雪降る『蔦庭』にて
「――それは、どういうことですか!?」
新年が明けてしばらく経ち、久々の四人集合となった、『蔦庭』での茶会の席で。
ライアから聞かされたとある事実に、ディアナは『紅薔薇』の外面を取り繕うのも忘れ、思わず立ち上がって問い返していた。
青い顔のディアナとは対照的に、『名付き』の側室三人は、涼しい顔、とまではいかずとも冷静な表情だ。手ずからお茶を淹れてくれたヨランダが、おっとりと首を傾ける。
「ディアナ様、ひとまず落ち着かれて。ほら、お座りくださいな」
「落ち着けと、仰られても……」
物事には、落ち着けることと落ち着けないことがある。椅子に座り直しながら、ディアナはひたと、視線をライアに固定した。
「シェイラ様に、誰が、危害を加えていると?」
「……そのご様子では、やはり、ご存知なかったのね」
「わたくしにまで、報告は上がっておりません。『牡丹派』の動向は、注視しておりましたが……」
「えぇ。私たちも、『牡丹派』の動きは常に気に掛けていたわ。降臨祭での一件もあったし、後宮近衛の調べは今も続いているみたいですから。……その隙を突かれた、というわけではないでしょうけれど」
「本当、まさかと思ったわ。『紅薔薇派』が――しかも、その中心人物たちが、シェイラ様への嫌がらせを行っている、なんて」
あまりのことに身体を震わせながら、それでもディアナは、「何かの間違いです」とは口にしなかった。ディアナ自身、降臨祭からこちら、自身の派閥である『紅薔薇派』に、そこまでの注意を払っていなかったからだ。
何より、『社交界の花』と謳われるライアが掴んだ情報に、誤りがあるとは考え難かった。
改めて見ると迫力ある美貌の持ち主である『睡蓮様』は、その瞳に憂いの色を乗せ、軽く息を吐く。
「私がこの話を掴んだのも、ほとんど偶然だったの。昨日の午後、少し身体を動かそうと思って外に出たのだけれど、想像以上に寒くてね。急遽、羽織るものを取り替えに、部屋に戻ったのよ」
服を替えるだけで、部屋に長居をするつもりもなかったライアは、特に何の先触れもしなかった。その結果、侍女たちが掃除をしながら話している噂話を、耳に入れてしまったのだ。
『でも……ねぇ? 本当に、紅薔薇様のご意志なのかしら』
『しっ! 滅多なこと、言うものじゃないわ』
そこにすかさず「何の話かしら?」と切り込めたのは、ひとえにライアの社交術の賜であろう。
雑談を、よりにもよって部屋の主に聞かれたと気付いた侍女たちは、ひたすら青ざめて口を閉ざしていたが、そこはライアも慣れたもの。「咎めているわけじゃないのよ」と優しい言葉で、「紅薔薇様とは知らぬ仲でもなし、何かあるなら知っておきたいわ」と一歩も譲らない姿勢を見せ、見事侍女たちの口を割らせたのであった。
「何でもここ最近、後宮の目立たない場所で、『紅薔薇派』に属する側室方が、シェイラ様を取り囲んでいる場面が、何度か目撃されているようなの。けれどこのことは、『紅薔薇様』も知っていることで、むしろ彼女の望みだと、侍女たちの間ではそういう噂になっているみたいね」
「わたくしが、シェイラ様を、苦しめることを、望んでいると……!? そのようなふざけた話が、何故、わたくしの耳に入っていないのです!」
「ディアナ様、ですから落ち着いてください。恐ろしいお顔になっていますよ」
「顔が怖いのは生まれつきですっ!」
いやそれはそうなんだけどそうじゃなくて、とうっかり同意してしまいそうになったレティシアは、慌てて発言を軌道修正する。
「ライア様も、この噂を耳にしたのは昨日のこと、というお話しでしたでしょう? 私も昨日、ライア様からご連絡を頂くまで、この件は存じませんでした」
「レティシア様に同じく。どうやらこの噂、本当にごく一部で囁かれていて、ライアの耳に入ったのはむしろ幸運だったと考えた方がすっきりするわ」
ヨランダの発言を受け取ったディアナは、頭から立てていた湯気を、ひとまず沸騰状態からできたてほかほかのレベルにまで落ち着かせた。大きく息を吸い込んで、カップを手にする。
「……そんなことがあり得るのですか? 噂というものは、ひと度落とされたら最後、際限なく広まっていくものでしょう」
「モノによりますわ。今回に限って申し上げれば、これはわたくしたちの関係が一定以上に広まっていないのと同じことです」
いつも通りの微笑みを浮かべながら、けれど目だけはどこまでも真剣に、ヨランダが答えてくれる。
「ディアナ様が、本当は後宮の安定を望んでいらっしゃることも、そのためにこうしてわたくしたちと良好な関係を築いていらっしゃることも、ここにいる者だけが知っている秘密、というわけではございません。わたくしの部屋でしたら他に、ユーストル家から連れてきたわたくしの側近と、侍女次長にも知らせてあります」
「わたくしの部屋は、全員が知っていますね……」
「『紅薔薇の間』は、少数精鋭を貫いているお部屋ですものね。『鈴蘭の間』はその点、侍女の数はごく普通ですから。信頼を置き、全てを打ち明けて協力を頼めるものは、自然と限られます。ライアとレティシア様も、そうではないかしら?」
「そうですね」
「えぇ。本当に最小限だけよ、『蔦庭』のことを知っているのは」
頷いた二人に首肯を返して、ヨランダはディアナに視線を戻した。
「わたくしたちの関係は、こうして複数人が知っている。けれど、それ以上は広まらない。その理由は、お分かりになるかしら?」
「知っている者が、外へ広めないから……では?」
「その通りよ。それと同じことが、今回起こったの」
「それでは、納得できません」
お茶を飲んで喉を潤し、ディアナはヨランダに切り返した。
「『蔦庭』とは違い、シェイラ様が『紅薔薇派』に囲まれている様子は、不特定の複数人に目撃されているのでしょう? ならば、事情を深く知らない者が、すぐさま話題にしそうなものではありませんか」
「ディアナ様。それは少し、ご自分の影響力を低く見積もりすぎていらっしゃるわ」
眉根を下げたヨランダに、ライアも頷く。
「これまで、シェイラ様に危害を加えようとするのは、『牡丹派』のご令嬢に限られていた。ディアナ様ご自身がシェイラ様の保護を明言されたこともあったようだし、後宮の認識としては、シェイラ様は『紅薔薇様』の庇護下にある、というのが一般的のはずよ」
「降臨祭の間にシェイラ様へ嫌がらせを行った『牡丹派』の方々は、表立った処分こそないものの、侍女の数が減り、今も後宮近衛の監視下にあります。新女官長のマグノム夫人も、グレイシー後宮近衛団長も、表向きは中立ですが、ディアナ様とは親しい間柄。『牡丹派』の勢いはすっかり衰えて、今や後宮は『紅薔薇派』が一手に握っていると、そう申し上げても過言ではないはずです」
「そんな状況で、『紅薔薇派』の中心人物が何をしたとしても、余程のことでない限り、皆見て見ぬ振りをするわ。特にシェイラ様のことは、ライアが言った通り、ディアナ様が一任されていると、そう思っているでしょうから」
「そういうのを、大きな誤解と言うのです……!」
『牡丹派』は現在外聞的な問題から少し静かにしているだけで、むしろリリアーヌに引く気はゼロ。マグノム夫人とクリスは『ディアナ』に協力してくれてはいるが、『紅薔薇派』とは距離を置いている。立ち位置としては、目の前にいる三人と変わりない。
シェイラに関しては、確かに保護すると啖呵を切ったが、それはディアナが勝手にしたことで、シェイラ自身は無派閥だ。彼女の全てを『紅薔薇』が監督しているなんて、そんな馬鹿げた話はない。
そして最大の論点として、嫌がらせの加害者が誰で、被害者が誰であろうと、弱いものいじめは批難されるべきであり、権力に追随して口を噤むなんてことが、あってはならないのである。
「お三方の仰ることは、分からなくもありません。それでも妙です。後宮の侍女全てが、『紅薔薇派』に怯えるような根性なしとは思えません。直接上に上げることはできなくても、例えばこっそり、ユーリやルリィに事情を尋ねたりと、そういった動きはむしろあって然るべきでしょう。何より、シェイラ様への嫌がらせが公然と行われているのであれば、少なくともシェイラ様の侍女や、ご友人方は気付くはず。そこからの音沙汰も、まるでないなんて」
「……今のお話、前半に関しては、実は私も疑問に思っています」
丸い目をくりっと動かして、意外なことにレティシアが、大きく頷いた。
「昨日、ライア様から至急の連絡を頂いて、私も驚いたのです。すぐに部屋の侍女を集め、こういう話が耳に入ったのだけれど、知っていることがあれば教えて欲しいと尋ねました。……そうしたら、侍女たちは本気で驚いていて」
「『菫の間』の侍女たちは、噂を知らなかったと、そういうことですか?」
「私の部屋にいるのは、皆様ご存知の通り、全員が生粋の王宮侍女です。もしこの噂を耳にしていたとしても、確かなことが分かるまで、私の前で口を開くことはなかったと思います。けれど、昨日の様子は明らかに、何も知らない者の驚愕でした」
レティシアが最も信頼している、ルリィの友人でもある侍女は、顔色を変えて「今のお話は本当ですか!?」と問い返してきたという。
「『紅薔薇の間』ほどではありませんが、うちも侍女の数はそこまで多くありません。代わりに、一人一人の実力は優れていると、素人目に見ても実感できます。その彼女たちが、シェイラ様の状況に、まるで気が付いていなかったのが……どうにも、納得できなくて」
「噂が出始めだったという可能性はないかしら?」
「なくはないと思いますが……ライア様とヨランダ様は、噂について、調べられたのですよね?」
「一日だけだから、まだ引き続き要調査、という段階だけれど」
「噂の出回っている層が、妙に限定的だとは、思われませんでした?」
レティシアの問いに、『社交界の花』二人が、すっと表情を引き締めた。
「偶然、の範囲に収めようと思えば、収まる程度のものだけれど」
「レティシア様が違和感を覚えられたのなら、偶然ではない、可能性が強いかしら」
商売に全力を注いでいる父を間近に見て育ったレティシアは、『作為的な数字』に敏感だ。一見自然に見える事象の中から不自然を探し、それをきっかけに新たな商品を産み出すのは、商売人の基本である。
「私のところでは、本当に誰も、噂を知りませんでしたから。手当たり次第、人海戦術で、知っている者を探ることくらいしかできなかったのですけれど。『紅薔薇の間』の侍女と付き合いのある者は、誰一人として噂を知らず、正義感の強い者もまた、シェイラ様のことを知りませんでした。……偶然で片付けるには、少々、座りが悪いように思うのです」
「……確かに、『睡蓮』でも、話をしていた二人以外は知らなかったわね。二人も、偶然ちらりと見てしまっただけだと、繰り返していたし」
「わたくしのところは、どうだったかしら……。連絡をもらってすぐ、ライアと合流したから、部屋付きの者から詳しい話は聞けていないわね」
「――つまり、レティシア様は、侍女たちの間で囁かれている噂の方は、操作されている可能性がある、と?」
ディアナが要点をまとめる。レティシアは、可愛らしい顔を精一杯難しくさせて、ディアナをまっすぐ見つめ返してきた。
「操作というより、この場合は、監理と申し上げた方が適切かもしれません。何者かが噂の動向を常に監視し、一定以上には広がらないようにしている。……私は、そんな印象を受けました」
「だとしたら、安易に噂を追いかけるのは危険ね」
「えぇ。この噂そのものが、『罠』かもしれませんもの」
怖いことをさらりと言いながら、ライアもヨランダも平然としている。年少組二人は顔を見合わせ、ディアナがそうっと下から窺った。
「つかぬことをお伺いしますが、もしやお二人は、この状況をある程度予想して……?」
「いいえ? まさか、こんな短時間でそこまで把握できたりはしないわよ。せいぜい真偽の確認と、噂の当事者たちの様子を確認するので精一杯だったわ」
「――ただ、想定外の情報が転がり込んできたときほど、あらゆる事態を想定して動くのが、もう癖になっていますからね」
にっこり悠然と微笑んだヨランダに、年季の違いを思い知らされる。社交界は戦場だと、常々母と叔母から聞かされていたが、その歴戦の勇士の姿を垣間見た気がした。……安定した地位のユーストル侯爵家に生まれたヨランダが、これまで何と戦ってきたのかは不明だが。
清楚で美しいはずの笑みに圧倒されたディアナは、同じく「怖いよぅ」と目で語っているレティシアと、こそこそ肩を寄せ合った。
「敵う気がしませんね……」
「ディアナ様は大丈夫ですよ。私なんて、昨日のお話で思いっきり動揺してしまって……侍女総動員で噂を嗅ぎ回りましたから、今更ですけどまずかったかも……」
「レティシア様が『名付き』として私たちと親交を持っていることはある程度知られていますから、問題ありませんよ。昨日の行動も、『名付き』の一員としていち早い情報収集に努めた、微笑ましい行為で収まるでしょう」
「表向きは無関係のディアナ様まで、情報が一足跳びで伝わったと知られてしまうと、こちらの密かな繋がりがあっという間にバレますから、あまりよろしくはありませんけれど?」
「あぁ……だから昨日のお手紙には、『詳しいことが分かるまで、くれぐれも『紅薔薇の間』には内密に!』と念が押してあったんですね……」
「……だからソレ、完全に状況が予測できてると思うのですが」
「あら、そんなヒトを策士みたいに仰らないでくださいな。わたくしたちはただ、話の内容が内容ですから、確かなことも分からないうちからディアナ様を噴火させるわけにはいかないと、そう思っただけですよ」
これ以上この件を追求しても、『社交界の花』の底知れなさを味わうだけで、ディアナになんら益はない気がしてきた。手のひらの上で回される球体の気持ちが分かるなんて、そんなことを思ってはいけない。
カップの中のお茶を飲み干し、ディアナは大きく息を吐いて、気持ちを切り替えた。
「噂については、罠の可能性を考慮して、充分注意し取り扱うことに致します。……それよりもわたくしは、シェイラ様の周囲から、報告が来ないことの方が気になるのですけれど」
「そちらについては、ライアとわたくしで調べました。……けれど、あまり良い状況とは言えないわ」
どんなときも微笑みを絶やさないヨランダが、一瞬とはいえ表情を曇らせる。それだけで、事態の深刻さは充分に伝わってきた。
「どういう、ことですか?」
「結論だけを言ってしまえば、皆、知らないの」
「知らない?」
ヨランダの後ろを、ライアが引き継ぐ。
「情報が上がってこないのも、当然でね。シェイラ様への嫌がらせは、昼間、シェイラ様が一人で部屋の外にいるときに限られているみたい。部屋や侍女への被害は全くなくて、もちろんシェイラ様がご友人といらっしゃるときは、接触すらしない」
「それなら、シェイラ様が一人で出歩かなければ……」
「私も、そう思うのだけれど。それとなく聞いてみた感じだと、シェイラ様の一人歩きは、年明け以降、むしろ回数が増えたそうよ」
もちろん毎日ではないけれどね、と付け加えられても、今のディアナには逆効果だ。
「年が明けて、もう一月近く、経過しているのですよ……! その間、わたくしの目の届かないところで、どれだけのことが行われてきたのか、」
「それは、本当に今更だわ。気付かなかった私たちにも、非はある。シェイラ様が、タンドール伯爵令嬢を筆頭とした『紅薔薇派』の側室たちから、理不尽な目に遭っているのは事実。今は、それを食い止めることをまず、考えましょう」
「ライア様……」
力強い励ましに、ディアナの背筋がしゃんと伸びる。
――雪降る『蔦庭』は、その後、即席の作戦会議場と化した。




