朝陽を浴びて
さて、いよいよスタンザ編最終章へと入ります。
――まるで、熱い海に抱かれているかのようだった。
『……ディー、可愛い』
たった一言に込められた、深い想いの奔流が、ディアナの身体に薬がもたらすモノとは全く別の〝炎〟を灯して。
『大丈夫。ディーは、これまで知らなかった新しい感覚を〝識る〟だけだよ』
怖くて怖くてたまらないときは、そう言って恐怖心を拭い去ってくれて。
『それでも……初めてのことは、誰だって怖いと思うから。――不安なら、こうやって俺に、しがみついてて』
その温もりに――熱に、ディアナから触れても良いことを、教えてくれた。
――初めて知った絶頂は、聞いていた以上に己を見失う、真っ白な世界の体感で。
その高みへと到達しそうになる度、ディアナは確かなものを求めてカイを呼び、その手に背に、髪に、触れた。
途中からはもう、薬のことなどどうでも良くて。最初に宣言された通り、カイのことしか、感じられなくなって――。
『可愛いディー……俺だけに、見せて』
……あの瞬間、カイだけが、ディアナの世界の〝総て〟だった。
正直なところ、ディアナは、子どもが欲しい以外の理由で――単純に恋人同士が愛情表現として行為に及ぶ意味が、あまりよく分かっていなかった。キスやハグで充分ではないかと、そんなことを密かに思ってすらいた。
けれど……充分ではないことが、ようやく、分かる。
(愛しい思いが、溢れたら。……もっともっと、相手のことが欲しくなる。触れて欲しくて、触れたくて。――自分の〝総て〟で相手を感じたくなるし、相手の〝総て〟を自分で染めたく、なる)
カイに己の〝総て〟を預け、溢れんばかりの想いを注がれ、そうして互いの世界が交差することで、ディアナはより深く、カイの〝情〟を知ることができた。……心を許した〝唯一〟に触れられる快感は、肉体だけでなく魂の深くまで満たされる、本当に〝気持ち良い〟ものだということも。
(……だからきっと、想い合う恋人同士は、自然と深くまで触れ合いたくなるんだわ。目に見えない気持ちを、心を、確かな形で交わらせるために)
――ディアナは、幸福だった。あんなに怖かったモノを、気付けば自ら求めるほどに。
それはたぶん……ディアナに〝全て〟を与えてくれたのが、他でもない、カイだったから。
カイと触れ合うことができたから、ディアナはこの上なく、幸せでいられたのだ――。
***************
……眩しい朝の光が、目覚めの時間を知らせてくれる。
不思議なほどに満たされた気持ちで、ディアナはゆっくりと目を開けた。
「ん……」
「あ、起きた?」
すぐ近くから、聞こえた声。驚いて寝返ると、優しく微笑むカイの顔がすぐ近くにある。
「おはよ、ディー」
「おは、よう……」
「なんかゴメンね、寝床半分もらっちゃって。リタさんに、俺の分の寝台はここにはないから、寝るならディーと一緒にって言われちゃって」
「う、うん……」
カイの顔を見たことで、昨晩の記憶が一気に蘇ってくる。
――ぶわり、と顔に熱が昇り、ディアナは思わず掛布に潜り込んだ。……間違いなく、今、自分の顔は真っ赤だ。
くすくすと、顔の上で笑い声が響く。
「あー……ディーって、クスリじゃ記憶飛ばないタイプか」
「いちおう、これでも、植物毒の耐性はある方だから……」
「だよねぇ。……身体の具合、どう? 変なところとかない?」
問い掛けるカイの声には、ディアナを案じる真摯な想いが篭っていた。勝手に鼓動が早くなる胸を落ち着かせるべく深呼吸して、ディアナは自身の体調を、身体の様子を感じ取る。
「……うん、大丈夫。薬は綺麗に抜けてるし、後遺症も残ってないわ。感覚も正常に戻ってる」
「そっか……良かった」
「ありがとう、カイ。……ごめんね、色々」
潜り込んだ掛布の中で顔だけを上げ、覗き込むようにカイの様子を窺うと、思った以上に近い距離で、目が合った。
――優しいのに強引な腕が、掛布の中のディアナを引き寄せ、抱き締めてくる。
「なんで、ディーが謝るの。悪いのは、あんなタチの悪いクスリ使った奴で、ディーは被害者でしょ」
「それは、そう、だけど……結果的に、あなたには迷惑掛けちゃったし」
「迷惑なんて掛けられてないよ。あの状況で頼ってもらえない方が、よっぽど傷つく」
「で、も……」
「ん?」
「その……面倒、だったでしょ?」
薬を抜くための必要処置だと理解できているのに、未知の感覚が怖くてたまらず、幼子のように駄々を捏ねたことを覚えている。あのときは必死で、自分の状態を冷静に客観視する余裕などゼロだったが、今思い返すと……。
(世間じゃ、ああいうのを〝面倒な女〟っていうんじゃないかしら……)
嫌な顔一つせずディアナの駄々に付き合ってくれたカイは、本当に優しくて辛抱強いひとだと思う。
ふと、カイの手が動いて、ディアナの頬を撫でた。そのまま自然な動きで顔を上向けられる。
ディアナを真っ直ぐ見つめる紫紺の瞳は、恐ろしいほど真剣に光っていた。
「これだけは、声を大にして言っとくけど。そういう状態の相手を思い遣るのを『面倒』とか抜かす奴は、例外なしにクズだから。今後、そういう雑談がもし耳に入ったら、『クズが居る』で流して良いよ。――俺がディーを大事にするのを面倒がるなんて、もう二度と考えないで」
「カイ……」
「――返事は?」
「わ、かり、ました……」
「うん、よろしく」
一切揺らがないカイの瞳は、ディアナがディアナ自身を〝面倒な女〟だと思うことすら、許容してくれない。それほどまでに……カイにとってディアナが大切であることを、言葉より雄弁に知らしめてくる。
(私……このままカイに大事にされて、甘やかされ続けたら、どうなるのかしら。自分に甘いダメ人間にならなきゃ良いけど)
今だって、カイの腕に包まれ、温もりを分け合っているこの瞬間がどうしようもなく愛おしくて、カイの体温が心地良くて。「起きなきゃ」と思う気持ちと「もう少しだけ」と願う心がせめぎ合っているのだ。……どちらかといえば、「もう少しだけ」が優勢気味に。
「ディー?」
ディアナの頭を撫で、髪を梳いていたカイが、黙ってしまったディアナを気遣ってか名を呼んでくれる。……名前を呼ばれるだけで、こんなにも胸がいっぱいになる気持ちが存在することも、きっとカイと触れ合わなければ分からなかった。
腕を伸ばして、ぎゅ、とカイの背にしがみつく。
「カイ……そろそろ、起きないと」
「んー、もうちょっと良いんじゃない? 昨夜は宴だったわけだし」
「でも、もう日は昇りきってるわ」
「クレスター家の人は、貴族の人には珍しく早起きだもんねぇ。……でも、昨夜はイロイロあって疲れてるはずだし」
「つ、疲れてるってほどのことは、何も」
「そう? ああいうのって、結構体力使うよ。ディーの昨夜の状態的に、意識してないだけで疲れてると思う」
かあぁ、と全身が熱くなった。ごく普通の声音で、当たり前のように夜のことを語られるのは、思っていた以上に羞恥心が刺激される。
とてもではないがカイの顔は見られず、ディアナはカイの胸に顔を埋めた。
「それは……お見苦しい、ところを」
「お見苦しいモノなんて、一つもなかったけど? ――可愛かった、すっごく」
「!!」
耳元で、吐息混じりに。……いつもと同じようでまるで違う〝色〟の声で囁かれ、条件反射のようにディアナの身体はびくりと跳ねた。
この〝色〟は、昨晩ずっと、注がれていたもので――。
「あっ、朝に、そういうのは、よくないと思う!」
「別に、朝にヤっちゃいけないって決まりもないよ?」
「ないけど! でもやっぱり、時と場合ってあると思う!」
困るのだ。カイに昨晩の〝色〟に満ちた声で話されると、反射的にあの感覚が、身体中を駆け巡っていたその記憶まで蘇ってしまって……とても、困る。
薬の効果は綺麗に抜けて、後遺症も残っていないのに。……代わりに〝カイ〟をここまで深く刻まれてしまった。影響の深刻度でいえば、ある意味、こちらの方が勝っているのではないだろうか。
薬を抜くための処置だけで、この有様だ。……いつか、もし本当に〝その日〟が来たら――。
(……って、何考えてるの想像してるの! そんなこと考えてる場合じゃないでしょ!)
――ダメだ。やはり、このまま寝台の中でダラダラしているのは、色んな意味で危険だ。
カイの腕の中で、ディアナは大きく腕を動かした。
「決めた。起きます!」
「えぇー、寝ときなよ」
「お陰さまで、私は元気だから大丈夫。……カイは疲れてるだろうから、このまま寝台使ってても良いわよ?」
「いや、ディーが起きてるのに、俺が呑気に寝てられるわけないよね?」
やいのやいの言いつつ、二人で身体を起こしたと同時に、控えの続き部屋の扉が開いた。――いつもとまるで変わらない様子で、リタが入室してくる。
「おはようございます、ディアナ様」
「おはよう、リタ。……昨夜は色々と心配をかけて、ごめんなさい」
「心配は心配でしたが……ディアナ様の危機にカイが駆けつけないはずもないと、そこは楽観視しておりましたから」
「そう……だった、の?」
「まぁ、合ってるっちゃ合ってるけど。割とギリだったよねぇ」
「ギリでも何でも、間に合えばセーフでしょう」
あっさり言い切って、リタはカイに視線を向けた。
「カイ。適当にくすねてきた旅人風の衣装を控えの間に置いてありますので、お着替えをどうぞ。少量ですが、湯も置いてあります。その間に、こちらはディアナ様の身支度を致しますので」
「はいはい。女の人が支度する邪魔はしませんよ。――じゃ、後でね、ディー」
「えぇ、いってらっしゃい」
寝台から降りたカイは、軽く笑って寝室から出ていく。カイが寝台から降りて気付いたが、彼の服もまた、スタンザ風の男性寝衣だ。……いつもより体温が近く感じられると思っていたが、お互いの服装的に、ごく当然のことだったか。
カイが出ていくのを静かに見守っていたリタは、扉がパタンと閉まるのを確認して――。
「さて、ディアナ様。――お覚悟はよろしいですか?」
心なしか、楽しそうな笑顔で振り向いた。
「えっ……覚悟?」
「こちらにエルグランドの衣装はありません。必然的に、ディアナ様の本日のお衣装はスタンザのものとなります」
「それはもちろん、分かってるけど……?」
「――カイにお見せすることになりますが、よろしいですね?」
寝台の上で、ディアナは三度、真っ赤になった。
***************
ローブを「今更必要ないでしょう」の一言で却下され、リタが真面目な本気で選んだと分かる〝ディアナに似合うスタンザ式衣装〟をカイに褒めちぎられる一幕をどうにか乗り越えて、ディアナは居間でいつもより少し遅めの朝食の時間を迎えていた。一人で食べる食事は味気ないので、リタとカイも誘って一緒に食べる。
――恙無く食事を終え、食後のお茶を飲みながら、リタがしみじみ切り出した。
「一時はどうなることかと思いましたが、平穏無事に事態を収めることができて、ようございました」
「本当にね。あの薬の件が明るみに出れば、さすがに帝国相手に何も言わずというわけにもいかなかったし。最悪の場合、それこそ戦待ったなしだったわ」
可能性は低いと思いつつ、万一の場合を想定して中和薬を用意したのも、誰にも知られないよう必死で〝解毒〟したのも、全てはディアナへ向けられたこの〝危害〟をなかったことにするためだ。エルグランド王国の代表たる準王族が、他国で危険な毒薬を投与されたなんてことが公になれば、ディアナやジュークの意思はもはや関係なく、国として毅然とした対処を取らざるを得ない。スタンザ帝国の出方次第では、双方の国民までもを巻き込んだ泥沼へと突入することも充分に有り得る。
それを避けるには――。
「言うまでもないことだけれど……昨夜の件について、完全な真相を知っているのは、ここにいる三人だけ。昨夜のことは、エルグランド王国へも――いいえ、イフターヌへすら、持ち帰ってはならないわ」
本当の本気で、〝なかった〟ことにするしかない。
真実を闇に葬る覚悟を決めているディアナの表情をチラリと見て、カイが深々とため息をつく。
「ディーならそう言うんだろうなって分かってたし、そうするしかないことも分かるけどね。相変わらず人が好すぎるというか、終わり良ければ精神が過ぎるというか」
「まぁそりゃ、あんなモノを使われたことへの腹立たしさとか、そういうのがないわけじゃないけども」
ローブに染み込んだランラの香り成分と、アルコール度数七十パーセントまで高めたチューリ酒の融合によって生まれた〝劇薬〟――それが染み込んだ危険物と化した昨晩のディアナの衣装一式は、今も中途半端な中和薬に漬け込まれたまま、居間の隅に鎮座している。朝食を終えたら然るべき処置をしなければ、第二、第三の被害者を生み出しかねない。
いちおうリタが朝食の準備をしてくれている間に、昨晩の薬がどういう類のモノであったかについては、カイにざっと説明してある。話を聞いた彼は、「ディーだったから良かったものの……そんなクスリを使おうとするなんて、人間の所業じゃないね」とはっきり顔をしかめていた。
「ディーの様子見ただけで、タチの悪いクスリ使われたなってことは分かったけどさ。さすがに、あの状態が中和薬でまだ〝マシ〟になってたとまでは思わなかったよ。てか、本当に中和するなら、ミシとシッピロと、咲いたペッラを煮詰めた煎じ薬使うんだっけ? ミシもシッピロもそこそこ強い効果あるのに、それを更にペッラで高めなきゃ〝中和〟できないとか、ヤバさの度合いダントツじゃん」
「えぇ。あの薬の危険度については、どこかで時間を取ってきちんと伝えておかないと……」
「それもあるけど。俺が気になってるのは、そんなヤバいブツを誰が、何の目的で使ったのか、だよ」
本題に切り込んでいくカイの瞳は鋭い。……当たり前のことではあるが、彼はかなり怒っているらしい。
ディアナは一つ頷き、確認のため、リタの方を向いた。
「……昨晩、殿下がいらしたことは、何となく覚えているけれど。結局のところ、殿下のお考えではなかったのよね?」
「そうですね。あの様子から拝察するに、少なくとも皇子殿下が〝主犯〟でいらっしゃる可能性は、限りなく低いかと」
「と、いうことは……周囲の独断、かしら?」
「私もそう思います。皇子殿下ではなく、周囲のどなたかが〝皇子殿下の御為に〟とディアナ様への投薬を企てた可能性が高いかと」
静かに怒っているカイに余計な燃料を与えぬためか、リタにしては珍しくボカした回答であったものの、抜群に勘働きの良いカイにはあまり意味がない。
うっすらと笑って、カイは呟く。
「なぁるほど? となると、妥当なセンとしてはあの側近さん……サンバさん、だっけ? その辺りかな」
「まぁ……可能性として、最も高くはありますね」
「だよね。雰囲気見る感じ、皇子サマへの忠義心と信頼関係も厚そうだったし。単に義務感だけって風でもなかったからね」
「……はい。殿下を思うがあまり、想い人であるディアナ様を何としても得て頂きたいと思い詰め、薬の投与を決断したという可能性は存分にあるかと」
「…………ホンット、勝手」
リタがいるにも拘らず、ここまで怒りの感情を昂らせているカイは、実のところとても珍しい。ディアナは少し苦笑して、昨日、ピピと一緒に摘んでいた精神安定効果のある花の花弁を、そっとカイのカップに散らした。
立ちのぼる香りにふっと目元を和らげたカイの手を、ゆっくりと握って。
「私も、そう思う。勝手だし……的外れよね」
「ディー……」
「身体が得る感覚と、心が繋がる悦びは別だ、って。こうなったからこそ、私は知ることができた。……あなたが教えてくれたからこそ、分かったの」
「……うん」
遠回しに伝えた〝もう大丈夫〟は、確かに伝わったようだ。カイは滅多なことでは怒らないけれど、その分、本気で怒ったときの迫力は凄い。……というか、ディアナの周りは基本、本気で怒らせてはいけない人ばかりである。その分、宥め方のバリエーションも豊富にはなったけれど。
纏う空気が柔らかくなったカイに、ディアナはふわりと微笑む。
「ありがとう、カイ。あなたのお陰で、今の私には分かる。薬で一時、相手の身体を得ても、真の意味でそのひと自身を〝得る〟ことはできないって」
「……そう、だね」
「心が伴わなきゃ……ああいうのって、ただただ虚しい。虚しくて――心はきっと、永遠に喪われる」
気付けばポツリと零していた呟きに……カイがゆっくりと、手を握り返してきた。
「……うん。俺も、そう思う。本当に大事なひとに、そんなことは死んでもできない」
視線を交わし、互いに頷いてから、握っていた手を同時に離す。
――そんな自分たちの様子を静かに見守っていたリタが、ひとまず怒りを引っ込めてお茶を飲むカイに苦笑しつつ口を開いた。
「まぁ……真面目な話、こういう事柄の〝常識〟はお国柄によってがらりと変わりますからね。スタンザ帝国は貞操に厳しい分、〝身体を手に入れる〟とは即ち〝その人自身を手に入れる〟という概念が強いのでしょう」
「エルグランド王国じゃ、考えられないわよね。――側室に上がるとかならともかく、未婚の男女の貞操が問題視されるってあんまり聞かないもの」
「結婚するまでは処女で……って、今もかろうじて生き残ってはいますが、古びた価値観であることは確かですからね」
「そうね。全盛期はお祖母様の時代くらいかしら?」
相槌を打って、ディアナは息を吐く。
「……サンバさんが〝首謀者〟で、スタンザ帝国の価値観に沿って殿下と私をくっつけようとしたのだと仮定しましょう。――結果的に彼の謀は失敗に終わったわけだけど、次の手を打ってくる可能性はあるかしら?」
「その辺りは……正直、読みづらいですね。カイの存在が、皇子殿下と彼に、どのような心境の変化をもたらすか――」
――そう。エクシーガはこれまでずっと、ディアナの〝想い人〟はジュークだと思い込んでいた。そのジュークがシェイラと想いを通わせていて、ディアナはいわばお飾りの〝正妃〟として蔑ろにされていると思えばこそ、エクシーガは義憤に駆られ、ディアナをエルグランド王国から離そうとしてきたのだ。
その、そもそもの大前提が間違っていることが……おそらく昨晩、ついに、バレた。
「……俺はあのとき一声も発してないから、すぐに皇子サマが俺と『侍女カリン』を結びつける可能性は、限りなくゼロに近いけどね。てかそもそも、あの皇子サマ、こっちの侍女の個別認識できてないでしょ。スタンザの階級制度ってかなり厳格で、それぞれの身分でかっちり分けられてるから、まず自分と違う身分の人を同じ〝人間〟だと思ってない。――必然的に、侍女のことは〝使用人〟って記号でしか見られない。これは別に皇子サマだけに限った話じゃないけどさ。視線の質考えたら、まだエルグランド王国の出立式でジロジロ見られてたときの方が、同じ〝人間〟扱いされてたよ」
「あぁ、確かにそうですね。私はまだスタンザ語が話せますから、他の皆さんよりは個別認識されていますけれど、それだってせいぜい『スタンザ語が話せる唯一の侍女』程度です」
「……それもまた、身分制度の弊害といえば弊害なのかしらね」
支配階級の中でエクシーガだけが足元の危うさに気付いたところで、現状のままなら焼け石に水だ。……どうにか、考えている〝策〟が上手く嵌れば良いのだが。
――それはともかく。
「カイと『カリン』が同一人物だとは分からないにしても、私が陛下じゃない〝誰か〟を求めたってことは、ほぼ確実にバレたわけでしょ。……その場合、あちら側の反応はどんな可能性が考えられるかしら?」
「そーだねぇ……よくあるのは、『騙したな!』って逆ギレ?」
「ディアナ様は殿下の勘違いを訂正なさらなかっただけで、嘘は一言もついていらっしゃいませんので、そうなった場合は正しく逆ギレですね」
「確かに……でも、殿下の性格的に、そんな短慮な反応は想像しづらいわね」
「ディアナ様が正しく〝満たされて〟おいでだと察して、身を引いてくだされば一番良いのですが……」
「うーん……そこまで物分かり良さそうでもないんだよなぁ」
「仮に殿下が身を引かれたとしても、サンバさんはまた違った考えを持っているでしょうし……」
結論としては、〝予測不能〟ということになるのだろう。……人の心など、本来は推し量ることがそもそも傲慢で、不可能なのかもしれない。
「……エルグランドにいらしたときと今とでは、殿下の心境にも多少の変化はあるでしょう。足元の炎に気が付かれた殿下は、エルグランド王国の内実を知ったところで、それを利用して攻め入る余裕が今のスタンザ帝国に無いことくらい、もう理解していらっしゃるわ。――そういう意味では、知られたのが殿下で良かったともいえる」
「ま、それは確かに。もともとシェイラさんのこと隠してたのだって、スタンザ帝国にエルグランド王国の弱みや真実を見せたら、どんな風に利用されるか分かったもんじゃないって警戒からだったもんね。あの皇子サマが『戦なんかしてる場合じゃない』って気付いたなら、別にその辺を隠す必要はなくなるか」
「と、いうことは……今後はもう、曖昧な応対はせずに済みますね」
「少なくとも、殿下に対しては、ね。……無計画甚だしいけれど、あちらの出方を想定し切れない以上、臨機応変に対処していくしかないわ」
「臨機応変も悪いばっかりじゃないよ。――あ、噂をすれば、だ」
カイの視線が扉の向こう側を指す。こちらへと近づいてくるエクシーガの気配を察知したらしい。
手早くテーブルの上を片付け、カイが気配を消して寝室へと隠れ、ディアナがローブを羽織ったところで、実にタイミング良くノックの音がした。
《……姫、私です。入室許可を頂けますでしょうか》
《――はい、どうぞ》
皇子自らが入室許可を問うなど、なかなかない状況である。ひとまず頷けば、かたりと扉が開いて……エクシーガが一人で部屋へと入ってくる。
《おはようございます、姫》
《おはようございます、殿下。昨晩はお疲れ様でした》
《いえ……こちらこそ、使用人の無作法により、姫にはご迷惑をお掛け致しました。随分と強い酒だったようですが――どこか、お体の不調などはございませんか?》
《はい、ご覧の通り。わたくし、お酒はそれなりに呑める方ですので、ご心配には及びませんわ》
実に貴族らしく遠回しに、互いの真意を伝え合う。昨夜の薬の一件は〝なかったこと〟にするというディアナの宣言に、エクシーガは目を丸くしてから俯いた。
《姫は本当に、懐深くいらっしゃる……。あのような無作法、決して許されるものではないというのに》
《殿下も、関係者の皆様方も、あまり気に病まれませんよう。……誰にでも、失敗や間違いはあるものです。一度の無作法で、これまで築き上げてきたもの全てを失うことはありません》
誰の処罰も望んではいない――暗にそう告げたディアナを、エクシーガは静かに見つめて。
《姫は……本当に、それでよろしいのですか?》
《大袈裟に騒ぎ立てるようなことでもございませんでしょう? お酒の壺をひっくり返しそうになることくらい、誰だって経験します。昨夜はたまたまバルルーンのご隠居様が壺の先にいらっしゃいましたゆえ、危険な状態になりかけただけで……それも未然に防げましたもの》
《その代わり、姫が大量の酒を浴びることになりました》
《えぇ。――お酒を被ったのがわたくしで良かった。わたくしは酒に弱い体質ではありませんし、……あのお酒を浴びたからといって、特に不都合なことは〝何もなかった〟わけですから》
ふわりと、笑う。上辺だけでなく本心から――誰を恨んでも、憎んでもいないと伝わるように。
しばらくの間、無言のうちの応酬が続き……やがて、エクシーガは大きな息を吐き出した。
《姫の寛大なお心に、感謝致します。……正直なところ、私も〝彼〟を永遠に失うことは辛い。誰よりも信頼のおける、大切な配下ゆえ》
《分かりますわ。――どうか、無闇に〝無作法〟をお責めになることなく、その真意を大切になさってください。すれ違いは、より深い相互理解を得る好機でもあります》
《お言葉、胸に刻みます》
……どうやらエクシーガは、敢えて一人でディアナの様子を窺い、状況に応じてどうにかサンバの助命を請おうとしていたらしい。ディアナがあの〝劇薬〟をまともに浴びて廃人状態になっていたら、助命どころかサンバの首一つで収まる事態でもなくなるわけだが。
(……どうやら、薬を使った張本人も、この薬の効果をきちんと理解していたわけではなさそうね)
伝聞か、古い本にでも載っていたか。おそらくは、そんな類だろう。
効果を知らないまま使うには危険が過ぎる薬なので、帰国する前にその辺はきっちり、本人とエクシーガに伝えておく必要がありそうだ。
――そう。予定では、もう明後日か明々後日には、『エルグランド王国国使団』はその役割を終え、帰国の途につく。……あまり、時間は残されていない。
《――ところで、姫》
不意にエクシーガが、声色を変えて切り出した。
《昨晩の宴でお疲れのところ、誠に申し訳ないのですが。……明け方、イフターヌの皇宮殿より、急な早馬が参りまして》
《まぁ》
《何でも皇宮殿にて、一大事があった模様です。『国使殿をお連れし、急ぎ皇宮殿へと戻るように』とのことでした》
《そうなのですね……承知致しました。すぐに、出立の用意を致します》
《重ね重ね、お心遣い痛み入ります。――馬車の用意ができましたら、またお知らせ致しますので》
《かしこまりました、殿下》
エルグランド式に一礼し、ディアナはエクシーガを見送った。扉が閉まり、彼の気配が遠ざかるのを待って……くるりと、体の向きを反転させる。
「作戦、上手くいったのかしら?」
「タイミング的に、その可能性は高そうだね」
寝室から出てきたカイが、心得た様子で頷いた。リタも大きく首肯する。
「皇宮殿へと戻れば、はっきりすることでしょう。――急ぎ、用意を」
「といっても、身一つでここへ来た私たちがする用意なんて無いも同然だけれどね。馬車待ちの時間を利用して、そこの危険物だけ、さっさと片付けちゃいましょうか」
にわかに慌しくなった室内で、戦況が新たな局面へと移り変わっていることを、ディアナはひしひしと感じ取るのであった――。
前話にて、たくさんのご感想をありがとうございました。全て大切に読ませて頂いております。
Twitterで軽くネタにしましたが、最近、カイの株が急上昇に次ぐ急上昇で、私の中の黒獅子さんが、カイを褒めてくださるコメントを読むたびニッコニコしてましてですね……お礼を言わせろとあんまり喧しいので、そのうちTwitterさんにでも小ネタとして落ちてくると思います。(息子溺愛パパがひたすら息子自慢してるだけになるかと思われますので、スルーして頂いて全然全く構いませんよ!)




