閑話その10~昔話~
「一体どういうつもりだ!?」
執務室に戻って人払いを済ませるなり、予想していたジュークの文句が飛んできた。もちろんびくつくことなくしれっと返す。
「どういうことって?」
「紅薔薇の前で、あんな態度を取った理由だ!」
「別に問題ないだろ、『紅薔薇様』は黙っていてくださるらしいし」
「分かるものか! 他ならともかくあの、」
「あれ、そういう風に決めつけるのは止めるんじゃなかったのか?」
む、とジュークは反論を引っ込めた。止めようと思っても、長年の癖はなかなかすぐには直せない。本人もそれは分かっているのだろう。
「『紅薔薇様』と、ちゃんと話してどう思った? 噂に違わない、とんでもない悪女だったか?」
「それは…」
躊躇いはあったようだが、ジュークは基本的に素直だ。ぽつりぽつりではあるが、言葉を紡いだ。
「顔は……何か企んでいるように見えて仕方なかったが。話の中身は、『悪女』のものとは思えなかった。実家から連れてきた侍女だけでなく、王宮侍女にまで本心から慕われているらしいしな。俺の謝罪を一度は断ったのも、傲慢からではなく、謝罪の先にあるものを重要視してのことだ。あれほど賢明な娘とは思わなかった」
「自分の目で実際に見て、話をして、そう思ったんだな?」
「そうだ。これまで聞いた噂や意見を加味せずに、俺が自分で考えて、感じたことだ。『悪女』かどうかはまだ分からない、裏があるかもしれないからな。だが、こうやって話してみると、とても賢明で寛大な印象を受けた」
そこまで話して、ジュークは長い息を吐いた。
「……疲れるものなのだな」
「ん?」
「自分で見て、聴いて、考えるということは、こんなに疲れ、迷うものなのだな」
「ジューク…」
彼の顔を覗き込む。浮かんでいたのは、自嘲的な笑みだった。
「最初から答えが決まっていて、こうあるべきと定められて、その通りに生きる方が、どれほど楽だったか。迷うこともなく、立ち止まることもなく――、己の愚かさを知ることもない」
「……そっちの方が良かったか?」
「良かったのなら、俺はここまで、己を嫌悪していないだろうな。……考えていたつもりで、決めていたつもりで、俺はただ、怠惰だっただけだ」
紅薔薇と話をしてみて、それがよく分かった。
呟いたジュークの声に、力はない。
「紅薔薇が何を考えているのか、本当はどういう人物なのか、その言葉の真意はどこにあるのか。噂に囚われずに探ろうとすればするほど、分からないことばかりだった。これまでのように噂を頭から信じ込んで、全ての言葉を穿って聞けたら、『答え』は一つだったのに」
「でも、お前はそうしなかった。大切なのはそこだろう?」
「これまでは、そうしてきた。俺は考えてたんじゃない。与えられた『正解』に辻褄が合うように、現実をねじ曲げていただけだ。紅薔薇のことだけじゃない。後宮のことも、政のことも……いや、それどころか、『王』であることすらも」
「どういうことだ?」
「園遊会が始まる前、紅薔薇が言っていただろう? 『王』は、国に生きる全ての民のために、存在していると」
そういえば、ぶちギレたディアナがそんなことを言っていたような気もする。
ジュークはほろ苦く笑った。
「本気で、驚いた。――昔、父上に同じことを言われたんだ」
「……先王様に?」
「あぁ。たった、一度だけ。初めて民との謁見に同席させてもらったときにな」
懐かしいはずの思い出は、彼に今、痛みを与えているようだった。
「俺はそれまで、王とは臣民に敬われ、仕えられ、崇められる存在だと教わってきた。信頼できる臣下の言葉をよく聞き、考え込むことなく英断を下すことこそが、あるべき王の姿だとな」
「はぁ? 一体誰がそんなこと」
「さぁ、誰だったかな? 『帝王学』とやらを教える人間はころころ変わったし、人は変わっても皆、同じことを言っていたからな。いちいち名前など覚えていない。それも教えのうちだった」
「どんな教えだよ」
「王たるもの、下々の些事にとらわれてはならぬ。教師が変わったくらいで騒ぐ必要はない、だったか?」
「うわぁ…」
思わずドン引きした気持ちが丸まま表情に出たらしく、ジュークは苦笑した。
「睡蓮も、似たような顔をしていたな」
「同じ話をしたのか?」
「この話はしていないが、考え過ぎるなと教えられた話はした」
「そりゃ、まともな思考持ってる人間なら誰でも引くぞ。確かに政務の中には考えている場合じゃない種類のものもあるけど、それは災害とか不作とか大事故とか、そういう民の命が直接脅かされているような事例に限るんじゃないのか?」
「普段の政務は、信頼できる優秀な臣下に任せておけば、全て恙無く回るものだと言われたな。俺の職務は、正しい知識で臣下の仕事内容を評価することだと教わった」
「それ、『何も考えずに判子だけ押してろ』ってざっくり訳せるぞ」
「改めて考えると、俺にもそう思える」
アルフォードにしてみれば詭弁としか思えない理屈だが、ジュークはどうやら、長年その教えに縛られてきたようだ。そう考えれば、愚直とすら思えるあの短絡的思考にも納得がいく。
「だからこそ、父上はあそこまで難しい顔をしていらっしゃったのだろうな。謁見を見て、『あんな下らない話を真剣に聞く必要があるのですか?』と質問した俺に、お言葉をくださったのだ。『王とは、民のためにあるものなのだ』とな」
「……よくそんな怖い質問ができたな。怒られるかもしれないとか思わなかったのか?」
「そもそも、怒られるような質問だと理解していなかったからな」
「そこからかよ。そりゃあ……怒る気にもなれんわな、先王陛下も」
教えられたことをそのまま信じ込む、その素直すぎる性質が、幸いしたのか災いしたのか、微妙なところである。
「父上の言葉に驚いた。これまで教えられてきたことと、あまりに違っていたからな」
「普通そこで疑問をもって、考えるとか聞いてみるとかするだろ」
「疑問には思ったけどな。そのどちらも禁じられていたんだ、飲み込むしかなかった」
「へ? 考えるなって言われていたのはともかく、聞くなって?」
「質問、というのか? 変だと思ったことや気になることを教師に尋ねると、決まってこう言われた。『王となられるお方が、そのような些事にこだわってはなりません』」
言われ過ぎて暗唱できるぞ、と明るく言ったジュークに、アルフォードはとうとう我慢ができなくなった。
「おっ前、そこは反抗しろよ! 子ども心にも分かるだろ、筋通らないこと言われてるって! 考えるな、質問すらするな!? そんなの、自由な思考を奪われているに等しい拷問行為だぞ!」
「何故お前が怒るのだ、アルフォード」
「普通怒る! これでもな、俺はお前を大事に思ってるんだよ! 大切な奴が、ガキの頃からそんな理不尽に扱われてきたって知って、怒らない奴なんていないぞ!」
ジュークは、それはそれは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「俺のことを、大切だと思ってくれているのか? 『王』だからではなく?」
「もちろんお前は国王陛下で、俺の主だけどな。一年半ほぼ毎日傍にいて、馴れない政務に必死に取り組むお前を見てきたんだ。話に聞いたように育てられてきたとは思えないくらい、お前は玉座に対して真摯に向き合っている。良い『王』であろうとしている。そんな人間に愛着が湧いて、できる限り支えてやりたいと思うようになって悪いか」
「アルフォード…」
「あんまり見くびるなよ。臣下にだって意志があるんだ。仕えるに足る主だと感じなかったら、そもそも一年も付き合わないし、ここまで本音でぶつからねぇよ」
心なしか、ジュークの目が潤んでいる。こういう言葉を真面目に言って、引かれないどころか懐かせてしまうところが、アルフォードのアルフォードたる所以だ。ちなみにエドワードと仲良くなったのもこの特技が幸いしたせいである。
ジュークはふらふらと立ち上がり――アルフォードの手をしっかと握った。
「俺がどんなにダメな奴でも、傍にいてくれるのか?」
「今さら何を。現在進行形で傍にいるだろ。これ以上どんなダメな奴になるつもりだ」
「……確かに」
自分で言っていて可笑しくなったのか、ジュークは笑い声を上げる。アルフォードは掴まれた手をぶんぶん振った。
「笑ってる場合か! 王太子にそんな拷問強いた奴、一人でも多く思い出せ!」
「彼らを罪に問うたところで仕方ないだろう。彼らはただ、命じられていただけだ」
「変なところで寛大さを発揮するな!」
「良いのだ。……もう、良い」
例え子どもであったとはいえ、彼らに従うと、決めたのは俺だ。
どこか寂しげな微笑を浮かべ、ジュークはそう言いきった。
「俺は父上の、たった一人の子どもだったからな。王太子として幼い頃から大勢の者に囲まれていたが、誰かと心を通わせたことはなかった。皆が俺の傍にいるのは職務だからで、教師の言葉を守らなければ優しくすらしてもらえない。無表情で、無言で、世話だけされるのは怖いものだぞ。話しかけても無反応だ」
「……何だと?」
「教師の言うことを聞いて『良い子』でいれば、少なくともそういうことはなかったからな。自分を押し通して反抗するより、皆に優しくしてもらいたかった。だから、彼らに従う方を選んだんだ」
アルフォードはついに、怒りが臨界突破し、怒鳴る気力すら惜しくなった。
「――よし、分かった。ちょっと待ってろ」
「アルフォード?」
「当時の記録を調べて、そんな職務怠慢通り越した暴挙を平然とやった奴を一人残らずしょっ引いて来る」
「いやちょっと待て! 何を言い出すんだ。そもそも近衛騎士団長にそんな権限、」
「王を守ることが俺の仕事だ。過去だろうが関係あるか」
「気持ちはありがたいが、少し落ち着け」
「これが落ち着いていられるか! 許していいことじゃないぞ!」
やっぱり怒鳴ってしまったアルフォードを、ジュークはやや強引に座らせた。
「言っただろう? 俺が望んだのは、こうやって本気で接してくれて、心を通わせることができる『誰か』だ。今はお前が居てくれるんだから、昔のことはもう良い」
「ジューク…」
「よく、これほど愚かな王を見捨てず、仕え続けていてくれたな」
自嘲を含んだ言葉を、アルフォードは鼻で笑い飛ばした。
「お前を愚かだと思ったことなんざねぇよ」
「俺は俺を愚かだと思うぞ?」
「本当に愚かな奴はな、自分が愚かだってことに死ぬまで気付かないもんだ。俺は初めて会ったときから、お前は王でいて大丈夫だと思ってた」
「初めて……とは、即位の前に引き合わされたときか? あのときの俺は、みっともないくらいに震えていたと思うが……あれでどうして」
そもそも先王の崩御自体、誰も予想していなかったことだった。ある日突然患い、大慌てで主治医が診たときには既に手遅れ。奇跡は起こらず、あっという間にこの世を去った。そしてジュークに、早すぎる玉座が回ってきたのだ。
当時のことを思い出したのか情けない顔になったジュークに、アルフォードは笑いかけた。
「震えていたからだよ」
「は?」
「お前は震えていた。『王』という地位に。その重圧に。だろ?」
「俺に仕えていた者たちはお祭り騒ぎだったけどな。俺はそんなに楽観的にはなれなかった。……父上みたいに立派な王になる自信はなかったし、これからは俺の肩にこの国の行く末がかかっている。そう思うと、怖くてな」
「気付いてるか、ジューク? 自分が未熟であることと、『王』という存在の重さ。それを分かっていなければ、そんな恐怖は覚えないんだぞ」
予想外のことを言われたかのように、ジュークは目を見開いた。
「お前が玉座に怯えているのを見て、俺は、このお方なら大丈夫だと思った。『王』として何を一番大切にするべきか、きちんと分かっていらっしゃるとな。だから、騎士団長の職を引き受けたんだ。この王になら仕えられる、そう思ったから」
「……買い被り過ぎだ。すぐに落胆しただろう」
「そりゃあな。重臣の言うことホイホイ信じて、オイオイそれで良いのかって言いたくなるほど猪突猛進で、即断即決思い込んだらすぐ実行。ちょっと立ち止まれよ考えろよ、って言いたくなったことは、まぁ数え切れないくらいある」
ジュークはずどーんと落ち込んだ。分かっていても、ズバリ言われるとやはり痛いらしい。
アルフォードは、でも、と笑った。
「お前、大事なところは外さないからな」
「……例えばどこだ?」
「ソワール地方が豪雨にやられたとき、真っ先に民の救済を命じただろう」
「当然のことだ。民がいなければ、国は成り立たない」
「下々のことは『些事』じゃないのか」
「何を言うのだ。王国が長い歴史を誇り、ここまで発展してきたのは、全て民の力の賜物ではないか。民を守らずして、誰を守る」
「……ちなみに、それは誰かに教わったことか?」
「ん? 歴史を学べば、そう思わないか?」
話に聞いた『帝王学』を植え付けるような『教師』が、そんな真っ当な教え方をするとは思えない。偏りのある授業を受けて、それでもこの結論に達することができたのだとしたら、大したものだ。
アルフォードは、優しく笑んだ。
「ほら。ちゃんとお前は、『民のためにある王』だ」
「そんな……そんなことはない。今日紅薔薇に言われるまで、父上のお言葉を忘れていたのに」
「大切なのは、言われたことを覚えておくことじゃない。心に響いた言葉を、人生の肥やしにできるかどうかだ。お前には、それができた」
「アルフォード、あまり俺を甘やかすな。俺は今日、自分がどれほど愚かで怠惰な王だったか、自覚したばかりなのだぞ」
「考えることを覚えたんだから、これから正していけるさ。またお前が突っ走りそうになったら、俺が止めてやる」
「それは助かるが……間違え続けたこれまでは、変えられない」
本気で悔やんでいるジュークの肩を、アルフォードはぽんと叩いた。
「ジューク、良いこと教えてやろうか? 人間は、間違う生き物なんだよ」
「だが、俺は『王』だ。間違うなど」
「王様だろうがなんだろうが、間違うときは間違えるんだよ。過ちなく生きるなんて、そもそも不可能なんだ」
「アルフォードも……?」
「おぉ間違えた間違えた。そのせいで未だに後悔してる」
かなり痛い間違いだった。何一つ分かっていなかった、愚かな自分を、アルフォードはこれから先も許すことはないだろう。
「間違えて、後悔して。そんなことを繰り返しながら、俺たちはな、生きていくんだ。――間違う度に、やり直しながら」
「やり、直す…?」
「そうだ。間違っていたと気付いたら、改めればいい。そこからまた、始めればいいんだ。それだけの話だよ」
人はいつでも、可能な限り正しく生きていきたいと思う。真っ当でありたいと願う。
それでもなお、間違えるのだ。分かっていて間違えることもある、やむを得ない過ちもある。間違わずに生きていくことなど、生きている限り、できはしない。
大切なのは、間違えないことではない。間違いに気付いたそのときに、立ち止まれるかどうか。そこから、正しい道を探せるかどうかなのだ。
――そうやって人は、生きていく。
「過去は変えられない。でも、過去を振り返って見直すことで、未来は変えられる。望む未来に、近付くことができるはずだ」
「今からでも、間に合うか…?」
「やり直すのに、遅すぎるなんてことはない。俺はそう思ってるぞ」
ジュークに話しながら、アルフォードは自分にも、言い聞かせていた。
そうだ、遅すぎるなんてことはない。何度でも、自分たちはやり直せるはずだ。
明るい瞳で頷いたジュークを見て、アルフォードもまた、気持ちを新たにした。
そして、園遊会から三日後――。
「……ん? 何だこの内宮諸経費についての報告書は。金額の変動が妙に激しいではないか」
疑問を放置することを止めた王によって、後宮最大の波乱が、巻き起こされようとしていた――。




