神殿へ
チチチ、チチチチ……。
どこからか、鳥の囀りが聞こえてくる。柔らかな朝の日差しを瞼の向こうに感じ、ディアナはゆっくりと目を開けた。見慣れない部屋に、ほんの一瞬思考を止めて、すぐに昨日のことを思い出す。
(あー、そういや絶賛迷子中だった……)
白昼堂々王家の馬車が襲われて、どうやらその標的が自分らしいと察して、咄嗟にその場から逃げ出した。追っ手を撒くため森の中を走り回り、日も落ちてきたところで休もうとしたところを、再び襲われ。
――本気で危なかったところを、まさかの二重隠密に救われたのだ。
これまでずっと、一番肝心なところをはぐらかされ続けてきた彼の本心に、昨夜、ようやく触れられたような気がした。向けられる眼差しは優しくて、温かくて、なのにどこか激しくて。
その感情の正体は不明でも、『守ると決めた』と言い切ったその言葉に嘘はないと、ディアナは確信していた。
(……誰かに四六時中べったり守られなきゃいけないような、そんな可愛いげのあるお嬢様じゃないけど。たぶん、カイが私を『守る』って言ったのは、そういう意味じゃないわよね)
フリーダムにあちこちを嗅ぎ回る彼はおそらく、ディアナが思っている以上に、ディアナのことを知っている。『紅薔薇』であるときの自分が対貴族用の巨大な猫を被っていることも、実は結構ワガママだということも、いじっぱりで泣き虫な一面があることも。
……けれど、それら全てまるごと守ると、彼は言ってくれたのだ。
(にしても、何がカイを、そこまでさせるのかしらね?)
気に入られているのだろうとは思う。ディアナとて、カイのことは好きだ。出会い方はお世辞にも友好的なものとは言えないけれど、そこから言葉を交わし、情報をもらったり他愛ない話を繰り返す中で、友人と呼んで差し支えない程度の関係は築けたはず。友だちを守りたいと思うのは当然のことだし、彼の発言は不自然でないと、そう考えることもできるのだが。
(リリアーヌ様のところを離れてまで、ってトコがねぇ……。自分の身に危険が迫ったから、ってワケじゃなく、昨日の雰囲気だと、完全に私の護衛のためについてきた感じだったし)
カイのこれまでの様子から考えて、リリアーヌに使われていたのは十中八九、報酬目当てだろう。つまり彼は今、お金に困っているということだ。それくらいの想像はつくから、昨夜はほとんど無理矢理、『お礼』という名目で宝石を握らせた。……ほとんど泣き落としで。
「……大丈夫なのかしら、これから」
「ディー? 起きてるの?」
ふと落とした呟きに、扉の向こうから声が返された。人の気配なんてしなかったのに、と驚きつつ、ディアナは身体を起こす。
「さっき起きたわ」
「入るよ」
言いつつ入ってきた彼は、どこにでもいる旅商人のような風情の服装だった。昨晩適当に手に入れた服を、夜の間にいじったのだろうか。彼らのような稼業人は、基本的に器用に何でもこなす。
「早いね。まだ日が昇ったばかりだよ」
「後宮にいるときならともかく、旅先だとね。朝はどうしても目が覚めちゃうから」
「健康的なのは良いことだけど……疲れは取れてる?」
「あ、それは大丈夫。むしろここ数日で一番よく眠れたかも」
「なら良かった」
くすりと笑い、カイは抱えていた包みを手渡してくる。
「これ、ディーの旅装ね。あのままだと、馬に乗りにくそうだったから」
「わざわざ直してくれたの?」
「大した手間じゃないよ。裾切って詰めただけだもん」
「……私よりカイは、ちゃんと休めた?」
そういえば彼は前々から、いつ寝ているのかと真剣に悩むような働きをしていた。昨夜はうっかり押し切られてベッドを占領してしまったが、この少年こそ休息が必要なのではないか。
いつもの黒装束でない、ごく自然に町中に溶け込める衣装を纏った見慣れない彼は、そんなディアナの心配を笑ってかわした。
「俺はもともと、そんなに沢山寝なくても平気なの。これでも『裏』で生きて長いし、短い睡眠で疲れを溜めない術とか、色々覚えてるから」
「そんな便利な睡眠法があるの?」
「教えないからね。ほら、起きたなら着替えて。朝飯食べたら出発しよう」
どうも昨日を境に、カイの自分に対する態度が変わった気がする。雰囲気は違うが、この過保護な感じは。
「……お兄様?」
「へ? エドワードさんがどうかした?」
「ううん、何でもない。……今日中に、ミスト神殿まで行ける?」
ディアナの目下一番の懸案事項はそれだ。馬があれば大丈夫だろうとは思うが、それはあくまで道が分かっている場合である。
ベッドから降りた彼女に、カイは笑顔で頷いた。
「余裕よゆー。早めに着いて、リタさんや『闇』の人たちと打ち合わせするくらいの時間はあるよ」
「……また襲われても?」
同じ笑顔なのに、そう尋ねた瞬間、カイの気配はがらりと変わった。――狩りを前にした肉食獣の、張り詰めた高揚感を秘めたそれへと。
「俺が一緒にいるのにディーを襲おうなんて不届き者は、片っ端から刺しちゃって良いよね?」
はいかイエスしか認めていないその笑顔に、「……目をつけられない程度でお願いします」としか、答えられなかったディアナであった。
結論から言えば、カイとの遠駆けは実に順調で、二人は昼過ぎには、ミスト神殿に程近い町へ到着していた。カイが選んでくれた馬はとても賢く、すぐにディアナに慣れてよく頑張ってくれたし、道も走りやすいものだったからだ。前でリードしてくれた、カイの判断が良かったというのもあるだろう。休憩の挟み方も走る速さも無理のないもので、なのにしっかり距離を稼ぐ。つくづくこの稼業の人間は万能だと、ディアナは半ば呆れて彼を眺めていた。
「どうかした?」
「カイって、できないこととかないのかなーって思って。いや、あなたに限った話じゃないけど」
現在二人は、神殿近くの町で、少し遅いお昼ご飯中だ。お祭り期間中、しかも本日は前半最後の日とあって、お得な値段で美味しい料理を沢山食べることができる。その中でも評判という大衆食堂を選んで、二人はくつろいでいた。
「得意不得意はそれなりにあるよ、人間だもん。でもま、『苦手なんでできません』なんて言ってたら、仕事にならないからね」
「裁縫とか料理って、仕事に必要?」
「生きるためには必要でしょ。チーム組んでる人たちなら、それぞれの得手に合わせて分担するのかもしれないけど、俺は基本一人か、父さんと二人だから。一通りはこなせないと、生活できない」
この町の名物だという肉をぱくつきつつ、何でもないことのように彼は言って、ディアナに視線を合わせた。
「俺の知ってる業界の人たちは、別にそこまでの万能選手揃いってわけでもなかったよ。そっちの人たちは違うの?」
「シリウス筆頭に、基本なんでもできるわね。……だからたまに、ズルいって思う」
「ズルい?」
ぽかんとこちらを見る宵闇の瞳に、ディアナは軽くむくれてみせた。
「だって、私たち女はどう頑張っても、力では男の人に敵わないのに。男の人は力も強いし、他のことだって万能にこなせるなんて、絶対ズルい」
「……それは色々買い被り過ぎだと思うよ? ディーが思うほど、男は万能ってわけじゃない」
「よく言うわよ、さっき一通りこなせるって言ったくせに」
「『こなせる』だけだって。念のため言うけど、俺は人並みに料理はするけどお菓子なんて作れないし、服の修繕くらいの針仕事ならできるけど、刺繍とかレース編みとかの細かい作業はできないからね」
「……そうなの?」
きょとんと首を傾げると、彼は優しい目をして笑った。
「言ったろ? 俺は、生活に必要な家事技能を覚えただけ。仕事のための技術ならそりゃ磨くけど、さすがに俺みたいなのにお菓子作りとかレース編みとかを要求する依頼主はいないでしょ?」
「……いたら大変ね」
「そーいうこと。大体俺、ちまちました作業、もともと苦手だから。飯の用意するときも、何度塩と砂糖間違えて怒られたことか」
「それはちまちま作業以前の問題よ。そんなドジ実際にやらかした人、初めて見たわ」
ざっくばらんな語り口調ながら、彼がディアナを気遣ってくれていることは、十二分に伝わってきた。くすくす笑うディアナを、カイは穏やかな眼差しで眺める。
「最初から何でもできる人間なんていないし、努力したってできないことはやっぱりあるよ。それでも、ディーの家の人たちが『万能』に見えるとしたら――きっとディーたち家族のために、そうあろうとしてるんじゃないかな」
「……私たちの、ため?」
「例えば万一、水も食料もない状態に陥ったとき、それでもディーたちを守れるように。自分の力不足ゆえに、大切なひとを喪わないように。……分かる気がするよ、そうやって一生懸命になる気持ちは」
「それ、は……」
何かを喪う痛みを、恐怖を、この人も知っているのだろうか。せめてあのとき、もっと自分に力があれば。……そんな後悔を抱いたことが、この人にも。
ふと過去に引き摺られそうになった心を、ディアナは首を振って追い払った。
「……みんながそう思ってくれるに足る者で、私はあるのかしら」
「その言い方だと、自信はなさそうだね」
「恥ずかしくて持てないわ、そんな自信」
「いーんじゃない? 何かを守りたい動機なんて、人それぞれだし。ディーだってそうでしょ?」
「私?」
「シェイラさんとか、後宮とか、国とか。そういうのを守りたいのって別に、それに守る価値があるからとかじゃないでしょ?」
言われて、気付く。自分の中にもある、『守りたい』という想いを。
「私が、守りたいと思うのは……」
「思うのは?」
「……単純に、その人たちが好きで、笑っていて欲しいと思うから」
「ね? もし、守られる『何か』に価値があるんだとしたら、それはそう思わせたそのものだと、俺は思う。守る側にとっては、喪いたくないものなんだから」
「でも……世の中には、ただ位が高いからとか、それだけの理由で守られる人間が大勢いるわ」
「位が高いことに価値があると思う奴が守るんだろうから、それはそれで構わないんじゃない? 位を嵩にきて無理やり自分を守らせようとする人は、古今東西ろくな死に方しないしねー」
そういう人に雇われることが多いだろう彼が言うと、一般論が一般論に聞こえなくて怖い。食後の温かいお茶を飲みつつ、ちょこっと冷えた背筋を気にかけていると、カイがふと顔を上げて笑った。
「ディー、見て。お迎えが来たよ」
「お迎え? ……あ、」
どこにでもいる行商人の姿で、荷物を抱えながら空いた椅子を探してふらふらしている、一人の男。――よく知った顔でも、カイに言われなければ見逃していただろう。
「よう、お二人さん。悪いがこの席座ってもいいかい?」
「良いよ。俺たち、もうそろそろ出るところだし」
こういう場所ではありふれた会話。カイと男はごく自然にふるまい、ほどなくして食事を終えたディアナとカイは店を出た。人混みに紛れ、店から完全に遠ざかったところで、カイは手の中の紙を開く。
「――一時間後に、神殿横にある建物の裏で、だって」
「……随分まどろっこしいやり取りしたのね」
「昨日襲われたばっかりでしょ? 『闇』の人たちにとっては、当たり前の用心だよ」
「さっきのが『闇』の一人だって知ってた?」
「いや? でも、同業者は大体雰囲気で分かるから」
さらりと言い切る辺り、玄人の矜持を感じさせる。ディアナはふと、カイの手を取った。
「わ、どーしたの?」
「今度、短刀の使い方教えて。私だって、色々できるようになりたい」
「……とりあえず、ちゃんと王宮に帰ってからね」
ぎゅ、と握り返された手は、ごつごつしていて温かかった。




