇敢なことはできないわ」
「あー、まぁ修羅場は場数だから……ん?」
後ろでディーが、三秒ほど沈黙して。
「シェイラ、牡丹様が戦を仕掛けたって、どういうこと?」
「え? あ、年迎えの夜会のときにね。ホラ、私たち、贈りものを交換したでしょ?」
「えぇ、もちろん覚えてるわ」
「私あの後、迷っちゃって。うろうろしてたら、話し声が聞こえてね。会場へ戻る道を聞こうと思って近付いたら、そこにいたのが牡丹様だったの」
「え、何それ、大丈夫だったの!?」
「大丈夫、牡丹様は私に気付いてなかったから。……お話、というか、逢い引きにお忙しそうで」
ディーの秘密は死んでも守るつもりでいるが、牡丹様の醜聞を内緒にしてあげる義理はない。ぺろっと暴露してみる。
顔は見えないながらも、ディーが唖然としたのが分かった。
「逢い引き……つまり、男のひとと話してた、ってこと?」
「お話だけじゃなかったけど」
「うわぁ」
「ディアナ様が現れてから、立場が弱くなった……って、相手の人に話してたわ。それで、慰められて……」
大人なシーンに突入、という流れだった。あの光景は正直、恋愛初心者には刺激が強い。
僅かに顔を赤らめつつ、シェイラは首を横に振る。
「私、さっきも言ったように迷ってたから。牡丹様について行けば会場に戻れるかなって思って、男の人と別れた牡丹様の後をこっそりつけたの。……そしたら、牡丹様が知らない部屋に入るのが見えて」
「……好奇心で、覗いちゃった?」
「ご、ごめんなさい」
親友は、深々とため息をついた。
「見つからなかったから良かったものの、お願いだから危険なことはしないで。今は大人しくしていても、彼女はまだ、あなたのことを邪魔に思っているはずよ」
「それは、そうかもしれないけれど」
「あなたに何かあったら、私は、自分が許せない。……だからお願い、約束して」
真摯な言葉が、背中を越えて、直接心に響く。
「自分を、大切にするって。この先何があっても、自分の命を守る覚悟を、あなたには持っていて欲しいの」
「ディー……」
「――お願い、シェイラ」
「……えぇ、分かった。約束する」
シェイラの言葉に、ディーが安堵したのが分かる。
ほっと笑みが零れたところで、「あ、」とディーの呟きが漏れた。
「ところで、シェイラ。牡丹様と逢い引きしていた男性の顔を、あなたは見たの?」
「顔までは……距離があったから、はっきりとは」
「何でも良いの。覚えていることはない?」
「そうね……お若い方だったわ。三十には届いていないと思う。背は牡丹様より高くて……あ」
あのとき、珍しいなと思ったことを、シェイラはふと思い出した。
「髪」
「髪?」
「髪が、珍しい色だったわ。赤銀、って言うのかしら。金属質な赤なんだけど、赤金とは違って薄い感じで。長いから、余計に目立って見えたの」
月明かりに映えて、美しかったことを覚えている。
へぇ……と呟いたディーは、何かを考えているようだった。
「後は……そうそう、牡丹様が、『男爵』って呼び掛けていたから。男爵位をお持ちなんでしょうね」
「推定二十代の、赤銀の髪をした、男爵位の男……か」
「……役に、立つかしら?」
「ものすごく、貴重な情報だわ」
「なら、良かった」
大切な親友の役に立てたのなら、何よりだ。
ほっとしたところで、不意に強い風が吹いた。――寒さに、思わず身震いする。
慌てたように、ディーが言う。
「いけない、私ったら。シェイラに身体を冷やさないように注意しに来たつもりだったのに、うっかり話し込んじゃって」
「そんな。ぼんやり考え込んでいたのは、私の勝手よ」
「それでもホラ、戻る戻る!」
肩を掴まれ、くるっと建物の方を向かされた。強引な彼女に苦笑する。
「あ、それじゃあ、このショール……」
「あぁ、良いのよ、暇つぶしに編んだものだし。今度会うときに返してくれたら」
……手遊びに編んだものにしては、編み目が恐ろしいほど整っているし、裾の模様編みも立派なものだが。言われるまで、専門の職人が編んだものだとばかり思っていた。本当に、この友人の芸の広さには驚かされる。
「……じゃあ、借りるわね。ディーも、長々と居座っちゃダメよ?」
「ありがとう。何か、シーズン締めくくりの夜会の前に、後宮で簡単な宴もあるみたいだしね。風邪ひかないように、お互い気をつけましょう」
そういえば、そんな通達が来ていた。正式な日取りは追って決まるとのことだが、シーズン締めくくりの夜会は今月末だから、少なくとも今月中には、全側室と――王が、集まる機会があるということだ。
(……逢いたい)
親友に見送られ、部屋に戻りながら、シェイラは思う。
今、苦難の中、必死にもがいているであろう、あのひとと。
この後宮で頂点に立ちながら、数多の誤解に心を痛め、それでも凛と前を見据える――強くて、どこか、脆いひとに。
(顔を見て、話が、したいの――)
手紙だけでは。
……声、だけでは。
――きっともう、シェイラは、満足できないから。
† † † † †
斯くして、シェイラが去った後の、廃ベンチの庭では。
『いやぁ〜……突っ込みどころが満載だったねぇ』
「最終的に、シェイラがその気になってくれたから、そこに至るまでの経緯はこの際どうでも良いわ」
『シェイラさんが、雪降ってるのに微動だにせず庭でぼんやりしてるよ』と某フリーダムな隠密に教えられた紅薔薇様が、ショールだけでも届けようとやって来て、結果聞かされた想定外の話の連続に、がんがん痛む額を押さえて息を吐き出していた。
シェイラの、相変わらずな『紅薔薇』賛美とか。
図らずも知ってしまった、『紅薔薇様は陛下をお好き』な噂が疑われない要因とか。
……話の流れで気付いてしまった、あることとか。
――何より、『紅薔薇』の話をしていたはずが、いつの間にか『ディー』のことにすり替わっていた、シェイラの話運びとか。
深く突っ込んだらキリがない諸々が、この短い会話には溢れていたが。
「大事なのは、シェイラがついに、正妃を目指す覚悟を決めてくれたこと! 拾うのはここよ、そうでしょう!?」
『まぁね。ディーと、後宮と、ついでに王様的には、いちばん大事なのはそこだよね、確かに』
ちゃっかりついてきていたらしいフリーダムな隠密――カイに相槌を打たれれば、微妙な気持ちがもやもや湧いてくる、が。
(考えない、今は!)
実際、今は余計なことを考えている場合ではないのだ。ディアナはぱちんと両手で頬を叩き、ふわふわする気持ちを追い出した。
「シェイラが正妃を目指すと決めたなら、私たちの方針もはっきりするわ。さっそくライア様たちと、お父様にもお知らせしなきゃ」
『それと、もう一つ。――牡丹のお嬢ちゃんが、いちゃいちゃしていたっていう男のことも、ね』
顔は見えないが、カイが物騒な笑みを浮かべていることは分かる。年迎えの夜会以降、ディアナと同じくカイも、リリアーヌを殲滅すべき敵と定めたようで、話の中ですら容赦がない。
「赤銀の髪をした、男爵位の男……か」
『思い当たる奴がいるの?』
「シェイラが言っていた通り、そんな髪は珍しいから。いちおう一人、思い浮かぶ人はいるんだけど……」
『へぇ、誰?』
「ノーマード・オルティア。オルティア侯爵の息子よ。長男ではなかったと思う」
『ふぅん、よく知ってるね』
「目立つ髪、って言ったでしょ? どこかの夜会で見たことがあって、目を引かれてね。そのとき話していた人が、私の目線に気付いて、教えてくれたの」
『……ディーと夜会が被る、ってことは、保守派じゃないね?』
「えぇ。オルティア侯爵家は、どちらかといえば革新派寄りの中立よ」
いちおう、貴族は全員、シーズン中最低三回は王宮にて集まるのだが、いくらメイン会場が広いといえど、その人口密度たるや相当なものだ。余程のことがない限り(それこそ、シーズン開始の夜会で派手に転んだディアナ並)、他人の視線の先を特定するなんて荒技は使えない。
優秀な隠密であるカイは、その事情を加味した上で、王宮以外の夜会でディアナとノーマードがすれ違ったと判断したのだろう。聡明な人間は話が早くて助かる。
「リリアーヌ様と、ノーマード様がねぇ……。ノーマード様が、取り立ててお家と反目して、保守派と親しくしているなんて話は聞かないけれど。私が知らないだけで、お父様なら把握していらっしゃるのかしら?」
『腑に落ちない感じ?』
「話したことが無いから、何とも言えないけれど。そんな血気盛んな人には思えないから。ノーマード様が『男爵』って呼ばれていたのも、引っかかるわ」
『長男じゃないってことは、爵位は継げないもんね?』
「そもそも、オルティア家は侯爵位だし」
ノーマードではないのだろうか。しかし、赤銀なんて目立つ髪を持つ人間、彼以外に思い当たらない。
「ひとまず、お父様に報告するわ。リリアーヌ様が男爵位にある方と親しくしている、ってだけでも新情報だもの」
『だね。シェイラさん、顔に似合わずお転婆だなぁ』
「……あんまり、危ないことはして欲しくないんだけど」
『おんなじ言葉を、俺はディーに言いたい』
雪降る庭で、密やかな会話は続く。
――王主催の後宮での晩餐会、『星見の宴』が開催される、それは十日前のことだった。




