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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
197/243

前へ進む決意

いつも感想&誤字脱字報告、ありがとうございます!


 ――懐妊。


 言葉の意味は言わずもがな、女性が胎内に子を宿すこと。貴族社会では慶事として〝懐妊〟の言葉がよく使われるが、庶民の間では〝妊娠〟の方が通りが良いだろう。どちらにせよ、意味は同じだ。

 生まれるのはもうしばらく先にしても、新たな命が宿ったことに変わりはないのだから、おめでたいことであるのは間違いない。貴族、庶民関係なく、それも同じである。数百年前であれば、家を継ぐ資格のある男児でなければ貴族はおめでたくなかったのかもしれないが、法改正され女性であっても爵位を継げるようになった時点で、妊娠は誰にとっても等しく喜ばしいこととなった。


 そう。慶事のはずだ。おめでたい、ことのはずだ。

 それなのに――!


(そ、んな。どうして。いつ、どこで、誰が……!!)


 動揺する心中、混乱する思考。冷静であらねばと思うそばから、様々な感情が飛び出しては頭と心を揺らしていく。

 ソラの霊力(スピラ)が伝えてくれた〝現実〟は、確かにナーシャの状況を鑑みればぴたりと嵌まる。妊娠してすぐはやたらと眠くなることがあるとは聞いたことがあるし、何より食の好みががらりと変わり、ものによってはまるで受け付けられないというのは、典型的なつわりの症状だ。

 そう考えれば、ナーシャの具合が悪かった、全ての謎が解ける。納得できる。


(で、も……!)


 ナーシャは、〝側室〟だ。正式ではないにせよ、王の〝妻〟だ。

 側室(ナーシャ)が懐妊したということはつまり、王の〝子〟が宿ったということで。

 王と彼女が、男女の仲であったということになる――!


(……っ)


 あり得ない、と理性だか感情だか、もはや混ざり合って判別つかなくなったモノが叫ぶ。〝あり得ない〟理由もいくつか同時に浮かんでくるけれど、それらは理性が冷静に差し出してきているのか、疑惑を否定したい感情がそう思い込みたいだけなのか、今のシェイラが判断することは難しい。

 ただ一つ、確かなのは。今の後宮において、〝側室の懐妊〟という、本来ならば国を挙げて祝うべき慶事が、必ずしも歓迎はされないということだけだ。


(お友だちにお子ができた、って。それだけならただただ純粋に、おめでたいばかりなのに……)


 この〝真実〟に、シェイラは果たして、どう向き合うべきなのか――……。




『『紅薔薇』不在での後宮では、どんなことが起こるか分からないわ。――大変だろうけれど、皆の平穏をどうか守って』


 嵐のように荒立っていたシェイラの心に、まるで揺らがぬ灯台の如く、ディアナの言葉が浮かび上がる。――シェイラの大切な親友が遠い異国へと旅立ったのは、何のためだったか。


(そう、だわ。私は……!)


 ナーシャの〝真実〟がどうであろうと、仮にシェイラにとって何よりも苦しく、辛い現実が待っていたとしても、為すべきことは変わらない。

 ディアナに〝後〟を託された者として。シェイラは何としても、この後宮(ばしょ)の平穏を、ここで生きる皆の命と暮らしを、守らねばならないのだ。

 ここに今、新たな〝命〟が宿っているのなら。それもまた、シェイラが守るべき存在。……どのような事情を抱えているにせよ、このエルグランド王国に宿った命は等しく、ジュークの、シェイラの〝民〟なのだから。

 大きく息を吸って、ゆっくりと吐いて……シェイラは、視線を上向けた。


「……見苦しくも動揺してしまい、申し訳ございませんでした」

〈――いいえ。この僅かな時間で、しっかりとお心を立て直されましたね。お見事です〉

「ありがとうございます。それで……改めて確認致しますが、ソラ様のお見立てでは、ナーシャ様は懐妊なさっている、と。そう考えてよろしいでしょうか?」

〈左様にございます。とはいえ、先も申し上げました通り、未だ気配は弱く、薄く、儚い。まだまだ予断を許さぬ時期ではありますが〉

「……身篭られてから、まだそれほど時間が経っているわけではないということですね」


 妊娠と出産について、実のところ、シェイラはあまり詳しくない。貴族家に生まれた女児の教育は、慣例的に母親や親戚女性など、身近な親族が行うものとされているからだ。幼い頃に母を亡くし、親しく付き合っている女性貴族が居なかったこともあって、シェイラの教育範囲には割とムラがある。マナーや貴族としての立ち居振る舞い、貴族、社交界のルールや上手な渡り方などは家庭教師でも教えられるが、男女の営みを通じた妊娠のメカニズム、子が宿ってから十月十日、どのように母体の中で育って成長し、出産へ至るのかなどは、非常にデリケートな分野ゆえに、雇われ家庭教師ではどうしても〝ぼやけた〟教え方になってしまったのだろう。ふわっと表面をなぞっただけの、ディアナが聞いたら「なるほど、ひとまず教科書を丸暗記した段階ね」と初級レベル認定される程度の知識と実感しか、持ち合わせていなかった。……今、それが心底悔やまれる。


(それでも……今みたいに、ろくにご飯も食べられず、突然倒れてしまうような状態が、ナーシャ様にとってもお子様にとっても、良いことじゃないのは確か。――まずは、きちんとお医者様の診断を受けてナーシャ様とお子様の現状を把握し、妊娠初期のお体に良いものを厨房に用意してもらわないと)


 やるべきことを整理しているうちに、頭の中はクリアになっていく。考えをまとめているシェイラの横を、必要物資を入手して戻ってきた侍女たちが、脇目もふらず通り過ぎていった。……彼女たちもまた、ナーシャのことを心配しながら、けれど何をすべきか分からず不安だったのだろう。

 そんな侍女の背中を追う風を取り繕いながら、シェイラは密かな声で〝天井裏〟へと語り掛ける。


「ありがとうございました、ソラ様。……お忙しいところ申し訳ありませんが、今しばらく、こちらのお部屋を見守って頂けますでしょうか」

〈承知致しました。確かにこの件、ご正妃様含め、後宮の〝表〟だけで事を収めるのは、少々難しいでしょう。――賢明なご判断です〉

「〝少々〟どころではなく、難しいことですが……しかし、私はやり遂げねばなりません。そうでなければ、ディーの――現『紅薔薇』様のお志を継ぐことなど、到底叶いはしませんから」

〈その通りですね。では、私はここから、ご正妃様の奮闘を見守ることと致しましょう〉


 ……カイもそうだったが、それ以上にソラは厳しい。現状、彼が唯一シェイラを〝正妃〟と呼ぶのも、シェイラがその座にあるのを認めているわけでは決してなく、とっととその地位に相応しい人間になれという密やかな(プレッシャー)でしかないことは、シェイラが一番よく分かっている。

 以前、カイ相手にソラの厳しさと圧をちらっと愚痴ったところ、「穏やかな物腰と紳士的な口調にみんな騙されるけど、父さん、根本的には鬼教官気質だから。目的と目標を定めた相手に対しては、本人が望むレベルに到達するまで、一切の手加減しないし。父親としてはこの上なく甘いのに、師匠としては情け容赦ない稽古をつけてくれるもんだから、あれだけ切り換えられるのは逆に凄いなって思ったことあるよね」と、何のフォローにもなっていない返答をもらった。それはあくまでも弟子に対するスタンスではと突っ込みたいのは山々だが、『シェイラが正妃の座に相応しい人間に成長できない』イコール『いつまで経ってもディアナが後宮から離れられない』イコール『ソラの愛息子がずっと現状維持を強いられる』わけで、父親としてカイに甘々なソラがシェイラを立派な正妃へと育てるべく鬼教官状態になるのは、ある意味で筋は通っているため文句も言えない。――本当に、嫌になるほど似た者親子である。


 ――そんなソラに見守られ、覚悟を決めたシェイラが一歩を踏み出した、


 そのとき。


「ん……」


 小さな小さな声とともに、ナーシャの瞳がゆっくりと開く。寝具の改善と温石の効果で、血の巡りが改善されたのだろうか。遠目にも、先ほどより顔色が良くなっているのが分かる。


「ナーシャ様……私が分かりますか?」

「リディル、さま?」

「気がついて良かった……あぁ、まだ起きてはダメよ」


 起き上がろうとしたナーシャを諌めるリディルは涙声だ。彼女がどれほどナーシャを心配しているのか、よく分かる。

 リディルに優しく肩を押され、起こしかけていた上半身を寝台へと戻したナーシャは、そのままゆっくりと室内を見回して――。


「マグ、ノム、夫人……?」


 ……恐らくは、彼女が最も知られたくなかったうちの一人であろう女官長の存在に、ほんの一瞬ではあったが恐怖と畏れを表情へと登らせた。


「ナーシャ様。お目覚めになり、ようございました」

「は、い」

「……ご自身の身に何が起こったか、覚えていらっしゃいますか?」

「はい……お茶会で倒れてしまったのですね、私」

「左様にございます。ゆえに、緊急事態と判断し、了承を得ず入室致しました。ご無礼をお許しくださいませ」

「いえ……」


 マグノム夫人は、いつも通りの冷静な無表情だ。シェイラが分かったナーシャの反応に気付かぬマグノム夫人ではないけれど、ナーシャの様子を見て、下手に突くのは良くないと判断したのだろう。マグノム夫人は感情を制御する術に長けているだけで、表面通りの無感動な人ではない。むしろ、他者の感情の機微を察する能力に秀でているからこそ、敢えてナーシャの恐怖を流したのだ。


「お倒れになるまでのことは、シェイラ様とリディル様よりざっとお伺いしましたが、何の前触れもなく突然意識を失われるというのは、やはり尋常のことではございません。現在、後宮に医師は常駐しておりませんが、王宮の内務医官の派遣を要請し、詳しい検査を――」

「いえ!!」


 突如、ナーシャが部屋中に響き渡るほど大きな声を出した。言葉を遮られた以上に、聞いたことのないナーシャの大声に気圧されて言葉を止めたマグノム夫人の隙を逃さず、ナーシャはぐいと身体を起こす。


「ご心配には及びません、マグノム夫人。日頃の不摂生が祟り、軽い貧血を起こしただけです。お忙しい王宮のお医者様のお手を煩わせるようなものではございませんわ」

「ですが、」

「今日のお茶会でも、最近の後宮の過ごし易さに甘えて怠惰な生活を送ってしまっていたと、自覚したばかりですの。今後は気持ちを入れ替え、早寝早起きに努めるなど、生活習慣を整えて参ります。そうすれば、このようなことは二度と起こらないでしょう」

「ナーシャ様……どうか落ち着いてくださいませ」

「私は、この上なく落ち着いております。だからこそ、何の病気でもない私にわざわざお医者様をお呼びすることはないと、判断できているのです」

「しかし、そのようなお顔色では――」

「少し休めば、顔色は戻ります。とにかく、お医者様は必要ございません。もし仮にお医者様を派遣されたとしても、そのまま帰って頂きます。――そもそも、王宮の内務医官様のお仕事は、陛下をはじめとした王族方の診察治療であるはず。側室は王族ではないのですから、内務医官様の管轄外でしょう」


 これほど饒舌かつ強硬に己の意思を通そうとするナーシャを見るのは初めてだ。リディルもそれは同じらしく、驚きのあまり目を見開いて固まってしまっている。

 ナーシャが医者を拒絶する理由は、分かる。医療の素人相手ならば「ただの不摂生から来る体調不良」だと騙せても、本職の医者が見れば、彼女の容態が何を意味するのかなど一目瞭然だからだ。……実は、本職の医者顔負けの医療知識と技術を持つ規格外の某令嬢がこの後宮に紛れ込んではいるのだけれど、現在地が海を挟んだ遠い異国では、さすがに診察のしようがない。妊娠を隠したいナーシャにとっては幸いだろうけれど、彼女を助けたいシェイラにとっては、現実の険しさが更に高くなった。


「ナーシャ様。内務医官様を気遣っておいでなのは分かりましたから、ひとまず休みましょう?」

「いいえ、リディル様。マグノム夫人が医官様の派遣をなさらないとお約束くださるまで、休むわけには参りません」

「ナーシャ様……」


 寝台では、未だ押し問答が続いている。これ以上の興奮がナーシャの身体に良くないのは明らかだ。押し問答の末に彼女が意見を変えるとも思えないし、ここは一旦こちらが引いて、状況を共有、整理すべきだろう。


「――マグノム夫人」


 足音を立てずに寝台の近くまで寄り、静かに声を掛ける。振り返ったマグノム夫人に、目だけで「一度引きましょう」と合図して、シェイラはリディルの方を向いた。


「リディル様。しばらく、ナーシャ様をお願いしてもよろしいでしょうか?」

「シェイラ様……?」

「――ナーシャ様。別室にて、少しマグノム夫人とお話しして参ります。以前、紅薔薇様も仰っていましたが、こういうときは冷静な第三者が間に入った方が、話はスムーズでしょう」

「ですが、シェイラ様。私は……」

「お医者様にはかかりたくないのですよね? ナーシャ様のお気持ちは、ちゃんと理解しておりますから」


 シェイラの応答に、ナーシャはあからさまな安堵を見せた。友人であるシェイラが自分の気持ちを汲んで、マグノム夫人を説得してくれると思ったのだろう。――半分は、正解だ。


(現段階で、本職のお医者様にかかるわけにはいかない……)


 口止め可能なお抱え医ならともかく、王宮の内務医官は、その名が示す通り立派な官人だ。彼らにナーシャを診せるということは、側室の妊娠という重大事を公に知らせるに等しい。現段階でそんなことをしては、後宮どころか王宮中が大狂乱(パニック)状態に陥ってしまう。


 ――合図を受け取ったマグノム夫人とともに、シェイラはひとまずナーシャの部屋を出て、自室へと戻った。


「ごめんなさい、マグノム夫人。お話を遮ってしまって」

「いえ、止めて頂けて助かりました。私も、ナーシャ様があれほど頑なに医者を拒絶なさるとは思わず、引き際の見定めが困難になっておりましたので」


 そう返したマグノム夫人の表情は険しい。突然倒れたこともだが、医者の診察は受けないと宣言したナーシャの様子に、夫人もまた感じるものがあったのだろう。


「どうやらナーシャ様は、何があっても医師の診察だけは受けないと、固く決意しておいでのようですね」

「はい。――あの、マグノム夫人」

「……どうなさいました?」

「マグノム夫人は、ナーシャの様子から、何か思い当たること、などは……」

「そう、ですね……食が細くなっておいでですから、胃腸系の疾患ではと考えているのですが」


 シェイラの表情の固さに、聡いマグノム夫人はすぐに気がついたようだ。……それなのに、それほど聡い人なのに、彼女は未だ〝妊娠〟の可能性に思考が及んでいないように感じる。

 それが何故かは、置いておくとして――。


「マグノム夫人。お話があります」


 向き合わねばならない。この難局を、『紅薔薇(ディアナ)』の居ないこの後宮で乗り越えねばならないという、厳しすぎる現実と。

 そのために、ただ真っ直ぐ、シェイラはマグノム夫人を見つめた。


 ――覚悟を宿したシェイラの瞳を、マグノム夫人は静謐な眼差しで受け止める。


「はい。伺いましょう」

「ナーシャ様の、お具合ですが。――結論から申し上げれば、何らかの病から生じているのではございません」

「では……?」

「女性には、もう一つ。病でなく、身体状態が著しく変化する事象があるはずです」

「……――!」


 その瞬間、マグノム夫人の表情が、〝驚愕〟の一色に染まった。高貴な貴婦人らしく、感情を表情へ乗せることなど滅多にないはずの彼女が、声も出せないほど驚くことなどそうそうない。……それほどまでに、この〝真実〟は衝撃的なものなのだ。


「まさか……、」


 しばらくの静寂を数えた後、喘ぐように、マグノム夫人は言葉を紡ぐ。


「まさか、そんな……そのような、ことが」

「信じられないお気持ちは、よく分かります。しかし、これが真実です。〝人〟の気配を鋭敏に察知するお力でソラ様が見抜かれ、私に教えてくださった、紛れもない現実なのです。――あのお部屋から感じる〝人〟の気配は、滞在している人数より一つ多いと。そのうちの一つは、まだ未成熟な気配だと」

「ソラ、様が……」


 何度か、浅く呼吸してから、マグノム夫人は緩やかに首を横に振った。


「ソラ様が仰るのであれば、それが真実なのでしょう。……しかし、信じられません」

「はい。……私も、感情的には、まさか陛下とナーシャ様がと、そう思ってしまいますが」

「――いいえ、シェイラ様。それはあり得ません」


 心弱く口をついて出た弱音を、間髪入れずにマグノム夫人が否定する。シェイラを慰めるためにしては、些か断定調が強い。疑問に思って視線を上げると、確信の瞳でマグノム夫人は続けた。


「私は、この後宮を管轄する者として、陛下と密に連絡を交わしてございます。おそらく私は、側近でいらっしゃるスウォン団長様の次に、陛下のご予定に詳しい官でしょう。――誓って申し上げますが、陛下はこの後宮で、シェイラ様以外の女性と二人きりで長時間過ごされることはございません」

「で、も……陛下が、マグノム夫人にも内密にしていたら」

「陛下が、これまで誰にも目撃されることなくシェイラ様のお部屋をお訪ねすることが叶ったのは、私がそのように細かく人員配置を調整していたからです。前女官長時代は夜間の配置に隙があったようですが、私は側室様方が不自由な思いをしないよう、昼夜問わず最低限、なるべく死角のないよう侍女と女官を配置しておりますゆえ、もしも陛下が内密に後宮へおいでになることがあれば、すぐ人目についたはず。そのようなことがあれば噂にもなりましょうし、報告も上がるはずですが、現状、ちらとも聞きません」

「……お二人が男女の仲である可能性は、低いということでしょうか?」

「低いどころか、ほぼゼロに近いと申し上げて差し支えないかと。――何より、陛下は毎朝、最新のご予定を私までお伝えになり、『シェイラの予定と照らし合わせて、逢えそうな時間があれば教えてくれ』と仰るほど、シェイラ様とのお時間を捻出するのに腐心されておいでです。正妃教育に勤しまれているシェイラ様のお邪魔はしたくないという陛下のご意向に従い、これまでお話しするのは控えておりましたが」

「ま、ぁ……」


 シェイラの知らないところで、ジュークがマグノム夫人と、そんなやり取りを交わしていたとは。どうりで、予定外にぽっかり空いた休憩時間に、まるで合わせたようなジュークの訪問が重なることが何度かあったわけだ。おそらく、ジュークの予定を把握していたマグノム夫人が、「今なら逢える」とジュークへ教えていたのだろう。


「陛下のご様子を間近で拝見しております私からしますと、陛下の浮気を疑われるのは、クレスター家風に言うところの〝時間のムダ〟でしかありません。――ナーシャ様の内に新たな命が宿っておいでだとしても、その父親が陛下であらせられることだけは断じてないと、女官長の職に誓って申し上げます」


 断言するマグノム夫人の瞳にも、その表情にも、嘘や揺らぎは存在しない。……シェイラ如き若輩が、〝最高の貴婦人〟であるマグノム夫人の内実を推し量るなど、烏滸がましさもここに極まれりだが、信じるしかない迫力であることは確かだ。

 しかし。だとしたら――。


「……でしたら、ナーシャ様のお腹の中にいるのは、どなたのお子なのでしょう?」


 女だけで子はできないのだから、誰かしら、ナーシャの中に種を植えた男性は居たはずだ。浮かんだ疑問は、そのまま言葉となって口から滑り落ちた。答えを求めたわけではなかったが、シェイラの問いに、マグノム夫人は律儀に首を横に振る。


「現段階では、予想もつきません。それを明らかにするためには、まずお医者様にご診察頂き、ご懐妊からどの程度お時間が経っているかを調べる必要がありますが……」

「陛下ではないとしたら……後宮に戻ってからの可能性は低いですよね。考えたくはありませんが、『里帰り』中に――」

「それが……その可能性も低いのです」


 低い声で、マグノム夫人がシェイラの推論を遮った。疑問を表情に乗せてマグノム夫人の方を向くと、夫人もまた不可解な表情で見返してくる。


「側室でいらっしゃるシェイラ様はご存知かと思いますが、側室方は後宮へ入られる際、〝お子が宿せるお身体〟であることを証明する必要があります。具体的には――月のものがきちんと巡っておいでか、確認するという方法で」

「あ……そう、でしたね」


 言うまでもないことだが、女性にはおおよそ月に一度、血の巡りが訪れる。毎月、胎内で子を育む準備を整えて、種を迎えず不要となった場合、それらが流れ出ていくらしい。

 つまり、〝月のもの〟がある女性は、子を宿せることになるわけで。今となってはほぼ建前のようなものだが、一応この後宮に〝王の後継者〟が求められている以上、その役目を与えられた側室たちが本当に子を産めるのか確認するのは、当然の業務であるといえる。


「『里帰り』なさった側室の皆様方は、後宮へお戻りになる際、きちんと月のものが巡っておいでであることを確かめております。おそらくですがシェイラ様も、月の巡りを終えてから後宮へ戻られたはずでは?」

「はい、そうでした。……あぁ、だから、ディーと帰宮の時期が微妙にズレたのですね」

「左様にございます。ナーシャ様はもっとも帰宮が遅かったご側室のお一人ですが、普段の巡りから見ても不自然ではありませんでしたし、拝見した経血帯からも細工の気配は感じ取れませんでした。……侍女の経血帯を自身のものと偽るなどという方策がないわけではありませんが、明るみに出ればクロケット男爵家そのものが取り潰されかねないほど、危ない橋です。ナーシャ様とクロケット男爵が、果たして渡ろうとなさるかどうか」


 数百年前までは、後宮担当の官が側室の〝月のもの〟が巡っている瞬間を目で見て確認するという無茶苦茶な風習だったらしいが、そんなものが現代でも息をしていたら大問題だ。今は主に、〝月のもの〟が巡ってきた際に下半身へ巻きつける〝経血帯〟での確認と、その帯が確かに該当の側室のものであるという各家の当主の誓約書を以て、〝子を産める身体〟である証明としていると聞く。当人である側室が関わっているのは帯を外す動作くらいで、後は周囲が勝手に進めるので、あまり証明した実感は湧かないけれど。


「……仮に、『里帰り』中に何かが起こったとして。男爵様もナーシャ様も、そこまでして後宮へ戻ろうとはなさらない気がしますね」

「私も同感です。『里帰り』から戻られたナーシャ様にご挨拶申し上げた際も、『やっと帰って来られました』と安堵の表情を浮かべていらしたくらいですから。――もしも経血帯や誓約書を偽装してのご帰宮でしたら、あのように寛いだご様子で私とお話することはできなかったのではと、拝察します」

「はい。私も、ナーシャ様がお戻りになってからリディル様と三人でお茶をしましたが、そのときのナーシャ様から、陛下や後宮を謀っているといった後ろめたさは感じませんでした」

「であれば……やはり、あの〝証明〟は本物であった可能性が高く。ますます、ナーシャ様がいつ、どこで、誰とご関係を持たれたのか、謎が深まるばかりなのですが」

「そうですね……」


 マグノム夫人が、シェイラに言われるまで〝妊娠〟の可能性を考えつかなかった理由が、これで分かった。ナーシャの〝月のもの〟が確認できていたのであれば、彼女の懐妊はそれ以降でしかあり得ず、血の巡りが落ち着いてすぐに後宮へと戻った彼女が子を宿すには、唯一出入りを咎められない王と関係するしかないはずが、王の現場不在証明(アリバイ)は揺らぐことなく鉄壁とくれば、理論上は〝あり得ない〟としか言いようがない。

 ……が。理論上はあり得なくても、ナーシャの内に新たな命が宿っていることは、ソラが察知した確かな現実なのだ。


「――分からないことを考えていても、仕方ありません。今は何よりもまず、ナーシャ様のお命が優先です」


 一度頭を振って、シェイラは気持ちを切り替えた。

 マグノム夫人も、その言葉に強く頷く。


「仰る通りです。――まずは、ナーシャ様のお食事を改善しましょう。拝見したところ、ナーシャ様は味や匂いが鋭敏になるタイプの悪阻症状のようですので、お食事を変えるよう、厨房へ話をつけておきます」

「それで、ナーシャ様のご事情が広く知られるようなことは……」

「後宮の厨房長は、王太后様が王妃殿下でいらした頃からの古参です。話の分かる者で、口も堅い。厨房から外へ後宮事情が漏れることはございませんので、ご安心を」

「ありがとうございます……!」


 もっとも気にかかっていたことが、マグノム夫人の協力で解消されていく。やはり、味方を増やすというのは大事なことだ。……ナーシャには申し訳ないけれど、彼女を救うためにも、この一件には後宮も外宮も含めた仲間全員で取り組まねば、明るい未来を招くことは決してできない。


「マグノム夫人……ナーシャ様をお救いするのに、お医者様のご協力は間違いなく必須です。しかし、内務医官様では、ナーシャ様のご状況が外部へ漏れる恐れが出てくるでしょう」

「それは、私も案じておりました。お許しを頂けるのであれば、この件を秘密裏に宰相閣下へご相談申し上げ、閣下が信を置いていらっしゃる内務医官殿が居れば、その方にお願い致しましょう。……ただ、ナーシャ様のあのご様子では、診察を拒絶される可能性は極めて高いですが」

「そこは、私が何とか、ナーシャ様を説得します。ナーシャ様とて、いつまでも誤魔化し通せないことは分かっておいでのはずですから。――説得して、どなたのお子で、ナーシャ様が今後どうしたいのか、お伺いしてみます」

「よろしくお願い致します。あとは……陛下と、『名付き』の皆様方へのご報告ですね」

「……できれば、これを機に、リディル様のご助力も賜りたいと考えます。分かっていたことですが、リディル様は本当に頼りになるお方だと、今回の件で改めて実感しました。『紅薔薇様(ディー)』の真実はひとまず置いておくとしても、私が正妃候補として教育を受けていて、様々な方に支えて頂いていること、リディル様にはきちんとお伝えしたく思います。その上で、ナーシャ様の件でお力を貸して頂きたいと、正式にお願いしたいのです」

「はい、私は異存ございません。おそらく、『名付き』の皆様方も否とは仰せにならないでしょう」


 目的が明確になれば、先ほどまでの重い空気が嘘のように、話はどんどんまとまっていく。……そう。今は〝父親探し〟より、ナーシャと彼女の子を優先しなければ。


(陛下がお子の父である可能性は、限りなく低い……けれど、ゼロではないのよね)


 このことをジュークへ伝えて、万が一、億が一、〝父親〟の反応をされたらと思うと、シェイラの心は鈍く痛む。……けれど、だからといって逃げるわけにはいかない。


「では、マグノム夫人。宰相閣下と外宮室へのご連絡をお任せしてよろしいですか。私は、『名付き』の皆様方とリディル様、リファーニア王太后様、そして――陛下へお知らせします」

「――承知致しました」


 歩み続けることを誓うシェイラを、午後の光が明るく強く、照らしていた。


今回は、これまでふわっと流してきた〝後宮〟の裏事情をがっつりお見せする、割と生々しい回となりました……。いやうん、現代倫理と人権に照らせば完全アウトな行為ではありますが、〝後宮〟である以上避けては通れないわけで。今話は特に、降ろしてるキャラの常識と私自身の意識の乖離に戸惑いました。主人公ディアナさんの倫理観や意識が割と現代寄りですから、余計にそう感じるのかもしれませんが。

なるべく早くディアナたちに戻ってきてもらおうとは思うのですが、もうしばらく、シェイラの奮闘にお付き合いくださいませ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 戻ってから……だと!?そこは予想外です。 相手は本当にあの人……?それとも……
[良い点] なるほど、それでディー様はあんなに彼の国で奮闘されてたのですね!伏線はないかと前の章を読み返しながら楽しませていただきました!
[一言] まさか戻ってきてからとは… 恐らく外伝のあの子だと思ってましたが、どうなるか… 頑張れシェイラ!
感想一覧
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