年迎えの夜会――開始、のち脱出
新しい年を迎えるための夜会は、開始されたその瞬間から、異様な雰囲気に包まれていた。
「紅薔薇。疲れてはいないか?」
「お気遣いありがとうございます、陛下。陛下こそ、長旅の後でお疲れでしょう。ご無理なさいませんように」
「同じ言葉を、そなたに返そう。お互いに、代わりのない身なのだから」
――シーズン幕開けの夜会のときは、共に現れ最初のダンスを踊っただけで、その後は互いに不干渉を貫いていた王と『紅薔薇』が、今宵は親しく寄り添い、細やかに語らっているのだ。
貴族たちの混乱と動揺は、それはそれはあからさまだった。
「陛下と紅薔薇様は……参拝を通じて、随分と打ち解けられたようですな」
「後宮に全く興味を示されず、令嬢たちを遠ざけられていた一時期を思えば、喜ばしい変化ではありますが」
「これが、陛下が後宮に渡られるきっかけとなるのであれば……」
保守派の中でも権力欲の強い貴族たちは、娘を後宮に上げ、王の寵愛を得ることで、政の中心に絡もうと画策している。そういう者たちにとって、王が『紅薔薇』を重用していると公の場で示すことは、お世辞にも歓迎できるものではない。
そこここで集まり、ひそひそと話す彼らは、ついこの間まで扱いやすかった年若い王が、密かに自分たちを観察していることも知らず、遠回しに王の態度を批判していた。
「――陛下、紅薔薇様。いつも、娘がお世話になっております」
「私は何もしていない。紅薔薇がいつも、よくやってくれているからな」
「光栄ですわ。――わたくしのほうこそ、お嬢様にはいつも、助けられております」
一方で、王と『紅薔薇』が並び立つことを歓迎する者も多かった。彼らはこぞって二人のもとへ挨拶に訪れ、上機嫌で話す。その多くはやはり、後宮にいる娘が『紅薔薇派』に属している貴族だったが、中には後宮とは関係ない者もいた。
その一人一人をしっかり記憶しながら、ディアナは――。
(あああぁ、夜会を乗り越えるごとに忙しくなるってどういうこと! 痛い、視線が本気で痛い! 敵意ある人間記憶するだけで日付変わるぞこれは!!)
上機嫌に笑う『紅薔薇様』の内側で、キレそうになっていた。
後宮に入って、まだ特に何もなかった最初の夜会では、あくまでも『好き勝手振る舞うクレスター伯爵令嬢』であれば良かった。あのときはまだ、『紅薔薇様』として、何か実績を積んだわけでもなかったからだ。
しかし、あのときと今日とでは話が違う。時間こそ、まだ四ヶ月ほどしか経っていないけれど、その間にディアナは当代『紅薔薇』として、王国史上初となる後宮園遊会を成功させ、正妃代理に選ばれて王家の礼拝に同行するという、史実に残る成果を上げたのだ。あまつさえ、王はそんな彼女を寵愛(臣下的な意味で)し、仲睦まじい様子を見せる。彼女を見る貴族たちの目が変わるのは、当然といえば当然の話だった。
それは、分かる。とてもよく分かる――が。
(こんなに忙しくちゃ、シェイラに会いに行く暇が作れない!)
彼女の苛立ちの、主な原因はソレだった。
『紅薔薇派』の側室の中でも、ある程度の上位にいる娘たちは、単独で、連れ立って、あるいは実家の両親と一緒に、挨拶にやって来る。しかし、シェイラや、彼女の友人のような末席の側室たちは、自分たちの立場を重々承知して、決してこちらには近寄ってこない。ディアナにしてみれば、歯痒いことこの上ない展開だった。
「――陛下」
いっそ、期待されてるようなワガママ令嬢を演じて、会場を離脱してやろうか。
ディアナの脳裏にそこまで物騒な思考が過ったそのとき、見計らったかのように、その声は響き渡った。
周囲で騒がしかった人々がぴたりと口を閉ざし、声のした方を恐る恐る振り仰ぐ。ぱっかりと割れた人垣の向こう側から、艶やかな天鵞絨の衣装に身を包んだ、現クレスター伯爵デュアリスが、悠々と近付いてくるのが見えた。
(わぁ、なんだかとっても魔王ちっく)
実の娘でもうっかりそう思ってしまうほど、その様子は迫力満点であった。
会話できる距離まで近付いたデュアリスは、こういった場で一般的に使われる略礼をまるっと省略して、唐突に口を開いた。
「国王陛下。いつも娘が、お世話になっております」
この発言の後ろに怒気を感じ取ったのは、何もディアナだけではないと思う。
周囲を囲んでいた貴族たちは揃って三歩後退り、会話の対象にロックオンされたジュークは可哀想に、数秒呼吸を忘れたようだった。
「あ…………あ、あぁ。ご健勝のようで何よりだ、クレスター伯」
「勿体無いお言葉、ありがとうございます。――ディアナ、元気そうだな」
「お久しぶりです、お父様。園遊会以来ですわね、お変わりありませんでした?」
恐れ多くも国王陛下との会話を、自分から切り出しておきながら最低限の挨拶のみで切り上げ、明らかに違う調子の声で娘に話し掛けるデュアリスの様子を見れば、どれほど鈍い人間であろうとも、彼の目的はすぐに分かろうというものだ。冷酷無情の魔王様と名高い彼ではあるが、身内にまで一切の情をかけないとまでは思われていない。
「ク、クレスター伯。良ければ、少し離れた場所で親子水入らず、積もる話でもなさったらどうだ?」
「よろしいのですか? では遠慮なく、そうさせて頂きます」
ディアナに口を挟む隙を与えず、ジュークから離脱の許可をもぎ取ったデュアリスは、宣言通りディアナを連れると人混みを強行突破した。無言で歩くだけで進行方向の人波が勝手に引いていく辺り、魔王様の本領発揮と言わざるを得ない。
そのまま、休憩用に解放されている小部屋の一つに入り込んで、彼はようやくディアナの腕を離した。
「……ったく、面倒な立場になったものだな、お前も」
「申し訳ありません。ご面倒をお掛け致しました」
社交の場で派手に動くのは、デュアリスの得意とするところではない。彼が自ら動いてしまうと、先程のように影響力が半端でないからだ。
それを重々に分かっていて、それでも父が動いてくれたのは。
「……ま、相手は国王陛下だもんな。エドじゃまだまだ割り込めないし、エリーに力押しはキツいだろ。俺が出るのが、一番早い」
「重ね重ね、申し訳ありません。……わたくし、そんなに分かりやすく、イライラしておりました?」
「いやー? 実に見事なネコ被りだったぞ? ただ、目が笑ってなかったからな。さすがに、親の目はごまかせない」
そう言うと、デュアリスはゆっくりと、微笑みを浮かべた。彼を知らない人には魔王の笑みと映るかもしれないが、娘のディアナには、これが愛情溢れた父の顔だと分かる。
「シリウスから、聞いた。――よく、頑張ったな」
「……わたくしは、何もしておりませんわ。襲われたときも、助けてくれたのはカイですし、十日間留守にしてしまったせいで、みすみすシェイラ様を窮地に陥らせてしまっています」
「だが、お前たちが同行したおかげで、誰一人欠けることなく、参拝から帰ってくることができた。『仔獅子』を仲間にすることもできて、王の頑なな心も解けたんだ。お前が、諦めずに努力した結果だろう」
「お父様……」
優しく、労るように肩を叩かれて、ディアナも自然と笑顔になれた。
「ありがとう、ございます。ですが、まだまだこれからですわ」
「あんまり根を詰めすぎるなよ。お前が嫌になったら、いつでも後宮から引き上げさせてやるからな」
「それで、『お願いします』と言うと思っていらっしゃいます?」
「ったく、その頑固なところは、誰に似たんだろうなぁ」
笑ったデュアリスは、ふと真顔になった。
「――頑固はともかく、あのはな垂れ坊主が一線を越えたら、問答無用で連れ帰るからな」
「それはないと思いますけれど……陛下はあくまで、シェイラ様を正妃にするため、動いていらっしゃるのですから」
「人間の心なんざ、弱いもんだ。気付けば楽に流される」
――俺は、お前を、王家にくれてやるつもりはない。
真顔で言い切ったデュアリスの背後には、やはり怒りが渦巻いていた。
「だいたい何だ、あの坊主は。まるでお前が自分のモノみたいに、見世物にしやがって」
「陛下と二人で立てた作戦の一部ですわ。……あの、お父様、怖いです」
「当たり前だ、怒ってるんだ俺は。……ったく、ディアナがこんな目に遭ってるってのに、仔獅子は何をしてやがる」
『……あー、そーいうこと言っちゃうんだ、デュアリスさん』
声が終わると同時に音もなく、カイがどこからか湧いて出る。
ディアナは、少し驚いた。
「わわ、いたの、カイ?」
「当たり前でしょ、こんな敵ばっかりの場所で、ディーから離れるわけないじゃん」
「だったらとっととあの坊主を殴って、ディアナを保護して欲しかったものだな」
「お言葉ですけど、ソレ、こっちの台詞。あんな人目につく場所じゃ、俺たちはそう自由に動けないし、そうなったらディーの保護はそちらの役目じゃありません?」
姿を見せたカイは、怒りの魔王様を相手にまるで臆すことなく、それどころかデュアリス以上の不機嫌な様子で、彼を見返しさえした。
「あの光景にイライラしたのは、俺だって一緒ですよ」
「そーかそーか。いつでもぶち壊してくれていいぞ」
「……ディーが望むなら、今すぐにでもそうしたいところなんですけどねー」
「男はときに、強引さも必要だぞ?」
「オンナが喜ぶ強引さと、嫌がる強引さの区別ぐらいはできます。……つーか、デュアリスさんってこんなんなんだ……」
「黒獅子から聞いた話と違うか?」
「そう深く聞いたことはない、ですけどね」
男二人の会話は、ディアナにはさっぱり分からない。が、どうやらデュアリスがカイに良からぬことを嗾けていることくらいは読み取れたので、むぅ、と唇を尖らせた。
「私はまだ、後宮から逃げたりしないわよ」
「――分かってるよ。そう怒らないの」
ぽんぽん、と宥めるように頭を撫でられる。どうにもこちら側についてくれたときから、カイに子ども扱いされているように思えてならない。
「うんうん、仲良きことは美しきかな、だ」
……そして、その光景を見て、何故かデュアリスはとても満足そうな顔をしている。ディアナも不思議に思ったが、それ以上にカイが、理解不能の意を表情に乗せた。
「ていうかいいんだ、デュアリスさん的に、王様はアウトで俺はオッケーなんだ……」
「何の話?」
「いやいや、可愛い娘に苦労はかけたくないからな。お父上のことを考えても、お前なら間違いはないだろう」
途端、カイが「げっ」と声を上げる。ディアナはきょとんと首を傾げた。
「カイのお父様って、黒獅子さん? お父様、お会いになったの?」
「そりゃお前、今あいつは、ウチが作った療養施設にいるんだからな。顔くらい見に行かんと」
「……具合、いかがなの?」
「スタンザ帝国から仕入れた薬が、よく効いているらしい。主治医の話じゃ、徐々に快方に向かっているそうだ」
「本当? 良かったわね、カイ!」
喜ぶディアナに微笑みを返しつつ、カイは実に複雑そうだ。
「あー、うん、嬉しいことはもちろん嬉しいんだけどね……」
「黒獅子は、お前に会うのを実に楽しみにしているぞ。――ホレ、手紙を預かってきた」
「最初からこの展開狙って俺誘き出したんでしょ! 大人って汚い……!」
文句を言いつつも、カイは嫌がることなく、差し出された手紙を受け取る。満足そうに笑ったデュアリスは、懐からもう一つ、書簡を出した。
「こっちはディアナ宛だ」
「え、わたくしにも、黒獅子様からお手紙ですか?」
「お前、今は持てないだろ。シリウス経由でリタに預けとく」
「あ、ありがとうございます」
気にするな、と手を振って、デュアリスはおもむろに二人に背を向ける。
「――カイ。お前が出てきたのは、俺に誘き出されたから、だけじゃないだろ?」
「……まぁ、ね」
「連れてってやってくれ。こいつ、ずーっと気が気じゃなかったみたいだからな」
それだけを言い残し、ご丁寧に続き部屋に繋がる方の扉から部屋を出ていったデュアリスを見送って、カイはとことんやりにくそうに頭を掻いた。
「なーんていうか、掌で踊らされてる感がスゴいよねぇ、デュアリスさんって」
「単に魔王面に圧されてるだけじゃなくて?」
「いーや、アレは計算でしょ。俺、ああいう頭使うタイプのヒト、嫌いじゃないけど苦手なんだよねー」
「それは、買い被りすぎのような気もするけど」
デュアリスが知将タイプであることは否定しないが、いつでもどこでも策を練っているわけではない。「まぁ最終的にこの辺に落ち着いたら良いか」だけで動くことも多々ある。
「ま、今はいいや。――ディー。シェイラさん、動いたよ」
「……え?」
「最初の緊張もだいぶ緩んで、みんな散らばり出したからね。その波に紛れて、人気のない方に移動してる。あれは、『ディー』に会いたいんじゃない?」
夜会が始まる前、ジュークに言われた言葉が蘇る。――シェイラは、友人に会えず、寂しそうだったと。
「……案内、してくれる?」
「そのつもりで来たんだよ。ディー、実はずっと、シェイラさんと話がしたかったんでしょ?」
――どうしてこのひとは、何も言っていないのに、自分の気持ちを察してくれるのだろう。そんなに分かりやすく、態度に示したことはないはずなのに。
「うん。……ありがとう、カイ」
「お礼なら、もう充分」
くすりと笑った彼が壁の一部を押すと、隠し通路への入り口がぽかりと開いた。油断ならないこの青年は、後宮だけでなく王宮全体の構造を、把握しつつあるらしい。
誘われるまま通路に入りながら、ディアナはカイを振り返った。
「充分って言うけど、私、あなたにもらった分、返せてないと思うわ」
「ディーは、存在そのものがお礼だから。……今日の、格好だってさ」
パタン、と通路の扉が閉じられる。――暗闇の中で手を取られ、そっと耳元に、彼の息遣いを感じた。
「――すごく、可愛い」
たったそれだけの言葉に、全身が熱くなるような感覚を覚えた自分を、一生の不覚だとディアナは思った。




