重ねた願いを、〝希望(みらい)〟へ
最後の種明かしです。
あれから――。
目覚めた皇帝に一喝されたこともあり、『伝説の聖女』を皇妃に迎えてスタンザ帝国へ留まらせようとした企みは、最初からなかったかのように消え失せた。空気の読めない第一皇子は最後まで何やら文句を言っていたらしいが、ここで下手に皇帝陛下の機嫌を損ねると、皇太子宣下どころか皇位継承権すら失いかねないと側近たちから言い聞かされたようで、渋々ながらも引き下がったとのことだ。
「一応、暫定的とはいえ国の跡取りがアレで大丈夫かよって思ったが……やっぱり、皇帝陛下に継がせるつもりはないんだな」
「えぇ。最初にお迎えした皇妃様との間にできたお子で、御生母様こそお亡くなりになっているけれど母方の親族の後盾は強大で、生まれ順的にも皇太子になって然るべきではあるけれど、さすがにあそこまで短絡的で他人の話聞かない者を皇帝にはできないって仰っていたわ。現実見えてないくせに自信だけは人一倍だから、彼が皇帝になった瞬間、状況なんかまるで精査しないままエルグランド王国に猛攻仕掛けて、ボコボコにされる未来が目に見えてる、って」
ディアナはといえば、スタンザ最終日の滞在場所を、エドワードと同じ皇宮殿の奥へと移し、久々の兄と情報のすり合わせを行った。慣例的に未婚の女性が後宮以外に留まることはないとされているスタンザ帝国だが、皇帝の看病という名目でディアナを奥に軟禁した時点でそんなモノには何の意味も無くなっているわけだから、「特に問題ないでしょう」とエドワードが押し通した形だ(尤も、慣例破りに反対するだけの精神力が残っている要人もほぼ居なかったが)。
奥の使用人たちは目覚めた皇帝につきっきりで、一晩泊まるだけのエルグランド人に構う余裕はなく、仲間しか居ない室内で堂々とスタンザ帝国の機密情報を語る。
「それでも一応は第一皇子だから、折を見て教育方針とかにも口を挟んで、どうにか矯正しようとはされたそうなんだけどね。さすがに四十を超えてもあの調子なのをご覧になって、見切りをつけられたみたい。あのお歳で変わらないんじゃ、もう無理だもの」
「自分の思い通りにならないと癇癪を起こす年齢一桁のガキが、そのまま大きくなったみたいな奴だったからな。皇帝陛下がどんだけ頑張ったところで、その他大勢の周囲の大人が甘やかしまくってちゃ、大した効果は見込めんだろうし」
「〝周囲の大人〟にしてみれば、自分の目で現実をしっかり見て、自分の頭で物事を考える人より、ろくな考えも持たずに適当におだてておけば自分の言うこと聞いてくれる人が〝皇帝陛下〟な方が、好き勝手できて楽だものね。世間じゃそういうの、〝傀儡〟って言うけど」
「好き勝手するために傀儡仕込んで、それが結果的に国の寿命縮めるんじゃ笑えんがな」
「皇帝陛下も、まさにそれを危惧されたのよ。皇太子宣下を急かす方々をのらりくらりと躱しつつ、何とか第一皇子を皇位継承から外す口実ができないか、ずっと機会を窺っていらしたの。皇帝の気まぐれって形で第一皇子を廃嫡すれば、他の皇位継承権を持つ皇子たちを巻き込んで泥沼の内戦になるだろうし、皇族のいざこざで民を疲弊させちゃ元も子もない。あの第一皇子のことだから、適当に手綱を緩めれば遅かれ早かれ何かポカをやらかすと見込んで、それを理由に皇位継承権を剥奪しようってお考えだったみたい」
「てことは、今回の一件はまさに〝渡りに船〟だな?」
「えぇ。陛下が目覚められて、大体の現状をお伝えしたら、『申し訳ないが、第一皇子が決定的にやらかすまで、もう少々お付き合い頂けないか』って頼まれちゃった」
「……すげーな、皇帝陛下。父上が『スタンザ皇帝には別の顔がありそうな気がする』って仰ってたから、ただの色情魔ってことはないだろうと思ってたが。ここまで徹底的に〝忍〟を極められてる国の頂点もそうそう居ないだろ」
エドワードの率直な感想に、ディアナも心からの同意を込めて深々と頷く。
「お国柄にもよるだろうけれど、スタンザ帝国みたいにしょっちゅう戦をしている国じゃ、為政者の頂点に求められるのは、大抵が大衆煽動能力だもの。そんなお国で五十年以上も忍び続けていらしたなんて、並大抵の覚悟でできることじゃないわ」
ディアナの相槌に、エドワードは感嘆の息を吐き出した。
「冷静に考えてみりゃ、これだけ好戦的な国が、百年近く大きな戦を起こしてないってのは、それだけで充分な珍事だもんな。初めの三十年、どうにかエルグランド王国へ仕掛けようと躍起になってたのに、後の七十年はそこそこ平和に付き合い続けられたわけだから――」
「後の七十年のうち、最初の二十年弱は、皇位継承争いが泥沼以上の地獄絵図状態で、とてもじゃないけれど他国に構う余裕がなかっただけらしいわ。血で血を洗う争いが更に血を呼んで、主要な皇位継承者が軒並みお亡くなりになって、気がついたら皇位継承争いが始まった頃にひっそりと生まれて、ひっそりとお育ちになった今の皇帝陛下くらいしか、継げそうな方が残ってなかったそうよ」
「……ウチみたいに王族が少な過ぎるのもいざってときが心配だが、スタンザみたいに多過ぎるのも骨肉の争いを誘発するから、どっちにしろ極端なのは考えモノってことなんだろうな」
「その極端な骨肉の争いの渦中で生まれ育った陛下は、内心ではもう戦とか侵略とか懲り懲りでいらしたそうでね。下手に皇宮殿に留まって狙われても困るから、幼い頃から各地を転々とされていたこともあって、スタンザの身分制度にも本当は懐疑的でいらしたの。思わぬ運命の悪戯で皇位が回ってきて、どうにか国を抜本的に改革できないかと考えられたけれど、御生母君の身分がそれほど高くなかった陛下には後盾もなくて。できたのはせいぜい、政にそれほど興味のないフリをして権勢欲旺盛な臣下に御し易い皇帝だと思わせ、状況に応じて〝適当〟に口を挟んで、今より国や民の状況が悪くならないように皇宮殿の動きを操縦することくらいだった――って」
「は~……生まれたときから〝忍〟の方だったんだな。もっと前にそれが分かってりゃ、オース小父さんと意気投合されたろうに。小父さんも忍耐の方だったからな」
「そうね。境遇も絶妙に似ていらっしゃるし、普通にお友だちになれた気がする」
「歳は親子くらい離れてるけどな。歳だけなら第一皇子の方が、小父さんとは近いだろ」
「人間の格が違い過ぎるわ。比べるのもオース小父様に失礼よ」
「確かに」
しばし、父の親友に思いを馳せてから。
エドワードは視線をディアナに戻してきた。
「けど、戦が懲り懲りなら、何で『エルグランド王国の侵略が長年の悲願』だったんだ? スタンザの〝親戚〟からの情報だから、少なくとも皇宮殿の、皇帝陛下に近い連中にはそう思われてたってことだろ?」
「あ、それはね。もともと、玉座に就いた当初は、本当に悲願でいらしたのですって。地獄絵図の皇位継承争いが起こる前から、エルグランド王国が次の侵略対象国だったのは確かだし。陛下だって生粋のスタンザ人でいらっしゃるから、他国の併合以外に国を富ませる方法をご存知ないしね。――でも、玉座に就いて割と早い段階で、内偵させた人たちが持ち帰ってくる情報を分析するうち、『あ、これ無理っぽい』って悟られたとも仰っていたわ」
「これだけ状況把握に長けてらっしゃる方なら、まぁそうなるよな」
「えぇ。――けれど、どう足掻いても侵略するのは無理そうな国だからこそ、『難しい国だけど長年の悲願だから』って拘ってるフリすれば、逆に余計な戦を避けられるんじゃないかと考えられたそうよ。エルグランド王国だけが周辺国ってワケじゃなくて、ちょっと面倒だけれど山を越えれば例の仲悪い二国に攻め入ることだって可能でしょう? 下手に世論がそっちへ向かないように、侵略対象国だけはエルグランド王国に拘る姿勢を貫かれたの」
「好戦的な連中を抑えるために、敢えて侵略難易度が高いところを仮想敵国に設定したってわけだな。下手に『戦はしない』つって反感買うより、賢いやり方だ」
「そういうこと。……でも、そうやってのらりくらりと五十年やり過ごして、いつの間にか陛下も、陛下を担いでいる重臣たちも高齢になって、振り返ればマトモな功績なんて一つもない時代だったって気付いた人たちが焦り出して、開戦論が俄かに盛り上がり出して。これ以上抑えるのは難しいと判断された皇帝陛下は、エルグランド王国への警告と、せめて若い世代に現実を知って欲しいという願いを込めて、『まずは国使団で様子見』って手を打たれた――と、いうわけ」
「あの藪から棒な〝親書〟は、言ってみれば皇帝陛下の精一杯の救難合図だった、ってことか。戦好きな国には、戦好きなりの苦労があるんだな」
実感を込めて、エドワードは何度も頷く。とはいえ、基本的にクレスター家はエルグランド王家の友人であり参謀という立ち位置なので、他国のお偉いさんの事情を知っても感想以上の情は抱かない。あくまでも、「大変なんですねぇ、そっちはそっちで頑張ってね」というスタンスだ。
昨晩に目覚めた皇帝陛下も、話し相手を務めたディアナがあまりにも淡々とした態度だったせいか逆に気楽に感じたようで、色々と深い話を聞かせてくれた。
「そういうわけだから、専守防衛が基本理念の我が国と皇帝陛下の利害は、今のところ一致しているのよ。できれば次代にも平和路線を引き継いでもらいたいから、それができそうな皇子殿下を皇太子に据えたいとは仰っていたけども」
「陛下か、もしくは次の代でエルグランド王国と友好を結ぶことができれば、スタンザ帝国の方針転換を形にして見せられるし、功績にもなるってことか。ウチは基本、友好を交わした国であっても特別な便宜を図ったりはしないから、普通なら正式な友好条約を結ぶ利点はないが、今のスタンザ帝国に限ってはそうでもないと」
「どこかのお国を特別扱いすると、別のお国とのお付き合いが面倒になりかねないから、〝全ての国へ平等に〟がウチのモットーなのよね。半島統一してから三百年、このテの煩わしさとは無縁でいられたけれど、もうそろそろそれも終わりかしら」
「だろうな。今後、人類の科学技術が進んで世界中の行き来が活発化することはあっても、その逆はないだろう。――皇帝陛下へ、ウチの〝平等精神〟はお伝えしたか?」
「えぇ、もちろん。『エルグランド王国らしい』って笑っていらしたわ。特に図って欲しい便宜もないし、問題はないそうよ」
「だろうな。陛下が欲しいのは〝エルグランド王国と友好を結んだ〟って事実そのものなんだから」
ふむ、と腕を組んで、エドワードは視線を天井へと向ける。
「取り敢えず国に帰ってから、その辺のことは皆と共有するとして。――問題は、この国の次期皇帝が誰かってトコだろうな。今の皇帝陛下と友好を結んでも、次でご破算にされちゃ意味がないし、却って関係が悪化しかねない」
「――それなら、たぶんエクシーガ皇子になりそうって話だよ?」
エルグランド騎士の扮装をしたカイが、大荷物を抱えて室内へ入って来た。その後ろから続々と、カイと同じくらいの大きさの包みを抱えた騎士……の格好をした『闇』たちと、細々した備品を手に王宮組とリタ、クリスも入ってくる。
部屋の隅に荷物を積んで、リタがくるりと振り返った。
「ディアナ様。国使団のお荷物、全て引き上げて参りました」
「『闇』さんたちが手伝ってくれたから、往復せずに済んだね」
「そうですね。三往復くらいはしなければと、覚悟しておりましたから」
「連日の〝嫌がらせ〟のお陰で嵩張る衣類が大幅に減っておりましたゆえ、かなり荷物を少なくすることはできましたけれど、それでも結構な量でしたからねぇ……」
カイの言葉に頷くユーリとミアの様子を見て、エドワードが「へぇ」と呟く。
「王宮の皆様と随分仲良くなったんだな、カイ?」
「そりゃまぁね。別に最初から仲悪くもなかったし」
「仲悪くはなかったが、一定の距離みたいなのはあったろ。……この抜け目ない人たらし野郎が、着々と周りから懐柔しやがって」
「何のことー?」
「ディアナの選んだ相手に文句をつけるつもりはないが、全力で品定めと嫌がらせはするからな、俺は」
「お兄様!」
「今更過ぎる宣言どうも。――何されたって手放す気ないから、品定めだろうが嫌がらせだろうが好きにしてくれて良いよ?」
「――お二人とも。男のそういう面倒なアレコレに興じられるのは結構ですが、ディアナ様が気にされますので、せめて見えないところで、分からないようになさってくださいね?」
とてつもなく良い笑顔で、リタがぐさりと釘を刺した。さしものエドワードとカイもリタのド正論に反論の余地がなかったようで、「はぁい」と頷いて黙らされる。
王宮組の荷物整理を手伝っていたクリスが、クスクス笑って。
「そのうちこうなるって分かってたくせに、エドったら往生際悪いんだから。――何はともあれおめでとう、ディアナ。また後で詳しい話聞かせてね」
「は、はい。……あの、私たち、特に表向きの関係性を変えたつもりはないのですが、〝変わった〟と分かりますか?」
「〝ディアナ〟を知ってる人なら一目瞭然レベルで分かるよ。知らない人でも、今のままだと『何か心境の変化あったかな?』程度は察せるかもしれないから、エルグランド王国へ帰り着くまでに、ちょっと『紅薔薇』の仮面分厚くしといた方が無難かもね」
「う……、頑張り、ます」
……これ以上この話が続くのは、ディアナの羞恥心的に良くない。一度深呼吸して気持ちを切り替え、ディアナは話をググッと戻した。
「――ところで、カイ。次の皇帝陛下はエクシーガ殿下、ってどういうこと?」
「あぁ、その話。――さっき、後宮からリタさんたちが荷物を外へ運び出すのを待ってる間、着替えの都合もあったから、俺だけ別のところに居たんだけどね。何でかそこに、バルルーンのお爺さんが来てさ」
「ご隠居様が……?」
「うん。結構色々喋ったんだけど、その中で次代の皇帝さんの話も出てきて。お爺さん曰く――『惑い迷っていたエクシーガ殿下の〝星〟が、昨晩、より強い輝きに満ちて新たに光り出した。星読みたちが、確かな〝帝王〟の相を殿下の〝星〟に視た』だって」
「えっと、つまり?」
「『未来視』の人たちの予言って基本的に分かりにくいけど、今回のはまだマシかな。要するに、エクシーガ皇子の未来に〝皇帝〟を視たってこと。他に皇帝の相を持ってる皇子もいないっぽいから、たぶん、あの皇子サマが次の皇帝だよ」
「……何となくそんな気はしてたが、この国の『神殿』ってのは、霊力者の集まりか」
「というより、霊力者じゃないと〝神官〟にはなれないシステムなんじゃないかな? その中でも『未来視』の霊術を使える人が上の位を占めてるみたい。この国だと『星読み』って呼び方されてるね」
「あー……未来予知が重視されてるわけだな」
エドワードの相槌に、カイはこくりと頷いて。
「戦で常勝したいなら、『未来視』の霊術は必須だもん。勝ち負けが最初に分かってるなら、勝てる戦だけすれば楽に〝常勝〟できるわけだし。――その分、他の霊力は軽視されがちで、だから『結界』もポンコツだったし、攻撃や呪縛系の霊術も大したことなくて、俺としては楽だったけど」
「お国柄が出てるなぁ……」
「ね。バルルーンのお爺さんも、たまに未来を夢に視る程度の『未来視』の霊力があって。安定はしないから神官になれるほどじゃなかったけど、定期的に視た夢を『星読み』の人たちに話して予知内容を解釈し合ったりしてたから、割と神殿には顔が利く方なんだって。――ディーに呪いをかけようとした奴のことは、最高神官に報告入れてギッチリ絞めとくから、できればこれ以上の手出しは無用で頼む、って言われちゃった」
「なるほど……そのお力もあって、バルルーン家で長い間、作戦参謀のような役割を果たされてきたのね。僅かでも未来を視る能力がおありなら、その分勘働きも鋭くなられるでしょうから」
「だな。つーか、あの黒い煙みたいなやつは、やっぱり呪いの類だったか」
「俺の霊力が弾いたってことは、ディーに危害を与える類のモノだったことは確実だね。――ディー、部屋にあった予備持ってきたから、ちゃんと〝お守り〟、新しくしといてよ」
言葉は軽いがその眼差しは真剣そのもので、カイが本気で心配していたことが伝わってくる。……彼に心労をかけたくはなかったから、できれば〝お守り〟の出番はない方がありがたかったのだが。
「えぇ、分かってる。――ごめんね、心配かけて」
「いちいち謝らないの。俺がディーを心配するのは当たり前なんだから」
「……ありがとう」
「うん。――にしても、やっぱり使い捨ての〝お守り〟だと、いざってときに不便だよね。何とか恒常性を持たせられないかな?」
「……その辺のことは、帰ってからソラ殿に相談しろ。霊術関係は、俺たちじゃ力になれん」
「そうする。けどエドワードさんだって、この短期間でフツーに呪符を使えるようになってるよね? 霊術使えるようになったんじゃないの?」
「『遠話』の呪符の使い方を覚えただけだ。それだってかなり集中してやっとだから、全然〝フツー〟じゃない。実際にソラ殿と対面して教えを受けたわけじゃないからな、どうしたってコツは掴みづらくなる。帰ったら、改めて教えを請うつもりではいるが」
「……父さん、けっこー厳しいよ。頑張れ」
兄とカイのやり取りに少し笑い、ディアナは視線を窓の外へ飛ばす。
「この国の『未来視』の方々が仰るのなら、よほどのイレギュラーがない限り、次期皇帝陛下はエクシーガ殿下なのでしょうね。……御生母君のご身分を考えると、現皇帝陛下以上にご苦労と波乱づくしの治世になりそうだけど」
「まぁ、サンバさんって優秀な腹心もいるし、ブラッドさんも皇子サマにつくっぽいし、後盾ならバルルーンのお爺さんもいるし、――何より、ディーが用意した〝切り札〟があれば、何とかなるんじゃない?」
「エルグランド王国と友好条約を結べば、ディアナに好感持ってる民からの支持も得られるだろうしな。これからの時代、民衆の支持があるのは強い」
「そうね。……後は、この国の人たちが決めることよね」
そんなことを話している間に、時間はあっという間に過ぎて。
夜は、ささやかながらも立派な晩餐を開いてもらって。
そして迎えた、スタンザ帝国到着から二十日目の朝――。
《ディアナ様。本当に、本当にありがとうございました。――ブラッドとの〝糸〟を繋いでくださった、このご恩は生涯忘れません》
《私からも、心からの礼を。レーネを救い出すことができたのは、ディアナ様のお力添えあればこそです》
出立の用意が整ったエルグランド王国の快速船の前で、見送りに来てくれたアルシオレーネとブラッドと、ディアナは別れの挨拶を交わす。
何度も礼を述べる二人に、ディアナは苦笑した。
《わたくしどもにも利点があってのことです。こちらこそ、お二人には幾度も助けられました。――色々と、ありがとうございます》
《そんな……お礼を頂くようなことは、何も》
《レーネ様の深いお心が、ブラッド殿の諦めない強い想いが、わたくしたちにも勇気と希望を与えてくださったのですよ》
微笑んで、ディアナは小さな布袋を懐から取り出す。
《テバラン博士にも、お世話になりました。残念ながら大学まで参る時間はなさそうですが、よろしくお伝えくださいませ。――あと、こちらを》
《これ、は……?》
《博士にお渡し頂ければ、ご理解頂けるかと。――少しでも、博士の研究のお役に立てれば良いのですが》
《は、はい》
受け取ったアルシオレーネは、やや困惑した表情ながらもしっかりと頷く。
隣のブラッドが、再び深々と頭を下げた。
《何から何まで……ありがとうございます、ディアナ様。――〝彼〟にも、よろしくお伝えを》
《たぶん、どこかで話を聞いているとは思いますけどね。――えぇ、もちろん伝えます》
珍しいエルグランド船の前ということで見物人は遠巻きだが、開けた場所であることに違いはないので、用心のために挨拶を受けるのは国使団長のディアナだけで、他は既に船の中だ。お付きとしてリタ、護衛としてエドワードが後ろについてくれてはいるけれど。
密かなブラッドの言葉にディアナもこっそりと応え、二人との挨拶が済んだところで、ゆったりとエクシーガが進み出た。
「姫。――いえ、ディアナ・クレスター嬢。この度は、我々の無理な願いを聞き届け、遥々我が国までいらしてくださったこと、スタンザ帝国を代表して幾重にも感謝申し上げる。行き届かない面も多く、ご無礼な振る舞いも多々あったことと思うが、どうかお許し願いたい」
「こちらこそ、何分他国をご訪問申し上げるのは初めての経験でしたゆえ、ご迷惑をお掛けすることも多かったことと存じます。――ですが、貴国をこの目で拝見し、国民の皆様方と言葉を交わして、エルグランド王国とスタンザ帝国はきっと末永い友好を築くことができると、心から思うことができました。皇帝陛下よりお預かりしました親書は、国使として、必ずや我が国のジューク陛下にお届け致します」
「よろしくお願い申し上げる。――残念ながら本日、皇帝陛下は外せない重要国事があり、お見送りができぬが。くれぐれもよろしくお伝えするように、ご無礼なくお見送りするようにと、申し遣っている次第だ」
「お心遣いに感謝致します。どうぞ、皇帝陛下によろしく感謝のほど、お伝えくださいませ」
国家間の堅苦しい挨拶を終え、互いに執った礼から直った後、視線を合わせてディアナはエクシーガと笑い合った。
「殿下。本当に、お世話になりました」
「いいえ、ディアナ様。お世話になったのは、どう考えても我々の方です。……私の身勝手で半ば無理やりお連れし、多くのご苦労をお掛けしたにも拘らず、最後まで変わらずスタンザの民に思いを寄せてくださり、感謝に尽きません」
「確かに……色々、ありはしましたが。苦しくとも、辛くとも、経験できて良かったのだと思います。――逃げたまま、知らないままではきっと、わたくしは大切なものを取り落としていたでしょうから」
エルグランド王国で、あの後宮で、『紅薔薇』の役目に浸かったままではきっと、ディアナは〝恋〟を自覚できなかった。
スタンザ帝国へ来て、『紅薔薇』であることは変わらなくても〝側室〟という現実から一時離れて、エクシーガの真っ直ぐな想いに真正面から向き合って……だから、気付けたのだ。自分の中の、醜くも純粋な想いの正体に。
気付いたからこそ。……知った、からこそ。逃げている頃は見えなかった沢山のものが、見えるようになった。
リタが、ずっと傍で、どれほどディアナを心配して、守ってくれているか。
ミアが。ユーリが。ルリィが、アイナが、ロザリーが……王宮女官の、侍女の職分を逸脱してでも、何よりディアナの幸福を願い、支えようとしてくれているか。
そして、カイが――底が見えないほど、どこまでも深く、強く、激しく。一途にディアナを想い、何よりも大切にして、愛しんでくれているか。
やっと、……やっと、見える。実感として、理解できる。
「……来て、良かったと思います。本当に」
「ディアナ様……」
「両国の友好のため、だけではなくて。わたくし……いいえ、私個人としても、この国に来ることができて、良かった」
「それ、は――」
「殿下のお心は、ありがたかったです。――私に、大切なことを、沢山教えてくださいました」
「そう仰って頂けると、少し救われます。……身勝手な感情をあなたに押し付けただけではなかったと」
「良いのですよ。身勝手さなら、私とて似たようなものです」
エクシーガと、これほど穏やかに言葉が交わせることが、純粋に嬉しい。……思えば、エクシーガの内にある恋心を感じ取ったときから、それがディアナ自身の〝恋〟の箱をこじ開けることを無意識に恐れて、どこか壁を作ってしまっていた。随分と不誠実なことをしていたものだ。
蟠りなくエクシーガと笑った、そのとき。
ふと、視界の端――斜め前の倉庫の陰、遠巻きにしている野次馬たちとは少し離れた場所で、高そうな布がひらりと揺れたのが見えた。
(あれ、は)
内にある霊力が完全に覚醒した今のディアナは、少し集中すれば〝生命〟の気配を容易く感じ取れる。対象の気配を感じて確信を得たディアナは、不意に予告なく走り出した。
「ディアナ様!?」
「ディアナ、どうした?」
背後でリタとエドワードが呼ぶが、〝今〟を逃せばもう機会はないと、直感が告げている。
足の速さにはそれなりの自信があるディアナは、慌てて倉庫の陰から飛び出て野次馬に紛れようとしたローブの人影を、すんでのところで捕まえた。
《良かっ、た。できれば出立前に、直接お礼を申し上げたかったのです。――ヴィヴィアン様》
《ディ、アナ……様》
ローブの人――スタンザ後宮の住人、ヴィヴィアン・クスプレオは、まさか見つかるとは思わなかったようで、出ている目だけでも充分に分かるほど驚いている。
そのまま手を引いて、ディアナは船の前まで、ヴィヴィアンを引っ張っていった。
リタが呆れた様子で、ディアナとヴィヴィアンを眺めている。
《ディアナ様も相当なお転婆ですが、クスプレオ嬢も負けていらっしゃいませんね。あれほど警備の厳重な後宮を抜け出されるくらいですから》
《ご様子を拝見するに、なかなか手慣れていらっしゃるわ。後学のために方法を伝授願いたいくらい》
《やめてください。これ以上お転婆になってどうなさるおつもりですか》
ディアナとリタのやり取りに、ヴィヴィアンが驚いたまま、呆然と口を開いた。
《どう、して》
《……何がです?》
《何故、わたくしに、礼など。後宮でわたくしがあなた方に何をしていたか、ご存知でしょう?》
《えぇ。ですから、お礼を》
《あれほどの嫌がらせに、どうしてお礼なんて――》
《ランチア様が『エルグランド王国国使団』に毒を盛られたのを知って、我々の命を救うべく、ずっと〝嫌がらせ〟をしてくださっていたのでしょう?》
ずばりと、彼女の行動の真意を告げる。ヴィヴィアンは目を丸くして、それからサッと視線を逸らした。
《な、何のことだか》
《誤魔化さなくとも大丈夫ですよ。確信を得たのはラーズから帰ってきてからですが、割と早い段階から、〝もしかしたら〟程度には察しておりましたから》
――最初に「妙だな」と思ったのは、初日に荒らされた部屋を見たときだ。『国使団』への嫌がらせなら、重要書類をまとめて燃やすなり、衣服を残らず使い物にできなくするなり、もっと過激なやりようがあるだろうに、部屋はぐちゃぐちゃに荒らされていた割にダメになっていた衣類はそれほど多くなく、貴重品の類も床にばら撒かれてこそいたが壊されているものは少なく、盗られてもおらず、書類関係に至っては一切手付かずで机の中にしまわれたままだった。見た目はド派手な〝嫌がらせ〟なのに、『国使団』への実害はかなり軽微だったのだ。
その後も同じく。廊下やバルコニーは派手に汚され、干していた下着類はドロドロにされたが、別の場所に干していた最高級の衣類への被害はゼロ。回廊を渡る際、ヒソヒソ嫌味を言われはするが、身体的に深刻な危害を加えられることはない。――最初の嫌がらせからしばらく、ミアに書類を運んでもらうときは密かにカイを護衛につけていたが、彼曰く「ミアさんには見張りすらついてないし、ちょっかいかけようとする人もいない」そうで。
やり口が派手で手慣れたイジメであるにも拘らず、『国使団』の公的立場には徹底して手出ししようとしない様に、「何かウラがあるのでは」と考えるのは自然な流れだった。
そして――例の花畑でアルシオレーネからスタンザの後宮事情を聞いたとき、それらは具体的な推論へと変わった。
《ヴィヴィアン様はおそらく、分かり易い〝嫌がらせ〟をすることで、後宮の秩序に一役買っていらしたのでしょう? 命の危険がある方を敢えて攻撃し、『この人は自分の獲物だから手を出すな』と周囲を牽制すれば、毒殺の危機は回避できる。――そうやって、後宮で人死にが出ないよう、ずっと立ち回っていらしたのでは?》
《なっ、何を根拠に》
《わたくし相手に悪ぶらなくて結構ですよ。どう見たってヴィヴィアン様よりわたくしの方が悪そうな顔をしていますから、残念ながら私相手の偽悪的な振る舞いは効果がありません》
〝悪〟で他人を牽制するには、牽制される側がより善良でなければならない。正直、クレスター家を相手にした偽悪的な牽制は、外から見ても内実的にも無意味、より下手したら逆効果である。
《そもそも、朝が遅いスタンザの後宮で、深夜まで宴をしていた翌朝、あの時間にヴィヴィアン様と出会したことが、まずもっておかしいでしょう。――ランチア様が『エルグランド国使団』の食事に毒を盛ったことを聞きつけたヴィヴィアン様は、我々の無事を確認する意味も込めて対面し、わざと揉めたフリをして〝嫌がらせ〟の動機を作った。そして、外から見ても分かるほど派手に室内を荒らして、『エルグランド国使団』を次の標的にしたと後宮中に知らしめることで、ランチア様の動きを封じたのです》
《そ、んなわけ、》
《嫌がらせの内容は、我々の状況に応じてこまめに調整してくださっていましたよね。諸事情あってわたくしが落ち込んでいたときは、かなり控えめでしたし。――わたくしがラーズへ滞在していたときも、皇宮殿の奥に移された後も、適当に〝嫌がらせ〟を続けてくださったお陰で、残された国使団の皆は無事でした》
《ディアナ様が皇宮殿へと入られてからは、このまま皇妃になるのではという噂が後宮で流れたこともあり、かなりの危機的状態でしたが。後宮待機組の話では、ヴィヴィアン様一派の方々がそこかしこで怪しい動きを見張ってくださり、特に食事に関しては作っているところから運び終わるまで、一時たりとも目を離さず監視してくださっていたお陰で、毒殺も辞さない危険な方々も手の出しようがなかったと》
《……》
《特に危険なランチア様に関しては、はっきりと現場を見たわけではないけれど、おそらくヴィヴィアン様直々に牽制してくださっているようだとも、報告を受けました。――本当に、何とお礼を申し上げれば良いか》
ついにそっぽを向いて黙り込んだヴィヴィアンに、ディアナは朗らかに笑いかける。
《アルシオレーネ様の件も、実は随分と前からご存知だったのではありませんか? ――だからこそ、ブラッド殿が手柄を上げたお話を聞いて、レーネ様と関係があるはずと踏み、あの宴の夜、密かにレーネ様を広間付近に待機させるよう取り計らわれた》
《……それは、わたくしではないわ。お母様よ》
《では、昨日、わたくしを迎えに来た兄が、皇宮殿に入ってから『朝議の間』まで、衛兵方の誘導で一直線に進めたのも?》
《皇帝陛下が予め、お母様にそう命じていらしたの。――もしも自分に万一のことがあり、エルグランド国使団の帰国が阻まれるようなことがあれば、〝皇帝〟の名を使って救い出すように、と。……エルグランド本国から迎えがいらっしゃることは、荷物を旅支度風にまとめている様を見れば予想はついたから、せめて皇宮殿の中は邪魔なく進めるように、皇帝陛下からお預かりした勅で、お母様が衛兵たちに命を出されたわ》
《皇帝陛下はまこと、イライザ様を信頼しておいでなのですね》
相槌を打つディアナを、ヴィヴィアンはジロリと睨んだ。
《もう全部、皇帝陛下からお聞きしているのでしょう?》
《えぇ、実は。ですが、できればヴィヴィアン様からもお伺いしたかったのです》
《……あなたってホント、嫌味な人。美人で頭も良くて性格も良いなんて、出来すぎてるわ。お国では悪い噂ばかりと聞くけれど、噂を立てる人の気持ち、すごく分かる。――こんなにも劣等感を刺激される人、事実無根の悪い噂でも立てなきゃ、やってられないもの》
明け透けなヴィヴィアンの言葉に、ディアナは思わず吹き出した。
《自慢じゃないですが、そんな貶し言葉は初めて言われました。お礼を申し上げるべきでしょうか?》
《貶されてるのに、どうしてお礼なのよ》
《どうにも、褒められているようにも聞こえる貶し言葉なもので》
《……好きにすれば》
《では――これまでの全てに対して、心からの御礼を。ヴィヴィアン様、我々をお守りくださいまして、本当にありがとうございました》
形だけではなく、心から。
言葉とともに、ディアナは最上の敬意を示す礼を、ヴィヴィアンへと執る。
背後で、リタと、エドワードも倣ったのが気配で分かった。
――一昨日の夜、目覚めた皇帝陛下が語った言葉が、脳裏を過ぎる。
《ヴィヴィアンは、強くて、優しくて、健気で……そしてとても、不器用な娘だ。イライザと盟約を結んだ際、市井に残るという選択肢もあったが、母思いのヴィヴィアンは茨の道を進むことを躊躇わなかった》
《盟約、ですか?》
《表向き、イライザは余の寵姫となっておるが、実際のところは監視役のようなものだ。――イライザは、皇族を深く憎んでおるからな》
《憎んで……》
《あれの夫、ヴィヴィアンの父親は、兵役の最中、無謀により自業自得の危機に陥った第一皇子の身代わりとなって命を落とした。……その死に様はあまりにも惨く、しかし皇子は亡骸を弔うこともなく、戦地へと置き去りにしたのだ》
《それは……恨まれますね》
《で、あろう? ……さすがに親として、一言詫びを入れねばならんと思うてな。イライザを訪ね、危うく殺されかけた》
《えっ》
《それほど深く、あれは夫を愛しておるのだよ。そんなイライザに、余は盟約を持ちかけたのだ。――皇族をそれほど憎むなら、余がこれ以上民へ非道を強いることがないよう、側で見張ってくれまいか、と。余が非道な振る舞いをしたならば、すぐに殺して良い、とな》
《それを……イライザ様は、お受けになったのですね?》
《そうじゃ。余もその頃、皇妃や寵姫の座を狙って後宮の女がしのぎを削る様を見るのが耐えられなくなっておってな。決して余を愛さない女を、表向きの寵姫として側に置くのは良い案と思ったが……ヴィヴィアンがついて来たがったのは、予想外であった》
《ヴィヴィアン様は、お母様――イライザ様の、ために?》
《当時、ヴィヴィアンは成人も迎えておらぬ幼さではあったが、既に聡明で、母思いの優しい娘であったよ。父を殺した皇族の本拠地へ、母独りを送ることはできぬと考えたらしいな。やがて成長する中で、ヴィヴィアンは余とイライザの関係性や、余の真意までもを察するようになり……後宮がこれ以上荒れぬよう立ち回り、外へ出られぬ余に市井の様子を伝えるべく、密かにイフターヌへと降りて街を見て回るようにもなった。――万一、後宮を抜け出したことが明るみに出ても、側室でも皇女でもない自分を咎める法はないから、と言って》
……法はなくとも、ヴィヴィアンの立場を考えれば、命懸けであることに変わりはない。それでも彼女は、〝側室でもないのに皇帝の寵愛を得ている〟という不安定な立場を逆手に取り、表向きは〝悪女〟として、後宮の平穏を守り続けた。イライザのため――そして恐らくは、皇帝陛下のために。
《どう、して》
横でずっと話を聞いていたエクシーガが、唖然とした様子で口を開く。
《どうして、正々堂々と毒を駆使する相手を糾弾しなかったのだ。何故、狙われている方に嫌がらせをして牽制するなんて、周りくどい真似を。そのようなことをすれば、恨まれこそすれ、感謝などされないのに》
《……毒を使う方の筆頭が、ランチア様だったからではありませんか?》
ヴィヴィアンは解説を望んではいないと分かっていたが、このまま黙ってスルーするのも寝覚めが悪い。余計かとは思ったが、ディアナは横から口を挟んだ。
《ランチア家は、バルルーン家と並ぶスタンザの旧家であり、名家。しかもランチア様は皇子皇女殿下を複数ご出産されており、一時は次期皇妃とも目されていたほどだと聞いております。クスプレオも決して位の低いお家ではありませんが、ランチア家よりは格下。ランチア様の性格上、格下の方から糾弾されて聞き入れられるとは到底思えません。むしろ逆上して、ヴィヴィアン様とイライザ様の抹殺を目論まれたでしょう》
《……たし、かに》
《人は不思議なもので、己の〝悪〟を糾弾する〝正義〟には過剰反応しますが、己以上の〝悪〟にはさほど脅威を覚えないのです。――より分かり易く巨大な〝悪〟があれば、それを隠れ蓑に小狡い悪事を働けますし、適当に叩いておけば〝正義〟の側にも立てますから、都合が良いのでしょうね》
《ディアナ様が仰ると、説得力が違います》
《茶々入れないで、リタ。……そういうわけですから、ご自身の立場が不安定なヴィヴィアン様が、〝悪〟に徹することでランチア様やその他の毒使いの方々を封じられたのは、とても効果的な手段ではあるのですよ。――殿下が仰った通り、誰にも感謝されないどころか恨まれるばかりという、最大の難点にさえ目を瞑れば》
エクシーガが呆然と、ヴィヴィアンを見つめている。視線をうろうろさせたヴィヴィアンは、しばしの間を置いて、深く息を吐き出した。
《あなた……頭良すぎて腹立つって言われたことない?》
《人から言われたことはありませんが、己の察しの良さが自分で嫌になることは、ちょくちょくありますね》
《なら、人が誤魔化そうとしてること無粋に暴く真似しないでよ》
《無粋なのは百も承知ですが、この場合、暴いた方がヴィヴィアン様にとっては良いのではと思いまして。……わたくしも通った道ゆえ言えることですが、分かってくれない人が大多数なのは仕方ないとして、理解者が一人でも多いに越したことはありませんよ》
たぶん、ヴィヴィアンは孤独ではないのだろう。皇帝陛下もイライザも、ヴィヴィアンを理解してサポートしてくれていることは分かるし、ヴィヴィアンを慕って集まっている側室たちの中にも、彼女の真意を知って信頼関係を結んでいる者はいるはずだ。でなければ、あのように器用な〝嫌がらせ〟はできない。
けれど、孤独ではないからといって、これ以上理解者が必要ないということにもならない。仲間は、多ければ多いほど、心強いものだ。
ディアナの忠言に唇を尖らせたヴィヴィアンに、エクシーガが一歩近づく。
《……アリィ》
《! ……覚え、て》
《忘れぬよ。あの後宮で唯一、穏やかに過ごせた時間だ》
《クシー……》
《噂を聞くたび、気にはなっていた。そのようなことをする娘ではないと、何か訳があるのではないかと、そう密かに思ってもいた》
《……》
《皇宮殿の〝歪み〟に取り込まれたのかとも、思ったが。――違ったな。アリィはずっと、昔のアリィのままだ》
エクシーガに語り掛けられるごとに、ヴィヴィアンの瞳が潤んでいく。……その目元は、先ほどまでに比べ、明らかに赤い。
(えぇっと……これって、もしかして)
何となく割り込めない空気に、ディアナは背後のリタと視線を交わす。リタからも同意の視線が返ってきて、「やっぱり」と何となく嬉しくなった。……ちょっと、この辺の機微に聡くなれた気がする。
ところで。
(ヴィヴィアン様のお名前のどこから、アリィって愛称が出て来たのかしら……?)
心の中だけの疑問に留めたつもりだったが、どうやら顔に出ていたらしい。振り返ったエクシーガが、《あぁ、すみません》と笑った。
《アリィの正式名は、ヴィヴィアン・アリラト・クスプレオというのです。――アリィは、親しい間柄にだけ彼女が許している愛称ですよ》
《あぁ、そうなのですね》
《えぇ。ヴィヴィアンの響きも綺麗ですが、〝アリラト〟も良いでしょう? スタンザの古語で〝月の女神〟を意味しまして、昔から彼女にぴったりだと――》
《もう! クシー、ちょっと黙る!!》
不意に、ヴィヴィアンがエクシーガを遮った。その目元は誤魔化しきれないほど赤く、本人もそれは自覚してるようで、驚いたエクシーガが彼女に視線を戻す前にくるりと後ろを向いた。
《ほんっとあなたって、昔から無自覚に無粋で無遠慮で無神経なんだから! そういうトコ直さないとモテないって何度も言ったのに、全然直ってない!》
《なっ……昔より少しはマシだろう、私だって成長してる!》
《どこが! 普通、好きになった娘の前で別の女褒める? 無神経っていうか、単純にバカでしょ!》
《ちょっと待て! アリィ、何でそんなこと知ってるんだ!》
《見てれば分かりますー。たぶんフラれたんだろうってことも分かりますー。てか、最初っからディアナ様の眼中に入ってなかったじゃない。そんなことも察せないくせに、よく成長とか言えたわね?》
《……そなたの察しが良すぎるだけだ。アリィの言う通り振られてるのだから、別に褒めても構わないだろう》
《……もう、ホント、だからバカって言ってるのに》
エクシーガもヴィヴィアンも、今までディアナが見てきた二人とはまるで違う表情で、ぽんぽん言葉を投げ合っている。ヴィヴィアンもだが、エクシーガも彼女を特別視していることは明らかだ。
ディアナはすすすと後ろに下がり、こそっとリタに耳打ちする。
「……これって、痴話喧嘩って言うわよね?」
「言いますね」
「とっても、お似合いよね?」
「主観ですが、私もそう思います」
「……上手くいくかしら?」
「サンバ殿と、レーネ様とブラッド様もご覧になっていますから、御膳立ての条件は整ってるんじゃないですか?」
「そっか。じゃあ、私は特にすることないわね?」
「生温かく見守って差し上げれば良いのでは?」
「そうね。そうする」
笑って、ディアナは定位置へと戻った。
《お二人とも。割と目立っておいでですので、続きは皇宮殿へ帰ってからにされてはいかがですか?》
《!》
《あぁ、確かに》
ヴィヴィアンは真っ赤だが、受け答えるエクシーガは普通のテンションだ。だが、「確かに」と頷いたということは、彼はヴィヴィアンとの会話をここで終わらせるつもりはないらしい。
(大丈夫。……みんな、幸せになれる)
ディアナが、すぐ近くにある想いになかなか気付けなかったように、たぶんエクシーガも、近過ぎて見失っているのだ。
振り返れば――きっと、ヴィヴィアンはエクシーガを拒絶しない。
密かに笑って、ディアナはずっと手に持っていた包みから、そこそこの厚さがある巻物を取り出した。
《殿下。――こちらを》
《これは……?》
《ささやかながら、わたくしからのお礼です。――これから殿下が歩まれる茨道を切り開く、一助となれば》
《……》
《あのひとが……できる限り調べてはくれたのですが、何しろ時間が足りなかったもので、完全ではありません。――続きは、信頼できるお仲間と力を合わせて、埋めていってください》
巻物を受け取ったエクシーガは、しばらくの間、それに目を落とし。
やがて、ぐっと顔を上げる。
《ありがとう、ございます。――お心を無にせぬよう、力を尽くします。〝彼〟にもどうか、心からの感謝を》
《伝えます。――わたくしよりも、どうか、スタンザの民のために。帝国の未来が明るいものとなりますよう、海の彼方より、お祈り申し上げます》
ディアナの言葉に、頷いて。エクシーガは、深々と頭を下げる。
彼に合わせ、サンバと、ブラッドとアルシオレーネ、そしてヴィヴィアンも、静かに拝礼した。
《では――》
《――ディアナ様!!》
最後の別れを述べようとした瞬間、遠巻きの野次馬のさらに向こう側から、澄んだ声が呼び止めてきた。……今の、声は。
《通して、通してください! ――ディアナ様!!》
野次馬を、かき分けて。小さな人影が、飛び出してくる。警護の衛兵が止めようとするのを、ブラッドが制した。
人影は、一直線にディアナへと向かって走り寄って。
《間に、合った……》
《サージャ、さん……》
ディアナの前で息を整えているのは、スタンザ帝国へ来て初めて話した、スタンザの民。
ディアナに〝現実〟を教えてくれた恩人、サージャだった。
サージャの貧民街へのお礼は、昨日のうちに済ませてある。――直接出向く時間は取れそうになかったので、ブラッドへ託ける形にはなったが。
そして、帰ることは知らせなかった。貧民街の者たちは、大人も子どもも皆、生きるために忙しい。精一杯な彼女たちを、ディアナのことで煩わせたくはなかったから。
それなのに。
《どう、したのです?》
《さっき、ポルテが。今日、エルグランドの方々が帰るらしいって、お店で聞いてきて》
《ポルテくんが……》
すっかり元気になったポルテは、また以前と変わらず、街で働いているらしい。
彼の働く定食屋は、人がよく集まる。――噂話も、集まっていたのだろう。
《帰るなら帰るって、ちゃんと教えてください! お礼も、お見送りもできないなんて、悲し過ぎます……!》
《ごめん、なさい。ここまで必死になってくれると、思わなくて》
勢いに押されて謝ってから、ディアナはゆっくり、笑みを浮かべる。
《でも、私も会いたかった。サージャさん、助けてくれて、ありがとう》
《助けて、って……それは、私の方です》
《でも、あなたも。昨日、エルグランドの使者が皇宮殿へ直行できるように、道を開けてくださったのでしょう?》
《そんなの、お祭りとか出征式でいつもやってることですから、お礼を言われるほどのことじゃないです!》
何度も首を横に振ってから、サージャは手に持っていた袋を、ぐいとディアナに差し出してきた。
《ディアナ様、どうか、こちらをお受け取りください》
《これは……?》
《我が家に、代々伝わる守り石です》
とんでもないことを言われ、ディアナは素で目を丸くする。
《受け取れるわけがないわ、そんな大切なもの》
《お受け取りください。それが、この石の役目なのです》
《……どういうこと?》
《母が、言ってました。――守り石は、いつか救い手を招く。救い手がいらしたら、今度はその方に石を渡しなさい、と。救い手を守り、やがてまた救い手へと繋がれることが、この石の役目なのだそうです。私の先祖も救った相手より石を渡され、いずれ子孫が危機に陥ったとき救い手を招いてくださるよう、大切に繋いできたと》
《……その救い手がわたくしである保証はないでしょう?》
《いいえ。――夢に、見ました。守り石が、ディアナ様の御許で輝く夢を》
自信に満ちたサージャの言葉に思わず目を瞬かせると、彼女はしてやったりと笑った。
《これでも私は、巫女の一族の末裔です。その私が見た夢ですから、それなりの意味はきっとありますよ》
《サージャさん……》
《受け取ってください、ディアナ様。――どうか》
まっすぐで曇りない、サージャの瞳。そこには、ディアナへの深い感謝と、その行く末の幸福を願う優しさだけがあった。
ゆっくりと、手を伸ばし。袋を差し出すサージャの手ごと、握る。サージャが袋をディアナの手へと渡し、確かな重さを受け取った。
手の中の袋を開いて、中の石を取り出す。
《ありがとう、サージャさん。――とても、綺麗ね》
精緻な細工が施された、薄緑色の不思議な石。……〝生命〟以外のものを感じ取る力はディアナにはないが、確かに普通の石とは〝何か〟が違う。
《大切に、するわ。――あなたのご先祖が、大切にしていらしたように》
《ディアナ様……》
サージャの瞳から、ぽろぽろと、透明な滴がこぼれ落ちていく。
《本当に、本当に、ありがとうございました。ディアナ様は、ポルテの命の恩人です。――私たちの、魂の恩人です》
《こちらこそ。サージャさんと会えたから、わたくしは、スタンザ帝国と分かり合えると信じることができたの。――折れない勇気を与えてくれたこと、感謝します》
《もう、お別れなんですね……》
《えぇ、そうね。……でも、大丈夫》
ほんの、少しだけ。最後の最後に、ディアナは〝ディアナ〟へと戻る。
《また、来るわ。今度は国使なんてお堅い立場じゃなく、ただのエルグランド人の一人になって》
《ディアナ、様》
《今度また、会えたら。そのときはきっと、国使じゃないから。……サージャ、私と、友だちになってくれる?》
《……!》
サージャの目が大きくなって、次いで唇が綻んでいく。
最初から。……サージャは、ディアナを必要以上に神聖視しなかった。節度は保っていても、一人の〝人〟として、見てくれていた。
それは、きっと――。
《私も……ディアナ様と、またお会いしたいです。お友だち、に、なれたら、それはとても、嬉しいです!》
〝身分〟という壁に阻まれてなお、彼女の中に、目の前の相手を尊重し、その心を思いやる――確かな強さがあるからだ。
《じゃあ――約束、ね?》
《――はい!》
別れは、次の出会いの始まりでもある。だから、悲しいことじゃない。
サージャと笑顔を交わして、ディアナは真っ直ぐ、背筋を伸ばす。
……いつの間にか港には、遠巻きの野次馬でなく、スタンザで関わった人々が、見送りのために続々と詰めかけていた。
《姫さまー!》
《ありがとうございました!》
《お元気で!!》
……この国で、ディアナは何かを残せたのだろうか。エルグランド王国の、国使として。――あるいは、〝ディアナ〟として。
《……ほんの一月足らず、こちらにいらしただけのディアナ様が、これほど民とお心を結ばれるのですから。我々も諦めず、繋いでいかなければなりませんね》
民の姿を見てぽつりと零したエクシーガの言葉に、ヴィヴィアンもゆっくりと頷いて。
《ディアナ様、ありがとうございました。……いろいろと、ごめんなさい》
《……いいえ。わたくしの方こそ、お世話になりました。またお会いできる日を、楽しみにしています》
《本当に、またいらっしゃるなら。今度はきちんと、わたくしにもおもてなしさせてちょうだい。こっそり来て、旅行だけして帰るなんて、そんな寂しいことはしないでね》
それは、不器用なヴィヴィアンらしい、精一杯の惜別の言葉。
朗らかに、ディアナは首肯した。
《はい。必ず、ご連絡します》
《えぇ。――元気で》
ヴィヴィアンの声に背中を押され、ディアナはゆっくりと一礼してから、背後の舷梯を静かに昇る。
やがて、甲板へと辿り着き。舷梯が引き上げられて。
船の前へと出てきた見送りの人々に向け、ディアナは最後に、心を込めて、エルグランド式の優雅な最敬礼を執った。
《スタンザ帝国の皆々様。滞在中、大変ご親切にして頂きまして、誠にありがとうございました。皆様から頂いたお心は必ずや故郷へと届け、両国の友好を繋ぐ架け橋となれるよう、努めて参ります。――エルグランド王国とスタンザ帝国、二つの国に生きる人々が、より明るい未来へ向かうことを願って!》
港が、歓声で埋め尽くされる。手を振って見送られる様がまるで波のようだと思っている間に、船はゆっくりと滑り出した。
さすが、最新式の快速船なだけあって、滑り出した船はみるみるうちに速度を上げ、あっという間にイフターヌ港が遠ざかっていく。
「もう……声も、届かないわね」
「――寂しい?」
いつの間にか甲板へと出ていたカイが、静かに問い掛けてきた。
……たった三週間の、滞在だったのに。エルグランド王国を出立したのが、もう随分と昔のことのようだ。それくらい、色々なことが、あり過ぎるくらいにあった。
「そう、ね。……寂しいというより、名残惜しいのかも。何だかんだで、私、スタンザ帝国のこと結構好きになってるから」
「そっか。まぁ俺も、ブラッドさんとかバルルーンのお爺さんとか、それなりに好きになった人はいるし。そう考えたら、確かに名残惜しいよね」
「えぇ。でもたぶん、名残惜しいくらいの方が、次に会う楽しみができて丁度良いのよね。レーネ様やヴィヴィアン様、サージャとも、次はもっと打ち解けて話せるはずだもの」
「そうだね。――また来ようよ、〝一緒〟に」
「うん。〝約束〟ね」
潮風吹き抜ける甲板で、そっと互いの指を絡め。
〝約束〟が増える喜びに、ディアナはカイと笑い合った。
大きな変化を乗せて、スタンザ帝国からエルグランド王国へと、船は軽やかに進んでいく――。
スタンザ帝国の〝後宮〟にも〝悪役令嬢〟がいて、彼女の〝物語〟があったという、おはなし。
このスタンザ帝国編は、ヴィヴィアンサイドから描くとまるで違ったものとなり、それはそれで面白いだろうなと思います。本人覚悟の上とはいえ、めっちゃ嫌われ役させて申し訳ない……私はヴィヴィアンさん、大好きです。というか、スタンザ編で出てきたキャラ達は、皆さん愛おしいですね。機会があれば、また書きたいです。




