真夜中の闖入者
それは真夜中、そろそろ眠ろうかとディアナが灯りを吹き消そうと立ち上がった、そんな時間。
予想もしていなかった客人は、音もなく室内に降り立った。
「ディアナ」
「カイ?」
少し驚きながらも、ディアナは振り返る。天井裏だの隠し通路だのを自由自在に動き回る彼ら隠密は、その気になれば朝だろうが夜だろうが侵入可能だ。可能だが、彼がこんな夜遅くにこの部屋を訪ねてくることなど、これまでなかった珍事である。
「どうしたの? ……何か、あった?」
「あったみたいだね。――その灯り消して、こっち来て」
暗闇に浮かぶ紫紺の瞳は、ぞくりとするほど冷徹な光を放っていた。口調は軽いのに、逆らうことを考えさせない。
言われるままに灯りを吹き消し、ディアナはカイの手に引かれて、プライベートルームの角に移動した。すぐそこにある本棚にカイが手を突っ込んだ瞬間、角の壁がぐるりと回る。
「……っ」
「よっ…と。大丈夫?」
「えぇ、平気。仕掛け扉か、ここにあったのね」
「あることには気付いてたんだ?」
暗闇の中、互いの表情は見えず、それでも彼が面白がっていることは声の雰囲気で分かる。ディアナも笑い返した。
「メインルームとプライベートルームの間の壁が厚すぎるもの。どこかにはあるんでしょうね、ってリタと話していたわ」
「見つけようとは思わなかったの?」
「リタは多分見つけてたと思うけど。私はそうね……興味なかったから」
「多分ここ、いざというときの緊急避難場所だよ? 知ってたら便利なのに」
「だからよ。私は正妃として『紅薔薇の間』に入ったわけじゃない。この部屋の秘密は、正妃の宝冠を被る人が知っておいたら良い話だわ」
むしろ、一側室が知ってたらまずいでしょ。
そう笑うと、カイも苦笑したようだった。
「相変わらずだねぇ、ディアナは」
「それはともかく、どうかしたの?」
「あー、多分もうすぐ来ると思うよ」
カイがそう言ったのと、仕掛け扉の向こうでキィ、と微かな金属音が響いたのは同時だった。ディアナはごく自然に気配を殺し、扉の向こうの様子を窺う。
どうやら寝室に繋がる扉が開いて、誰かが入ってきたらしい。今日は湯あみを終わらせた後全員下がらせたはずだから、今室内にいるのは『紅薔薇の間』の侍女ではない。第一、彼女たちはこんなに忙しない足音を立てたりしない。
足音と衣擦れの音から、どうやら後宮近衛騎士の中の誰からしいと当たりをつけたディアナは、しかしその目的が分からず首を傾げる。こんな時間に鍵のかかっているはずの扉――寝室と廊下を繋ぐ扉は、日が落ちると鍵がかけられる――から、無許可で入室してくる者など、正体は何であれ穏やかならざる目的しか思い浮かばないのだが。
一通りプライベートルームを見て回ったらしい侵入者は、そのままメインルームへ移動し、しばらくして戻ってくると再び寝室へ入っていった。寝室より向こうの気配はさすがにディアナには分からない。
が、今ディアナの隣にいるのは、その道の玄人である。しばしの無言の後、彼はふぅ、と息をついた。
「行ったか」
「部屋から出ていったの?」
「あぁ。寝室に居座られたらどうしようかと思ったけど、さすがにそんなことはなかったみたい」
でもしばらくは念のため、ここにいた方がいいだろうね。
そう言われて、ディアナの頭は傾いた。
「随分と慎重なのね」
「あくまでも一応、だけどね。……さっきの、何か分かった?」
「私の知っている人じゃないってことと、後宮近衛騎士の誰かだってことと、多分私を探してうろうろしていたこと、くらい?」
「危害を加えられるかもしれなかった、てことは?」
「物騒な雰囲気はしたけど。殺気とまではいかなかったんじゃない?」
「相手は素人だよ。シリウスさんたちみたいに、自由自在に殺気を出し入れできるような技能持ってないから。人を殺す本質だって分かってないしね。殺気なんて纏わなくても、敵意だけで殺せちゃう」
「……ある意味、怖いわね」
ディアナとてシリウスに仕込まれた身、殺気に対しては反射的に身体が動く。だが、ただの敵意相手にそこまで敏感になれるかと問われたら、答えは否だ。
「カイから見て、あの侵入者は私を殺すつもりに見えたの?」
「はっきりとは断言できないけど、少なくとも『紅薔薇の間』に向かってくるときの気配には、無視できないものがあったね」
「にしてもよ? 後宮に来てたった四日目の近衛騎士さんが、どうして私を狙うのかしら?」
「俺は、女官長側の動きを逐一監視できてるわけじゃないから、単なる想像だけど。――多分外宮側で動きがあったことと関係があるんじゃないかな」
「外宮に、動き?」
侵入者よりむしろ、重要なのはそちらである。
「何があったの?」
「食いつき早すぎ。単に王様が、ディアナの撒き餌にちゃんと気付いて食べてくれただけだよ」
カイの言葉は抽象的ではあったが、その内容が意味するところは明らかだ。
「そう。――予想していたよりは、早かったわね」
「ちゃんと資料を見て、不正の可能性を見抜いてたから。そこからアルフォードさんと相談して、外宮室の室長補佐さん呼んで」
「あら、キース様を?」
「え、知ってる人?」
「お父様ともお兄様とも親交がある方だから。顔見知り程度よ。……そっか、キース様が出ていらしたなら後は早いわね」
「そ。女官長が宝物庫のお宝ちょろまかしている容疑まで聞いた王様が、こっそりクリスさん呼んで、明日……もう今日か、秘密裏に宝物庫の点検するから用意しておくように、って命令出したんだよ」
「宝物庫の鍵は女官長の管轄……そりゃバレるわね」
深々と頷いたディアナに、カイは軽く笑い声を上げた。
「クリスさんって面白い人だよね。女官長にも内密に、って命令受けたからって、堂々と空き巣に入ってたよ」
「いくら空き巣に入っても、鍵がなくなっていたら気付くでしょう。さすがの女官長でも」
「すぐにはバレないように偽物置いてきたらしいけど。まぁ、どこかからばれたんだろうね」
「侵入者の近衛騎士さんが女官長側の人だったら、お義姉様の動きを察するのだって簡単なことでしょうからね」
クリスでさえ、十五人いる後宮近衛騎士の素性と人柄を、まだしっかりとは把握できていないらしい。彼女たちを選んだのは主にアルフォードだから、一応は信用していたが、彼の目を掻い潜って悪事を働くような者が紛れ込んだということだろう。その人物は追々突き止めることにして。
「――それはそうと、カイ」
ディアナは、顔の見えない相手をじろりと睨んだ。
「かーなり、詳しいのね?」
「なんの話〜?」
「とぼけない。外宮の、しかも国王執務室の様子を、まるで見てきたように話すのね?」
「『まるで』じゃないよ。見てきたまんま話してる」
やっぱりか。ディアナは大きくため息をついた。
「一応言っておくけど、それ、見つかったら即座に死刑って知ってた?」
「見つからないよ。あの執務室には、俺の気配を探れる人間は出入りしない」
「それでも、王国に生きる人間なら、あそこだけは遠慮するのよ」
「例外だってあったでしょ? 『アズール内乱』のときとか」
「あのとき、王宮は完全に敵だったわ。今の国王陛下は、私たちの敵じゃない」
「そう。敵じゃないだけだ。――完全な味方でもない」
カイの声音が変わった。暗闇の中でも何故か、深い色をした紫紺が見える。
「クレスター家の『闇』さんたちは、主の意向に従うんだろうけどね。俺に主はいないから。好きにさせてもらうよ」
「カイ!」
「――お人好しの『紅薔薇様』」
光の存在しない世界で、お互いの声が、呼吸が、体温が、何より近く感じられる。境界線すら融け合う錯覚が起こったのが先か、
――自分ではない誰かの熱を、手首に感じたのが先、だったのか。
「自分よりも他人、いつだって頑張るのは自分以外の誰かのため、その手に抱えきれないくらいに沢山守りたがるくせに、何一つとして手に入れようとしない」
「カ、イ……?」
「分かるよ。ディアナは宝箱の中に宝石をしまい込むより、似合う人にあげちゃうタイプなんだよね。それで自分の宝箱が空っぽになっても気にしない」
「ねぇ、何を怒っているの…?」
カイの声が、これまで聞いたことのないくらいに緊迫した気配を宿している。余裕なく、沸き出る熱を必死に押し殺しているかのように。
何かは分からないが、どうやらカイの逆鱗に触れてしまったらしい。謝ろうと口を開いた瞬間、手首を掴む力が強くなった。
「怒ってない。――怒ってるとしても、それはディアナに対してじゃない」
「じゃあ、どうして、」
「俺を、止めないで」
ぐ、と壁に押し付けられる。これまで経験したことのない――けれども決して不快ではない空気が、ディアナの口を閉じさせた。
「俺は、俺だけは、ディアナに守られたりしない。――だから、俺を案じて、俺を止めるな」
「――…それは、」
「お人好しでいじっぱり、欲張りで無茶しい、そのくせ空っぽの宝箱が大好きなディアナには、一人くらい、言うこと聞かない奴が傍にいた方がいいよ」
耳元で囁かれた言葉の意味を問い返す前に、手首の熱は離れていた。あれほど張り詰めていた空気が、ふっと霧散する。
「カイ、」
「うん、侵入者さん、もう戻っては来ないみたいだねぇ。明日は…っと、もう今日か、騒がしくなるだろうし、ディアナは早く寝なきゃ」
「カイ!」
このまま別れることはできない。彼の言いたいことはあれでおしまいでも、こちらにだって言いたいことがあるのだ。
「…なぁに?」
「止めるな、って言われたから、もう、止めろとは言わない。……でも、」
カイの雰囲気からディアナが読み取った、ただ一つのこと。――彼は、状況次第で、どんな無茶でもする。
「お願い。自分を大切にして。私を欲張りだと見抜いたのなら、気付いているはずよ」
そうだ、自分は欲張りだ。相手の事情なんて知らない、ただ感情の赴くままに、大切なものばかりが増えていく。
「私が喪いたくないひとに、あなたも既に、入っているの」
「――っ」
ぐるんと回った仕掛け扉、ぐいと引かれた右腕、――一瞬背中に感じた力強い腕。
それら全てが過ぎ去ったとき、ディアナはたった一人、プライベートルームの本棚の隣にいた。
「カイ!?」
『……全く、狡いね、ディアナは』
「どっちが狡いの、返事くらい聞かせてよ!」
姿が消えた相手に、ディアナは何故か、猛烈な苛立ちを覚えた。
「そうよ、大体狡いのはあなたの方でしょう!? 私はあなたのこと何も知らないのに、あなたは私をどんどん見抜いてく!」
『それ、別に俺のせいじゃないから。ディアナ、だいぶ分かりやすいよ?』
「言われたことないわ、そんなこと。話逸らそうたって無駄よ、返事しなさい!」
『すごく理不尽に怒られてる気がするけど……、――分かったよ』
声だけの彼は、苦笑しているようだった。
『無茶はしない、危なくなったらさっさと逃げる。それでいいんでしょ?』
「……信じていいの?」
『教えてあげるけど。大抵の人間はね、自分が一番可愛いんだよ。俺もそのうちの一人』
軽いのに重たい、不思議な響き。信用できないと思う側から、このひとなら信じられるという想いが沸き上がってくる。そんな矛盾に眉根を寄せたディアナに、柔らかな声が落ちてきた。
『ひとまず休みなよ。ないと思うけど、また侵入者が来たら、叩き起こしてあげるから』
「……私の警備は、あなたの仕事とは違うんじゃない?」
『何の話? 俺は単に、『紅薔薇の間』を監視してるだけだよー』
とんだ『監視』もあったものだと、そろそろ眠い頭でディアナはこっそり突っ込んでおいた。




