『紅薔薇』不在の後宮で
新年、明けましておめでとうございます!
今年も変わらず、日曜朝9時更新を続けて参りますので、どうぞごゆるりとお付き合いくださいませ。
軽快な水音を立てて、船は滑るように走る。スタンザ帝国と別れを告げ、四方が完全に海に囲まれたところで、ディアナとカイは揃って背後を振り返った。
「――それで?」
「唐突だな。どうした?」
同じく甲板の上、ディアナたちとは少し離れたところで座っていたエドワードのすっとぼけた返事に、ディアナは鋭い視線を返す。
「誤魔化しても無駄よ。エルグランドからの迎えを要請したのは確かだけれど、何もスタンザ帝国が警戒するような〝最新の快速船〟を見せつけるような形で来国する必要はなかったはずだわ。結果的に助かったとはいえ、私が陛下の治療のために奥へ連れていかれた時点ではまだ、皇妃の話は影も形もなかった。――にも拘らず〝急いだ〟ということは、そっち側に……後宮のみんなに何かがあって、可能な限り速く『紅薔薇』が必要な事態が生じている、ということではないの?」
「俺も同感。てか、エルグランド王国の〝正式〟な迎えの一団なのに、エドワードさんとクリスさん以外のメンバーが騎士に化けた『闇』の人たちって時点で、かなり変だよね。王宮騎士には信用できない人多いにしても、後宮近衛や国王近衛の人たちとはそこそこ気心知れてるじゃん。これも外交の一環なら、文官だって必要なはずなのに、それも居ない。つまり――」
「後宮近衛も、国王近衛も。頼りになる『外宮室』の方々も……王宮に役職を持っている人が持ち場から離れられない、緊迫した事態に陥っているということ。違う?」
「クリスさんが例外といえば例外だけど、『紅薔薇』を迎えに行くのに身内のエドワードさんだけじゃ格好つかないから、かなり無理をして送り出された、って感じかな。――何より、父さんが詳しい事情を一切説明せず、『四の五の言わず迎えの船に乗って、とっとと帰ってこい』の一点張りな時点で、異常事態この上ないよ」
ディアナとカイの追及に、同じく甲板へ出ていたリタと王宮組が驚いて顔を見合わせ、エドワードとクリスは揃ってため息を吐いた。
「……何となく予想はしてたが、お前ら二人がタッグを組んだら、マジでタチが悪ィな。ディアナ一人でもかなり面倒臭いのに、カイまでそっち側に回りやがって」
「ある意味、似た者カップルなんだろうけど……どんなに急いだってあと数日は船の上なんだから、もうちょい休んでから状況確認したって良いのにね」
「お言葉ですが、クリスお義姉様。〝似た者カップル〟の形容は、私どもよりお兄様とお義姉様に当て嵌まるかと」
「向こうで何かヤバいことが起こってるって察しがついてるのに詳細が分からないんじゃ、身体は休められても心が全然休まらないって話だよ。父さんを残してきただけの俺ですらそうなんだから、ディーなんかもっとでしょ。状況把握して腹を括ってからの方が、まだ落ち着ける」
「――分かった分かった。話すから、そう圧をかけるな」
身振りで座るように促してきたエドワードに従い、ディアナは『国使団』の全員を集め、甲板に設置されているベンチへと腰掛ける。
話を聞く体勢が整ったところで、エドワードが深々と息を吐き出した。
「……最初に言っとくが、急いで帰ってきて欲しいのは『紅薔薇』もだが、どっちかといえば『ディアナ』の方だ。シンプルに、人命救助って意味でな」
「……『森の姫』の霊力が必要なの?」
「いや。そこまで深刻な状況になったら、即時『遠話』が入ることになってる。今のところ連絡はないから、霊力を使わなくても、ディアナが持ってる人間の医療技術で、まだどうにかなるはずだ」
「詳しく聞かせて」
「あぁ」
一瞬で頭を医者モードに切り替えたことを、空気だけで察したのだろう。ほんの少しだけ唇を綻ばせ、エドワードは頷いて。
「どこから話そうか。……やはりまずは、カイと交代で、ソラ殿が後宮にいらっしゃったところかな――」
ゆっくりと、〝これまで〟を語るべく、口を開く――。
■ ■ ■ ■ ■
裏社会において、代々の『闇』の首領は、程度の差はあれ名を知られた存在だ。中でも、当代の首領であるシリウスは、その神出鬼没さが半ば伝説的に語られ、いつの間にか『黒翼』の二つ名が定着するほど、名実ともに稼業者たちの重鎮の一人として一目置かれている。
そして、曲者揃いな裏社会の稼業者たちから、そんなシリウスの〝双璧〟として認められている人こそが――。
〈お初にお目にかかります――と申し上げるべきでしょうか。本来、お国の高貴な方々に対し、このような声のみでのご挨拶は無礼であると、重々承知してはいるのですが。立場上やはり、あまり堂々と人前に姿を晒すことは憚られ……不遜な真似を致しますこと、どうかお目溢し頂ければと存じます〉
低く、穏やかで優しげな声が、室内にふわりと落ちる。その声質は若々しく、声だけで年齢を察するのは難しい。
『睡蓮の間』に集まった『名付き』の三人――ライア、ヨランダ、レティシアと、後宮の責任者としてマグノム夫人。そして天井裏と室内の〝繋ぎ〟として同席したシェイラとクリスは、揃って視線を上へと向けた。
そのまま、クリスが苦笑しつつ口を開く。
「常々思いますが、ソラ殿はカイのお父上なのが不思議なくらい、礼儀作法に厳しいお方ですよね」
「それは、私も思っていました。カイさんは身分にまるで頓着しませんし、敬語とてほぼお使いになりませんのに」
頷いたシェイラに、ライアが少し笑う。
「確かに、カイは身分に忖度しないけれど。不思議なもので、だからといって決して無礼ではないのよね」
「えぇ。敬語なんて使われたことないのに、不思議と彼を無礼者だと感じたことはないわ。――上辺の作法ではなく、心からの〝礼儀〟というものを、お父上からしっかりと学ばれたのでしょう」
〈エルグランド社交界の〝花〟と名高いストレシア様、ユーストル様にそう仰って頂けると、親としてはひとまず安心です。一応、貴族の方々に対する振る舞いについては、叩き込んできたつもりなのですが……敢えて敬語や上辺の作法を省いたということは、皆様方はそういった〝形式〟に則って向き合うべきお相手ではないと、愚息が判断したということでしょう。ともに戦う仲間を前にして、壁を作るのは好ましくない――とね〉
ソラの声は、『里帰り』時にクレスター領で聞いたときと変わらず優しい。その言葉も、何より息子を大事にする彼らしいものだった。
〈改めまして――裏稼業にて日銭を稼いでおります、ソラと申します。ストレシア侯爵令嬢様、ユーストル侯爵令嬢様、キール伯爵令嬢様、マグノム前侯爵夫人におかれましては、ご機嫌麗しく〉
「……丁重なご挨拶、痛み入ります。私のことはどうぞ、ライアとお呼びくださいませ」
「――わたくしのことも、同じくヨランダと」
「お噂はかねがね伺っておりました。裏社会の重鎮でいらっしゃる『黒獅子』様にお会いできて光栄です。私も、お二方と同じく、名前でお呼びくださいませ」
ライア、ヨランダ、レティシアが挨拶を返し、マグノム夫人が優雅に一礼する。その全てを見届けてから、シェイラも改めて姿勢を正した。
「ソラ様。ご面倒をお掛けしますが、ディーたちが帰国するまでのおよそ一月、どうぞよろしくお願い致します」
〈こちらこそ。高貴なご令嬢方にとって、私のような生まれも育ちも判然としない稼業者はさぞ不愉快な存在かと存じますが、どうかこの一月あまり、ご辛抱頂ければ幸甚です〉
「まぁ、そのような。『黒獅子』様――ソラ様の名声は、半島の端である我がキール伯爵領にも聞こえて参ります。ソラ様のお力添えを心強く思いこそすれ、不愉快になど決して感じませんわ」
ソラの言を真っ向から否定し、レティシアは同意を求めてライアとヨランダを振り返る。
――振り返って。
「……ライアさん? ヨランダさん?」
「え……あぁ、ごめんなさい、レティシア。どうかした?」
「いえ、お二人こそ……何かございましたか?」
会話に加わらず視線を交わし合っていた二人に、レティシアは心配そうな表情になった。『社交界の花』と名高い二人が、その場の会話に加わらず、流れすら把握していないなんて、充分すぎる珍事だ。親しいレティシアはもちろんのこと、シェイラにだってその不自然さは分かる。
全員の視線を集めたライアとヨランダは、苦笑して首を横に振った。
「ごめんなさい。何でもないの」
「お話中に、失礼を致しました」
「それは大丈夫ですが……」
「ライア様。もしもお身体の具合などがお悪いようでしたら、ご無理なさらず」
「ありがとう、マグノム夫人。少し、考え事をしていただけです。――もう大丈夫よ」
いつもと変わらぬ朗らかな笑みを浮かべ、ライアは改めて上を向く。
「申し訳ありません、ソラ様。お話のお邪魔をしてしまいました」
〈……いいえ。どうか、私のことはお気遣いなく〉
返ってきた声は変わらず穏やかだったが、どこか深く響いて……心からの労りを感じさせるものだった。まるで似通ったところがない父子のように見えるのに、声だけでするりと人の心に入り込む器用さは、確かにカイを彷彿とさせる。
――沈黙が気まずくなる前にか、会話が途切れたところでクリスが進み出た。
「ソラ殿にお願いしていたのは、カイが抜けて手薄になっている〝天井裏〟の補完……ですが、最近のカイはほぼディアナの専任護衛状態ですから、ディアナが居ない今、そちらの穴はそれほど大きくないでしょう。どちらかといえばソラ殿には、『エルグランド王国国使団』との繋ぎと、霊力の専門家として、後宮にどの程度〝敵〟の手の者が入り込んでいるかの調査を進めて頂ければと考えておりますが、いかがでしょうか?」
〈そうですね。もちろん、こちらの皆様方含め、末姫様――ディアナ様の大切な方々をお守りすることは大前提ですが。護衛任務に関しては『闇』もいらっしゃることですし、私は私にしかできないことでお役に立つべきでしょう〉
「あと、スタンザ帝国にいるカイと、『遠話』で連絡係もお願いできますか?」
〈無論。そちらに関しては、デュアリス様からもお伺いしております。カイには、余程のことがない限り、毎日決まった時間に報告を入れるよう伝えてありますので〉
「ありがとうございます。図々しくも多くをお願いしている状況ですので、もしも何かご負担に感じることがあれば、遠慮なく仰ってください。私が捕まらないようなら、シリウスや他の『闇』に伝えてもらっても構いませんので」
〈お気遣い、ありがとうございます。今のところ問題はないと考えますが、もしも不測の事態により、私一人の手に余るようなことになれば、またご相談申し上げます〉
さすが、次期クレスター伯爵夫人として『闇』と接することも多いクリスの言葉には無駄がない。後宮近衛騎士の長としても、実に的確な状況判断だ。
〝霊力〟云々に関しても、あの『里帰り』でジュークに説明したのを境に情報解禁となったらしく、後宮に戻ってからディアナが『蔦庭』の茶会で『名付き』の三人に、クリスがマグノム夫人に、それぞれ説明したらしい。普通に聞いても突飛な話を、さしたる驚きもなく受け入れた四人はさすがだ。
――ソラとのやり取りに誰からも異論が上がらないことを確認してから、クリスは小さな袋を取り出す。
「皆様方の〝守り〟に関しては、他にも……ディアナから、こちらを預かっています。詳しい使い方はソラ殿にお尋ねすれば分かるとのことでしたが」
〈あぁ。カイが作った『付与』の『守り』ですね。どうぞ、袋をお開けください〉
ソラに促されたクリスが袋を開け、中から取り出したのは――。
「これは……ガラス、ですか?」
「宝石ではありませんね。グラスビーズじゃないかしら?」
シェイラの疑問に、ヨランダが答える。親指の先ほどの大きさで、規則的にカットされたそれらは、昨今庶民の間で流行しているガラス製の装飾材のようだ。一昔前はガラスも宝石類と変わらず高価な代物だったが、工業技術が発展した現在は大量生産が可能となり、宝石には手が届かない民たちの間で爆発的な人気を誇っている。
そんな、シェイラは見慣れているが後宮にはあまり相応しくないグラスビーズが、袋の中にはかなり沢山入っているようだった。
「こちらが……『守り』ですか?」
〈はい。敵方に霊力者がついているらしいと伺い、私とカイで作成しました。どうぞ皆様、お受け取りください〉
「ありがとう、ございます。……あの、こちらはどのような」
「わたくしどもは霊力者ではないはずですが、それでも扱えるものなのでしょうか?」
シェイラの疑問を、ヨランダがズバリと代弁してくれた。明瞭な質問に、返答もまたくっきりと落ちてくる。
〈こちらは、グラスビーズにカイの霊力を『付与』した『守り』にございます。……あれの霊力は実に特異なものでして、一度本気で力を解放したが最後、あらゆる霊術を破砕――すなわち、無効化することができます〉
「無効化……」
〈本人曰く、『疲れるから滅多なことじゃやらない』そうですが。――そんなカイの霊力が『付与』されているのが、そちらのグラスビーズです。……さすがにあらゆる霊術を破られてしまうのはこちら側にも差し障りがありますので、私の呪符にて『付与』する霊力をやや変質させ、特に攻撃、呪術といった〝危害〟を与える霊術を無効化できるよう、調整を入れました〉
「要するに、霊術方面の防御ですか。これを持っていれば、仮に霊術で攻撃されても防ぐことができるのですね?」
〈その通りです、クリス様。……私もカイも、実のところそれほど防御面に秀でた霊力者ではないもので。せめてもう一人、『操界』に秀でた者が居れば、こんな面倒な手段を取らずともお守りすることが叶うのですが〉
僅かに漏れた呼吸音は、ため息か深呼吸か。
少しの沈黙の後、改めてソラの声が響く。
〈そちらのグラスビーズがあれば、大抵の攻撃系の霊術は防ぐことができるでしょう。ただし、効果は一度限りです。もしも万が一、霊術で攻撃されるような事態に陥り『守り』が発動したら、すぐに新しいものと交換してください。何が起こるか分かりませんので、一応、数は多めに作ってあります〉
「確かに……結構な数が入ってますね」
「使用するにあたって、他に何か注意すべきことはございますか?」
〈いえ、特には。グラスビーズの持ち主へと向かう霊術を防げるように『付与』してありますので、極力、肌身離さずお持ちくださいということくらいでしょうか?〉
「承知致しました。……あの、こちら、私どもの判断で配っても?」
〈もちろんです。次期正妃様のお心のままに〉
了承を得たシェイラはクリスから袋を受け取ると、中の『お守り』を一つずつ、室内の仲間たちへ渡していく。ライア、ヨランダ、レティシアと――クリス、マグノム夫人にも。
「後は……事情を粗方把握して動いてくれている侍女たちと、リディル様、ナーシャ様にお渡しすれば、ひとまず行き渡るでしょうか?」
「そうね。……敵がどのような手を使ってくるかは未知数だけれど、まずは手近なところを固めておいた方が無難でしょう」
「そうですね、ライア様の仰るとおり。この『お守り』をどの範囲まで広げるかは、ソラ殿の調査結果を待ってから考えても遅くはないかと」
ライアとクリスの意見に、ヨランダとレティシア、マグノム夫人も頷く。
具体的に誰に渡すかを相談した後、それぞれの侍女分の『お守り』を受け取って。
「では――これから先はそれぞれ、ディアナが不在となったことで起こる変化を注視していくということで。小さなことでも何か気付いたことがあれば、緊急連絡ルートで情報共有しましょう」
「シェイラ様は正妃教育でお忙しいでしょうから、くれぐれもご無理をなさらないようにね。困ったことがあれば、すぐに仰って」
「私も、できる範囲でお力添えしますから。ディアナみたいに一人で抱えるような無茶はしないでくださいね」
頼れる『名付き』三人にシェイラが激励される形で、密かな集まりはお開きとなる。
結果として彼女たちの言葉が〝予兆〟となるとは、シェイラはもとよりこの場の誰一人、このときは想像していなかった――。
■ ■ ■ ■ ■
レティシアとシェイラ、クリスとマグノム夫人が去った『睡蓮の間』で、ライアは密かに脱力していた。骨の髄まで染み込んだ令嬢としての作法が、だらしなくソファーにもたれ掛かるなんてことはさせなかったけれど、心情としては今にも倒れ込んでしまいそうなほど、疲弊していた。
「ライア。お茶、淹れ直して来たわ」
「ありがとう、ヨランダ。ごめんね、気を遣わせちゃって」
「好きでしていることよ。謝らないで」
後宮の『天井裏』に関しては、限られた人間だけが知るトップシークレットだ。『紅薔薇の間』は少数精鋭ということもあり、ディアナとリタどころか部屋付きの侍女と女官全員が知っているけれど、そのようなことは本来あり得ない。同じ主家に仕える身であっても、〝表〟と〝裏〟の業務は完璧に分かたれているのが通常であり、〝表〟の者のほとんどは〝裏〟を知らないのが一般的なのである。……とはいえ現代では、〝裏〟の配下を有している貴族家など、古参の中でも極々一部に限られるが。
そのため、カイの父親が後宮に常駐することとなり、挨拶を兼ねた相談の場を設けるとなった時点で、ライアはごく自然に侍女たちを外した。先ほど、『睡蓮の間』に侍女が誰一人控えていなかったのは、そういった事情によるものだが……お茶を淹れ直すにも人手がなく、ヨランダにさせてしまったのは痛恨のミスである。
彼女が淹れてくれたお茶を一口飲んで、ライアはほぅと息を吐き出した。
「美味しい」
「そう? 良かった」
ヨランダも自分で淹れたお茶を飲んで、「悪くはないけど、やっぱりお茶の腕はディアナの方が数段上ね」と冷静に味を評価している。
そのまま二人でしばらく、無言のままカップの中を味わって。
「……まさか、とは思ったけれども」
空になったカップを皿へと戻し、ライアは半ば独り言のように呟いていた。
「あの人が、『黒獅子』……カイのお父上だった、なんて」
「冷静に考えれば、予想はできたはずなのにね……」
「無意識のうちに、考えることを放棄していたのかもしれないわ。こんなに心が弱いなんて、情けない……」
「無理もないことよ。いくらライアが暗殺に慣れているとはいっても、素人がバレバレの罠を仕掛けてくるのと、玄人が本気を出して殺しにかかってくるのは、全く別次元の話だもの。――思い返すことすら厭ったとしても、それはあなたの心が弱いからじゃない」
――ライアはストレシア侯爵家の跡取りだが、実のところその地位は盤石ではない。ライアの父、ローレン・ストレシアは元々次男坊で、優等生ぶりながらも破天荒な性格が災いし、ストレシア家から半ば勘当されていたという経歴の持ち主なのだ。運命が二転三転した結果、次男でありながら爵位を兄より受け継いだわけだが、古参貴族で、なおかつ保守の急先鋒を担っていたストレシア侯爵位を、スタンザ帝国出身の妻と帝国の血を引く娘を持つローレンが継ぐことに反対する者も多かった。外野もそこそこにやかましかったが、何よりストレシアの分家、親戚筋が猛反発したのだ。
もちろん、彼らがどれほど反発したところで、兄である先代侯爵がしっかりと段取りを整え、王家を含めた外堀をがっちりと固めていたわけだから、ローレンの爵位継承は揺るぎようもなかったわけだが。ローレンが半ば勘当されていたこと、スタンザ帝国人を妻にしたことなどを理由にストレシア侯爵家の一員とすらみなして居なかった連中にとって、父の爵位継承は寝耳に水のようなものだったのだろう。……その割に、父が爵位継承を果たすより以前、ライアが母の胎内に宿った際には、男子が生まれたら本家筋の跡取りになりかねないと、母もろとも抹殺を企んでくれたらしいが。「私がバルルーンの娘でなかったら危なかった」とは、当時を振り返る際の母ドーラの口癖のようなものだ。
ライアが生まれ、女児であると分かって、ひとまず分家と親戚の動きは落ち着いた。ローレンが爵位を継ぐと知らされた際は反発したが、付け入る隙もないほど完璧に整えられた状況に手も足も出ず、指を咥えて見ているしかなかった。――ローレンの後継であるライアは女児だ、上手く自分たちの子や孫を彼女の伴侶にできれば、侯爵家を内側からモノにできるという計算も働いたのだろう。
しかし当然ながら、彼らの思惑通りに事は進まない。ローレンは王宮にてその敏腕を遺憾なく発揮し、古参保守貴族でありながら異国情勢に詳しい唯一無二として、その存在感を強めていく。新たなストレシア侯爵家の邪魔をさせぬよう、分家と親戚筋を残らず本家の社交から締め出したことで、彼らの情勢は一気に厳しいものとなった。元々ストレシアの分家と親戚は、本家からの援助を受けてどうにか一人前の貴族として成り立っていた程度の、力のない者たちばかりだったのだ。梯子を外されてしまったら、自力では社交費を捻出するのも難しい。
焦った彼らが選んだ道。それこそが――。
「子どもの頃からそれなりに、修羅場は潜ってきたつもりだったんだけどね。親しくしていた使用人が、実は分家のスパイだったなんてこともあったし。毒殺だけじゃなく、寝てるときにこっそり刺されそうになったり、体調を崩したときにこれ幸いと悪化させる薬を盛られそうになったり……田舎で乗馬を教えてくれた教師の一人が親戚連中の手先で、落馬事故に見せかけて殺されそうになったこともあったかしら。浅慮な企みをどれだけ潰しても、懲りるってことがないのだもの」
「本当に、しぶとさだけはエルグランドでも随一よね、ストレシアの分家と親戚は」
あまり知られていないが、ライアの父ローレンは、その気になれば王宮騎士とも渡り合えるレベルの剣技の持ち主だ。スタンザ帝国への留学が認められたのも、一定の自衛能力があればこそ。それを知る分家、親戚連中はローレンを直接は狙わず、ライアを事故に見せかけて殺害し、後継者として自分たちの子や孫を推す作戦に打って出た。
だが、彼らがそう出るであろうことは、ローレンもドーラも予想できていたこと。ライアは幼い頃より、ローレンより自衛の体術を、ドーラより毒のかわし方を、叩き込まれて大きくなった。素人に毛が生えた程度の暗殺者もどきであれば、充分に返り討ちにできる。
そうして、ライアがか弱いご令嬢の皮を被りつつ、ちまちまと刺客を撃退している間に、ローレンが今となっては邪魔者でしかない分家、親戚筋を一網打尽にすべく、裏で彼らの悪事の証拠を地道に集めて回り、昨年の頭には、あと少しで全てを精算できるところまで来ていた。
が、しかし。
「どれだけしぶとくてもお金がない連中だから、玄人を雇うことはできないと踏んでいたのにね……しかも初っ端で、あんな超一流の凄腕を引き当てるなんて」
「単なるビギナーズラックでしょう。それに、あなたはちゃんと生き延びてくれたわ」
「生き延びられたのは良かったにしても、よ。――あの方には、私たちの事情が粗方バレてしまっているわ。折を見て、きちんとお話申し上げないと」
ライアが後宮に上がることになったのは、もちろん王宮より側室の内示が降ったからだが、実はその内示より前に、内々で宰相閣下より相談を受けていた。――是非とも、『睡蓮の間』の側室として後宮入りして頂きたい、と。一人娘であるライアが側室として後宮入りし、王の寵愛を得て正妃となれば、ストレシア侯爵家に後継が居なくなる。それを案じた、モンドリーア宰相閣下の気遣いだった。
相談を受けたローレンはひとまず話を持ち帰り、ライアに考えるよう告げて……考えている最中のある夜、ストレシア家に戦慄が走った。これまでの素人暗殺者とはまるで違う、研ぎ澄まされた玄人の殺人術が、ライアを襲ったのだ。助かったのは幸運でもなければライアの実力でもなく、単にその玄人が暗殺者らしからぬ有徳の人で、たとえ暗殺依頼の対象であっても〝本当に死ぬべき人かどうか〟を見極めようとしてくれたからに過ぎない。
手心を加えた初撃をどうにか防いだライアは、しかしその瞬間、流石に死を覚悟した。なんちゃって暗殺者は捌けても、その道で食べている本物を防ぎ切れるほどの腕が自分にないことなど、百も承知。それほどまでに、目の前の〝彼〟の存在感は凄まじかったのだ。
……それでも、どうしても、諦めることはできなくて。気付けばライアは、何とか見逃してもらうことはできないかと、〝彼〟に取引を持ちかけていた。ありきたりな、「お金はいくらでも払うから、どうか見逃してくれないか」という、何の捻りもない交渉だ。
ライアの言葉を聞いた〝彼〟は、静かにその言葉を受け止めてから、真っ直ぐにライアを見返して。
『何故生きたいのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?』
たったそれだけ、返してきた。
〝死〟を間近に感じる中、真っ白に染まった思考から飛び出してきた〝答え〟は、とても……とても、シンプルなもので。
それを聞いた〝彼〟は微笑んで頷き、成功報酬分だけ頂戴できればありがたいとちゃっかりお金を受け取った上で、こう、忠告してきたのだ。
『私を探し出した時点で、あなたを狙う者たちはもう、なりふり構っていないでしょう。今のエルグランド王国で暗殺を専門にしている稼業者はそう多くありませんが、油断はできません。……付き合いのある連中には、あなた様を狙う依頼は受けないよう話しておきますけれど、念のため、大元の問題が解決するまでは、どこかに身を隠された方が賢明かと存じます』
そうして選んだ避難先こそ、男子禁制の園である〝後宮〟だったというわけで――。
「わたくしは、大丈夫だと思うけれど。ソラ様がご立派な方だというのは、先ほど少し話をしただけでも充分に感じ取れたわ。あなたの〝秘密〟とわたくしたちの〝事情〟をご存知だとしても、無闇に暴くような真似はなさらないはずよ」
「……私だって、そう思いたい。でも、ヨランダ。ソラ様は、カイのお父上なのよ。――そしてカイはいつだって、後宮の安寧を守るディアナを最優先するわ」
「それはそうだけど……この件を、彼らが脅威と感じるかしら?」
「分からない。――けれど、状況次第では、あり得ないとも言い切れないでしょ?」
「まぁ、そうね。状況次第では、あなたの〝秘密〟がディアナの急所になる可能性は、全くのゼロじゃないわけだし」
「だからこそ、きちんと話をしておく必要があると思うの。……実際、彼がどの程度、私のことを見通しているのかも、はっきりとは分からないのだから」
「確かに、その辺りのことは、わたくしたちも把握しておく必要があるわ」
意見をすり合わせて頷き合ったところで、タイミング良く扉が音を立て、次の間に控えていた侍女が入室してくる。
「睡蓮様。マグノム夫人が御目通りを願っておいでです」
「あら。先ほど退室されたばかりなのに、どうしたのかしら」
疑問には思ったが、追い返す理由もない。通すよう告げると、間を置かず、マグノム夫人が入室してくる。
「睡蓮様、鈴蘭様。何度も申し訳ございません」
「構わないわ。どうしたの?」
「……実は、折り入って、お二人にお話がございまして。――他ならぬ、カイについてなのですが」
「……えぇ、何かしら?」
かつてランドローズ侯爵家に雇われてディアナを狙ったものの、その関わりの中で彼女の器を見抜いて味方となったフリーの稼業者――『仔獅子』のカイ。
その存在をディアナから明かされ、声のみではあったものの引き合わされた際は驚いたが、彼が全てにおいてディアナを最優先に置き、命だけでなく心まで守ろうとしていることは明白であったため、特に問題には感じなかった。古参貴族家の出身であるライアとヨランダは、実のところ王国の一般民より、王国の裏側を担ってきた存在への耐性はついている。……その父親が〝彼〟であることに、現在進行形で悩んではいるけれど。
カイは現在、遠回しに「侍女と女官以外は同行させるな」と通達してきたスタンザ帝国の裏をかくため、侍女の扮装で国使団へと紛れ込み、ディアナの護衛についている。――その準備過程で、ライアとヨランダは初めて、カイと直接顔を合わせたわけだが。
(……やっぱり、マグノム夫人も気が付かれたのね)
生まれたときから美形など見慣れているはずのディアナが「綺麗な顔」だと明言するくらいだから、相当整った容貌なのだろうと想定はしていたが、実際に間近で目にしたカイの美麗さは想像以上だった。少年期と青年期の狭間特有の魅力も加わって、どこか儚さすら感じられる、神秘的な美を宿していて。彼の仕事柄、さすがに身体つきは鍛えられていたけれど、それでもぱっと見は華奢なので、服で誤魔化せば充分に性別は偽れた。
そうして、見た目と立ち居振る舞いの両方から、短い期間で侍女〝カリン〟を演出して――仕上がった、〝彼女〟は。
「――彼の出自について、お二方は本人より、何かお聞きしていらっしゃいますでしょうか?」
マグノム夫人の真剣な表情に、ライアとヨランダは、揃って首を縦に振った。
「……違和感のないように仕上げようと思ったら、どうしてもね。あのようにするしかなかったわ」
「マグノム夫人の位置からは距離があったけれど、分かった?」
「えぇ、一目で。私もですが、更に離れた位置からこっそりご覧になっていた王太后様も、『目に入った瞬間に分かった』と仰せでした」
「王太后様もいらしたのね……」
「わたくしたちも『似ている』とは思ったけれど……一目で分かるほどだったの?」
「お二方は、社交界から身を引く直前の〝彼女〟しかご存知ありませんから、無理もないことですが。――昨日の彼は、若かりし頃の〝彼女〟と瓜二つでした」
それほどか、と声には出さず驚愕する。確かにカイは服と表情、立ち居振る舞いを整えるだけで印象そのものがガラリと変わり(彼の生業上、できて当然のことではある)、昨日はまさに儚げな美貌を宿しながらも出過ぎることなく控える、できた侍女の風格を纏っていたが。……当時を知る人が一目見るだけで〝瓜二つ〟だと感じるほどだったとは。
「……それで、睡蓮様。カイは、己の出自について、何と?」
「生まれてすぐに捨てられていたところを、ソラ様に拾われて育てられたと言っていたわ。実の親のことは、顔すら覚えていないと」
「捨てられていた場所、などは」
「――〝メルナオの森〟の外れと聞いたわ」
「メルナオの森……」
マミア大河を挟んだ西側にある〝メルナオの森〟は広大で、幾つかの領地に跨っている。エルグランド王国はその制度上、割とコロコロ領主が変わるが、確か今は――。
「〝メルナオの森〟を有している土地の領主は……リエッセ伯爵家とメルファ子爵家、それから――シュラザード侯爵家、でしたね」
「えぇ。残念ながら、森の外れとしか聞いていないから、具体的にどの領地内だったのかまでは分からないけれど」
「……聞かずとも、答えは出ているようなものです」
マグノム夫人は変わらず無表情だが、その瞳には深い葛藤の色があった。常とは違う彼女の様子に、ヨランダが半ば本気で案じている視線を向ける。
「マグノム夫人。何か問題が起こりそうな気配でもあるの?」
「いえ……仮に問題が起こったとしても、後宮としては知らぬ存ぜぬで流せば良いだけの話ですので、そこはあまり気にしていないのですが」
「では、どうして彼のことをそこまで?」
「……遠い昔に残してきた小さな後悔が、今になって深い感傷を生んでいるのです。〝これ〟が真実であるならば……あのとき、引くべきではなかった」
ぽつりと付け足された言葉は、ライアたちに向けたものではなく、思わず零れ落ちたマグノム夫人の心中だろう。側室の中では年長とはいえ、ライアとヨランダはまだ若く、マグノム夫人の〝遠い昔〟は又聞きでしか知らない。――けれど、又聞きと内実が往々にして異なることは、クレスター家の例からも明らかだ。
「ねぇ、マグノム夫人。夫人の後悔を晴らすため、私たちに何かできることはあるのかしら?」
「お気遣い、ありがとうございます。もう少し情報を集めてから、今後どう動くべきか、決めて参ろうかと。……もしもお二人のお力添えが必要となった際は、お願い申し上げてもよろしいでしょうか?」
「えぇ、もちろんよ」
「わたくしたちにできることなら、協力するから。遠慮せずに言ってちょうだいね」
三人で、密かに、強く、頷き合う。
――『紅薔薇』不在の後宮で、何かが密かに、動き出そうとしていた。
後半部分を入れるかどうか、実はかなり迷ったのですが、諸々考えた結果やっぱり入れることにしました(そして字数が長くなる……)
今後、この後半部分の回収が入ることで、ただでさえ長いことが確定していた『にねんめ』が更に長くなりそうですが、どうぞ本年もよろしくお願い致しますm(_ _)m
ちなみに、今年も元日にこそっと、番外編にて小話を投下しておきましたので、お時間ある方はそちらもどうぞ! 以前、Twitterに上げていたお話の再掲です。




