閑話その14~隠密少年の内実~
彼のターンまでに60話以上かかるなんて、連載開始時には思いもしなかった……。
予告していた通り(?)、カイ視点のお話です。
堕ちる、という言葉がある。
自らの意思とは関係なく、ただ衝動に押され、どうしようもない感情の渦に翻弄される。
立ち止まることはできず、制御することも不可能。
気付いた時には既に手遅れ、知らなかった頃には戻れない。
だから『堕ちる』と呼ぶのだと、理解したときには遅かった――。
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カイは、己の出自を知らない。物心ついたときにはもう、今の『父親』の背に揺られ、王国中を旅する生活を送っていた。
各地で『仕事』をしている父親には知り合いも多く、カイは周囲の会話からごく自然に、自分は捨て子で父親に拾われ育てられたこと、父の仕事は、日の当たる場所には決して出ることのない種類のものだということを、早くから察していた。それでも、彼は別に、自らの人生を悲観したことはない。
仕事仲間や依頼主からは『黒獅子』と呼ばれる父は、不器用ではあったが優しい父親だった。速く、強く、けれども決して、無意味な力は振るわない賢明さを併せ持つ、彼の尊敬する父。いつだって愛情深く、自分を見守ってくれていたことを、カイは知っている。
そんな父親に憧れて、成長するに従い彼は、父の真似をして武器を持ち、仕事を手伝うようになった。優しい父は同時にこの上なく厳しい師匠でもあり、『武器を持つからには覚悟を決めなさい』と、容赦のない稽古をつけてくれ。
その特訓のおかげか、それとももともと素質があったのか、カイはめきめきと腕を上げた。単純な戦闘だけでなく、暗闇に紛れての情報収集から、人の住む町に降り、そこでしばらく暮らしながら標的を探る諜報術まで、およそ『裏』の人間として生きるには問題ない程度の技術を、手に入れていったのである。
カイが仕事に慣れてきた頃から、父にだけではなく彼にも、『裏』の仕事は舞い込むようになっていた。『黒獅子』の有能ぶりは『裏』の世界では有名で、仕事の依頼が途切れることはなかったが、二人の暮らしは楽なものとは言えなかった。
――その理由は、はっきりしている。
『いいか、カイ。どんなに実入りの良い仕事でも、『クレスター伯爵家』に関わるものは、絶対に受けるな』
これが、父の口癖であり、彼が唯一、己に課している『縛り』だった。
父と一緒に仕事をしているうちは、その選り好みも気にならなかったが、自分一人で動くことが増えると、それがいかに難しいことかはすぐに分かる。何しろ、『裏』の世界全体を『表』から支え、いざというときの受け皿になってくれる存在、それが『クレスター伯爵家』なのだ。『裏』から回ってくる仕事で彼らに繋がっていないものはほとんどないし、『表』からの依頼で『クレスター家』が絡まないものは、何かしらキナ臭い感じがする。
『どうして父さんは、そんなにクレスター家が嫌いなのさ?』
尋ねたのは、いい加減、仕事を選り好みする手間が惜しくなったからだった。『黒獅子』の評判と彼の腕をもってすれば、もっと効率よく仕事ができるのに、と。
問われた父は一瞬惚けた後、どこか苦しいような、それでいて懐かしい昔を思い返すような、そんな複雑な表情になった。
『嫌いなわけじゃない。ただ俺が、あの方々に、顔向けできないだけだ』
『顔向けできない?』
『昔……な。俺は、絶対に赦されないことをした。知らなかったこととはいえ……俺がしたことを考えると、あの方々の前に顔を出すことなど、とてもできない』
『けど、『クレスター家』の人たちは、そんなこと……』
彼らが、『黒獅子』に悪感情を持っていないことは、それなりに『裏』を渡れば自ずと分かる。気にしすぎではないのかと言外に告げた息子に、父は柔らかな笑みを返した。
『分かってるさ。あの方々は気にしていない。本当に貴族か? って疑いたくなる程度には、『クレスター家』は懐が深いからな』
『だったら……』
『だがな。そんな彼らの温情に甘えることは、俺自身が許せないんだ』
――だから、クレスター家には関わらない。
そう言い切った父は、ふと温かな眼差しを、カイに注いだ。
『しかし、カイもそんなことが気になる年頃になったんだな。これまでは俺に付き合わせてしまったが、お前が自分で選ぶ仕事なら、これからは俺に合わせることもないぞ?』
『――今更そういうこと言わないでくれる? 最近じゃ俺、父さんの息子ってことで、『仔獅子』って呼ばれてるんだ。これで俺がクレスター家関連の仕事受けたら、父さんのことまで一直線で筒抜けちゃうでしょ』
父とクレスター家の間に、何があったのかは分からない。けれども、尊敬する大切な父親が、そこまでの覚悟を持って『関わらない』と決めているのなら、その決意を裏切るような真似をするつもりもなかった。
……なかった、のだが。
「黒獅子、さんか。聞いたことあるわ。シリウスに勝るとも劣らない腕を持つ、裏社会の重鎮の一人、よね?」
「重鎮かどうかは知らないけど。そこそこ有名ではあるらしいね」
今、カイの後ろをてくてくついてくるのは、絶対に関わらないと決めたはずのクレスター家の末娘、ディアナ。すっと通る鼻筋に切れ長の瞳、弧を描いて赤い唇を持った文句なしの美人だが、その顔立ちはお世辞にも『善い人』には見えない。無表情時は何か企んでいそうで、微笑みを浮かべれば悪巧みを思いついたようにしか見えない、実に見事な『悪人顔』だ。クレスター家の顔については父から以前に聞かされていたものの、こうも素晴らしく悪そうだと、感心を通り越して笑うしかない。
「カイが黒獅子さんの息子だったなんて、シリウスが聞いたらびっくりするわよ」
「シリウスさん、知ってるっぽい感じだったけどねー。それに俺、父さんの本当の子どもじゃないし」
「何言ってるの。黒獅子さんがあなたを息子だって思ってて、あなたは彼を父親だって思っているなら、あなたたちは紛れもない親子だわ」
……ただし、悪そうなのはあくまでも見た目のみ。こうして話をすれば一目瞭然だが、彼女は見た目と中味が面白いほど食い違っている。
『あなたのことを教えて』と言われ、カイはとりあえず、自分が『黒獅子』と呼ばれる男に拾われ、育てられ、共に仕事をしてきたことを語った。『黒獅子』がクレスター家を避けていることは、どうやら彼女は知らないようなので、敢えて伏せておく。
――父が避けていた『クレスター家』と、有無を言わさずぶつかることになったのは、やはり父が原因だった。これまで元気で、カイが知る限り風邪一つひかなかった父が、今年の夏頃、突然倒れたのだ。
慌てて馴染みの医者に診てもらったところ、どうやらとても珍しい病に罹ったらしいことが分かった。必要なのは安静と療養、そして、山を越えた先にある砂漠の国で採れる、とても稀少な薬草だと聞いて、滅多にないことではあるが、カイは目の前が真っ暗になった。
仕事をひたすら選り好んでいた彼らは、ほとんどかつかつの暮らしだった。蓄えなどあるはずもなく、当然、そんな薬草を買う金もない。医者が遠慮がちに言った『クレスター家に連絡しようか』という申し出も、『黒獅子』は丁重に、しかしきっぱりと断った。
『このままでは、今年の冬は乗り切れん』
難しい顔で医者に告げられたカイは、父との約束を破ることを決めた。
『――俺が、金を稼いでくるから。父さんを、絶対に治して』
仕事を選ぶ余裕などない。医者に父を預け、カイはその足で王都へ向かい、最も報酬額が高い仕事に問答無用で飛びついた。――それが、よりにもよってクレスター家を『敵』に回す内容であったのは、これまで彼らから逃げ回ってきた報いだったのか。
どこぞのお屋敷に集められ、偉そうな男から仕事の詳しい内容を聞いて――標的が、後宮の『紅薔薇の間』に入ったクレスター伯爵家の令嬢、ディアナであることを知り、集まっていた『裏』の玄人たちは、一も二もなく戦線離脱した。『クレスター家を敵に回そうとするなんて、こいつら馬鹿じゃねぇのか』という悪態と共に。
そんな中、一人残ると宣言したカイに、世慣れた先輩たちは、青い顔で忠告してきた。
『お前も馬鹿なのか!? クレスター家を敵に回して、無事で済むわけがない。それくらい分かってるだろ?』
『んー、話にはよく聞くけど。実際どんな風に怖いのか、俺知らないし』
『これまでこっちの世界で生きてきて、クレスター家と関わったことないのかよ?』
『うん』
彼らはまじまじと、カイを見つめ返してきた。
『……すげぇな。かなりの奇跡的確率だぜ、それ』
『そうなの? ま、俺まだ若いし』
『若いからって経験浅いわけじゃないだろ。……悪いことは言わねぇ、やめとけ』
『心配してくれるんだ? ありがと。……でも、ちょっと緊急に、金が要るんだよね』
『クレスター家を敵に回してまで、必要な金なのか?』
『じゃなかったら、俺も逃げるって』
軽い調子で引く気のないカイに、彼らは深々と溜め息をついた。
『……一応、忠告はしたからな』
『うん、分かってる。俺も、クレスター家の逆鱗に触れない程度に、頑張って立ち回るよ』
人の好い同業者たちに別れを告げ、カイは単身、後宮へと乗り込んだ。
そこで顔合わせした『雇い主』は、これまでカイが関わってきた中でも、最悪の部類だった。顔だけは可愛いが、本当に顔だけだ。
『紅薔薇の弱みを探りなさい!』
『陛下はどうしてあたくしのところに来ないの! 陛下があたくしを見るようにするのよ!』
『紅薔薇はきっと、あたくしの命を狙っているわ。あたくしを守って!』
その日の気分でころころ命令を変え、気に食わないことがあると怒鳴り散らす。しかしそれはプライベートルームの中だけで、一歩部屋の外へ出れば、貴族の女子から慕われ、『守ってあげたくなる』可憐な少女を演じる娘。
『牡丹の間』側室、リリアーヌ・ランドローズ――彼女こそ、カイが指示を受ける、直接の雇い主だった。『裏』で生きるカイのことなど、同じ人間とも思っていまい。使えないと分かったら、いつでも捨てる気満々だ。
最初の契約で、何とか報酬だけは週給制で払わせることを約束させ、それがひとまず履行されているからこそ、カイは外面だけはおとなしく、『牡丹様』の命令に従った。とはいえ、『紅薔薇様』の部屋には常時護衛が張り付いていたし(クレスター家に代々仕える、『闇』と呼ばれる集団だということは予想がついた)、王様の気を『牡丹様』に向かせるなんて土台不可能だし(何しろ彼は初恋の真っ只中だ)、『紅薔薇様』は別段『牡丹様』に危害を加えようとはしていなかったので、カイの仕事は主に、後宮をチョロチョロしながら有益そうな(かつ、クレスター家の逆鱗に触れない程度の)情報を仕入れ、『牡丹様』にちまちま告げ口することに絞られた。プライドだけ無駄に高いお貴族様は、とりあえず言葉と態度でその自尊心を満足させておけば良いので、対応さえ間違えなければそこそこ長く金蔓にできる。
……が、それはそれとして、『紅薔薇様』について何らかの情報を流さなければ、彼女の苛立ちが解消されないことも確かだった。かといって、『紅薔薇様は実はそこまで悪い人でもなくて、後宮の安定だけに心を砕いているようですから、あんまり目立った真似さえしなければ、彼女を怒らせることもないと思いますよ』なんて本当のことを言うわけにもいかない。そんなことをしたら最後、クレスター家の『闇』の皆さんに取り囲まれておしまいだ。
せめて、彼女の顔と声がはっきりと分かる距離まで近付きたい。天井裏で、そうじりじりしていたカイに、機会は意外と早く訪れた。
王宮で開かれた、夜会の最中。ちょっとした騒ぎが起こり、『闇』の護衛が彼女の傍から離れたのだ。これを逃せば、次にいつ、彼女に接近できるか分からない。
カイは天井裏や隠し通路を駆使して、『紅薔薇様』を追いかけた。たどり着いたのは、王宮の片隅。彼はそこで、思わぬ場面を目撃する。
『……どう、なさったの?』
落ち着きあるたおやかな女性の声を出し、心配そうな表情で、角の向こうの『寵姫』を気遣う『紅薔薇様』――ディアナ・クレスター。自分だと気付かれないよう注意しながら、それでもその瞳には真摯な光を浮かべて、彼女は心の底から真剣に『寵姫』を案じ、励ましていた。
そこにいたのは、後宮の頂点に君臨する『紅薔薇様』でも、なみいる貴族を手玉に取る『氷炎の薔薇姫』でもなかった。心配そうな顔をしたかと思えば、『寵姫』が溢した笑みにほっとしたように笑う。予想外のことを言われて当惑したり、悩んだり。――等身大の、ただの女の子『ディー』が、そこにいた。
「……カイ? どうかした?」
「え? あぁ、何だっけ?」
いつの間にか、思考の渦に沈んでいたらしい。初めて見たときと変わらず、ディーは素直な表情を、カイの前で浮かべる。
「なんか、難しい顔してたから。大丈夫?」
「俺は平気。そろそろ小屋につくけど、ディーこそ身体は大丈夫?」
いくら彼女が規格外のお嬢様でも、さすがにドレスで山道を走ったのは初めてのはずだ。歩くペースが速かっただろうかと思い返していると、不意にディーが、服の裾を掴んできた。
「そうだ、それも聞きたかったの。『ディー』って、その名前……」
「……あ、」
……しまった。焦っていたせいか、自分の中で馴染みのある方の名前で、さっきからずっと呼んでいた。森の中で彼女を見失ったことに、自分で考えていた以上に、動揺してしまっていたらしい。
夜会が終わってから、後宮は俄に慌ただしくなった。『紅薔薇様』が他の『名付き様』と協力し、新たな隠し派閥を作って、弱い立場の側室たちを守ろうと動き始めたからだ。と同時に『牡丹派』では、夜会の中で国王が接触した側室についての情報が飛び交い、カイの立場としても、これ以上黙っていることはできなくなっていた。苦渋の選択でシェイラ・カレルド嬢について話したのは、自分が黙っていたところでバレるのは時間の問題だと思ったことが一つ、もう一つは、『紅薔薇様』が『寵姫』を気に入っていることを、誰よりもよく知っていたからだ。
『紅薔薇の間』にいる『紅薔薇様』を探ることは、現実的にほとんど不可能だった。ほんの一度か二度、護衛の交代の隙間を縫って接近したことはあったが、すぐに見つかって追い払われる。下手に粘って本格的に狙われては本末転倒なので、『闇』たちが許容できるギリギリの範囲で、カイは立ち回っていた。必然的に、カイが観察できる『紅薔薇様』は、部屋の外にいるとき、それも彼女が意図して一人で出歩いているときに限られる。――それは、かなりの割合で、彼女が『ディー』として、シェイラと話をしているときだった。
シェイラを元気づけ、前向きになれるよう励ます彼女は、普段『紅薔薇』であるときとはまるで違う。姿を見せず、声だけで演技している分、素直な感情が顔に表れているのだろうか。笑って、怒って、落ち込んで。くるくる変わる表情は、見ているだけで飽きない。
カイはそう経たないうちに、『ディー』でいるときの彼女が『素』だと気づいていた。『紅薔薇』ではなく、ただ自分自身としてシェイラと話したいからこそ、彼女は『ディー』を名乗っているのだと。
普段の自分を『紅薔薇』という仮面で覆い隠しているという一点だけを見れば、彼女とリリアーヌに違いはないはずなのに、受ける印象はこれほどまでに違う。
最初から――そして、今も。
服の裾を掴むディーの手を、驚かさないよう、カイはふわりと覆った。
「そ、『ディー』が、後宮で『素』でいるときの、ディアナの名前でしょ?」
「間違ってはいないけど……その名前を知っているのは、シェイラだけのはずよ?」
「えぇっと……。実は、二人が最初に廊下の隅で会ったときに、こっそり覗いてちゃったり?」
えへ、と笑ってごまかしてみる。言われた方は、その答えを予想していたらしい。じとっとした目で睨んできた。
「全く……油断も隙もないわね」
「怒った?」
「あなたは『牡丹派』の隠密だもの、私が怒る筋合いじゃないわ」
「間違えないで、隠密『だった』だよ。今はもう違う」
そう、あのとき――初めて彼女と正面から向き合った、あの瞬間から。自分は、心のどこかで、『牡丹』の隠密であることをやめていた。
『紅薔薇』にシェイラを奪われ、激昂したリリアーヌは、部屋に戻るなりカイに向かって『紅薔薇を殺しなさい!』と叫んだ。それにひとまず従ったのは、どうせ今意見したところで聞く耳なんか持たないだろうと思ったのと、そろそろ直接、ディアナ・クレスターと話をしてみたかったからだ。
実際に相対した彼女は、予想通りに聡明で、想像以上に純真だった。命を狙われたにもかかわらず、カイの言葉を丁寧に紐解き、彼が望んだことを読み取って。『何かあったら、いつでも力になるから』とまで、彼女は言った。
正直なところ、クレスター家に頼るつもりは、あのときも今もカイにはない。ただ、あの接触で、カイがクレスター家に害意を持っていないことを伝えられたらそれで良かった。クレスター家に『敵』認定さえされなければ、いざとなったらどこへでも雲隠れできるからだ。
それでも、襲ってきた相手の『力になる』とまで言い切れる、その懐の広さと強さ、真っ直ぐさが眩しくて。どうせここまで関わったなら、いっそもっと深く関わってみようと、不思議な気まぐれが働いた。その結果が、『二重隠密』だ。
表向きはこれまで通り『牡丹』に雇われたままで、カイは積極的に『紅薔薇』へと情報を流した。最初はちょっと控えめに……そのうち、そんな抑えも忘れてじゃんじゃんと。近くに行けば行くほど、ディーの危なっかしい様子が見えて、放っておけなくなったのだ。
『紅薔薇様』として後宮の安定に奔走する彼女は、カイから見れば、無理無茶無謀のオンパレードだ。十七歳の女の子の容量を、完全に越えてしまっている。園遊会なんて行事が舞い込んできて、協力的でない女官を相手に四苦八苦。何もかも背負い込んで無茶をする彼女に、何故だか猛烈な苛立ちを覚えた。
(何で、そこまでするの? ディー自身には、何の益にもならないことなのに)
きっと、気付かぬ間に重ねていたのだろう。縁もゆかりもない子どもを引き取って、働いて働いて育て、挙げ句具合が悪いことなんて一言も言わずに倒れた――お人好しで無理ばかりする、彼の父親と。
その苛立ちが頂点に達したのは、園遊会で、彼女が泣き崩れた瞬間だった。まるで張りつめた糸が切れるかのように、母親に縋って涙を溢す彼女を、カイはただ、苛立ちと無力感を胸に、眺めていることしかできなかった。そんな自分が、腹立たしくて。
(分かっていたのに……俺は、何もしなかった)
泣かせたくなかった。くるくると表情を変える『ディー』が彼は好きで、いつだって幸せに笑っていてくれたら、その笑顔を与えるのが誰でも構わなかった。
その笑顔を――誰よりも、一番近くで守れたら。
(――譲りたくない)
そう考えた自分に、カイは驚いた。仕事の対象に個人的な感情を抱くのはタブーだ、それなのに、いつの間にか育っていた想いは、気付いたときには手遅れで、自分の中に居座っている。
この感情を無視することは、自分には、できない。
――手を取り合って歩を進め、カイはディーを、麓の村を見下ろせる山小屋に案内した。『裏』の者たちの拠点の一つになっているそこは、簡単な着替えくらいなら用意してある。……が、さすがに女物はない。
カイは旅人風の衣装を一式取り出すと、ディーを振り返った。
「俺、ひとっ走りして、ディーの服を買ってくるから」
「一人で行くの?」
「さすがにその服じゃ目立つでしょ。着替えたら、二人で村に降りて、明日の準備を済ませちゃおう?」
座ったディーの頭をぽんぽんと撫でて、カイは外へ出るとさっと衣装を替えて、麓の村へ降りていった。この国は今、一年で最も賑やかな祭りの真っ最中で、夜も灯りが絶えることはない。そこそこ大きな村だけあって、出店も豊富だ。
ある程度動きやすい衣服を揃えて小屋に戻ると、ディーが何やら暗がりでごそごそやっていた。
「……何してるの?」
「ひゃっ! びっくりしたー、気配消さないでよ」
「別に消したつもりはなかったけど」
普段のディーなら、扉が開く音くらい聞こえたはずだ。やはり、随分疲れている。今日は村に宿を取った方が良さそうだ。
「で、何してたの?」
「あ、私の服なのに、お金払わせちゃったと思って……換金できそうなものがないか探してたんだけど」
豪華なドレスを着た少女は、しょんぼりと肩を落とす。
「宝石も衣服も、やっぱりそこそこ高価だから。怪しまれずに換金するのは難しそう……。ごめんね? この宝石類渡しとくから、王都に戻ったら『ノーラン商会』で」
「そういうの、いいから」
黙って聞いていたら、身ぐるみ剥がして押し付けられそうである。ディーの言葉を強引に遮り、カイは仕入れた衣服一式を押し付けた。
「そんなに珍しい形じゃないから、一人で着れると思うけど」
「それは、多分大丈夫……だけどカイ、」
「ほーら、寝る時間なくなっちゃうよ。早く着替えて。俺、外にいるからさ」
返事を待たずに、カイは小屋を出た。中の気配を探ると、やや間を置いた後、衣服が擦れる音がする。大きく息を吐いて、カイは苦笑した。
(ホント……変なお嬢様なんだから)
王宮の面々と完全にはぐれたせいか、今の彼女は『貴族』の仮面すら被っていない。カイを信頼しきっているのか、見せる表情はいつもよりも幼く、年相応の十七歳だ。
信じてもらえたのは喜ばしいことなのだろうが、あまりに無防備でいられると、うっかり手を伸ばしたくなって困る。彼女は貴族で『紅薔薇様』だ、カイの手の届く存在ではない。
「カイ? 着替えたけど」
「サイズ、大丈夫?」
「うん、平気。ふぅ、大分動きやすくなったわ」
ぐっと伸びをした彼女は、次の瞬間つかつかカイに歩み寄ると、手の中の宝石類を押し付けてきた。
「受け取らない、っていうのはナシだからね」
「あのねぇ、ディー」
「あなたの事情を詳しくは知らないけれど、おそらく緊急にかなりの金銭を必要としていることくらいは、想像つくのよ。リリアーヌ様から離れて、私なんかを構って、それであなたの目的が果たされなくなるのは嫌なの」
出逢ったときから変わらない、真っ直ぐな瞳が、カイを射抜く。
「私が出そうが、リリアーヌ様が出そうが、お金はお金よ。変に意地張らずに受け取って」
「……ディー、」
「……それとも、大嫌いな『クレスター家』からは、やっぱり受け取りたくない?」
耳に響いた言葉と、哀しげな眼差しに、理性が吹き飛んだ。差し出された宝石ごと手を掴み、距離を縮める。
「嫌いじゃないよ。……気付いてたの?」
「裏の世界で生きる人が、『偶然』クレスター家と関わらないなんて、無理だもの。何か理由があって我が家を避けてたんだろう、って思ってた。……嫌いだからじゃないの?」
「そんな単純な理由で仕事選んだりしない。……ま、俺も本当のところは知らないんだけどね」
ディーの髪から漂う、甘い香りが胸を焼く。距離を零にしたい衝動と、カイは必死で戦って――手を取ったまま、ゆっくりと身体を離した。
「ありがと、ディー。これは、もらっとく」
「うん、そうして」
ほっとしたように笑う彼女は、カイには誰よりも可愛く見えた。大人びた顔の作りをしているディーだが、ふとしたときに浮かべる表情は、少女めいて愛らしい。彼女に似合う形容詞は、美しいより可愛いだろうと、カイは思う。
「さて、と。村に行こうか」
「うん。……そうだ、ここってどの辺り?」
「王宮の馬車の道より、かなり東にずれたトコかな。今からなら、ミスト神殿目指した方が早いよ」
「やっぱりそうなるわよね。まぁ、馬車に乗っての移動が一日なくなった分、良かったと思うべきかな」
「馬車は嫌だったんだ?」
くすくす笑って問いかけると、ディーは素直に顔を歪ませた。
「もー、嫌だった! 自分で行きたいところに行けないし、外には人がいるから気も抜けないし、休憩だっておとなしく『紅薔薇』やってないといけないなんて! 後宮の外でまで、人目につかなくていいのに」
「そういうの、諺で、『壁に耳ありショウジに目あり』って言うらしいねー」
「何それ、聞いたことない。どんな意味?」
カイも、父親以外が使っているのを聞いたことはない。彼が生まれ育った地の諺らしい。
「どこで誰に聞かれているか分からないから、言動には注意しなきゃいけない、みたいな意味だったかな?」
「あぁ……あなたみたいな人がいるものね」
「それを言うなら、クレスター家の『闇』さんたちだってでしょ?」
「まぁ、そうなんだけどね。それにしても……」
ディーはふと、首を横に傾けた。
「壁に耳あり、は何となく分かるけど……ショウジって何?」
「紙と木でできた扉だって。父さんが言ってた」
「紙と木でできた扉……? そんなの、すぐに破られちゃうじゃない。紙は雨が降ったら溶けるし。扉にならないわ」
「俺だって実物は見たことないもん、知らないよ。東の方の建物には珍しくもないものらしいけど。だから諺になったんだろうし」
父親からの聞きかじりをそのまま説明する。
――その瞬間、ディーの表情が劇的に変わった。星空を写し取ったかのように、蒼の瞳がきらきら輝き出す。
「東の国には、そんなものがあるのね。ショウジか……どんなものなんだろう」
「……見たいの?」
「だって、想像もつかないもの。紙と木でできた扉と、それがついた家でしょう? そして、それが並んだ町……。知らない世界を見るのって、ドキドキするわ」
……つくづく、貴族をしていることが間違っているお嬢様だ。未知の世界に胸をときめかせ、自らその世界を見てみたいなど、いっぱしの冒険家の台詞である。『ショウジ』の一言でここまで目を煌めかせるのなら、実際に知らない世界へ飛び出したとき、いったい彼女はどれほどの輝きを見せてくれるのだろう。
「じゃあ……さ。いつか、行こうよ」
「え?」
「『ショウジ』と、それを使った家と、その町並みを見に。想像もできないなら、実際に見た方が早いでしょ?」
ディーが、唐突に立ち止まった。くるりと振り返り、カイを覗き込む瞳は、隠し切れない好奇心と探究心、そして、未来への希望に満ちている。
「本当? 本当に、一緒に行ってくれる?」
「……うん。行こう」
煌めく瞳が喜びを写し、一点の曇りもない笑顔は、明るい向日葵が太陽を浴びて輝いたかの如くに咲き誇っている。目の前で突如開いた大輪の花に、カイは瞬間、呼吸も忘れて立ち尽くした。
「絶対よ。――約束だからね!」
彼女は、笑う。実現するかも分からない、たったひとつの約束に、こんなに幸福そうに。
世界の歪みを、知らないわけじゃない。人の醜さに、傷付かなかったわけじゃない。
ドロドロとした世界に身を置きながら、彼女は自らの意思で、真っ直ぐであることを選んだ。純粋であることを選んだ。優しくあることを、選んだ。
それは、どれほど尊くて、どれほどしなやかで、どれほど愛しい、強さなのだろう。
守りたいと、強く思う。誰よりも近くで、どんなときも離れず、幸福に笑う彼女を、守りたいと。
その微笑みを曇らせないように、彼女が彼女らしくあれるように。
そのためなら、きっと自分は、どんなことだってできる。
ディーの手を取り、灯りが揺らめく村へ向かいながら、カイは決意を新たにするのだった。




