閑話その21~寵姫の決意~
自分の目指す場所が、立ちたい場所が、今いるところから果てしなく遠く、道どころか行き方さえも分からないと気付いたとき、人はいったいどうするのだろう?
その目指す場所には既に人がいて、自分がそこに立つためには、その人を蹴落とさなければならないとしたら。
……自分に蹴落とされるかもしれないその人が、その場所にとても似合っていて、そこにいるべき資質を兼ね備えていて、誰より何より尊敬できるとしたら。
自分は――果たして、どうすればいい?
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――今宵もまた、王がシェイラの部屋を訪れる。
「おいでなさいませ、陛下」
「あぁ。……少し、遅くなった」
瞳に気遣ういろを乗せ、そう労ってくれる優しい王に、シェイラは微笑んで首を横に振る。小さなテーブルについて用意していた茶を振る舞うと、ジュークはほっとしたように笑った。
「この部屋で飲む茶は、素朴な味がして良いな。今度アルフォードに頼んで、執務の休憩のときにも淹れてもらうか」
「そのような……国王陛下が愛用なさるほど、大したものではありません」
「美味いものに、値段や質は関係ないと思うのだが……そうだな。シェイラの部屋で飲めることに価値があると、思うことにする」
笑うジュークの表情は素直な少年そのもので、『嬉しい』という感情が溢れ落ちている。彼に笑顔を返しながら、シェイラはしばらく、他愛もない雑談に付き合った。
笑ったり、驚いたり、少しむくれてみせたり。……自分は上手く、振る舞えているだろうか。
時折浮かび上がる不安と闘いながら、それでもジュークとの何気ないひとときを喪いたくなくて、シェイラは笑う。――笑う以外の術を、彼女は知らないから。
ふと会話が途切れ、しんと部屋が無音になった。少し前まで怖くもなかったそれが、今は無性に恐ろしい。
「あの、」
「――まだ、話す気にはなれないか?」
話題を探そうと、口を開いたそのとき、静かな声に遮られた。
僅かな驚きとともに目の前の人物を見ると、彼は胸の奥まで見透かすような深い眼差しで、シェイラをじっと眺めている。
「そなたがずっと、何かに悩んでいることは、分かっているつもりだ。下手に聞くとしつこくしてしまいそうで、切り出す機会を見失っていたのだが……」
言葉を探しながらも、じっと目線を動かさない彼に、取り繕えていなかった己の未熟さを恥じる。……気付かれたくはなかった。優しいこの人は、知ってしまえば心配するから。
「シェイラ。そなたが悩んでいることは、そなた一人で解決できるか? 俺では、相談相手として不足だろうか」
「そのようなことは!」
違う。違うのだ。
ジュークを頼りなく思っているわけではない……こともないかもしれないが、少なくとも相談すれば真剣に聞いてくれるだろうことは分かっている。
『ここだけの話』だと念を押せば、公私混同もしないだろうと、それは信じている。
だから、ジュークが相談相手として不足なのではなくて。ただ、今抱えている悩みを、直接ジュークにぶつける覚悟が、シェイラにないだけなのだ。
正妃に相応しいのは、私ではなくディアナ様だと思う――なんて、そんなことで悩んでいるなんて、ある意味一番、目の前の男には言い難いではないか。
「違うのです、陛下。私は、ただ……」
「ただ、どうした?」
「ただ……自分が、情けなくて」
ぽろりと溢した本音に、ジュークは大きく、目を見開いた。
「情けない? そなたが?」
「私は……国のためにも、王宮のためにも、何もできぬ存在ですから」
――あなたに、何ができるというの。
冷たい声と、侮蔑を色濃く映した瞳が蘇る。
シェイラは静かに、目を伏せた。
年が明けてからの後宮は、一部ざわついていたものの、概ねは落ち着いていた。年末、シェイラに嫌がらせをしていたのは少数の侍女だったということで、後宮は彼女たちの追放を決定。侍女らが仕えていた側室たちも、管理不行き届きの責任を負って謹慎しているらしい。
そんな噂が回ってくるくらいで、代わり映えのしない、けれどシェイラにとっては何より嬉しい平凡な毎日。部屋単位で嫌がらせをされることもなくなり、レイとマリカもようやく安心して、日常業務が行えるようになっていた――そんな、ときだった。
『どなたかと思えば、カレルド男爵令嬢ではありませんか。ちょうど良かったわ。少し、お話ししたいことがありますの。……ご一緒して、頂けますわよね?』
すれ違いざまにドレスの裾を踏まれ、転ばされて。顔を上げたシェイラにそう言い放ったのは――タンドール伯爵令嬢、ソフィア。
『紅薔薇派』において、もっとも発言力があると囁かれている、側室であった。
男爵令嬢のシェイラが、面と向かっての伯爵令嬢からの誘いを断ることはできない。頷き、連れていかれた庭園の死角で、シェイラはある意味想定内の、ものすごく予想外の事態に陥った。
『あなたは、ご自分が正妃の座に座れると、本気で思っているの?』
『ご正妃様に相応しいのは、紅薔薇様をおいて他にはいらっしゃらないわ』
『紅薔薇様より優れていると言うのなら、ほら、今すぐ見せてご覧なさいな』
一対多数のつるし上げ、というものすごくありふれたシチュエーションで、延々投げつけられたのは、いかに紅薔薇様が正妃に相応しく、シェイラなど足元にも及ばないか、という台詞の数々。人目につかない場所でたった一人を責め立てる、その行為そのものは卑怯極まりないが、紅薔薇様賛美の言葉には一も二もなく同意してしまいそうになったシェイラであった。
てっきり、後宮を無駄に騒がせるシェイラが気に食わないのかと思った。しかし彼女たちは、ただただ紅薔薇様のために、『王の寵愛を受けている』という噂のあるシェイラが許せなくて、文句をつけに来たらしい。
少し前までのシェイラなら、「私などが紅薔薇様と張り合うなど、そんな滅相もない」と大慌てで首を横に振って、自分から引き下がっただろう。彼女たちの言葉は正論で、シェイラは自分が正妃になれるなんて、今も昔も思えない。正妃に相応しい気品と貫禄を備えているご令嬢は、この後宮において、『紅薔薇の間』側室、ディアナだけだと、はっきり断言もしたはずだ。
それが嘘でも言えなくなってしまったのは、他でもないシェイラ自身の心の内に、『王の隣に立ちたい』という気持ちが、芽生えてしまっていたからだ。……ただ影ながら支えるだけではなく、できるならば公私ともに、ジュークのパートナーでありたい。そんな気持ちが。
『……正妃をお選びになるのは、私どもではなく、陛下です。どんなご命令であれ、私はそれに従います』
『生意気な!』
ドン!
強い衝撃が肩にかかり、気付けば草の上に突き飛ばされていた。見上げると、燃えるような瞳をしたソフィアと視線が合う。
『陛下の愛がご自分にあると思って、いい気になるのも大概になさい! あなたが分不相応にも陛下のお情けを頂いているせいで、紅薔薇様がどれだけ苦しんでいらっしゃると思うの。恥を知りなさい!!』
大きく目を見開いたシェイラを、ソフィアは馬鹿にしたように見下ろす。
『そんな、当たり前のことすら分からないなんてね。あなたなんかが正妃の冠を戴くなんて、私は絶対に赦さない。――これは忠告よ』
痛い目を見たくなかったら、陛下に、身を引くとお伝えなさい――。
その言葉を最後に、彼女たちは立ち去った。
(そんなはず、ない。だって……)
芝居だ、って仰ったもの。
降臨祭の礼拝から帰ってきて、慌ただしい中シェイラに会いに来てくれたジュークは、ディアナとのことを嬉しそうに語った。
『シェイラが言ったとおり、紅薔薇は聡明で素晴らしい女性だ』
『俺の気持ちがシェイラにあることもお見通しで、力になると、そう言ってくれた』
『これから紅薔薇と仲睦まじい『夫婦』を演じるが、それはあくまでも芝居だからな。俺の心は、これまでもこれからも、シェイラだけのものだ』
そう語ったジュークに嘘はなかったと、シェイラは信じている。
……けれど、もしも。
(ディアナ様が、陛下に、嘘をついていたとしたら)
自分の想いを押し隠して、ジュークとシェイラの仲を、『応援』しようとしてくださっているのだと、したら。……己のことなど二の次三の次で、いつも誰かのために動くあの方なら、いかにもありそうなことだ。
(だって……幸せ、そうだった)
年迎えの夜会で見た、ディアナは。これまでにない、柔らかさを纏っていて。
――本当に、幸福そうだったのだ。
シェイラだけではない。勘の良い人間なら、誰でも気付く変化だった。現に一緒にいたリディルも、『紅薔薇様、何だか美しさに磨きがかかられたような気がするわ』と呟いていたし。
恋をすると、女は綺麗になるという。ディアナの変化の理由が、ジュークへの恋心である可能性は、タイミングから考えても高いはず。――しかし、ジュークが見ているのは、シェイラ。
優しくて、誰よりも優しいあのひとは、だから気持ちを殺すことにして……!
(だとしたら、私は)
どう、すれば良いの――。
ソフィアたちの攻撃は、その後も定期的に行われた。シェイラが一人でいるところを狙って、物陰に引きずり込んだり、『お茶会』と称して部屋に連れ去られたり。
ならば外に出なければ良いだけの話だが、下手に引きこもるとまた、レイとマリカに心配をかける。ようやくいつも通りに戻って安心している二人に、無駄な心労はかけたくない。ソフィアたちは今のところ、攻撃の対象をシェイラだけに絞っており、怪我をするほどの乱暴をされるわけでもない。せいぜい手酷い言葉を投げつけられる程度、ならばシェイラが黙っていれば、後宮は『平和』なままであれる。
シェイラはずっと、動かなかった。――否、動けなかった。
ジュークに『身を引く』と言うことも。
ソフィアに『紅薔薇様と正々堂々戦う』と宣言することも。
どちらもできず、ただ、立ち止まって……今日まで。
「――シェイラ。情けないなどと、そなたが思う必要はない」
沈んでいた思考が、ジュークの声によって引き戻される。のろのろと顔を上げた先にあったのは……慈しみと後悔に満ちた、薄氷の瞳。
感情豊かなジュークがシェイラを見つめ、そっと苦い息を吐いた。
「何もできていないのは俺の方だ。王という地位にありながら、俺は民の暮らしを何一つ知らなかった。……紅薔薇の方がよほど、民に近い」
「紅薔薇様、ですか?」
「あぁ。礼拝の旅の間、逗留する町の祭りを、お忍びで見て回っていたのだが」
「それは、とても楽しそうですね」
「紅薔薇は、とても楽しそうだったな」
道行く人々に臆することなく話し掛け、その土地特有の食べ物や遊びを教えてもらっていたと、ジュークは力なく笑った。
「俺はただ、民の近くにいれば、民のことを理解できると思った。……だが、それは間違いなのだな。見て分かった気になるのと、関わって真に理解することは、似て非なるものだ」
とはいえ、紅薔薇のアレは溶け込み過ぎている気もするが、と笑ったジュークを眺めているうちに、シェイラの胸に、哀しみと理解が押し寄せてくる。
……あぁ。このひとを、本当の意味で支え、導くことができるのは――。
「何もできぬことを情けなく思う必要などない。俺のように、無力を無力と知らず、物事の本質を分かっていないことの方が、余程――」
「陛下」
シェイラは――敢えて、ジュークの言葉を遮った。
「ありがとう、ございます。ずっと悩んでおりましたが、私、ようやく決意いたしました」
「え……あ、あぁ。そう、なのか?」
「はい」
面食らったような彼に、笑う。……大丈夫だ、まだ笑える。
「ここのところ、後宮内では、陛下がそろそろ正妃様をお決めになるのではないかという噂が、流れておりました」
「そのような噂、気にするな。大方、外宮の騒ぎに感化されているだけだろう」
「ですが。いつかは陛下も、正妃様をお選びにならなければならないのでは?」
核心を突くと、ジュークは一瞬押し黙り、そして。
「この話はここまでにしよう、シェイラ」
「いいえ。陛下、私は」
「ここまでだ!」
立ち上がったジュークに負けじと、シェイラも立ち上がる。
「分かっていらっしゃるはずですわ、陛下も! 現後宮で誰よりも正妃様に相応しいのは、紅薔薇様だと!」
「聞きたくない!」
先程まで凪いだ湖面のようだったジュークの瞳に、炎が踊った。
「そなたの口から、そのような言葉は聞きたくない。紅薔薇が正妃に相応しい? あの娘が際立って優れ、民を思う貴い志の持ち主だからか。それだけの理由でそなたまで、彼女と、私の想いを踏みにじる気か!!」
ジュークの剣幕に、言おうとしていた最後の言葉が引っ込む。……これほど荒れたジュークを見るのは初めてだ。
目の前で固まったシェイラに、ジュークは何を思ったのか。――沈黙が二人を支配し、そして。
「……帰る。今日は、そなたの近くにいない方が良さそうだ」
くるりと、ジュークは背を向けて。静かにシェイラの部屋から出ていく。
足音が消え去るのと同時に、シェイラは膝をついていた。
もう、この部屋には来ないでください――。
言おうと思っていた、最後の言葉。決定的な別れの台詞を取り上げられ、無念に思う以上に安堵している自分に気付いて、自分自身を殺したくなる。
離れなきゃ、いけないのに。私はこれ以上、陛下の近くにいてはいけない……。
それなのに、ジュークに遮られたことが、『別れ』を拒否されたことが、こんなにも嬉しいなんて。
こんなにも、好きに、なっていたなんて――。
離れようとして、初めて、自分の想いの深さを知る。いつの間に、これほど激しく、彼を想うようになっていたのだろう。
溢れ出る涙を拭いもせず、シェイラはそのまま朝を迎え。
レイとマリカに案じられながら、朝食の後の散歩に出掛けて。
例によって、例のごとく。
「それで、カレルド男爵令嬢? ご決断なさったのかしら」
出くわしたソフィアに、虚ろな目を向ける。シェイラの様子を見て何か悟ったらしい彼女は、勝ち誇ったように、顔を輝かせた。
「ようやく、ご理解頂けたようね。陛下にはきちんと、」
「できません」
情けない。けれど、気付いてしまった。
もう、自分から、王に別れは切り出せない――。
「紅薔薇様への申し訳なさで、消えてしまいたく思います。……ですが、私が自分から『身を引く』ことは、もう」
「――っ、あなたは!!」
顔を真っ赤にしたソフィアが、シェイラの胸元を掴み、頬に強烈な平手を浴びせる。ぱぁん! と高い音が響き、シェイラはよろめいた。
――その、ときだ。
「シェイラ!!」
響いた声に、時間が止まる。
ここにいるはずのない、その人物は、驚くほどの速度で近付いてきて。
「お前たち、いったいシェイラに何をした! どういうつもりだ!」
その問い掛けに、答えられる者が、この場にいるはずがない。ソフィアは、自分の見ているものが信じられない様子で、目を丸くしたまま固まっている。
「……答えなければ、逃れる術があるとでも? 後宮の秩序を乱した、その罪は重いぞ」
シェイラを背後に庇ったまま、その人物は言い募る。騒ぎを聞き付けたのか、いつの間にかちらほら、人の姿も見える。
……だめ。誰か、誰かこのひとを止めて。
こんな公衆の面前で、『彼』が罰を与えてしまったら。派閥に、政に与える影響は計り知れない。
分かるのに。それなのに、声が出ない――。
「そなたの顔には、見覚えがある。ソフィア・タンドール伯爵令嬢」
止めないと――!
「そなたを」
「――陛下!!」
切り裂くような鋭い声が、この場の空気を一瞬で圧倒し、支配する。
弾けるように振り返ると、そこには。
蒼く揺らめく炎を、背後に静かに踊らせて。
突き刺すような視線を、ただ王に向け。
略装だとしても驚くほどに地味な、ドレスで。
「そこで、何をしていらっしゃるのですか――!」
ぞっとするほどに恐ろしい、ディアナ・クレスター伯爵令嬢が、君臨していた――。




