鐘が鳴り終わる頃
「馬鹿な!」
女官長が、演技も忘れた悲鳴を上げる。青ざめた頬に驚愕の色を映した瞳、開いた口からは荒い息遣いが漏れた。
女官長ほどではないにしろ、国王もまた、驚きを隠し切れない様子で立ち上がる。
「どういうことなのだ。何故突然、」
「――失礼致します」
慌ただしい室内に、場違いなほど落ち着いた声が響く。駆け込んできた国王近衛騎士に続き、『紅薔薇の間』付の女官ミアが、扉の前で頭を下げていた。
「何者か?」
「こちらの部屋を担当してくれている、女官のミアですわ。――ミア、どうかしたの?」
「はい、紅薔薇様。発見された国宝ですが、城下の民が届け出たそうです。その者の身柄は今、外宮室が預かっているとのこと。……弟より、そう連絡がありました」
キースが心なしか満足そうに頷く。
「ミア殿の弟、クロード・メルトロアは、王宮の巡回を日課にしているほど、真面目な青年ですからね。民が届け出た場面に、偶然居合わせたのでしょう」
「……そうなのか。外宮室にはつくづく、優秀な人間が揃っているのだな」
展開の速さに唖然としているらしいジュークに、ディアナは小首を傾げた。
「もし可能であれば、その届け出た民とやらの取り調べを、こちらで行ってはいかがでしょう?」
「ここ……とは、この部屋か?」
「はい。今、この部屋には幸い、この一件の関係者が揃っています。でしたら、その民をここに連れてきた方が、目立たず済むのではありませんか?」
国王以外の男性は基本的に入ってはならない後宮ではあるものの、緊急事態であれば話は別だ。何しろ現在、女官たちの長である人物の不正を暴いている真っ最中である。不正のほとんどが後宮で行われていた以上、調査のために男性が出入りするのは、もう仕方がない。
「わたくしにかけられた嫌疑も、完全に晴れたわけではありませんし。マリス夫人とわたくしが揃って後宮を留守にすれば、何かあったと知らせるようなもの。それくらいならば、民一人を秘密裏に招き入れた方が、まだ騒ぎは小さく済みます」
「それは……確かにその通りだが。そなたは、平民を部屋に入れても構わぬのか?」
「今大切なのは、わたくしの矜持より、真実を明らかにすることでしょう。もとより、そのようなことで傷つく矜持の持ち合わせはございませんけれど」
幼い頃から町に出掛け、領民と親しく交流してきたディアナである。貴族の中には、自宅に平民が入ることすら嫌悪する者もいるらしいが、そういった感覚はディアナにはさっぱり分からない。王宮に平民が入ってはいけないという法があるわけでもなし、後宮の男子禁制も建前となった今、ここは実利を取るべきだ。
ディアナが詳しく話さずとも、ジュークにもそれが一番手っ取り早いと分かっていたらしい。くるりとアルフォードを振り返った。
「人目につかないよう、国宝を届け出たという民を、ここまで連れて参れ」
「はい、陛下。……グレイシー団長、後宮内の誘導を任せても?」
「分かりました。可能であれば、民の身柄を押さえたという外宮室の者も、同行させた方がよろしいかと」
「あぁ、そのようにせよ」
王の肯定を得た団長二人は、音もなく部屋を出ていった。一連の流れを、ただ黙って見ていることしかできなかったらしい女官長は、そろそろ失神を心配した方がよさそうな様子で、ぶるぶる震えている。
――当然かもしれない。彼女にとって、後宮外で『本物』が見つかることは、決してあり得ないはずなのだから。
お茶を淹れ直すよう指示し、お茶請けと軽食を兼ねた料理を持ってくるよう頼み、テーブルの上が新たに整った頃、部屋の外からざわついた気配がした。後宮から王宮正門は一直線、人目を避けたとしても、実はそこまで時間は掛からない。
取り次ぎの言葉も一瞬に、メインルームの扉は開けられた。
「お待たせ致しました、陛下」
「それほど待ってはいない。……それで、問題の者は?」
「こちらに控えております」
アルフォードが一歩ずれたそこには、平民にできる精一杯畏まった格好をした、小柄な男の姿があった。年の頃は、推定二十代後半から三十代前半だろうか。彼の斜め後ろに、官服を着た地味な青年がいる。そちらはおそらく、ミアの弟クロードだ。
名も知らぬ民を目にした瞬間、女官長は大きく目を見開き――ほんの刹那、憎悪と怒りに満ちた眼差しで、彼を貫いた。
「そなたが、国宝を届け出た者か」
「はっ……ははぁ!」
床に這いつくばらんばかりの勢いで、男は頭を下げる。ジュークは、恐らく無意識にだろう、適度な親しみを感じさせる微笑みを浮かべた。
「そう怯えるな。誰も、取って食いはしない。……名を述べよ」
「はい……っ。俺、いえ私は、ハンスと申します!」
「そうか……ハンス。王都の者か?」
「は。三代続く鍵屋を営んでおります」
「おぉ、そうなのか」
割と古くから農耕を主にしていたこの土地で、鍵は早くに確立、進歩した技術の一つだ。定住するとなれば家が、家が建てば蓄えが、蓄えが増えれば盗みが、盗みが起これば防犯意識が生まれるのは、自然の摂理である。最も手軽に不審者の侵入を阻める鍵の歴史は、ぶっちゃけ王国の歴史より遥かに長い。
そんなものを専門に扱う、ましてや王都の鍵屋ともなれば、下手をすると貴族の屋敷の防犯を一手に担う。徹底した情報管理と信頼がなければ、とてもやっていけない。三代続く鍵屋の店主という肩書きは、王宮側の警戒を解くのにもってこいだ。
見るからに瞳の色が和らいだジュークは、恐縮しきりのハンスに問い掛ける。
「それで、ハンス。何故そなたの手に国宝が渡ったのか、経緯を説明してくれ」
「か、かしこまりました。それが――」
鍵屋のハンスの説明によると、事態はおよそ、こういうことであったらしい。
鍵屋を営む彼には、時折奇妙な依頼が舞い込んでくる。鍵の専門家ならば開けるのもお手のものだろう、その腕前を活かしてどこどこに忍び込み、こういった品物を手に入れて来てほしいという、まぁ一言でまとめれば泥棒の依頼だ。
善良な一般市民である彼は、もちろんそんな話は引き受けない……と言いたいところだが、稀に引き受けざるを得ないこともあった。相手の身分がとんでもなく高く、相手の態度も偉そうで、話を断ったら大変なことになりそうなときは、店と家族を守るため、泣く泣く依頼を受けるのだという。――数日前も、そうだった。
『指定する屋敷に忍び込み、この包みの中身と屋敷の中にあるものをすり替え、屋敷にあった方を持って来い』
盗みに気付かせないよう、贋作を持たされることも、よくある話である。相手はいかにも高飛車な貴族で、むしろそんな人間が、直接出向いてきたことが不思議だった。
断れない雰囲気をひしひしと感じ、彼は渋々包みを受け取ると、言われた屋敷に侵入し、宝物がありそうな部屋を見つけ、中に入って……。
きらきら輝く、見覚えある宝飾品に、度肝を抜かれたのだった。
「私の記憶が正しければ、それは、先の王妃様が身につけていらしたお品でした。たった一度ではありましたが、私は偶然、先の王妃様のお姿を、間近で拝見したことがあったのです。目を疑いましたが……、そこにあって良いはずのものでないことは、さすがに分かりました」
彼は逡巡したものの、結局すり替えることはせずに品物を持ち去り、依頼主には、もともと渡されていたすり替え用の品を、屋敷にあったものだと偽って渡した。渡されていたものはよくできた贋作であったらしく、依頼人は真贋の区別がつかないまま、満足して帰っていったのだ。
「この数日、悩みに悩みました。私は余計なことをしたのではないか、単なる勘違いで、これは貴族の方ならば誰でも持っている品なのではないか、そう思いましたが……。もしも万が一、本物の宝物ならば、いつまでも私が持っていて良いはずないと、考えまして」
罰を覚悟で名乗り出ることを決めたのだと、彼は説明を結んだ。
難しい顔で黙り込んだジュークに代わり、いつでもどこでも冷静沈着なキースが進み出る。
「あなたの良心と勇気に感謝します。……ついでにもう一つ、訊きたいことがあるのですが?」
「もちろんです、何なりと」
「――あなたにその依頼をした人物は、今、この部屋の中にいますか?」
問われた彼は、恐る恐るではあるが、室内をぐるりと見回し――。
「あ、あちらにいらっしゃるご婦人が……」
顔色を忙しく変えている女官長を、示したのである。
全員の視線を集めた女官長は、怒りに身体を震わせ、大きく歩み出た。
「嘘を言うのはおよしなさい!」
「わ、私は嘘など申しません! 記憶力には自信があります!」
「黙りなさい! 盗人猛々しいとはこのことです。わたくしがそのようなことを、するわけがないでしょう!」
「ですが、あのときのお客様が、貴族のご婦人であったことは、間違いございません!」
彼の言葉を聞いた女官長は、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「ほらご覧、お前が分かっていることなど、精々その程度ではないの。貴族の女など、この王都にはいくらでもいるわ」
「で、ですが、お声や背格好も……!」
「ならば、わたくしに似た声と背格好の女だったのでしょう。――顔も見ていないのに証言しようなんて、愚かとしか言いようがないわね」
――語るに落ちた。
無表情の仮面の裏で、ディアナは会心の笑みを浮かべる。たかが民の一人、貴族の威光でねじ伏せられるとたかを括ったのだろうが、それがそもそもの間違いだ。
「……どうして分かったのですか?」
ハンスが言い返さなかったことで無音になった部屋に、よく通るディアナの声が響いた。
ソファーに座ったまま彼女は、真っ直ぐ女官長を射抜く。
「なんのことです?」
「ハンス氏が、『依頼人の顔を見ていない』と。何故、そこまではっきりと言い切れたのでしょう?」
女官長の瞳に、誰が見ても明らかな動揺が走った。聞き役に徹していたジュークが、ディアナの指摘にはっと顔を上げる。
「確かに……妙だな」
「それは! その男が、背格好や声のことしか口にしませんでしたから……」
「だからといって、彼が顔を見ていないとは言い切れないでしょう。後からつけ加えるつもりだっただけかもしれないわ」
ディアナは視線を滑らせ、息を呑んで成り行きを見守っていたハンスを見た。
「依頼人の顔を、あなたは見た?」
「いいえ。私を訪ねていらしたご婦人は……フードとストールで、顔を完全に隠していらっしゃいましたから」
「『彼女』が顔を隠してあなたの店を訪れたことを、あなたの他に誰か知っているかしら?」
「応対に出たのは私だけでしたので……私の他に知っている人がいるとしたら、それは」
ご本人と、ご本人の周囲にいる方くらいでしょう。
ハンスの言葉が終わると同時に、ジュークが立ち上がった。
「納得のいく説明を聞かせてもらおうか、マリス夫人」
「そ、それは……」
「ハンスの所にやって来た女が顔を隠していたことを、何故そなたは知っていたのだ?」
「ご、誤解でございます、陛下! これは罠です、わたくしを陥れようと、『紅薔薇』が仕組んだ罠なのです!」
「……念のために尋ねるが、『紅薔薇』、ハンスと面識は?」
「ございません。今日が初対面ですわ」
本当のことを堂々と宣言すると、顔をどす赤く染めた女官長が、大口を開けて言い返そうとする。――が。
「紅薔薇様のお言葉に、嘘はないかと存じます」
まだ僅かに少年の面影を宿した、硬い声が女官長を遮った。ずっと黙っていた、ミアの弟、クロードだ。
「どういうことだ?」
「先程、外宮室にて、ハンス氏の証言をまとめていたのですが。――件の依頼人が彼の店を訪れたのは、四日前の午後だったそうなのです」
四日前……と呟いたジュークは、目を丸くしてクロードを見返した。
「園遊会の最中ではないか!」
「はい。会の間、紅薔薇様はずっと、中庭においででした。そもそも、後宮から出られるはずもありません」
「その通りだ。少なくとも、ハンスのもとを訪ねた人物は、『紅薔薇』ではあり得ない」
「園遊会の最中ならば、同じ理由で、わたくしも外出できないでしょう!」
必死に叫ぶ女官長に、室内の反応は冷たかった。
「そうは言い切れません。ずっと人前にいらした紅薔薇様と、裏で采配を取っていたという女官長殿とでは、存在証明の確かさが段違いです」
「わたくしとて、女官たちに聞いて頂ければ、後宮から出ていないことは証明できます!」
「さて、どうかしらね? あの日裏を任せていた者は皆、あなたと懇意にしているでしょう。その気になれば全員で口裏を合わせることも可能なはずよ」
「な、ならば、通用門を護衛する兵に尋ねれば!」
「それは今、しています」
クロードが、ミアと同じ色をした瞳で、精一杯強く女官長を睨む。気圧されるまいと背筋を伸ばした彼を援護するように、メインルームの扉が開いた。
「失礼致します。外宮室のオリオン・カーゲルと名乗る者が、陛下にお目通りを願っております」
「門の兵士たちに、話を聞きに行っていた者です」
「通せ」
一礼して下がったルリィと入れ代わりに、やたら筋骨隆々とした大柄の男が入ってくる。ぱっと見どこかの山賊、どう頑張って見ても文官には見えない。
話には聞いていたが、外宮室には本当に、変人ばかりが集まっているらしい。ディアナが内心感心している側で、膝をついたオリオンが、報告を始めていた。
「園遊会当日に、門を守っていた者たちから、話を聞いて参りました」
「どうであった?」
「最初は『異常なし』と繰り返すばかりでしたが、どうにも様子がおかしかったもので……問い詰めたところ、園遊会の最中に、目立たないドレスを着た女官長殿が外へ出たと、白状しました」
女官長の唇が戦慄く。アルフォードとクリスが、さりげなく彼女を捕らえやすい位置に移動した。ここまで証拠が出揃った以上、何をしでかすか分からない。二人の用心も当然であろう。
「何故兵たちは、最初から素直に話さなかったのだ?」
「それがどうやら、女官長から口止め料として、金銭を渡されていたようなのです。詳しく尋ねてみたのですが、通用門を護衛する兵に賄賂を渡し、外出の記録を残さないように細工することが、王宮、特に後宮内に勤める者の間で常習化しているようでして」
「なんと! それは規律違反ではないか!」
「仰るとおりです。当日の兵たちも、いつものことだからと深く考えずに、女官長殿を通したと、話していました」
ジュークの表情は先程から厳しいものであったが、ここに来てはっきりと怒りを瞳に昇らせ、憤りと共に女官長を睨み据えた。
「まだ認めぬつもりか?」
「陛下! どうか、どうかお聞きください。これは全て、『紅薔薇』が仕組んだことです。後宮の頂点に立つため、陛下のお心を掴まんがため、邪魔なわたくしを追い落とそうと企んだ、クレスター伯爵令嬢の罠なのです!!」
「見苦しいぞ、サーラ・マリス!!」
「正妃様の頭上にのみ赦される、宝冠を狙ったことからも、クレスター伯爵令嬢の仕業であることは自明の理ではありませんか!」
女官長が叫んだ、その瞬間。ジュークの顔から、全ての感情が抜け落ちた。
「――何故、分かった?」
「へ、陛下……?」
「宝物庫から消えた国宝が宝冠だと、何故そなたが知っている?」
「そ、それは、先程から何度も……」
「皆は『国宝』とは言っても、『宝冠』とは口にしていなかったはずだ。宝冠のことを知る者には、決して口外しないよう、言い含めたからな。――私たちの他に、盗まれた国宝が宝冠だと知っている者は……犯人だけだ」
どうやら、ジュークはジュークで、言葉の罠を張っていたらしい。まんまと引っ掛かった女官長は、取り返しのつかない失敗をしたことに気付き、語る言葉を失う。
ディアナは、顔には出さないものの、きちんと考えていたジュークに感動していた。
ジュークは、女官長の言葉も、ディアナの言葉も、頭から信じ込んではいなかった。どちらの言葉も耳に入れつつ、本当の犯人はどちらなのか、じっと見極めようとしていたのだ。
もしも、ディアナが女官長の言うとおりの『黒幕』なら。自分の手足だった女官長が捕まり、国宝を見つけた民まで目の前にした状況で、手を掛けた国宝が宝冠であると、口を滑らせない方が難しいだろう。どれほど上部を取り繕っても、『宝冠』の一言を口にした時点で、ジュークは確信を持つことができる。……上手いこと考えたものだ。
深く納得したディアナに、進退窮まった女官長が、足音高く近づいてきた。
「どこからお前の計画だ!?」
「……突然何のお話です?」
「いつの間に陛下に取り入った! この毒婦が!!」
「紅薔薇!」
女官長は止まらない。ソファーに座るディアナに手を伸ばし――彼女の細い首を締め上げようとする。
焦るジュークとは対照的に、迫る女官長を前に、ディアナは微動だにしなかった。
「失礼」
女官長とディアナの間に、鞘のついたレイピアが割って入る。女官長の様子を注意深く窺っていたクリスが動いたのだ。小柄な身体からは想像できない力で、彼女はそのまま、女官長を拘束する。凄まじい形相で、女官長は暴れた。
「離せ、離さぬか! 身の程を知らぬ小娘が、わたくしに手を出すとどうなるか、思い知らせてやる!」
「……わたくしの嫌疑は晴れましたか、陛下?」
「晴れた……のだろうな」
暴れる女官長を、冷たく、しかしわずか憐憫の情を滲ませて、ジュークは見下ろす。彼の後ろではアルフォードが「後宮近衛を呼べ!」と命令し、程なく数人の女性近衛が駆けつけて、拘束具を使って女官長を完全に捕らえた。
「――サーラ・マリス伯爵夫人。女官長職にありながら、側室筆頭たる『紅薔薇』に狼藉を働こうとした暴挙は見逃せぬ。よって只今、勅命によって、そなたの職を剥奪する」
「……わたくしの職を解いて、どうなさるおつもりです。今、この国に、わたくし以上に女官長職に相応しい者はおりません。それは、王太后様もよくご存じのこと」
縛り上げられながら、それでも女官長……この瞬間からは単なるマリス夫人でしかない彼女は、傲岸不遜に顎を上げ、王に向かって言い放った。
「そなたは、女官の長たる者として、相応しくはない」
「家柄、教養、王宮での経験。この全てがわたくしより秀でている者が、この国にいると?」
背後で、侍女たちが、ミアが、怒りとやるせなさに身体を震わせているのが分かる。
家柄、教養、王宮での経験。――そんなものより、もっともっと大切なものが、上に立つ者には欠かせないのに。
彼女たちの声なき悲鳴すら、伝わってくるかのようだ。
「――もう、止めにしませんか、サーラ」
沈黙を破ったのは、誰も知らない……ディアナすら聞いたことがない、深く落ち着いた声だった。いつの間にか室内にいたのか、装飾のない地味なドレスに身を包んだ、四十代後半に見える女性が、静かにマリス夫人へと歩み寄っていく。
「あなたが言ったものは全て、女官長として立つ者に必要です。……けれど、欠かせないことでもない。あなたは、欠かしてはならないものを、無くしてしまった」
「あ、あなたは……」
「王宮に勤める『官』として、唯一絶対に欠かしてはならないもの。――民を慈しみ、部下を労り、仲間を励ます、慈愛の心を」
マリス夫人が、愕然とした表情を見せる。彼女が何に衝撃を受けているのか分からず、首を傾げたディアナに、威厳と親しみを同居させた見知らぬ女性が振り返った。
「『官』と名の付く役職を与えられた者は、男女問わず、『官の心得』と呼ばれる文言を覚え、実践することを義務付けられています。慈愛の心は、心得の最初に、決して失ってはならないものとして、記されているのです」
「そう……なのですか」
初耳だった。クレスター家は代々、王宮から遠い。自然と、王宮独自のしきたりなどには疎くなる。
ディアナが納得したからか、女性は再び、マリス夫人に向き直った。
「サーラ。あなたの境遇には同情します。けれどそれは、正道に背く言い訳にはなりません」
「……逃げ出した敗者に、何が分かるの」
「逃げたことは確かですが、私は逃げたことを、敗けとは思っていませんよ」
若者組にはさっぱり分からない会話はしかし、確かに夫人を大人しくさせた。後宮近衛に引かれ、立ち去る彼女を、何となく全員が立ち上がって見送る。ジュークが、ふぅ、とため息を吐いた。
「――済まなかった、マグノム夫人」
「勿体無いお言葉にございます、陛下」
「私も行かねばな。――紅薔薇」
声を掛けられ、振り返る。ジュークはほんの少しだけ、微笑んだようだった。
「騒がせたな。詳しい話はまた後日、で構わぬか?」
「もちろんですわ。どうかお疲れの出ませんように」
「あぁ。マグノム夫人、後のことは任せた」
「畏まりました」
「――アルフォード、行くぞ」
「ははっ」
アルフォードと国王近衛を引き連れて、ジュークは『紅薔薇の間』から立ち去っていく。彼らを見送り、足音が聞こえなくなり、気配すらも消えて――。
「……皆様、お疲れさまでした。どうにか、何とかなりましたわね」
室内の空気が大きく緩み、全員が大きく息をついたのであった。
2013年8月4日、誤字等訂正致しました。
ご指摘くださった皆さま、ありがとうございました!




