〝運命〟との決別
予告しておりました通り、エクシーガ視点です。
エクシーガが、ディアナと〝とある侍女〟の密会を垣間見た、その翌日の夜。
《……来た、か》
密かに自室下の庭園へと降りていたエクシーガの元に、音もなく、漆黒の影が舞い降りる。
闇の中、影はその全貌を見せないまま、ゆっくりと立ち上がって――。
《この国のヒトってさ、何でいちいち偉そうなワケ? 話がしたくて呼び出すのに、その呼び出しの手紙で相手をキレさせたら意味ないって思わないの?》
開口一番、遠慮も忖度もまるでない文句を、さらっと豪速球でぶつけてくるのだった。
***************
長年、エクシーガの従者兼助手として働いてきたサンバは、調査と資料集め技術に関してずば抜けている。
ましてや今回の〝調べもの〟は、公的書類に書かれている内容の裏取りだ。その程度、サンバならば半日で充分、だったらしい。
「殿下がご覧になった侍女の名は、カリン。エルグランド王宮に雇われた侍女の一人で、今回の国使団結成にあたり、その一員に選ばれたようですね」
「つまり……本物の侍女である、と?」
「えぇまぁ、書類上は。……しかし、個人的には少しばかり違和感があります」
「違和感?」
「この〝カリン〟以外の侍女は、もともとエルグランド王国にて、紅薔薇の姫君に仕えていた者たちです。あの、スタンザ語が堪能な侍女……リタ、という者だけは王宮侍女ではありませんが、クレスター伯爵家から姫君付として同行していたそうで、クレスター伯が身元保証人となることで、国使団の一員として認められたとか」
〝あの夜〟、エクシーガの前に立ちはだかった侍女の強い瞳が蘇る。己の命、存在全てを賭けてでもディアナを守り抜くという決意を映した瞳でエクシーガと対峙した彼女は、きっと昔からずっとディアナの近くに居たのだ。リタにとってディアナは、王宮から与えられた主ではなく、自らの意思で選んだ唯一無二の存在なのだろう。
――エクシーガが過去に思いを馳せている間にも、サンバの説明は続く。
「一人、侍女ではなく官身分の者もおりますが、彼女もまた王国で姫君に仕えていた王宮女官です。役割が違いますので侍女たちほど姫君の近くに控えている時間は多くありませんでしたが、何度か顔を見かけたことがあります」
「そう、か」
「しかしながら……この〝カリン〟なる侍女だけは、考えてみればエルグランド王国で見た覚えがないのです。もちろん、国使団員を『紅薔薇の間』関係者に限るなんて条件を出したわけではありませんし、エルグランド王国側からもそのような説明があった事実もございませんので、我々がまるで知らぬ侍女が随行しても問題はないですが」
「確かに、そうだが。たまたま我々が姫と面会する際、控えていなかっただけではないのか?」
「〝カリン〟はスタンザ帝国へ来てからも、我々の前には滅多に姿を見せぬ侍女でしたからね。姫のイフターヌ視察に同行したこともございませんし……私もその可能性を考え、王国側が用意した国使団員の略歴を調べて参りました」
そう言って、サンバが広げた略歴書には。
「こ、れは……」
「違和感が、あるでしょう?」
「あぁ……他の者に比べて、内容が薄い」
「家名が記されていないのは他と同じですが、縁故欄に『マグノム侯爵家遠縁』とあるのみで、エルグランド王宮における目立った職歴が一切ありません。雇い入れの日すら、『先日』と曖昧。他の者の内容も決して濃いわけではありませんが、それでも簡単な異動歴くらいは載っています」
「改めて読むと……〝略歴〟ゆえの薄さというよりは、〝カリン〟の書類だけ浮かないよう、ぎりぎりの均衡を保って作られたようにも思えるな」
「私もそう感じました。つまり、逆に言えば――〝カリン〟は、そのように面倒な印象操作を行なってでも同行させたかった存在、ということになります」
「……我々の、王国を侮っていると言われても仕方のないエルグランド国使団の〝条件〟に対し、どこからも抗議の声が出なかったのは。その〝条件〟をクリアできる〝切り札〟を、エルグランド王国が隠し持っていたからというわけか」
「そういうこと、でしょうね」
知れば知るほど、エルグランド王国でのスタンザ国使団の滑稽さが浮き彫りになる。想定外のことはあったにせよ、概ね思った通りに事を進められていると思っていたが、実際はどこまでいってもエルグランド王国の掌の上で踊っていたに過ぎなかった。
改めて、理解する。――エルグランド王国は決して、平和ボケした危機意識ゼロの国ではない。
彼の国は、ただ。どこまでも密やかに、したたかなのだ。
「……どうなさいますか、殿下?」
考え込んだエクシーガに、サンバがそっと問うてきた。少しの間、目を閉じて……エクシーガは決意を固める。
「話を、聞きたい。〝カリン〟が本当は〝誰〟なのか。姫と、どのような関係なのか」
「……応じますでしょうか?」
「〝カリン〟の正体が、もしも我らの想定通りなら、エルグランド側にとっては弱みでもあるだろう。そこを突けば、応じざるを得ないはず」
「殿下はやはり、性別からして偽りだと?」
「はっきりと、確信できているわけではないがな。あの〝視線〟と〝気配〟は、女のものではないだろう」
「だとすれば、両国の取り決め違反にはなりますね」
「あぁ。手紙でそれを仄めかせば、呼び出しには応じるはずだ。――とはいえ、誰が書いても角の立つ内容にはなるだろうからな。私がしたためるゆえ、エルグランド国使団への繋ぎを任せても良いか?」
「承知致しました」
そうして書いた手紙は、侍女〝カリン〟の正体を知っていると匂わせ、話を聞きたいので、今晩、誰にも知られぬよう指定の場所まで来るように、と告げるもので――。
《いやもうマジで、読んだ瞬間目が点になったよね。ミアさんが超絶変な顔で手渡して来たもんだから、俺たちの常識じゃちょっとあり得ない内容なんだろうなとは予想してたけど、予想を上回るあり得なさっぷりだったよ》
手紙に呼び出されて来たにも拘らず、正体という〝弱み〟を何の躊躇もなく晒け出して現れた〝彼〟は、一応皇族なエクシーガに遠慮することなく、ズケズケと言葉を投げつけてくる。内容どころか言葉遣いすら、身分への配慮がゼロだ。
あまりの無礼さに憤りかけたサンバを身振りで制し、エクシーガは一歩、進み出る。
《……そなたが、〝カリン〟か?》
《そうだよ。こうして言葉を交わすのは『初めまして』だよね》
《…………こうして、男のなりで現れたということは。己の正体を認めるという意思表示と考えて、良いのだな?》
〝カリン〟の姿は闇に隠れてよく見えないが、服装といい動き方といい、男のものであることは疑いようもない。……正直、昨日遠目に見た〝カリン〟と目の前の男が同一人物だとは、本人が認めてもなかなか信じられないが。
エクシーガの踏み込んだ問いに、男は少し、笑ったようだった。
《認める、も何も。俺もエルグランド王国の人たちも、一度だって〝カリン〟を女だって言ったことはないと思うけど?》
《な、に?》
《侍女の略歴書に性別書く欄はないし、直で性別聞かれた覚えもないし》
《そのような……侍女なのだから、性別は女と決まっているだろう!》
《スタンザ帝国ではそうなのかもしれないけど。少なくともエルグランド王国に、『男が侍女やっちゃいけない』って決まりはないからね。法律や王宮規範にも、一言だって書かれてない。――〝カリン〟が男だろうが女だろうが、こっちに傷はつかないよ》
とんでもない詭弁に、開いた口が塞がらなくなる。侍〝女〟職に男が応募しないのは当たり前のことで、法律や王宮規範に書かれていないのも、男が侍女をして良いからでは決してなく、書かずとも女に限定されて当然だからに過ぎない。その暗黙の了解を逆手に取り、ここまで堂々とした横紙破りをしでかすとは。
《――てかさ。逆に聞きたいんだけど、アンタたちはなんで、王国の人たちが馬鹿正直に、何が起こるか予測できない異国に女の人だけで行かせると思ったの? 今回のエルグランド国使団のメンツは、確かに並の男なんか相手にもならない有能な人たちばかりだけど、人数と力で押されたらどうしようもない。〝気に入らないなら殺せば良い〟がまかり通ってるスタンザ帝国に行くなら余計、いざってときの腕力担当は必須でしょ。その程度のことも考えられず、唯々諾々と王国が帝国に従ったと思ったんだとしたら、さすがに頭がおめでた過ぎるし、エルグランド王国のこと、馬鹿にし過ぎ》
一分の隙もないド正論を真上から落とされ、無意識のうちに肥大していたエクシーガの傲慢な自意識がべしゃりと潰される。
……そう。結局のところ、エクシーガはずっと、心のどこかでエルグランド王国を侮り続けていたのだ。ディアナを特別視するがあまり、王や、他にも数多存在する有能な人材のことが、まるで見えていなかった。最初から、エルグランド王国の人々を対等な存在として認識し、真摯に、誠実に向き合っていれば、その真の姿もきちんと見えたはずなのに。
《この呼び出しの手紙だって同じことだよね。アンタの中で、エルグランド王国は今も〝格下〟だから、こんな的外れな書き方ができる》
《……的外れ?》
《エルグランド王国が、バレたら即〝彼女〟の弱みになるようなやり方で、〝切り札〟を送り込むわけない。そんなことも分かんないから、『カリンの正体は分かった。バラされたくなければ、話をしに来い』なんて上から目線な手紙が書けるんでしょ。俺が本当は〝誰〟なのか、〝彼女〟とどういう関係なのか知りたくて、話をしたくてたまらないのはそっちのくせに。――まさかこの期に及んで、自分の立場を無理にでも上にして言うこと聞かせようとしてくるとは、さすがに思わなかったよ。最初に手紙を読んだミアさんも、回し読んだ他の侍女さんたちも、こうなってくるともう『頭を下げてお願いするということを知らない人って、こんなに可哀想なんですね……』って感想しか出てこなかったみたい》
ぐうの音も出ない正論、とは、こういうときのためにある言葉だろうか。自分でも意識していなかった己の中にある卑劣な心、誠実に相手と向き合おうとせず〝脅し〟に逃げた弱さ、身分低い相手に〝お願い〟などしたくない、頭など下げたくないという愚かな自尊が暴かれ、筒抜けていることに羞恥が湧き上がる。声すら出せないまま、ただエクシーガは項垂れることしかできない。
そんなエクシーガに、男はただ、冷ややかな視線を流して。
《ま、俺はアンタがどれだけ残念な頭の持ち主でも、嫌な野郎でも、正直なところどうでも良いんだけどさ。アンタの株が下がれば下がるほど、アンタが惚れた女も軽んじられることになりかねないから、そこだけはちゃんと分かっときなよね》
《な……っ》
《……そこから? マジでこの国の皇族って、対人関係の基礎教育どうなってんの。――アンタが馬鹿やらかせば、『あんな野郎に惚れられた娘も可哀想に』ってなるだろ、普通。同情ならまだ良い方で、『あんな奴が好きになるくらいだから、女の方も大した人間じゃない』って穿った見方をする人もいるよ、世の中には》
これまで言われたこともない、エクシーガを皇族としてではなく、一人のまっさらな〝人間〟として向き合うからこそ出てくる指摘。……普通云々を述べるのであれば、皇族と関わること、好かれることを〝可哀想〟だと思う者こそ少数派な気もするが、だからこそ身分を取っ払った〝エクシーガ〟自身への言葉が刺さる。要するに、皇族だから尊重してもらえているだけで、〝エクシーガ〟本人には関わる周囲もろとも評価を下げる人間性しかないと言われているようなものだ。
――言葉の調子は軽いが、その内容は極めて重く、かつ鋭い。これほど切れる男がずっと、ディアナの傍にいたとは。
《それほど……》
《なに?》
《それほど、私に腹を立てていて。正体を明かされたところで、何も困らないのなら。何故、ここへ来た?》
《……話をしたいって呼び出したの、そっちだよね? 応じなかったならともかく、わざわざ足を運んで文句言われるってスゲー理不尽なんだけど》
《文句ではなく、単純に疑問なのだ。私が皇子であることに配慮したわけでもあるまい?》
《まぁ、ある意味そうかな。もうそろそろ、この国の偉い人と腹を割って話す必要はあるかなって思ったのと、後は興味? ここまで必死な感じで呼び出してくるって、どんな話なのかと思って》
《……意地の悪い男だ。言わずとも予想はついているのではなかったか?》
《予想と現実が違うのなんてザラじゃん。――けど、その様子を見る限り、予想は外れてないっぽいね》
男が皮肉げに笑った瞬間、強い風が吹き抜ける。上空の雲も共に流されたらしく、これまで姿を隠していた月が、澄んだ光を世界へと放った。
《アンタが話したかったのは――知りたかったのは、〝俺〟だ》
月光に照らされ、闇は晴れる。
これまで暗がりに包まれていた存在も、冴えた月明かりによって、その全貌を現した。
エルグランド人らしい白い肌に、エルグランド人にしては珍しい、濃い色の瞳を宿し。
国は違えど感嘆せずにはいられないほど、美しく整った容貌の。
そろそろ少年の域を脱し、青年期へと差しかかった、黒衣の男が――。
《……そなたは、〝誰〟だ?》
《もうちょい具体的に質問してくれない? 俺の何が知りたいの? 名前? ……それとも、立場?》
《両方、だ》
《ま、そりゃそうか。――質問に質問に返しといてアレだけど、俺に答える義理はないって、さすがにもう分かってるよね?》
《……分かって、いる。だが、私は知りたい。――教えて、くれないだろうか》
頭こそ下げなかったものの、真正面から相手の目を見て、精一杯の懇願を示したエクシーガを、男はしばらく感情の読めない瞳でじっと見つめて。
《……ま、アンタの気持ち的には、知らなきゃ収まりつかないか》
静かに、深く、息をつく。
《――真面目に聞いてくれたトコ悪いんだけどさ。俺、アンタへの答え、何も持ってないよ》
《な……っ》
《いや別に、話したくないとか、そういう意味じゃなくて。マジで持ってないってだけ》
《どういう、意味だ?》
《名前に関しては、カイって呼ばれてる。育ての親がつけてくれた名前で、俺としては本名のつもりだけど、どこかに記載されてるワケじゃないから公的に〝正式名〟って言えるかどうかは謎だよね》
《どこかに、記載されているわけじゃない……?》
《俺も、育ての親も、エルグランド籍持ってないから。そういう意味では、エルグランド人ですらないよ。――だから、立場なんてモノもない》
予想もしていなかった男の返答に、言葉を失う。エルグランド王がディアナの護衛としてつけるくらいの人間なのだから、立場がないといっても王宮の一兵卒程度ではあるだろうと想像していたが、現実はより斜め上だ。……まさか本当に、〝紙の上に記された役職すらない〟存在だったとは。
しかし。それなら、どうして。
《何故、姫と、どこで――》
《出会いの話? ――単純に、彼女が俺の仕事の〝標的〟だったんだよね》
《し、ごと?》
《まぁ、いわゆる裏稼業ってやつ。犯罪全般請負人的な?》
《なに……っ》
《国に籍置いてない人間が、日の当たる世界の真っ当な仕事なんてできるわけないし。とは言ってもエルグランド王国の裏稼業人たちは、定住型放浪型問わず、一応どこかの土地に籍を置いてる人がほとんどだけどね。表と裏の顔使い分ける人も多いし》
《そんな、人間が。どうやって、貴族家の姫君と》
《さっきも言ったけど。彼女と敵対してる人に雇われて、情報収集役として側をうろちょろするうち、顔を合わせる流れになったのが初対面。――で、俺の方があの娘の人間性に絆されて、敵対してる方とは手を切って、彼女側についた》
《……よく、許されて、認められたな》
《……あの娘が、許さないと思う? そもそも最初から――〝敵〟として出逢った、あの瞬間から。俺の存在も、行動理由も、生き様も。全部認めて、許して、包んでくれたよ》
ゆっくりと言葉を紡ぐ、カイと名乗った男の瞳には、溢れんばかりの愛おしさがあった。――ディアナについて話した瞬間だけ、別人の如く輝く瞳は、まるで満天の星空のようだ。
《だから……愛した、のか? 包んでくれた女だから――》
《興味を持つきっかけにはなったけど、別に彼女が並外れたお人好しだから好きになったわけじゃないよ》
暗に「都合の良い女を手元に留めて置きたかっただけでは」と尋ねる意図を含んだ質問は、途中でバッサリ切られて否定された。……驚くほどに、勘が良い。
《むしろ、あの自分のことそっちのけで他人のことばっかり気にかける性質には、たぶん今後一生振り回されて、苦労する予感しかしないよね。もうちょい自分本意に生きてくれた方が、俺としては守り易くて助かるんだけど》
《……ならば、守り易い女性を選べば良い。お前なら、選り取り見取りだろう》
《それさぁ、たまに言われるんだけど、俺別にそんなモテないから。歳の近い女の人の知り合いはそれなりの数いるけど、色めいた雰囲気になんか一回もなったことない。恋愛経験ゼロだったよ、彼女と逢うまで》
《よく、それで。あのような高貴なお方に、畏れ多くも手を出そうと思ったな?》
《それも割とあちこちから言われる。――さっきからスゲー引っかかるんだけどさ、自分の好みとか、相手への希望の不一致とか、……身分、とか。そんなモノ、想いを止めるのに何の役に立つの?》
こちらを真っ直ぐに射抜く、その瞳は。恐ろしいまでに澄み切った、混じり気のない〝想い〟で満ちていて。
その〝想い〟に導かれるまま、彼は淀みなく言葉を紡いでいく。
《恋情も、愛情も。自分の力でどうにかできるもんじゃない。一度堕ちたら底無しで、ただただ深みへ沈むだけ。理想のタイプと実際に惚れた女がまるで違うなんて話はありふれてるし、相手が自分の思い通りになるから〝好き〟なら、それは愛じゃなくて支配欲だろうって思うし。――身分に関しては一番無意味だよね。当の本人が気にしてないし、何ならフツーに降りてくる。たまに『紅薔薇様』やってるときに「遠いな」って思うことはあるけど、それで〝想い〟の沼水が少し苦くなっても、枯れはしないよ》
……あぁ。認めるしか、ない。
この男の〝想い〟は、本物だ。本当に、心の底から、魂全部で、ディアナに惚れている。――彼女を、愛している。
それでも……その〝想い〟を認めたからこそ、ふつふつと湧いてくるものがあることもまた、確かで。
ぐっと拳を握りしめ、エクシーガは憎しみにも似た強い感情で、目の前の男を睨み据えていた。
《……そこまで、》
《なに?》
《そこまで、姫を、想うなら。――何故、手を取る道を、選んだ?》
《……》
抜群に頭の切れる男は、短い質問だけで、エクシーガの言いたいことを察したのだろう。感情を消し、凪いだ目でこちらを見返してくる。
その静けさが却って、エクシーガの燻っているものを煽った。
《気付いているはずだ。お前が姫に捧げられるものは、その〝想い〟一つだけに過ぎないと。国に認められた名もなければ、立場もなく……そのような有様では、財産すらないことは明白》
《……ま、ジリ貧ではあるよね》
《そんな男が姫の隣で、いったい姫に何をして差し上げることができる? 立場で姫を守れるわけでも、何不自由無い暮らしを約束できるわけでもない。――いいや、それどころか、公的な〝名〟のない貴様の手を取るということは、姫ご自身のお立場を捨てさせるに等しい》
《――……》
《姫から奪うことしかできぬ、貴様のような男が……姫に相応しい、わけがない》
表情の変わらない男の前で、エクシーガの吐露は止まらない。次から次へと、溢れてくる。
《私ならば、姫に何一つ捨てさせることなく、その上で姫の望みを叶えることができる。暮らし向きも、姫が守りたいと願うものも、全て不足無く叶えられるだけの財力と、権力がある》
《……確かにね》
《学びへの意欲深い姫を満足させられるだけの環境も、既にある。姫の知識欲に負けぬほどの探求欲も、ある!》
言葉を重ねれば重ねるほど――ずっとずっと、〝詮無い〟と閉じ込めていた本音が露わになって。
《姫に相応しいのは、何処の誰とも分からぬ貴様ではない! 彼女の〝運命〟は――私だ!!》
そう。――初めて、あの中庭で彼女を見つけた瞬間から。
ずっと、ずっと、……ずっと。
感じていた。信じていた。
――……ディアナに、〝運命〟を。
それが錯覚に過ぎなかったのだとしても。彼女の心は、彼女を心底愛する男のものなのだと知って、本人が何度も繰り返した通り〝充分に幸福〟なのだと分かっても。
……考えずには、いられない。
どうして、自分ではないのかと。自分の方が絶対、彼女に相応しいはずなのに――と。
確かに、〝運命〟は自分と彼女の未来を示していると――!!
《――言いたいことは、それで全部?》
いつの間に俯いていたのか自覚はなく、落ち着いた声は斜め前から降ってきた。気を持ち直し、エクシーガはぐいと顔を上げる。
顔を、上げて。
《全部なら、こっちも言わせてもらうけど――……今更一々言われなくても、そんなこと、とうの昔に解ってるよ》
表情も、声も、何一つ変わらないのに。これまでとは決定的に〝何か〟が違う、目の前の存在と対峙する。
確かに人であるはずなのに、心の何処かが〝人ならざるもの〟への畏怖に、震えた。
《アンタに言われなくても、俺がディーに相応しくないことなんか、出逢った瞬間から分かってる。身分抜きにしても、目の前で苦しんでる人を放っておけない超絶お人好しなディーと、大事なひと以外はどうなろうが特に興味もない俺とじゃ意識的にも釣り合わないし、俺はディーほど知識欲旺盛じゃないし、……アンタが言う通り、ディーに苦労かけないだけの財力とか立場とか、何一つ持ってないし。これで相応しいと思えるのは、よっぽど自惚れの強い奴くらいだろうね》
《ぁ――》
《本当に……アンタが言った通り。まず、まともな〝結婚〟させてあげられない時点で、家族に愛されて幸せいっぱいに育った女の子の相手としては、極め付けに相応しくないよ。神殿で、結婚式すら挙げられないんだから》
《……》
《俺よりディーに相応しくない男は滅多に居なくても、相応しい奴なら探せばその辺ゴロゴロしてると思う。――アンタも含めてさ》
エクシーガの言葉を、一片の迷いもなく肯定しながら。
男の瞳は、吸い込まれそうな常闇の光に満ちて――。
《そんなの全部解った上で――俺はディーの手を取る道を、選んだんだ》
真正面から、エクシーガを、射抜く。
《関係ないんだよ、もう。俺がディーに相応しくないとか、〝運命〟じゃないとか。そんなの全部、一切、この先の〝未来〟には関係ない》
《な……ぜ》
《ディーが、俺を求めてくれたから。俺が欲しいって泣いて、俺と交わした〝未来〟の約束に、幸福そうに笑うから。――ディーの幸福に俺が必要な限り、俺はこの手を離さない》
そう言い切って、男は静かに瞳を閉じた。
掌をぐっと握って、彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。
《何度も、迷って。悩んで、立ち止まって。……死ぬまで愛して守り続けることは変わらないけど、ディーの幸福を願うなら、この想いは本人へ向けるべきじゃないって思ってた。何一つ持ってないこんな俺がディーに何をあげられるのか、夜が来るたび考えたよ。――本当にディーを想うなら手を伸ばすべきじゃないなんて、アンタが言い出すずっとずっと前から、俺が俺に言い聞かせてた》
《そ、なた、は》
《――でも、》
言葉を切り、彼は再び、目を開けて。
《そんな、世間一般の良識や世間体に則った迷いや悩みがディーを苦しめるなら、間違っているのはそっちの方だ。世界全部に背いたって、俺はディーが幸福に笑っていられる道を選ぶ。ディーが俺を求めて、俺と共に生きる未来を望んで、そこに幸福と希望を見出して笑うなら、その世界こそが俺にとっての〝正道〟で――それを阻むものは須く、〝運命〟だろうが何だろうが、打ち破るべき障壁でしかない》
満ち満ちているのは、ただ、ディアナへの深い愛。ひたすらにディアナの幸福を、笑顔を望んで、そのために生きることを疑問にすら思わない。深く、重く……激しい、愛だった。
(そう、か)
唐突に、理解する。エルグランド王国が、彼に〝護衛〟を任せた、その理由を。
それは、きっと。彼が――カイが、ディアナの〝全て〟を守る存在だからだ。
〝仲間を大切に思うディアナ〟を愛するカイならば、仲間が欠けてディアナが悲しむことのないように、国使団丸ごと守るだろう。ディアナの笑顔が曇らぬよう、その心まで包んで癒すだろう。
……何も持っていないなど、とんでもない。カイは既に、本人無自覚のうちに、とても大きなものを得ている。
――〝エルグランド王国〟の信頼という、とてつもなく大きな剣と盾を。
(エルグランド王も……二人の仲を認めている、ということか)
二人の想いを知り、認めているからこそ、カイを同行させるための小細工に労力を惜しまなかったのだ。王国の頂点公認なら、少し書類をいじる程度、造作もなかったことだろう。……よくよく読んでも嘘は一つも記載されていない辺り、あの食えなさそうな宰相が絡んでいる気配もする。
(最初から……私に勝ち目は、なかったのだな)
不思議なことに、昨日、ディアナと彼を目の当たりにしたときのような衝撃や苦さは感じなかった。これまで見えていなかったものが見え、ディアナがちゃんとエルグランド王国から大切にされているのだと知れて、思ったよりも深く安堵している。
ディアナの心を得られなかった痛みや苦しさは、確かにまだあるけれど。ディアナが確かに愛されている現実は、それ以上にエクシーガを安堵させるものだった。――受け入れて、肯定できるものだった。
きっと、いつの間にか。エクシーガの想いは、相手をひたすら求めるだけの〝恋〟から、相手自身の幸福を一番に願える〝愛〟へと、形を変えていたのだろう。
――長く続いた沈黙を、深い吐息で破る。
《……そなた、なら。そなた自身が持つものは何も無くとも、その身一つであらゆる苦難から姫を守り、その心総てで姫を幸福にし続けるのだろうな》
《……俺がディーにあげられるものなんて、結局俺自身くらいしかないからね》
《だが、姫が選んだのは他ならぬそなただ。――姫が愛し、求めてやまないのは、そなたの他におらぬ。……羨ましい、限りだがな》
《俺だって……俺の方こそずっと、アンタが羨ましかったよ》
予想もしない応えに目を丸くするエクシーガを、カイは苦笑しながら見つめて。
《どんなに想ったって、俺は所詮、ただの隠密だから。貴族社会でディーが闘うとき、俺は見えない場所から守ることしかできない。ディーの欲しい〝未来〟のためには、俺自身が何かに縛られるわけにはいかないから、隠密であり続けることに迷いや不安があるわけじゃないけど……俺ホント、ディーに関してだけは欲深だからさ。――いつでも、どこでも、躊躇いなくディーを守れる〝立場〟を持ってるアンタには、羨望に近い妬心があったよ、たぶん》
《そう、か》
じっくり、ゆっくりと、カイの言葉を咀嚼して……エクシーガもまた、苦笑した。
《無いものねだりだったのだな。――互いに》
《そういうことだろうね。まぁ、しょうがないよ。それが恋愛ってやつだろうから》
達観した顔で笑い、カイは一歩、エクシーガへと近付く。
《正直な話、恋敵って時点でどう頑張っても皇子サマを好きになるのは無理なんだけど、俺別に、アンタのこと嫌いでもないんだよね。ディーを好きになった時点で、一定の見る目はあるんだろうなって思ってたし。アンタがエルグランドの王様のこと、ディーを形だけの側室筆頭にしてるって激怒してたときは、気持ちスゲー分かったし。皇族生まれのせいで無意識に傲慢で、独善的で、余計な矜持が高いだけで、それが世間一般とズレてるって気付いたら即修正できるだけの柔軟性もあるみたいだしね》
《……これほど褒められている気がしない褒め言葉も滅多に聞けないな。どうやらそなたにとって、高い身分は必ずしも良いものではないらしい》
《こればっかりは人によるんだろうけどさ。問答無用で他者に言うこと聞かせられる〝権力〟が、人間を歪ませ易いとは思ってるよ。その権力を世襲してる〝王〟とか〝皇帝〟とか〝貴族〟は、普通に生きてる人間よりずっと歪んじゃうんだろうなとも思う》
《……そう、だな。否定はしない》
エクシーガも、ディアナとの関わりを通して己の〝歪み〟を認識した身だ。――歪みの中で生まれ、その歪みゆえに母を亡くし、歪みに潰されてしまわないよう必死に生きて……気付けば、自身も歪んでいた。歪まなければ、耐えられなかった。
少しでも強い権力を求めて、人々が皇帝の寵愛を奪い合う、スタンザ皇宮殿――……あの場所こそまさに、歪みの根幹だ。
……そう。〝彼女〟も、また。
《歪みの中で……》
《ん?》
《真っ当で真っ直ぐな者が、歪みの中で生きるのは、想像を絶する苦痛なのかもしれない。……望んで歪んだわけではなく、歪む以外になかったのかもしれない》
《……何の話?》
《昔、成人前のほんのひとときだが。後宮の離宮で過ごしていた頃、一人の娘と親しくしていたことがある。活発だが騒がしくはなく、穏やかだが芯の強い……春の日差しのような少女だった》
《ふぅん? 側室さんか誰か?》
《さすがにそれはない。彼女はまだ成人前だった。――当時、私が自身の立場を息苦しく感じていたのもあって、お互いに正体を詮索し合わないのが暗黙のルールのようになっていたが……成人後、後宮から出てしばらくして、彼女が皇帝陛下の寵姫、イライザ・クスプレオ様がお連れになった前夫の娘だと知ってな》
カイの瞳が、やや大きくなる。
《それって、ヴィヴィアンさん?》
《……やはり、姫も関わっておいでだったか。もしや、何か危害を加えられるようなことが?》
《えぇと……てか、ヴィヴィアンさんの後宮でのあれこれって、外でも有名なんだ?》
《建前上、後宮内での出来事は口外禁止の絶対機密ではあるがな。内にも外にも人間がいる以上、どう足掻いても人の口に戸は立てられぬ。……噂程度ではあるが、名前は何度も聞いた》
苦い気持ちを吐き出すように、一度深く、呼吸して。
《私の知っている、後宮に来たばかりの頃の彼女は、噂されているような娘では決してなかった。噂を聞くたび、本当に彼女のことを話しているのかと半信半疑だったが……皇宮殿が、後宮が歪んだ魔窟であるのなら、生きる場所に合わせて歪まなければ、生きていけなかったのかもしれない》
《さぁ……本当の意味でそれが分かるのは、たぶんヴィヴィアンさん本人だけなんだろうけど》
《いずれにせよ。――これ以上多くの人を歪ませる前に、この国は変わらねばならない、のだろうな》
そのためには、まず。
《……明日》
《明日? 何かあるの?》
《主だった重臣が朝議の場へと集い、神殿の重役たちも呼んで、〝聖女〟をスタンザ皇妃として迎える最終協議が行われることになっている。そこで重臣全員の意見と神殿の最終許可が降りた時点で、〝聖女〟は新たなスタンザ皇妃として迎え入れられる見通しだ》
《あー……なんか連日、あっちこっちでやいやい話してたね。ま、ディーの性別が女な時点で、ありがちな展開か》
《腹立たしくは、ないのか?》
《腹立つというより、呆れの方がデカいかも。自分は偉いって思い込んでるオッサン連中が、女の人を道具扱いするのに疑問持たないのって、どこの国でも変わらないんだねぇ》
《だが……これが通れば、スタンザ帝国は堂々と〝聖女〟の所有権を主張する。エルグランド王国へ帰るには、それこそ両国間で全面戦争をしなければならなくなるぞ》
《それは困る。てか、重婚云々の話はどうなったの?》
《……スタンザ国使団としてエルグランドを見聞きした者たちが、〝側室〟なら何とかなると入れ知恵したらしいな。エルグランド王国は一夫一妻制で、側室はあくまでも愛人に過ぎない。今回、姫が側室筆頭として暫定的な準王族身分を与えられたのだとしても、神に認められた正式な婚姻をスタンザ帝国で交わせば、そちらの効力の方が強いのではないか、と》
《なぁるほど。一理はあるね。ディーはまだ一度も、誰とも、正式には結婚してないわけだから、そこを突かれると〝重婚〟って逃げ道も塞げるわけか》
淡々と話しながら、カイの唇に浮かぶのは、紛れもない冷笑だ。スタンザ帝国の浅はかな企みを、彼が心底蔑んでいるのがよく分かる。
エクシーガは、強く一歩、踏み出した。
《――もう、迷わぬ。止めてみせる》
《皇子サマ?》
《私は……これまでずっと、姫を苦しめることしか、してこなかった。この上、姫を愛する故郷から永遠に引き離すような事態となれば、私は生涯、姫にも、そなたにも――エルグランド王にも、顔向けできぬ》
《いやまぁ、俺としては確かに、今までの流れに文句一つないわけじゃないけど。たぶんディー本人は、皇子サマのこと、そこまで恨んでないよ》
《だとしても、――否、だからこそだ。姫のご意志を無視してスタンザ帝国までお越し頂いた以上、せめて姫のお望みどおりエルグランド王国へとお帰しすることこそ、私が姫に通せる唯一の誠意。何があろうと、これ以上、姫のお心を蔑ろにする理不尽を強いることはさせない。決して、させてはならないのだ》
――迷いは晴れた。決意は固まった。今、エクシーガの前には、己が為すべきことが、行くべき道がはっきりと見える。
《……時間がないな。急ぎ、力を貸してくれそうな方々へ繋ぎを取らねば》
ぐっと拳を握り、エクシーガは、ずっと後ろで気配を消して見守ってくれていたサンバを振り返った。
《――サンバ。夜遅くから悪いが、これから私が言う方々が今、皇宮殿のどちらにいらっしゃるか調べてきてくれるか》
《でん、か――》
何かを案じた様子で言葉を発そうとしたサンバは、エクシーガの顔を見て、その瞳に捕らえられた瞬間、全ての動作を停止してこちらを見返してくる。
その瞳は、表情はやがて、じわじわと、安堵と――何よりの喜びに、満ちて。
《――承知、致しました》
《頼むぞ》
頷き合う自分たちに、背後でカイが微笑する。
《……俺には、未来を見通す力なんてないけどさ。エクシーガ皇子、アンタがこの国を導く立場になれば、きっと世界は大きく変わるよ。――たぶん、遠い遠い先まで》
その言葉が終わると同時に、彼の気配がふっと掻き消えて――振り返ったときにはもう、月光に照らされた庭園の植物だけが、揺れていた。
どこか厳かな、神託にも似たカイの言葉が……エクシーガの深くまで貫いて。
「カイ、か……。不思議な男だ」
「現れ方といい消え方といい、人間離れしておりましたね。……しかし、姫君へと向ける想いは、呆れるほどに人間らしくもある。その二面性がまた、神秘的に見えるのでしょうか」
「そうかも、しれぬ。――一つ確かなのは、明日、姫をスタンザ皇妃とすると決まり、婚姻誓約書に神殿の署名が入った時点で、まず朝議の間が血で染まるということだろうな」
「……後々を考えると、極めてありがたくない予想ですね」
「我々自身のためにも、まずは全力で、明日の決議を食い止めねば」
改めて誓いを立てるエクシーガを、月は変わらず、照らし続けていた――。
カイが、涼風ファミリー全体の中でもかなりの古株だという話は以前どこかでしたかと思いますが、古株だからって全部理解できてたわけじゃないんだなと、今話を書いていてすごく感じました。エクシーガとのやり取り、「え、キミそんなこと思ってたの?」と書きながら私が一番驚いたかもしれない。まぁ彼も、あんまり柔い部分を見せないお方ですからね。
さて、来週からはいよいよ12月ですね。年末までに帰国できるよう、引き続き応援のほど、どうぞよろしくお願い致します!




