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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
いちねんめ
55/243

鐘が鳴り終わる頃


「馬鹿な!」


女官長が、演技も忘れた悲鳴を上げる。青ざめた頬に驚愕の色を映した瞳、開いた口からは荒い息遣いが漏れた。

女官長ほどではないにしろ、国王もまた、驚きを隠し切れない様子で立ち上がる。


「どういうことなのだ。何故突然、」

「――失礼致します」


慌ただしい室内に、場違いなほど落ち着いた声が響く。駆け込んできた国王近衛騎士に続き、『紅薔薇の間』付の女官ミアが、扉の前で頭を下げていた。


「何者か?」

「こちらの部屋を担当してくれている、女官のミアですわ。――ミア、どうかしたの?」

「はい、紅薔薇様。発見された国宝ですが、城下の民が届け出たそうです。その者の身柄は今、外宮室が預かっているとのこと。……弟より、そう連絡がありました」


キースが心なしか満足そうに頷く。


「ミア殿の弟、クロード・メルトロアは、王宮の巡回を日課にしているほど、真面目な青年ですからね。民が届け出た場面に、偶然居合わせたのでしょう」

「……そうなのか。外宮室にはつくづく、優秀な人間が揃っているのだな」


展開の速さに唖然としているらしいジュークに、ディアナは小首を傾げた。


「もし可能であれば、その届け出た民とやらの取り調べを、こちらで行ってはいかがでしょう?」

「ここ……とは、この部屋か?」

「はい。今、この部屋には幸い、この一件の関係者が揃っています。でしたら、その民をここに連れてきた方が、目立たず済むのではありませんか?」


国王以外の男性は基本的に入ってはならない後宮ではあるものの、緊急事態であれば話は別だ。何しろ現在、女官たちの長である人物の不正を暴いている真っ最中である。不正のほとんどが後宮で行われていた以上、調査のために男性が出入りするのは、もう仕方がない。


「わたくしにかけられた嫌疑も、完全に晴れたわけではありませんし。マリス夫人とわたくしが揃って後宮を留守にすれば、何かあったと知らせるようなもの。それくらいならば、民一人を秘密裏に招き入れた方が、まだ騒ぎは小さく済みます」

「それは……確かにその通りだが。そなたは、平民を部屋に入れても構わぬのか?」

「今大切なのは、わたくしの矜持より、真実を明らかにすることでしょう。もとより、そのようなことで傷つく矜持の持ち合わせはございませんけれど」


幼い頃から町に出掛け、領民と親しく交流してきたディアナである。貴族の中には、自宅に平民が入ることすら嫌悪する者もいるらしいが、そういった感覚はディアナにはさっぱり分からない。王宮に平民が入ってはいけないという法があるわけでもなし、後宮の男子禁制も建前となった今、ここは実利を取るべきだ。

ディアナが詳しく話さずとも、ジュークにもそれが一番手っ取り早いと分かっていたらしい。くるりとアルフォードを振り返った。


「人目につかないよう、国宝を届け出たという民を、ここまで連れて参れ」

「はい、陛下。……グレイシー団長、後宮内の誘導を任せても?」

「分かりました。可能であれば、民の身柄を押さえたという外宮室の者も、同行させた方がよろしいかと」

「あぁ、そのようにせよ」


王の肯定を得た団長二人は、音もなく部屋を出ていった。一連の流れを、ただ黙って見ていることしかできなかったらしい女官長は、そろそろ失神を心配した方がよさそうな様子で、ぶるぶる震えている。

――当然かもしれない。彼女にとって、後宮外で『本物』が見つかることは、決してあり得ないはずなのだから。


お茶を淹れ直すよう指示し、お茶請けと軽食を兼ねた料理を持ってくるよう頼み、テーブルの上が新たに整った頃、部屋の外からざわついた気配がした。後宮から王宮正門は一直線、人目を避けたとしても、実はそこまで時間は掛からない。

取り次ぎの言葉も一瞬に、メインルームの扉は開けられた。


「お待たせ致しました、陛下」

「それほど待ってはいない。……それで、問題の者は?」

「こちらに控えております」


アルフォードが一歩ずれたそこには、平民にできる精一杯畏まった格好をした、小柄な男の姿があった。年の頃は、推定二十代後半から三十代前半だろうか。彼の斜め後ろに、官服を着た地味な青年がいる。そちらはおそらく、ミアの弟クロードだ。

名も知らぬ民を目にした瞬間、女官長は大きく目を見開き――ほんの刹那、憎悪と怒りに満ちた眼差しで、彼を貫いた。


「そなたが、国宝を届け出た者か」

「はっ……ははぁ!」


床に這いつくばらんばかりの勢いで、男は頭を下げる。ジュークは、恐らく無意識にだろう、適度な親しみを感じさせる微笑みを浮かべた。


「そう怯えるな。誰も、取って食いはしない。……名を述べよ」

「はい……っ。俺、いえ私は、ハンスと申します!」

「そうか……ハンス。王都の者か?」

「は。三代続く鍵屋を営んでおります」

「おぉ、そうなのか」


割と古くから農耕を主にしていたこの土地で、鍵は早くに確立、進歩した技術の一つだ。定住するとなれば家が、家が建てば蓄えが、蓄えが増えれば盗みが、盗みが起これば防犯意識が生まれるのは、自然の摂理である。最も手軽に不審者の侵入を阻める鍵の歴史は、ぶっちゃけ王国の歴史より遥かに長い。

そんなものを専門に扱う、ましてや王都の鍵屋ともなれば、下手をすると貴族の屋敷の防犯を一手に担う。徹底した情報管理と信頼がなければ、とてもやっていけない。三代続く鍵屋の店主という肩書きは、王宮側の警戒を解くのにもってこいだ。


見るからに瞳の色が和らいだジュークは、恐縮しきりのハンスに問い掛ける。


「それで、ハンス。何故そなたの手に国宝が渡ったのか、経緯を説明してくれ」

「か、かしこまりました。それが――」


鍵屋のハンスの説明によると、事態はおよそ、こういうことであったらしい。


鍵屋を営む彼には、時折奇妙な依頼が舞い込んでくる。鍵の専門家ならば開けるのもお手のものだろう、その腕前を活かしてどこどこに忍び込み、こういった品物を手に入れて来てほしいという、まぁ一言でまとめれば泥棒の依頼だ。

善良な一般市民である彼は、もちろんそんな話は引き受けない……と言いたいところだが、稀に引き受けざるを得ないこともあった。相手の身分がとんでもなく高く、相手の態度も偉そうで、話を断ったら大変なことになりそうなときは、店と家族を守るため、泣く泣く依頼を受けるのだという。――数日前も、そうだった。


『指定する屋敷に忍び込み、この包みの中身と屋敷の中にあるものをすり替え、屋敷にあった方を持って来い』


盗みに気付かせないよう、贋作を持たされることも、よくある話である。相手はいかにも高飛車な貴族で、むしろそんな人間が、直接出向いてきたことが不思議だった。

断れない雰囲気をひしひしと感じ、彼は渋々包みを受け取ると、言われた屋敷に侵入し、宝物がありそうな部屋を見つけ、中に入って……。

きらきら輝く、見覚えある宝飾品に、度肝を抜かれたのだった。


「私の記憶が正しければ、それは、先の王妃様が身につけていらしたお品でした。たった一度ではありましたが、私は偶然、先の王妃様のお姿を、間近で拝見したことがあったのです。目を疑いましたが……、そこにあって良いはずのものでないことは、さすがに分かりました」


彼は逡巡したものの、結局すり替えることはせずに品物を持ち去り、依頼主には、もともと渡されていたすり替え用の品を、屋敷にあったものだと偽って渡した。渡されていたものはよくできた贋作であったらしく、依頼人は真贋の区別がつかないまま、満足して帰っていったのだ。


「この数日、悩みに悩みました。私は余計なことをしたのではないか、単なる勘違いで、これは貴族の方ならば誰でも持っている品なのではないか、そう思いましたが……。もしも万が一、本物の宝物ならば、いつまでも私が持っていて良いはずないと、考えまして」


罰を覚悟で名乗り出ることを決めたのだと、彼は説明を結んだ。


難しい顔で黙り込んだジュークに代わり、いつでもどこでも冷静沈着なキースが進み出る。


「あなたの良心と勇気に感謝します。……ついでにもう一つ、訊きたいことがあるのですが?」

「もちろんです、何なりと」

「――あなたにその依頼をした人物は、今、この部屋の中にいますか?」


問われた彼は、恐る恐るではあるが、室内をぐるりと見回し――。


「あ、あちらにいらっしゃるご婦人が……」


顔色を忙しく変えている女官長を、示したのである。

全員の視線を集めた女官長は、怒りに身体を震わせ、大きく歩み出た。


「嘘を言うのはおよしなさい!」

「わ、私は嘘など申しません! 記憶力には自信があります!」

「黙りなさい! 盗人猛々しいとはこのことです。わたくしがそのようなことを、するわけがないでしょう!」

「ですが、あのときのお客様が、貴族のご婦人であったことは、間違いございません!」


彼の言葉を聞いた女官長は、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「ほらご覧、お前が分かっていることなど、精々その程度ではないの。貴族の女など、この王都にはいくらでもいるわ」

「で、ですが、お声や背格好も……!」

「ならば、わたくしに似た声と背格好の女だったのでしょう。――顔も見ていないのに証言しようなんて、愚かとしか言いようがないわね」


――語るに落ちた。

無表情の仮面の裏で、ディアナは会心の笑みを浮かべる。たかが民の一人、貴族の威光でねじ伏せられるとたかを括ったのだろうが、それがそもそもの間違いだ。


「……どうして分かったのですか?」


ハンスが言い返さなかったことで無音になった部屋に、よく通るディアナの声が響いた。

ソファーに座ったまま彼女は、真っ直ぐ女官長を射抜く。


「なんのことです?」

「ハンス氏が、『依頼人の顔を見ていない』と。何故、そこまではっきりと言い切れたのでしょう?」


女官長の瞳に、誰が見ても明らかな動揺が走った。聞き役に徹していたジュークが、ディアナの指摘にはっと顔を上げる。


「確かに……妙だな」

「それは! その男が、背格好や声のことしか口にしませんでしたから……」

「だからといって、彼が顔を見ていないとは言い切れないでしょう。後からつけ加えるつもりだっただけかもしれないわ」


ディアナは視線を滑らせ、息を呑んで成り行きを見守っていたハンスを見た。


「依頼人の顔を、あなたは見た?」

「いいえ。私を訪ねていらしたご婦人は……フードとストールで、顔を完全に隠していらっしゃいましたから」

「『彼女』が顔を隠してあなたの店を訪れたことを、あなたの他に誰か知っているかしら?」

「応対に出たのは私だけでしたので……私の他に知っている人がいるとしたら、それは」


ご本人と、ご本人の周囲にいる方くらいでしょう。


ハンスの言葉が終わると同時に、ジュークが立ち上がった。


「納得のいく説明を聞かせてもらおうか、マリス夫人」

「そ、それは……」

「ハンスの所にやって来た女が顔を隠していたことを、何故そなたは知っていたのだ?」

「ご、誤解でございます、陛下! これは罠です、わたくしを陥れようと、『紅薔薇』が仕組んだ罠なのです!」

「……念のために尋ねるが、『紅薔薇』、ハンスと面識は?」

「ございません。今日が初対面ですわ」


本当のことを堂々と宣言すると、顔をどす赤く染めた女官長が、大口を開けて言い返そうとする。――が。


「紅薔薇様のお言葉に、嘘はないかと存じます」


まだ僅かに少年の面影を宿した、硬い声が女官長を遮った。ずっと黙っていた、ミアの弟、クロードだ。


「どういうことだ?」

「先程、外宮室にて、ハンス氏の証言をまとめていたのですが。――件の依頼人が彼の店を訪れたのは、四日前の午後だったそうなのです」


四日前……と呟いたジュークは、目を丸くしてクロードを見返した。


「園遊会の最中ではないか!」

「はい。会の間、紅薔薇様はずっと、中庭においででした。そもそも、後宮から出られるはずもありません」

「その通りだ。少なくとも、ハンスのもとを訪ねた人物は、『紅薔薇』ではあり得ない」

「園遊会の最中ならば、同じ理由で、わたくしも外出できないでしょう!」


必死に叫ぶ女官長に、室内の反応は冷たかった。


「そうは言い切れません。ずっと人前にいらした紅薔薇様と、裏で采配を取っていたという女官長殿とでは、存在証明(アリバイ)の確かさが段違いです」

「わたくしとて、女官たちに聞いて頂ければ、後宮から出ていないことは証明できます!」

「さて、どうかしらね? あの日裏を任せていた者は皆、あなたと懇意にしているでしょう。その気になれば全員で口裏を合わせることも可能なはずよ」

「な、ならば、通用門を護衛する兵に尋ねれば!」

「それは今、しています」


クロードが、ミアと同じ色をした瞳で、精一杯強く女官長を睨む。気圧されるまいと背筋を伸ばした彼を援護するように、メインルームの扉が開いた。


「失礼致します。外宮室のオリオン・カーゲルと名乗る者が、陛下にお目通りを願っております」

「門の兵士たちに、話を聞きに行っていた者です」

「通せ」


一礼して下がったルリィと入れ代わりに、やたら筋骨隆々とした大柄の男が入ってくる。ぱっと見どこかの山賊、どう頑張って見ても文官には見えない。

話には聞いていたが、外宮室には本当に、変人ばかりが集まっているらしい。ディアナが内心感心している側で、膝をついたオリオンが、報告を始めていた。


「園遊会当日に、門を守っていた者たちから、話を聞いて参りました」

「どうであった?」

「最初は『異常なし』と繰り返すばかりでしたが、どうにも様子がおかしかったもので……問い詰めたところ、園遊会の最中に、目立たないドレスを着た女官長殿が外へ出たと、白状しました」


女官長の唇が戦慄く。アルフォードとクリスが、さりげなく彼女を捕らえやすい位置に移動した。ここまで証拠が出揃った以上、何をしでかすか分からない。二人の用心も当然であろう。


「何故兵たちは、最初から素直に話さなかったのだ?」

「それがどうやら、女官長から口止め料として、金銭を渡されていたようなのです。詳しく尋ねてみたのですが、通用門を護衛する兵に賄賂を渡し、外出の記録を残さないように細工することが、王宮、特に後宮内に勤める者の間で常習化しているようでして」

「なんと! それは規律違反ではないか!」

「仰るとおりです。当日の兵たちも、いつものことだからと深く考えずに、女官長殿を通したと、話していました」


ジュークの表情は先程から厳しいものであったが、ここに来てはっきりと怒りを瞳に昇らせ、憤りと共に女官長を睨み据えた。


「まだ認めぬつもりか?」

「陛下! どうか、どうかお聞きください。これは全て、『紅薔薇』が仕組んだことです。後宮の頂点に立つため、陛下のお心を掴まんがため、邪魔なわたくしを追い落とそうと企んだ、クレスター伯爵令嬢の罠なのです!!」

「見苦しいぞ、サーラ・マリス!!」

「正妃様の頭上にのみ赦される、宝冠を狙ったことからも、クレスター伯爵令嬢の仕業であることは自明の理ではありませんか!」


女官長が叫んだ、その瞬間。ジュークの顔から、全ての感情が抜け落ちた。


「――何故、分かった?」

「へ、陛下……?」

「宝物庫から消えた国宝が宝冠(ティアラ)だと、何故そなたが知っている?」

「そ、それは、先程から何度も……」

「皆は『国宝』とは言っても、『宝冠』とは口にしていなかったはずだ。宝冠のことを知る者には、決して口外しないよう、言い含めたからな。――私たちの他に、盗まれた国宝が宝冠だと知っている者は……犯人だけだ」


どうやら、ジュークはジュークで、言葉の罠を張っていたらしい。まんまと引っ掛かった女官長は、取り返しのつかない失敗をしたことに気付き、語る言葉を失う。


ディアナは、顔には出さないものの、きちんと考えていたジュークに感動していた。

ジュークは、女官長の言葉も、ディアナの言葉も、頭から信じ込んではいなかった。どちらの言葉も耳に入れつつ、本当の犯人はどちらなのか、じっと見極めようとしていたのだ。

もしも、ディアナが女官長の言うとおりの『黒幕』なら。自分の手足だった女官長が捕まり、国宝を見つけた民まで目の前にした状況で、手を掛けた国宝が宝冠であると、口を滑らせない方が難しいだろう。どれほど上部を取り繕っても、『宝冠』の一言を口にした時点で、ジュークは確信を持つことができる。……上手いこと考えたものだ。


深く納得したディアナに、進退窮まった女官長が、足音高く近づいてきた。


「どこからお前の計画だ!?」

「……突然何のお話です?」

「いつの間に陛下に取り入った! この毒婦が!!」

「紅薔薇!」


女官長は止まらない。ソファーに座るディアナに手を伸ばし――彼女の細い首を締め上げようとする。

焦るジュークとは対照的に、迫る女官長を前に、ディアナは微動だにしなかった。


「失礼」


女官長とディアナの間に、鞘のついたレイピアが割って入る。女官長の様子を注意深く窺っていたクリスが動いたのだ。小柄な身体からは想像できない力で、彼女はそのまま、女官長を拘束する。凄まじい形相で、女官長は暴れた。


「離せ、離さぬか! 身の程を知らぬ小娘が、わたくしに手を出すとどうなるか、思い知らせてやる!」

「……わたくしの嫌疑は晴れましたか、陛下?」

「晴れた……のだろうな」


暴れる女官長を、冷たく、しかしわずか憐憫の情を滲ませて、ジュークは見下ろす。彼の後ろではアルフォードが「後宮近衛を呼べ!」と命令し、程なく数人の女性近衛が駆けつけて、拘束具を使って女官長を完全に捕らえた。


「――サーラ・マリス伯爵夫人。女官長職にありながら、側室筆頭たる『紅薔薇』に狼藉を働こうとした暴挙は見逃せぬ。よって只今、勅命によって、そなたの職を剥奪する」

「……わたくしの職を解いて、どうなさるおつもりです。今、この国に、わたくし以上に女官長職に相応しい者はおりません。それは、王太后様もよくご存じのこと」


縛り上げられながら、それでも女官長……この瞬間からは単なるマリス夫人でしかない彼女は、傲岸不遜に顎を上げ、王に向かって言い放った。


「そなたは、女官の長たる者として、相応しくはない」

「家柄、教養、王宮での経験。この全てがわたくしより秀でている者が、この国にいると?」


背後で、侍女たちが、ミアが、怒りとやるせなさに身体を震わせているのが分かる。

家柄、教養、王宮での経験。――そんなものより、もっともっと大切なものが、上に立つ者には欠かせないのに。

彼女たちの声なき悲鳴すら、伝わってくるかのようだ。


「――もう、止めにしませんか、サーラ」


沈黙を破ったのは、誰も知らない……ディアナすら聞いたことがない、深く落ち着いた声だった。いつの間にか室内にいたのか、装飾のない地味なドレスに身を包んだ、四十代後半に見える女性が、静かにマリス夫人へと歩み寄っていく。


「あなたが言ったものは全て、女官長として立つ者に必要です。……けれど、欠かせないことでもない。あなたは、欠かしてはならないものを、無くしてしまった」

「あ、あなたは……」

「王宮に勤める『官』として、唯一絶対に欠かしてはならないもの。――民を慈しみ、部下を労り、仲間を励ます、慈愛の心を」


マリス夫人が、愕然とした表情を見せる。彼女が何に衝撃を受けているのか分からず、首を傾げたディアナに、威厳と親しみを同居させた見知らぬ女性が振り返った。


「『官』と名の付く役職を与えられた者は、男女問わず、『官の心得』と呼ばれる文言を覚え、実践することを義務付けられています。慈愛の心は、心得の最初に、決して失ってはならないものとして、記されているのです」

「そう……なのですか」


初耳だった。クレスター家は代々、王宮から遠い。自然と、王宮独自のしきたりなどには疎くなる。

ディアナが納得したからか、女性は再び、マリス夫人に向き直った。


「サーラ。あなたの境遇には同情します。けれどそれは、正道に背く言い訳にはなりません」

「……逃げ出した敗者に、何が分かるの」

「逃げたことは確かですが、私は逃げたことを、敗けとは思っていませんよ」


若者組にはさっぱり分からない会話はしかし、確かに夫人を大人しくさせた。後宮近衛に引かれ、立ち去る彼女を、何となく全員が立ち上がって見送る。ジュークが、ふぅ、とため息を吐いた。


「――済まなかった、マグノム夫人」

「勿体無いお言葉にございます、陛下」

「私も行かねばな。――紅薔薇」


声を掛けられ、振り返る。ジュークはほんの少しだけ、微笑んだようだった。


「騒がせたな。詳しい話はまた後日、で構わぬか?」

「もちろんですわ。どうかお疲れの出ませんように」

「あぁ。マグノム夫人、後のことは任せた」

「畏まりました」

「――アルフォード、行くぞ」

「ははっ」


アルフォードと国王近衛を引き連れて、ジュークは『紅薔薇の間』から立ち去っていく。彼らを見送り、足音が聞こえなくなり、気配すらも消えて――。


「……皆様、お疲れさまでした。どうにか、何とかなりましたわね」


室内の空気が大きく緩み、全員が大きく息をついたのであった。






2013年8月4日、誤字等訂正致しました。

ご指摘くださった皆さま、ありがとうございました!


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