一人はぐれて
この季節は、日が暮れるのが早い。森を利用して追っ手を撒いている間に太陽はどんどん西に傾き、逃げ切れたと確信した頃には、実に美しい夕焼けがディアナの瞳を焼いていた。
(えーと、つまりあっちが西ということは、北は大体こっちになるわけで……)
ミスト湖は、王国の最北地域に位置する湖だ。とりあえず北を目指せば、間違いはない、はずである。
地図も馬もなく、全く見知らぬ土地に一人取り残されるという状況に陥ったのは初めての経験ではあるが、ディアナは幸いにして旅慣れていた。太陽の位置から大体の方角を読み取り、森の中で人がよく通る道筋を見極めて、追っ手が来ないか注意しながら、彼女は慎重に歩を進めていた。実に可愛くない迷子だ。
――結果、どうにかディアナは真っ暗になる前に、鬱蒼と生い茂る森の中から抜け出すことができたのだった。
ただ、真っ暗でないというだけで、太陽は既に地平線の向こうへと姿を隠している。西の空はまだ、名残惜しむかのような黄昏の光を放っているが、東側はもう宵闇色だ。もう少ししたら、世界は完全な夜に包まれるだろう。
知らない土地を夜に歩くのは危険だと判断したディアナは、抜けた森の外れに留まり、一晩夜明かしすることにした。できるだけ柔らかい土の上に、周囲の落ち葉をかき集めて、即席の寝床を作る。火で暖を取ることはできないため、最低限の保温を考えなければ、この季節は真面目に凍死しかねない。
ついでに、生でも食べることができる木の実をいくつか見つけたので、作った寝床の上でゆっくりと噛んで食しておいた。逃げている最中に小川があったので水分補給に困ってはいないが、何か食べられるなら食べておいた方がいいからだ。……本当に、まるで可愛くない迷子? である。
(……問題は、水を持ち歩く容器がないことよね。明るくなったら近くの村に寄って、何か分けてもらえるように頼もうかしら。あと、道も聞かなきゃだし、可能なら馬だって売ってもらわないと。それ以前に、いい加減ドレス脱ぎたい……服一式交換してもらうとか、できるかなぁ)
迷子であることを自覚していたディアナではあったが、実のところ、危機感はあまり抱いていなかった。目的地までの道を知り、動きやすい服に着替えて馬を飛ばせば、明日一日で充分にミスト神殿までたどり着けると、長年の経験をもとに計算できていたからだ。上手くすれば、行列に追い付くことも可能かもしれない。
(リタ、めちゃくちゃ心配してるだろうからなぁ……。なるべく早く戻れるなら、それに越したことはないわよね)
逃げたときは無我夢中で、自分にできる最善を選ぶことしか考えていなかったが、こうして思い返してみると、怒りと心配で爆発しかねないリタが容易に思い浮かんでしまう。申し訳ないと思わないこともないが、あの場で逃げたことをディアナは後悔していないし、もしまた同じような場面に遭遇したら、何度でも同じ行動を取るだろう。誰かを犠牲にしてまで自分を守りたいとは、今も昔も思えない。
……が、そんな自分の行動が周囲に多大なる心配と迷惑をかけていることは、さすがにそろそろ自覚している。戻ったら、まずはリタに、全力で謝ろう。
身体を休めるために木の根本に寄りかかり、空を見上げる。夜を導くように、気の早い星々が瞬き始めているのが見えた。今日は雲もないようだし、綺麗な星空になることだろう。
「夜、か……」
こうして自然の中で、ただ何も考えず、空の果てに思いを馳せるのは、随分と久しぶりだ。子どもの頃は珍しくなかった時間も、大人になるにつれ、貴重なものになっていくのかもしれない。
ディアナはそっと、目を閉じて――。
「紅薔薇様!」
自分を呼ぶ、聞き覚えのない誰かの声に、意識を引き戻された。
空の色も空気も、先程までと変わりはない。目を閉じていたのは本当に一瞬で、眠るほどの間もなかったはずだ。
ディアナは身体を起こすと、森の奥から自分を目指して駆けてくる人影を見つめた。その姿はみるみる大きくなって、人物を把握できるようになる。
「紅薔薇様! あぁ、ご無事でようございました!」
「あなたは……」
「後宮近衛騎士を拝命しております、コルトと申します」
そうだ、今回の随行員の一人で、常時『紅薔薇』の馬車を守ってくれていた、コルト後宮近衛騎士団員。コルト男爵家は武門の家柄、その家に生まれた彼女も幼い頃から武芸を学び、後宮近衛に抜擢されたと聞いている。
「わたくしを、探してくれていたの?」
「無論のことにございます。紅薔薇様は、王国にとって大切なお方。陛下もたいそうご心配あそばされ、自らの護衛は最低限に留め、後の人員は紅薔薇様の捜索に充てられたのです」
「……まぁ」
正直ディアナは、ジュークがそこまで心配しているとは思っていなかった。リタとアルフォード、ユーリとルリィには心労をかけているだろうとは考えていたが。
(だって陛下は、ねぇ……私のこと心配する理由がないし)
精々が、明後日の儀式に間に合わない、程度の案じ方ではなかろうか。間違っても、『ディアナ』を心配するなんて殊勝な真似はしないはずだ。
そう考えていたからこそ、コルト騎士の言葉に驚いたディアナだったが、目の前の彼女には、ディアナの当惑の理由がまるで分からないようだった。座り込んだままのディアナに、すっと左腕を差し出してくる。
「さぁ紅薔薇様、早く陛下のもとへ帰りましょう」
「それは、できるならそうするべきなのでしょうけれど……」
「……何か不都合でも?」
僅かに眉根を寄せたコルト騎士の表情も、そろそろ見えづらい程度には、辺りはほの暗い。ディアナは苦笑した。
「もう、日も暮れたもの。あなただけならともかく、歩き慣れていないわたくしを連れて夜道を歩くのは、危険ではなくて?」
「王宮の騎士に手を出そうなどという不届き者は、そう滅多にはいませんよ」
「あら、わたくしたちはつい昼間、そんな『不届き者』に襲われたではないの」
「あの者たちは、どうしようもないならず者だったようです。自分たちが襲った馬車が、王家のものだと知らなかったと、そう話しているようですし」
コルト騎士は、差し出した手を引こうとしない。
「大丈夫です、紅薔薇様。何が起ころうと、私があなた様をお守りしますから。紅薔薇様とて、一刻も早く、陛下とお会いしたいでしょう?」
使命感に突き動かされているのか、彼女は梃子でも動きそうになかった。この際仕方ないか、とディアナは内心呟く。
(明るくなってから動いた方が、本当はずっと安全なんだけどね……。まぁ、『紅薔薇様』を見つけちゃった近衛騎士さんが、そのまま一晩放置できるわけもないか)
――ディアナは疲れていた。慣れない馬車の旅に突然の襲撃、やむを得ず一人きりで逃避することになり、長時間歩くために作られたわけでもない靴とドレスで、知らない土地をあっちこっち。……自分で思っていた以上に彼女は疲れ、いつもなら気付ける違和感にも、気配にも、鈍感になっていたのだ。
普段なら、気付けただろう。いくら捜索のためとはいえ、王宮の近衛騎士が単独で行動することなど、あり得ないということに。
追っ手を完璧に撒いたディアナの居場所を、探索追尾の専門家でもない後宮近衛騎士が、こんな短時間で見つけられるはずがないということに。
そして――コルト騎士から時折発せられる物騒な気配が、紛れもなく自分に向いているということに。
いつもの彼女なら、気付けたはず、だった。
差し出されたままの左手を暫し眺め、ディアナはゆっくりと、その手を取ろうと腰を上げる。自身の左腕を上げ……指先が、コルト騎士の手に、触れた。
――刹那。
「ディー!!」
立ち上った殺気と、切り裂くような警告の声。
金属がぶつかり合うとき独特の高い音が響き、ディアナは考えるより先に腕を捻ってコルト騎士から逃れ、反射的に後ずさっていた。ディアナが動いたことで空いたスペースに、間髪置かず、黒い影が舞い降りてくる。
一瞬だけ流された視線は、ひどく緊張していた。
「大丈夫?」
「……え?」
「さっきの短剣。どこも切りつけられてないよね?」
問われるままに確認する。コルト騎士が右手に隠し持ち、ディアナの身体を捕らえて刺そうとしていた短剣は、ディアナに刺さる前に飛んできた暗器によって弾き飛ばされ、少し離れた地面に落ちていた。当然、ディアナには傷一つない。
「私は大丈夫だけど、あの、さっきのって……」
「多分、かすったらお陀仏の毒が塗ってある。絶対に触ったら駄目だからね」
「分か……った」
いつもと同じ軽い調子の声なのに、今の彼はまるで、抜き身の刃だ。立ち姿も、その存在だけで相手を圧倒する気配も何もかも、これまで見たことがなかったもの。
――宵闇を写し取ったような色の瞳で、彼は、獰猛に笑った。
「……ふぅん? アンタだよね、前の女官長さんが失脚する前日に、『紅薔薇様』を殺そうと、部屋に忍び込んだのって」
何が狙い? 誰の指示?
立て続けに発される問いに、答える声はない。コルト騎士の表情は、遂に訪れた夜の闇に紛れ、ディアナからは窺い切れなかった。
問い掛けていた方も、答えを期待していたわけではないらしい。相手に答えるつもりがないことを確認すると、腰の短刀をすらりと抜いた。次の瞬間、ぞっとするような殺気が、目の前の少年から溢れ出してくる。
半ば呆然としていたディアナは、ここに来てようやく、本当の意味で我に返った。
「待って、待ってカイ! 殺しちゃダメ!」
「まーたそういうこと言う。ディーは黙ってて」
「黙るわけないでしょ!? あのね、自慢じゃないけど、命狙われる度その相手殺してたら、我が家の場合キリがないの。重要なのは、黒幕を突き止めることよ、違う?」
「そりゃそうだけど。そっか、拷問でもして話してもらう?」
「だからどうして発想がそう物騒になるのよあなたは? まずは穏健に、話を聞くことから始めなきゃ」
ちなみに、隙だらけに見えるこの会話だが、彼の殺気は先程までと寸分違わず、コルト騎士を狙っている。逃げ出そうと動けば、カイの刃は、反射で彼女の首を胴体から切り離すだろう。彼女にもそれが分かるから、動けないまま、ディアナたちを眺める羽目になっている。
そんなコルト騎士に、ディアナは、ほんの少し哀しみの混じった視線を向けた。
「――誰のために、何のために、わたくしを狙ったのですか?」
「――!」
ディアナの問いは、予想外だったのだろう。闇の向こうで、コルト騎士が、大きく息を呑んだ。どこか自嘲するような笑みを、ディアナは浮かべる。
「あなたは、邪な想いを抱いて、わたくしを殺害しようとしたわけじゃない。……そう信じられる程度には、わたくしは、あなたの働きぶりを見てきたつもりです。あなたは真実、国のために働いていたわ」
「べ、紅薔薇、さま……?」
「……何か、理由があったのでしょう?」
真横からの視線がなかなかに痛い。個人を特定できるほど後宮近衛のこと知らなかったくせに、なんて心の声が聞こえてきそうだ。確かに個人の顔と名前が一致するほど知っているわけではないが、彼女たちの働きぶりそのものは折に触れて見てきたので、まるっきりの嘘を言っているわけではない。
――そして、この場合大事なことは、ディアナの発言の信憑性より、コルト騎士に真実を語ってもらう方にあるのだ。多少の胡散臭さには目を瞑るが吉、である。
「……きっと、わたくしの何かが、あなたにとっては許せなかったのね。わたくしが何をしてしまったのか、良かったら教えて?」
語りかけつつ、慎重に一歩ずつ、コルト騎士に近づいていく。距離が狭まるにつれ、揺れている彼女の瞳が、徐々に見えてきた。
(――落とせる)
確信し、もう一押しと、口を開こうとした――、瞬間。
「ディー!」
「っ、伏せて!」
彼女の腕を引き、真横に飛びすさって地面に倒れる。と同時に、コルト騎士が立っていた場所には、複数の武器が飛来した。危ないところを飛んだ短剣は、黒装束の彼が弾き返す。
「……大丈夫だった?」
「――ッ!」
唖然とした表情で固まっていた彼女は、ディアナと視線を合わせた途端、その手を振り払って立ち上がった。瞳の奥には、怒りと、それを凌駕する戸惑いが見える。
「ディアナ・クレスター……。あなた、あなたは……!」
「――コルト、」
「マナ。この場から去れ」
地の底から響くかのような低い声が、その場を打つ。まるで感情の読み取れないその声に従うかのように、コルト騎士はじりじりと森の中へ姿を消していく。追いかけようとしたディアナの目の前で、火花が散った。
「ほぅ? なかなかやるな」
「アンタもね。アンタ以外は、そうでもないみたいだけど」
黒い領巾が翻る。日の当たらない『裏』の世界に生きる少年は、長剣を構える同じく堅気には見えない男と、互角以上の闘いを繰り広げていた。相手の攻撃を交わすと同時に懐に入り込み、切っ先を鋭く切り上げる。二人の闘いを、図らずも間近で見ることになったディアナは、そう経たないうちに『あること』に気付いた。
(この人……昼間私たちの馬車を襲って、リタと闘った人だ!)
顔や服装は闇に紛れて見えないが、その闘い様は見間違えようもない。ディアナを殺すため、ここまでやって来たということか。さっきのやり取りから見るに、この男とコルト騎士は仲間なのか。
……だとしたら、一体何の。殺したいのは、『ディアナ』なのか『紅薔薇』なのか。
ディアナがそこまで考えを巡らせている間に、目の前の闘いにも変化が起こっていた。剣を振るっていた男が、ふと、大きく後ろへ飛び離れたのだ。
「なるほど……。どこかで見た顔だと思っていたが、やはりお前、ランドローズ侯爵に雇われて後宮に入った『裏』の者だな」
「あれ、俺のこと知ってるんだ? てことは、アンタやっぱり、ランドローズさんのトコのヒト?」
「彼が雇っているのは、『裏』の人間だけではないということだ。……それより、ランドローズ侯爵に雇われたはずのお前が何故、『紅薔薇』を庇う? 裏切るつもりか」
遠くから聞こえてくる男の声に、少年は――カイは、実に楽しそうに笑った。
「裏切る? それってさ、もともと信頼関係があった場合にのみ、成り立つ台詞だよ?」
「侯爵に雇われていたのは確かだろう」
「最近は、報酬の払われ方も雑になってきてたしね。辞め時だと思ってたんだよ」
「そして今度は『紅薔薇』に雇われると?」
「アンタ、本気で頭悪いよね。『紅薔薇様』が、俺みたいな怪しい奴を雇うわけないじゃん。このお嬢さまの傍うろつくのは、単純に俺の趣味。『牡丹様』と、このお嬢さまを、同列にしない方がいいよ」
くつくつと、森の闇から響いてきたのは、面白がるような笑い声。立ち上がろうとしたディアナを手で制し、カイは突き刺すような殺気を放つ。
「『紅薔薇』は、その見た目に反して、存外人たらしの性分らしいな。……まぁいい、精々必死に守ってみろ。どうせその女は、そう長くは生きられない……」
風に乗って響く言葉は、身体の芯まで染み込む呪詛のごとき威力で、ディアナの全身を絡め取った。深い闇の中で、自分の命が風前の灯であるかのような、そんな錯覚を起こす。
「ディー。……ディー?」
得体の知れない冷たさの中、ディアナを呼び覚ましたのは、肩に触れる暖かい温もりと、優しく呼ばれる『名前』だった。ふ、と戻った意識の先に彼がいて、心配そうに、瞳を覗き込んでいる。
――その宵闇の紫紺色は優しい光を放っていて、夜が決して暗黒の世界ではないことを、ディアナに思い出させてくれた。
「カイ……」
「うん。これでひとまず大丈夫だと思うけど、あいつらに場所知られた以上、早めに移動しないとね。立てる?」
身体を支え、立たせてくれたカイは、もういつもの彼だった。刃物のような鋭さはどこにもなく、ともすれば恐怖さえ感じられるほどの獰猛な空気も感じられない。あまりにいつも通り過ぎて……ディアナは、泣きたくなった。
「……ディー?」
「どうするのよ……あなた、これでリリアーヌ様たちに、裏切りがばれちゃったじゃない」
「ディーまでそんなこと言うの? 俺は雇われていただけ、そもそも裏切るような関係じゃなかったの。『牡丹』には俺の他に隠密はいないから、これからは誰に気兼ねすることもなく、保守派を探れるようになる。良いことばっかりじゃない」
「でも、じゃああなたは? リリアーヌ様に雇われていたのって、事情があってのことなんでしょう? それは大丈夫なの?」
言い募ると、カイは困ったように笑った。
「ディーが、そんなんだからさぁ……」
「なぁに? あ、リリアーヌ様の代わりにウチが雇おうか?」
「あのね、俺は『闇』の人たちみたいに、クレスター家に仕える隠密じゃないんだから。そんなことして、万一見つかったら問題になるでしょ」
「だって、それなら……」
そもそもの、カイの目的はどうなるのか。
自分を助けたせいで、彼が目的を果たせないなんてことには、なってほしくない。
「そもそもどうして、あなたこんな場所にいるの? リリアーヌ様には、毎日何かしらの報告をしないといけないんでしょう?」
「正体不明の奴に狙われているディーが後宮から出るっていうのに、あんなワガママお嬢ちゃんに付き合ってらんないよ」
「だから、リリアーヌ様に付き合うのが、あなたの仕事でしょ!?」
「――俺は、」
カイの瞳に、ほんの一瞬、燃える炎の鋭い光がちらつく。掴まれた腕に、痛みと熱が走った。
「もう、ずっと前から。ランドローズの仕事なんて、しているつもりはなかった。金なんて貰わなくて構わなかった。……守れたら、それで良かったんだよ」
「カ、イ……?」
「仕事だからじゃない。ただ、俺が守りたいものを、いつだって全力で守るだけだ。ランドローズに雇われたのだって、そのためだった」
互いの視線が、絡み合った。譲れないものを宿す男の瞳と、ただ相手を案じる女の瞳が、闇の中で不思議な共鳴を見せる。
「……カイ、あなたは」
「嫌がったって、怒ったって、俺はディーを守る。……もう、そう決めた」
「どうして――」
「理由が、知りたい?」
空気がゆるりと動く。掴まれていた腕が引き寄せられて、カイの胸にぶつかった。心臓が大きな鼓動を立てて、反射的に選ぼうとした退路は、もう片方の腕で塞がれる。
――囚われたと、気付いたときには遅かった。
「カイ……」
「ねぇ、ディー。このまま、誰も知らないところへ行っちゃおうか? 今なら、王様も国も何もかもを捨てて、自由になれるよ」
甘く、抗い難い誘惑が、ディアナの耳元で囁かれる。自分でも無意識のうちに、彼女は、カイの腕にしがみついていた。
「だめ……そんなのダメ。今私が逃げたら、今度こそ、保守派と革新派の対立は避けられなくなる。下手をしたら、国中で戦争になるもの。そんなこと、できない」
「どうして、ディーがそれを背負うの? とばっちりじゃん、全部」
「……だって、守りたいんだもの」
ぎゅ、としがみつく腕に力が入る。
「後宮に入って、『私』を見てくれる人に、沢山出会えたの。友だちだってできた。……大好きな人が、大勢いるの」
喪えない、と彼女は呟く。
「ユーリや、ルリィ。ライア様たち。それに、シェイラ。みんなに、幸せになってもらいたい。私が逃げてしまったら、最初の道が閉ざされてしまう」
「……ディーが、彼女たちの幸せを願うように。ディーの幸せを願う奴も、きっといるよ」
「みんなを見捨てて手に入る、そんな後ろめたい幸福なら要らない!」
蒼の瞳が、高潔な魂を反射する。その光を受けとめた紫紺の夜空は――とても、とても温かかった。
「――うん。きっと、それがディー、なんだよね」
「……どういう意味?」
「その魂まるごと、想いも含めて全部、俺が守るよ。ディーが望みを全て叶えて、幸せになれるように」
星空の下囁かれた、それは厳かな誓いにも思えた。神殿でもなければ祈りの形態すら成していないのに、どこか神聖な空気を感じて。
――拒否するべきだ、と、自分の中で最も冷静な部分が言う。頷いてしまったら、おそらく一生、カイを縛ることになる。そんなことをしてはいけない、理性はそう諭してくる。
……なのに。
(大丈夫だから、って言えない)
ディアナはもう、自分がそこまで強い人間でないことに気付いている。カイが、ずっと前からディアナの脆さに気付いて、手を差し伸べてくれていたことも、――そんな彼を無意識のうちに頼りにして、安心をもらっていたことも。
『ディアナ』の全てを受け入れて、それでも見放さず、全部守る。カイがそう言ってくれたことが、予想を遥かに超えた喜びを、ディアナに与えていた。
喜ぶ心を、理性が叱る。否定も、肯定もできないまま、ただ腕に力を入れて、しがみつくことしかできなくて。
……それが、男にとって、何よりも雄弁な肯定の意になることも知らずに。
背に回された腕に、力がこもる。強く抱き締められたその感覚に、肌が粟立つような快感を覚えた。理性も条理も飛び越えて、ただ本能が、この腕を求めている。
知らない感情が濁流のように押し寄せて、ディアナは不意に、怖くなった。
(私……おかしい)
全身に走った震えは、ディアナ本人よりも、彼女にその感情を教えた男の方が、早く気付いた。そっと彼女の頭を撫でて、カイはディアナからゆっくりと離れる。
「カイ……?」
「――さ、早いとこ、この近くの村まで行っちゃおう。今日はお祭りだから村の人みんな起きてるし、上手く交渉すれば、服とか馬も手に入るはずだよ」
「え、と、うん。分かった」
いつも通りの笑顔を浮かべたカイに、ディアナもほっとして笑みを返す。前を歩き始めたカイを見るうちに、ディアナは色々なことが気になった。
「……ね、カイ。聞いていい?」
「俺に答えられることならね」
「その返事は狡いと思う」
むぅ、と口を尖らせたディアナに、彼は笑う。
――夜は、まだまだ続きそうだった。




