自覚した気持ち
夜会が終わってから、シェイラとは幾度か会話した。その多くは、シェイラが目的もないのに人気のない場所にいる、という報告を受けたディアナが彼女の場所まで赴くことから始まって。
何度かそんなことを繰り返すうちに、シェイラとの『約束の場所』――後宮の奥深く、普段は誰も通らないような裏庭近くの廊下の陰――が、出来上がったのである。
「…………」
今も、シェイラはそこにいた。目はしっかりと開いていながら、心ここにあらずな風情で、どこか遠くを眺めてぼんやりとしている。泣いたり取り乱したりしていない分、その様子は余計に痛々しかった。
「……シェイラ様」
「! ディー様、ですか?」
「えぇ。ごめんなさいね、来るのが遅くなって」
「そんな、とんでもない。来て頂けただけで、私は…」
シェイラは意識をこちらに戻したようだった。廊下に進出している茂みに隠れ、ディアナは言葉を紡ぐ。
「お加減は、もうよろしいの?」
「……え?」
「……昨日、大変なことがあったと伺っています。シェイラ様をお助けするのに、私は何の力にもなれず」
「ディー様! そのようなこと、お気になさらないでください」
くるりとディアナの方を向き、シェイラは言った。
「皆様もご心配くださいましたが、私は本当に大丈夫なのです。『牡丹派』の方々には囲まれただけですし、かかった紅茶も冷めていましたし、……何よりすぐに、『紅薔薇様』が助けてくださいましたし」
「それなら良かったわ。ですが……シェイラ様は本当にそれでよろしかったの? 『紅薔薇』が助けるということは、シェイラ様のお気持ちはどうあれ、シェイラ様は『紅薔薇派』に与すると『牡丹派』の方々からは見られたのではありません? 派閥に入ることを、シェイラ様は望んでいらっしゃらないのに」
あれよあれよという間に助けてしまったが、ディアナが最も気になっていたのはそこだ。こうなった以上は『紅薔薇』が全面的にシェイラの保護に回るのが、一番効果的にシェイラを守れる一手ではある。しかしそれは同時に、派閥抗争を望まないシェイラを無理やり輪の中に引きずり込むことでもあるのだ。シェイラの意思が別にあるなら、今からでも他の手を考えなければならない。
「……確かに私、争いごとはあまり好みません」
「そうですよね…」
「――ですが、私のために身体を張ってくださった『紅薔薇様』のご恩に報いることができるなら、『紅薔薇派』とも名乗ります。『紅薔薇様』がお望みならば」
ん?
話の流れがおかしい。シェイラの声は固く、決意が滲み出ていた。シェイラの心がいまいち掴めず、ディアナは首を傾げて問い返した。
「ですが、派閥抗争は望んでいらっしゃらないのでしょう? シェイラ様が『紅薔薇派』に入るということは、必然的に争いの中央に放り出されるに等しいと思うのだけど」
「それは、そうかもしれませんが……。『紅薔薇様』に守るだけ守って頂いて、何もお返ししないというのはあまりにも……」
いや大丈夫、全く気にしませんから。
とは『ディー』としては言えない。今のディアナは、かなり慎重に、自分と『紅薔薇』を切り離して会話しているのだ。シェイラは世間知らずではあるが、かなり勘の鋭い娘である。うっかりにでも口を滑らせたら、即座に正体がばれかねない。
ディアナは『ディー』として、不満気な声を出してみせた。
「シェイラ様は気にし過ぎだわ。そのようなこと、シェイラ様がお気になさることではないでしょう」
「何故です? 『紅薔薇様』に助けて頂いたのに……」
「シェイラ様が『助けて欲しい』とお頼みになったわけではないのでしょう? それなら昨日のことは、『紅薔薇』が勝手にやったことです」
「ですが、『紅薔薇様』のおかげで助かったのです。それだけでなく、『紅薔薇様』は今後、私を保護してくださるともおっしゃってくださったとか」
「それも全て『紅薔薇』が、シェイラ様のお言葉を聞かず、勝手にやったことなのよ? 『紅薔薇』が保護を申し出たからといって、シェイラ様が自ら『紅薔薇』に入る必要はどこにもないわ」
「それはあまりにも身勝手な考え方ですわ、ディー様!」
滅多に声を荒げないシェイラが、声を高くして鋭い言葉を返してきた。……これは、もしかしなくとも。
「……シェイラ様、お怒りになられました?」
「いえ……、申し訳ありません。ディー様は、私を心配して、そのようにおっしゃってくださるのですよね」
ですが……とシェイラは続けた。
「前々から思っていましたが、ディー様は『紅薔薇様』に冷たくありませんか?」
「え? えーと、そうかしら?」
「はい。確かに悪い噂の絶えぬ方ですが、私にはあの方が、そこまで酷い人だとは思えません。……ひょっとしてディー様は、『紅薔薇様』が後宮内での勢力を伸ばすために、私を派閥へ引き入れようとしていると、お考えなのですか?」
そう聞かれても返事に困る。『紅薔薇』の考えなら誰よりもよく知っているが(なにせ本人である)、『ディー』が『紅薔薇』をどう思っているかなど、考えたこともない。『紅薔薇』イコール自分なので、どうしても突き放した物言いになるが、それがシェイラには『冷たい』と映ったらしい。
さて、どう答えようか。言葉を探した『ディー』の沈黙を、シェイラは肯定と捉えたらしかった。
「ご心配には及びませんわ、ディー様。『紅薔薇様』は、私を利用しようなどとはなさっておりません」
「……何故、分かるの?」
「理由などありません。夜会の日と、昨日と。お会いしたのは二回だけですが、あの方が他者を利用し、苦しめ、傷つけるような方には思えませんもの」
要はただのカンである。感覚で人を安易に信じるのは止めた方が良いと、本来なら言うべきなのかもしれないが、不覚にも胸が詰まったディアナは声を出せなかった。
――そう、『紅薔薇』としてシェイラと会ったのは、たった二回である。素に近い姿を見せることもなく、あくまでも『側室筆頭』として。
その、たった二回の邂逅で、シェイラは『ディアナ』を見抜いてくれたというのだろうか。そのような奇特な存在は、スウォン家以外にいないと思っていたのに。
正体を、明かそうか。一瞬過ぎった誘惑は、それよりも大きな躊躇いに阻まれた。
シェイラは『ディー』を信頼し、胸の内を明かしてくれる。笑ったり、泣いたり、怒ったり。まるで普通の友だちのように。姿も見せない、そんな『ディー』に。
そして同時に、シェイラは『紅薔薇』を、噂とは違う人だと確信している。どんなフィルターがかかっているのかは定かではないが、信頼に足る相手だと、どうやら認識してくれているらしい。
その両者が同一人物であると、シェイラが知ったらどうなるか。
上手くはまれば問題はない。シェイラとの絆がより深まり、めでたしめでたしだ。
しかしディアナは、声を替え、素性も偽って、ずっとシェイラと接していたのだ。『騙された』とシェイラが感じてしまえば、『ディー』と『紅薔薇』、両方への信頼が消え去ってしまうかもしれない。シェイラに限ってそんなことはないと信じたいが、人の心は予想がつかないものだ。
……うっかり嫌われるよりは、このままの方が。
そこへ落ち着いた結論に、ディアナは自分でびっくりした。
どうでもいい人にどう思われようが、気にしない。本音を見せて切れるくらいの関係なら、所詮そこまでのもの。
それがこれまでの考え方ではなかったか。それがシェイラに対しては、『真実』を明かして嫌われることを恐れるなど。
「……ディー、様?」
突然押し黙った『ディー』を訝しんだのだろう、シェイラがおずおずと声をかけてくる。ディアナはゆっくりと、息をはいた。
「私、自分で考えていたよりずっと、シェイラ様のことが好きみたいだわ」
「え!? え、と、ディー様?」
「シェイラ様は、私がお好きではない?」
「冗談でもお止めくださいませ! 大好きですわ!」
シェイラは本気で叫んだようだった。ディアナがいる茂みを真っ直ぐ見据え、切々と訴えてくる。
「ディー様とお会いすることができて、私がどれだけ嬉しかったかお分かりですか? 辛いことがあったとき、恐怖に負けそうになったとき、ディー様はいつも私を救ってくださいました。……今日だって、お会いすることは叶わずとも、ここに来るだけで頑張れると」
「――シェイラ様」
「良いのです。始めから、分かっていたことですもの。陛下の気まぐれが、いつまでも続きはしないことくらい」
一度感情を解放させたからだろうか。シェイラの声は、不自然なほどに明るかった。その空気は非常に危うく、このまま放置してはいけないと、ひしひし感じてしまう。
「シェイラ様」
「ですから、良いのです。欲を申せば、何故『牡丹様』なのかと。『紅薔薇様』の方がよほど美しく、才気に溢れたお方ですのに」
「……いけません、シェイラ様」
「何がです、ディー様?」
「――ご自分の心を、ごまかしては」
静かに切り込んだ。シェイラはそのまま、沈黙する。
「正直今の私に、シェイラ様のお心を理解することは難しいわ。ですが……、今のシェイラ様が無理なさっていることは、分かります」
「……無理、なんて…っ」
「苦しいなら苦しい、悲しいなら悲しいで、良いではありませんか。無理にごまかそうとなさらないで。……そちらの方が、見ていて辛いわ」
とさっ。軽い音がした。シェイラが膝をつき、手で顔を覆って震えている。
嗚咽混じりの、声が届いた。
「……分かっていた、はずなのです。覚悟だって、していたのです。それなのに、私、」
「シェイラ様、無理に話さなくて良いのよ」
ぶんぶん首を横に振り、シェイラは続ける。止める気はないようだ。
「私、陛下が他の方のもとへ赴かれたと聞いて、確かに心が痛かった……!」
「……それは、」
「ダメなんです。好きになってはダメ。陛下は気まぐれで、私に優しかっただけ。……分かっているのに、どうして、こんなにも、心が痛いの……っ」
……何を、やっているの、陛下は。
ディアナの心に、紛れも無い本気の怒りが沸いた。
どういう意図で、何を考えて、こんな行動に出たのかは知らない。しかしその結果、想い人であるはずの少女を、こんな後宮の片隅で泣かせている。そこはせめて、手紙や伝言で、シェイラにだけは自分の考えを明かしておくべきではないのか。男として有り得ない。
ガサ。
気付いたら、勝手に身体が動いていた。茂みから抜け出し、泣いているシェイラの前に膝をつき、ゆっくりとその身体を抱きしめる。シェイラの肩が、びくりと揺れた。
「……ディー、さま?」
「どうか、顔をお上げにならないで」
いくら鬘と服でごまかしていても、正面から見られたらさすがにばれる。シェイラの頭を引き寄せ、ディアナは言った。
「落ち着かれるまで、こうしていますから。……私にできることをさせて、シェイラ」
「……ディー」
シェイラの気持ちを、実感することはできない。けれど、泣いているシェイラに寄り添うことならば、できる。
――できないことを嘆くより、今は。私にできる、精一杯を。
本格的な、啜り泣きが辺りに響く。シェイラの背を撫でながら、ディアナは半ば本気で、国王吊るし上げプランを練るのだった。




