愛しさの中で
今回、ちょっと長めです。
側室の懐妊、という後宮における一大事件は、午後の正妃教育の時間を利用して、速やかに関係者各位へ報告された。王太后リファーニア、ライアとヨランダは、教師役としてもともと面会予定が組まれていたため、そこにさり気なくレティシアが加わるだけで、作戦会議は立派に成り立つ。――リファーニアと『名付き』三人は面会時間が別々だったので、同じ説明を二度することにはなったけれども、それもまたシェイラ自身が事態を客観視するのに役立ったと感じる。
話を聞いた四人は、それぞれがそれぞれに驚いており……しかし、そこはさすがディアナが見込んだ人々なだけのことはあり、驚きはしても狼狽はしなかった。マグノム夫人と同じく、ひとしきり驚いて「いつ、どこで、誰がそのようなことを」と訝しんだ後は、見事にナーシャと子どもの命を守るため、最優先にすべきことは何か、自分たちにできることは何かと、思考を切り替える。冷静に現実と向き合って最善を尽くそうと思考を重ねる姿に、シェイラはまたしても「真の〝高貴〟とはどういうことか」を教えられた気がした。
とはいえ、ナーシャの具体的な状態が分からない現段階では、周囲ができることも限られている。ナーシャ本人へのフォローは友人であるシェイラとリディルが主に行うこと、〝食〟についてはマグノム夫人と厨房に基本的にはお任せすること、信頼できる医者の手配は外宮に頼むことを確認し、ひとまずその他の協力者達は後宮の噂の流れに気を配りながら、必要に応じて手助けすることになった。
「……ですから、これを機会に、リディル様に全てを打ち明けることを、どうかお許し願いたいのです」
シェイラの願いにも、エルグランド王国が誇る麗人たちは、鷹揚に頷いて。
「もちろん、最終的なご判断は陛下にお尋ねすることになるでしょうけれど、わたくしたちに異存はないわ。この後宮で、次にどなたをお味方とできるか考えれば、リディル様とナーシャ様をおいて、他にはいらっしゃらないもの」
「ディアナが旅立ってから、後宮の状態を見て、お二人へお話しできればと考えていたけれど……そういう状況であれば、リディル様にご助力をお願いするのは、むしろ急務でしょう」
「実際にお話しするのは、シェイラ様にお任せしてもよろしいのでしょうか? ……もしもお忙しいようでしたら、私ならばまだ、リディル様もお心安くお話しくださるかとは思いますけれど」
「ありがとうございます、レティシア様。ですけれど……ここはやはり、私の口から、経緯なども含めてご説明申し上げますわ。それが、リディル様のお気遣いに甘えてここまで何も話さずにいた私の示せる、唯一にして精一杯の誠意でしょうから」
リディルが、何をどこまで察しているのかは、正直なところ分からない。
けれど、彼女は最初から――それこそ、出会って仲良くなった頃から、ずっとシェイラに親切で、何があっても堂々と味方でいてくれた。後宮中が『紅薔薇様』を悪女だと信じ込んでいた時期に、うっかり「そこまで悪い人とは思えない」と呟いたシェイラを、唯一笑顔で肯定してくれたのもリディルだった。
ずっと態度で、ときにははっきりと言葉にして、思えばリディルは一度もシェイラを信じること、友人でいることを躊躇わなかったのだ。側室同士の広く浅い繋がりを大切にしているリディルにとって、何かと噂の絶えなかったシェイラの〝友人〟であり続けるのは、簡単ではなかったはずなのに。そんな苦労はおくびにも出さず、いつだってリディルは笑顔で、シェイラの傍に居てくれる。
――だからこそ。
「このお話を、リディル様がどのように受け止められるのかは分かりませんけれど。……大切な仲間で、大好きなお友だちには、ありがとうもごめんなさいも、きちんと自分でお伝えしたいのです」
「そう。……分かったわ」
シェイラの決意を受け止めてくれた、『名付き』三人の瞳は優しかった。……少し前に、同じことを伝えたリファーニアと同じく、シェイラの意思を尊重し、歩みを見守ろうとする、温かな光が宿っている。
「後は……外宮への知らせをどうするか、よね」
静寂の中、ふと落ちたヨランダの呟きに、ライアとレティシアの視線が何となくシェイラを向いた。
二人の無言の問いかけに、シェイラもまた、やや苦笑しつつ頷く。
「……はい。ちょうど今夜、陛下がお渡りになるご予定ですので、そのときに私からお伝えします。このような内容ですので、万一のことを考え、口頭伝達の方が安全であろうと、リファーニア様とマグノム夫人のご意見も一致していらっしゃいますので」
「そう、ね。私も、口頭でご報告申し上げることそのものに異論はないけれど」
「このようなご質問は失礼かもしれませんが……シェイラ様は、お辛くありませんか?」
引っ込み思案なようでいて、ここぞという場面ではズバリと本質を突いてくる――以前ディアナが語っていたレティシア評が、シェイラの中でもすとんと落ちた。遠慮がちではあるけれど、大事なところをレティシアは決して曖昧にしない。シェイラも商人の娘だ、重要な商談で逃げたりはぐらかしたりするのは悪手だと知っている。レティシアは古参伯爵家の令嬢だが、彼女の本質と才能は完全に商い向きなのだろう。
「辛くない……と申し上げれば、それは嘘になるのでしょうね」
そんなレティシアの問いに、シェイラもまた真っ直ぐ向き合う。有耶無耶にしようと思えばできるだろうけれど、シェイラを信じ、気遣ってくれている彼女を誤魔化して、自らの心のうちからも目を逸らすことが〝正解〟のはずがないから。
「ナーシャ様のお子様の父君が、陛下であらせられる可能性は低い……マグノム夫人からそう説明は受けましたし、ずっと心の中で『陛下がそのように不誠実なことをなさるはずがない』と陛下を信じたい〝私〟が叫んでもいます。しかし――現実問題として、男子禁制のこの後宮で側室が子を宿したとなれば、父親として最も有力なのはやはり、国王陛下でしょう。可能性は限りなく低いとはいえ、ゼロではないわけですから」
「それはちょっと飛躍して考えすぎよ、シェイラ様。確かに後宮は男子禁制とされているけれど、あくまでも建前の話であって、実際のところは相当に緩いもの。今だって、陛下が渡られる際は、護衛として数名の国王近衛騎士が必ず同行しているでしょう?」
「確かに、ライアの言うとおりよね。国王近衛の方々は護衛としてだけでなく、伝令役もこなされているから、何なら陛下不在で後宮にいらっしゃることもあるし。――現後宮に限定して言うなら、他にも〝男性〟はあちこちに紛れ込んでいるわけだから」
「まぁ……紛れ込んでおいでの〝男性〟の皆様方がお子の父君である可能性も、陛下と同じく低いとは思いますけれども。現状が特殊なのは間違いないのですから、ライアさんとヨランダさんが仰るとおり、父君の可能性を陛下に絞り込んでしまうのは、少々早計かと存じます」
聡明な『名付き』の三人が理路整然とシェイラの懸念を否定する言葉を述べてくれる。とてもありがたく、ほんの少し不安な心が安らぎはするが、やはりシェイラの中にあるもやもやが晴れることはない。
(分かってる。……皆様が仰ることは、きっと正しい。私だって頭では、ちゃんと理解できているもの)
割り切れないのは、いつだって心の方だ。皆のために、自分のために、強くあらねばと誓ったそばから、弱く卑屈な心が忍び寄る。
……忍び寄り、囁いてくる。
――こんな自分如きが、いつまでも国王陛下に求めて頂けるなんて、いつからそんな分不相応な夢を見ていた? ……と。
「……っ」
思わず潤みそうになった瞳を一度強く瞑り、シェイラは不吉な声を頭の中から追い払った。
「シェイラ様……」
そんなシェイラに何を思ったか、レティシアが徐に立ち上がると、そっと隣に腰を下ろしてきて。
「実は――ディアナから、預かっているものがあります」
「え……」
突然出てきた、今は海を挟んだ異国で戦っている、親友の名。彼女に導かれるように、シェイラは瞳を開き、レティシアを見る。
視線が合ったレティシアは、ゆっくり、強く、微笑んで――何かが包まれた白い布を、そっとシェイラの手に置いた。
「『もしもシェイラが、大きな試練を前に足を竦ませるようなことがあれば、これを渡して』と」
「これ、は……」
「どうぞ、開けてみて」
促されるまま、その白い布を開く。
開いて――。
「こ、れ……!!」
窓から差し込む午後の光に照らされて、優しく白銀に光る、『雪の月』――以前、シェイラがディアナにあげた、異国風の簪。
一度は事件の物証として外宮へ預けられ、その後きれいに磨き直されてディアナの手元へ戻ってきたはずの〝それ〟が今、シェイラの掌の上で穏やかに煌めいている。
白く眩いけれど、優しく穏やかなその輝きは、まさに月光そのもので、
――シェイラが焦がれて仕方ない、大切な親友の現し身のようにも、思えた。
「ディー……!」
この『雪の月』は、シェイラに大好きな親友の真実を知らせてくれた。『紅薔薇様』と『ディー』を〝ディアナ〟へと結び、シェイラとディアナを繋いで。シェイラの命を救い、ディアナの無実を晴らし、後宮の未来を切り開く一助となってくれた、大切な宝物だ。
その『雪の月』を、「大きな試練を前に足を竦ませるシェイラへ」と託けたディアナの想いは、きっと。
たとえ、どれだけ怖くても。どんなに不安でも。どうか、どうか忘れないで。
シェイラ。あなたの中には確かに、苦難に立ち向かう勇気がある。困難な〝今〟を進み、〝未来〟を明るいものへと導く力が、あなたにはある。
私と、この『雪の月』は、そんなあなたをずっと、ずっと見てきた。
だから、信じている。疑いなく、確信している。
どれほど大きな試練でも、あなたと後宮の皆なら、必ず乗り越えることができると――!!
錯覚かもしれない。けれど、シェイラには確かに、聞こえた気がした。『雪の月』へと託した、ディアナの心が。
曇りなく透明で、揺るぎなく眩しい……包み込むような温もりと優しさに満ちたディアナの〝声〟が、深く深く、シェイラの中へと浸透していく。
――飾りの月に触れ、シェイラは泣きたい心地で微笑した。
「ディー、は……どこまで、何まで、見通しているのでしょうね」
「そうね……。わたくしたちには計り知れないほど、多くのものを見ているのでしょうね、あの子は」
「でも、見えているからこその不安も、恐怖も……きっとあります。もしもシェイラ様が足を竦ませる〝未来〟がディアナに見えていたとしたら、そんなシェイラ様を残して旅立たねばならなかったのは、不安だったに違いありません」
「それでも、あの子は信じたのね。――信じて、託してくれたのね。この後宮と、国の〝未来〟を……シェイラ様と、私たちに」
ライアの呟きに、シェイラの心が奮い立つ。――先へと進む、力が湧いてくる。
(そうだわ。怖くても、不安でも……たとえどんなに、辛くても。私はもう、目の前の現実から逃げたりはしない)
そう、決意して――!
コン、コン、コン。
寝室の扉が、控えめに三度、叩かれる。レイとマリカが下がった夜更け近く、一人残された部屋で、シェイラは自ら扉を開けた。
「済まない、シェイラ。遅くなった」
廊下に立つジュークは、いつもと変わらず微笑んでいる。ゆるゆると首を振って、シェイラは彼を迎え入れた。
「いいえ、陛下。――ようこそ、お越しくださいました」
「シェイラも疲れているだろうに、待たせてしまったな。レイとマリカは……下がらせたのか?」
「はい。……少々お待ちくださいませ。今、お茶のご用意を」
「助かる。執務が終わってすぐにこちらへ向かったので、ちょうど喉が乾いていたんだ」
用意していたのは、昼間も飲んだハーブティー。ディアナ曰く、柑橘系の香りはリラックス効果が高いため、ナイトティーとして飲んでも良いらしい。
レイが下がる前に用意してくれていたお湯をポットへ注ぎ、ディアナから教えてもらった通りにお茶を淹れて、ジュークが待つ寝台まで運ぶ。
サイドテーブルへ置いたカップを手に取ったジュークは、優雅な手つきで口元まで運び、香りを確かめて。
そのまま飲むことはなく、ふと笑った。
「これは……クレスター領で、紅薔薇が出してくれたハーブティーだな」
「はい」
「爽やかさの中にほのかな甘みがあって、これまで飲んだことがない味だと感嘆したのを覚えている。……あのときは分からなかったが、紅薔薇はこれを、カイのために淹れていたのだろう? 彼は、過ぎた甘味をあまり好まないようだから」
「……えぇ、おそらく」
ジュークが、国使団の出立前にカイと話し、彼の心に触れたことは、シェイラも既に聞いている。懐深いジュークらしく、「あれほどの男であれば、エドワードやクレスター伯が全幅の信頼を置くのも頷ける」と苦笑しながら言っていた。
そして……そんなカイに、無意識の領域で危ういほど無垢な恋心を捧げている、ディアナのことも。ジュークは既に、気付いている。
「あの二人のためにも、なんとか国使団の帰国までに、少しでも状況を好転させたいところだが……現実とはいつだって、ままならないものだな」
「陛下……」
「……シェイラ。何か、俺に話があるのだろう?」
静かな笑みを浮かべ、ジュークが問いかけてくる。――出逢った当初は、ただ想いのまま、勢いよくシェイラへ想いを向けていた彼は、一つ現実を知るごとに立ち止まることを知り、考えることを知り、ただ無闇にぶつかるだけでは壊れない〝壁〟を前に思索するようになって……それでも、彼は大切な場面で、いつだって変わらず真っ直ぐだ。
ジュークが知った現実は、決して優しいものではない。これまで己を取り巻いていた世界が、決して〝ジューク〟を愛するばかりではなかったという、深く重い闇を纏っている。
それでも。そんな闇を目の当たりにしてなお、ジュークの瞳は曇らない。美しい薄氷が朝日に透けて煌めくかの如く、シェイラを見つめる彼の瞳にはいつだって、清純な光が満ちている。
……こうして、苦しい現実を前にした、今でさえも。
「シェイラ。ゆっくりでいい。聞かせてくれないか」
「……マグノム夫人から、何かお聞きになったのですか?」
「いいや。夫人は、何も言わなかった。ただ、上手くは言えないが、いつもとは何かが違うような……俺たちを案じているような、そんな雰囲気がして、な」
「それ、は」
「俺の思い過ごしなら、それで良いかと思っていたが。こうして部屋に来てみれば、いつもより遅い時間とはいえ侍女を下がらせているし……何より、シェイラがわざわざ、紅薔薇にもらった茶を淹れている」
言われた意味が分からず目を瞬かせたシェイラに、ジュークは少しだけ苦笑して。
「前に一度、紅薔薇がこのハーブティーを淹れる様子を見ていたが、普通のお茶より随分と手間のかかる淹れ方だった。そんな手間をかけてまで紅薔薇手製のものを用意するほど、今のそなたは彼女を求めているということだ。……何か問題が起こらなければ、そなたがそれほど心を弱らせることはないだろう」
……このひとは、本当に、変わった。己の過去と真摯に向き合い、乗り越えようと必死に足掻く中で、これまでは捨てざるを得なかったものたちを拾い集め、一つ一つ、自身の中に取り込んで。日に日に王らしく、統治者らしくなっていく。
それなのに。シェイラを見つめる眼差しだけは、出逢った頃と何一つ変わらなくて。どんなときも真っ直ぐにシェイラだけを見つめて、理解しようとしてくれるから。
いつだって。シェイラはジュークの前でだけは、内にあるものを上手に隠すことができなくなる。
「……陛下はいつも、私をよく見てくださっているのですね」
「以前は……見えているようで何も見ておらず、無自覚のまま多くを傷つけてきたからな。きちんと現実を見ることで、ほんの僅かでも何かを守れるのなら、目などいくらでも開こう。特に――そなたのことは、な」
「陛下……私、は」
「シェイラ、教えて欲しい。――後宮で、何があったのだ?」
『名付き』の三人に励まされ、ディアナが託けてくれた『雪の月』の簪に勇気をもらって、――ジュークの優しさに、癒されて。
大きく息を吸い、シェイラはぐっと、目の前のジュークを見つめた。
「――陛下。ナーシャ・クロケット男爵令嬢を、覚えておいででしょうか?」
「あぁ。クロケット男爵の娘だろう。確か、そなたと親しくしている令嬢ではなかったか?」
「左様にございます。その、ナーシャ様ですが――この度、ご懐妊されていることが明らかになりました」
「かい、にん……」
シェイラの言葉を、そのまま舌先で転がしたジュークは……きっかり三拍、黙り込んで。
「懐妊!?」
変に声を裏返らせながら、小声で叫んだ。
「懐妊、とは、あの懐妊か? 女性が子を孕むという意味の懐妊で合っているか!?」
「相違ございません。ナーシャ様のお腹に、お子がいらっしゃいます」
「〝いらっしゃる〟と断言しているが……医者の見立てか?」
「いいえ。ソラ様が霊力で気配を感知した結果、判明した事実にございます」
「あぁ……」
ある意味、医者の見立てなどより遥かに高性能な探知である。探知した人物の実力的にも、疑いの余地はない。
驚きながら、しかしその事実に間違いはないと理解したらしいジュークは、気持ちを落ち着けるためか、もう一度ハーブティーを手に取り、飲む。
「しかし、そうか、懐妊か……。いや、子ができるのはめでたいことではあるが、クロケット嬢の今の立場を考えると、呑気に喜んでいられる状況ではないな」
固唾を飲んでジュークの反応を伺っていたシェイラの前で、ゆっくりとカップを戻したジュークが、半ば独り言のように言葉を紡いでいく。
その内容は、なんだかとっても当たり前のもので……当たり前過ぎて、どこかが盛大にズレていた。
「まずは父親を明らかにせねば……あぁいや、それより先に、懐妊へと至った経緯の確認だな。あまり考えたくないことだが、嬢の懐妊が望まぬ行為の末に起きたことなら、また取るべき対応も変わる。いずれにせよ、クロケット嬢の意思が最優先であろう」
「あ、の……」
「懐妊した女人が出産へと至るまで、周囲はどのように援助していくべきなのか……クロケット嬢の出産がいつ頃になるのか、それまでに後宮解体が間に合えば良いが……」
「へい、か?」
「間に合わなかった場合は、後宮でのお産となるのか? しかしそうなると、秘密裏に事を進めるのは難しい……紅薔薇は医術に精通しているが、お産についても詳しいのだろうか」
「――あの!」
思考の淵へと沈みかけていたジュークを、シェイラはやや強引に引き戻す。目をぱちくりとさせてシェイラを見たジュークの表情は――。
「どうした、シェイラ?」
清々しいほど純粋に新たな命を祝福する、〝国王陛下〟のものだった。〝側室の妊娠〟という、後宮においてはどう転んでも騒乱の種にしかならなさそうな事態を、単なる〝おめでた〟と同列に捉え、喜んでいるように見える。
いや、めでたいのだ。子ができるのは、めでたいことなのだ。ゆえに、ジュークは何も間違っていない。ごく当たり前の反応である。
ただ、問題は。その〝おめでた〟が、対外的にはジュークの妻である〝側室〟に起こったということで――。
「失礼ですが、ナーシャ様のお立場を、陛下はご存知でいらっしゃいますか?」
「もちろんだ。後宮に住まう、側室の一人だろう?」
「で、あるならば。その〝側室〟の子の父君は、後宮の主である陛下だと解釈されるのが、一般的かと思うのですが」
「広く世間に知られてしまえば、そう思われるのは避けられんだろうが。幸いにして、今の後宮は大所帯だ。その分、側室一人一人への興味関心は分散される。マグノム夫人が部屋割りを見直してくれたことで、それぞれのプライバシーも守られやすくなっているしな。いくつか工夫は必要だろうが、懐妊を隠すことは充分に可能だろう」
「つまり陛下は、ナーシャ様を罰するおつもりはない、と?」
「罰する? 何故だ?」
「……ナーシャ様のお子の父君は、陛下ではないのでしょう?」
「当然だ」
シェイラの心にしつこく巣食っていた不安を、ジュークはたった一言で吹き飛ばす。
思わず泣きそうになったシェイラに気付いたのか、ジュークはそっとシェイラの手を引いて、すぐ隣へ座るよう促してきた。
「あぁ……そうか。考えが及びもしなくて失念していたが、俺は立場上、この後宮に住うどの側室とも関係を持てるのだったな。クロケット嬢が身籠ったのであれば、真っ先に俺が不貞を疑われて然るべき――」
「疑って、は!」
考えるより先に、言葉が飛び出す。ぶんぶんと首を横に振って、シェイラは言葉を紡いだ。
「違う、のです。陛下を、陛下の御心を疑ったわけでは、なくて。……いいえ、結果的には、そうなるのかもしれませんが」
「シェイラ……?」
「いつ、だって……私が、本当に信じられないのは、いつだって私自身なのです。陛下にこれほど愛されてなお、私は、私に、それほどの価値があると、どうしても信じられなくて」
「……」
「しんじ、られない、から……陛下がナーシャ様のお子の父君であるはずがないと、頭ではきちんと分かっているのに、『もしかしたら』と囁く〝声〟を、追い払えない」
……しばらくの間、ジュークは無言だった。感情が迸るままに飛び散った言の葉たちが、静寂の訪れた寝室でひらひらと舞う、そんな幻影が見える。
その幻影の中――不意にジュークが、握っていたシェイラの手を強く引いた。
「!!」
引かれるまま落ちたジュークの腕の中で、全身をすっぽりと彼に抱かれ、温もりに包まれる。
視界の全てがジュークで染まる中、髪に触れるほど近くで、彼の声が聞こえてきた。
「俺は……まったくもって、情けない夫だな。妻に、こんな不安を抱かせるなど」
「そ、んな」
「以前、紅薔薇も言っていた。妻が思い違いをしているのなら、それを正すのは夫の役目ではないのかと。正しいが……なかなかに、難しい」
「それは……」
「――なぁ、シェイラ」
言葉を切り、ジュークは穏やかな表情で、シェイラの頬に手を添える。
「シェイラは、自分自身を信じられないと言ったが。――自分のことを一片の疑いもなく信じ切れている人間の方が、世の中では少数派だと思うぞ」
「え……」
「自分の能力や得意分野には一定の信頼を置いていても、〝他人に愛される価値〟なんてものが自分にあると心底信じている人間は、俺が知る限り、そう多くはない。――あのエドワードですら、『クリスと出逢えたのは奇跡だし、あいつが俺を好いてくれたのはもっと奇跡だし、婚約を交わせたのは人生の運の大半を使い果たした結果でしかない』って言ってるくらいだからな」
「まぁ……」
ディアナの兄エドワードは、良くも悪くも迷いがない、さっぱりした性格だ。そんなエドワードの婚約者であるクリスも明るく大らかで、二人はとてもお似合いに見えた。共にいる姿が自然な二人は、まさに運命の恋人同士のように思えたが。
「エドワード様が、そのようなことを……」
「前に飲みに行ったとき、そんなことを漏らしていたな。――逆に聞くが、シェイラはどんな人間なら、〝愛される価値〟があると思うんだ?」
「え? そう、ですね……例えば、ディーのように思い遣り深くも気高く、それでいて気さく、とか。ライア様やヨランダ様のように、立ち居振る舞いも社交スキルも完璧であったり、レティシア様のように特別な分野において秀でた才能をお持ちであったり。他には、リディル様のように明るく社交的だったり、ナーシャ様のように誰かをさり気なく支えられる気遣いを忘れなかったり――」
「……気付いているか、シェイラ? そなたが今言ったものは全て、〝愛される価値〟ではなく、〝そなた自身が好きな友人の美点〟だぞ?」
指摘され、言葉が止まる。……言われてみれば、その通りだ。
心なしか楽しそうに、ジュークはシェイラの瞳を覗き込んだ。
「そなたは本当に、紅薔薇が、友人たちが好きなのだな。〝愛される価値〟を問いかけて、真っ先に彼女たちが浮かんでくるのだから」
「もちろんです。ディーはかけがえのない親友で、後宮での日々を通して出会った皆様方も、大切なお友だちですもの」
「そうやって、〝好き〟に躊躇いがないシェイラだから……本当は、気付いているのだろう? ――結局のところ、〝他人に愛される価値〟とは自分で自分に見出すものではなく、他者によって見出されるものだと」
微笑んで、ジュークはシェイラに一つ、触れるだけの口付けを落とした。
「〝愛される価値〟があるから、人は他者から愛されるのではない。他者を愛した瞬間、愛しい人の中に人は価値を見出すのだと俺は思う。――誰かからの愛を受ける者には、皆等しく、〝愛される価値〟があると」
「ジューク、さま」
「愛に理由など……〝愛される価値〟など、本当のところは要らないのではないか? これはカイからの受け売りだが――真に愛すれば、ただ相手がこの世に存在しているだけで、この上ない幸福を得ることができる。強いて言えば、それこそが〝価値〟だ」
……ディアナ至上主義のカイが、いかにも言いそうな台詞である。彼の場合、その無条件の愛と欲望まみれの男の愛情が矛盾しつつ同居しているから、より厄介なのだが。
(……でも、私もカイさんのこと、どうこう言えないわよね)
ジュークとナーシャが、男女の関わりを持ったのかもしれない――その可能性が思い浮かんだとき、真っ先に胸を過ったのは「嫌だ」というシンプルな感情だった。自分の中にも独占欲があることは、大好きな〝ディー〟にすらジュークを譲れないと思ってしまった過去で分かってはいたけれど、あのときよりもっと激しく、深く……昏く渦巻いた感情は、まさに女の情念と呼ぶに相応しいもので。〝ジューク〟を知ったからこそ生まれた〝それ〟に、今でも慄いている。
けれどシェイラの中には、ただただジュークの幸せを願い、そのためなら自分のことなど二の次な、そんな感情も確かにあって。ジュークが誰を愛そうとも、出逢えただけでもう充分に幸福だと思う自分がいることも確かなのだ。
だからこそ、切り替えられた。可能性は限りなく低いが、万一、ジュークがナーシャを愛したのだとしても、それを受け入れる覚悟だって持てたのだ。――愛する人が幸福なら、それだけで良い、と。
そろそろと腕を伸ばし、ジュークの背に回して、シェイラはぎゅうっと抱きついた。
「私……ジューク様を幸せに、できていますか?」
「あぁ。そなたがいてくれること、こうして俺を受け入れてくれること……いつも嬉しく、幸せに思っている」
「私も……ジューク様と出逢えて、お傍にいられる日々が、とても幸福です。自分に自信はまだまだ持てませんけれど、この気持ちだけは間違いないと、言い切ることができます」
「自分の気持ちに迷いがないのなら、心配ない。――俺とて自信など欠片も持てない情けない王だが、クレスター伯曰く、『自信なんざ、とどのつまりは経験則の積み重ねでしかない。日々の政務を堅実にこなして問題解決を続けていけば、放っておいてもそのうちついてくる』らしいからな」
「そう、いうもの、でしょうか……?」
「クレスター家的にはそういうものらしい。エドワードにも言われたぞ、『暇だから余計なこと考えるんだ、自信がないとかぼやく時間があるなら手と頭フル回転させとけ』と」
「エドワード様らしいお言葉ですね。ディーなら、なんと言うでしょう?」
「想像もつかないな……帰ってきたら、聞いてみるか」
顔を見合わせ、自然に笑い合う。――いつの間にか、シェイラの胸の内を侵食していたモヤモヤは、綺麗に晴れていた。
「……ありがとうございます。私の思い違いを、正してくださって」
「上手くできたか? 俺はカイのように、〝すごい勢いで怒る〟なんてことはできそうにないから、少し回りくどくはなったが。……あの迫力は、俺には到底真似できない」
「……なさらなくて良いと思います。あの二人はまた、特殊ですから」
「言えている。……それにしても、あれほど互いを求め合いながら、あの距離感を保てるのは大したものだな」
「えぇ、本当に。……ナーシャ様のお子様も、そうして互いに求め合った末の結実であればよろしいのですが」
シェイラの呟きに、ジュークが真面目な顔になった。
「……詳細は、まだ分からないのだな?」
「はい。ナーシャ様がご自身の変化の原因に気付いていらっしゃるのかも、まだ」
「そうか……」
「あの、ジューク様。先ほど、ナーシャ様を罰するつもりはない、と仰いましたが……」
「あぁ。言ったが、それがどうした?」
「ナーシャ様のお立場上、国王陛下以外の男性のお子を授かるのは、不義密通の罪に問われかねないと案じていたのです。……過去にも、王以外の子を宿した側室が罰された事例があるようですし」
「確かに、クロケット嬢の件が密通として頭の硬い保守派へと漏れれば、その機運が高まることは避けられないだろう。――そういう意味でも、彼女が懐妊した事実は、徹底的に隠し通さねばな」
「……ジューク様は、それでよろしいのですか? 〝側室〟が、別の男性と通じていても、罪には問わないと?」
「俺が互いに貞操を誓いたい相手は、シェイラ――そなただけだ。そなた以外の側室のことは、民の一人として、国を支える貴族の一員として大切に思えど、女として愛することはできない。俺が愛せないのに、相手にだけ一方的に貞節を求めるなんて、そんな傲慢な言い分はないと思わないか?」
すらすらと考えを述べるジュークに、迷いはない。……この人は本当に、シェイラ以外、女として興味がないのだ。
ジュークが、ナーシャの懐妊を認めた上で、隠し通すことを許し、協力してくれるなら。――より確実に、ナーシャを守ることができる。
安堵で全身の力が抜け、気付けばシェイラは、ジュークに寄りかかっていた。
「……どうした?」
「いえ……やっと少し安心できたようです。昼間から、気が張り詰めてしまっていたもので」
「そんな感じだったな」
「ジューク様が、お優しく、頼りになるお方で、本当に良かった。……こんな素晴らしい方の妻でいられることを、私はもっと感謝せねばなりませんね」
ふにゃりと笑った瞬間、身体が傾ぐ。
一瞬の後、シェイラは寝台に横たわり、上からジュークが覆い被さっていた。
「まったく、そなたは……ここぞというときに、不意打ちで、可愛いことを言う」
「あ……」
「疲れているようだから、今日はもう眠るだけにしようと思っていたのに」
「……いいえ」
ジュークの瞳にちらつく、情欲の炎。
寝台の上で、シェイラにだけ見せるその煌めきに、悦びを感じるようになったのはいつ頃からだったか。
両腕を伸ばし、ジュークの首裏に手を回して、シェイラはうっそりと笑った。
「こんな日だからこそ、ジューク様の温もりを感じていたいです。弱い私がもう二度と、〝愛される価値〟なんて陽炎に惑わされないように――」
言葉の続きは、落ちてきたジュークの唇に遮られる。
――深い夜の中、愛しいひとの温もりを心と身体に刻むべく、シェイラは静かに瞳を閉じるのだった。
ジュークの株よ上がれ……!




