絡まり合うそれぞれの思惑(いと)
すみません、今回誤字脱字チェック不充分です。
読みづらい箇所等あるかもしれません、またお知らせ頂ければありがたいです!
……人生とは、ときに思いもよらないことが起こるものだ。怒涛の展開だった昨日を思い返し、ディアナはしみじみ、そう感じていた。
自身の中でずっと閉じ込めていた恋愛感情(恋愛感情!)を自覚してしまった次の瞬間、その想いを向けている相手からの怒涛の告白。……いやうん、告白と言いつつ、考えてみればお互い、恋愛小説における定番の台詞である「好き」も「愛してる」も使わなかったので、恋愛小説マニアからすれば「昨日のあのシーンは告白とはいえない」と物言いが入るかもしれないけれど。
(……でもなんか、分かり易い言葉を使っちゃうと、自分が止められなくなりそうだったのよね)
「カイが欲しい」と言葉に出すことすら、「恋」という単語を口にすることすら、あそこまで混乱して、冷静さを落っことして、完全に自分を見失った状態でなければ不可能だっただろう。――誰かを自分自身の身勝手な欲望で求めることは、それだけ、ディアナにとってハードルが高いのだ。
(普段は特に意識もしないけど、こういうとき、自分が貴族で、『クレスター』の人間なんだなって自覚する……)
たとえば、ディアナが平民身分だったら。……そして、カイがあれほど優しくて、ディアナの事情ばかりを尊重して、自分のことは後回しにも程があるような性格じゃなかったら。もう少し、この感情の扱い方は違ったかもしれない。
近年かなりマシになったとはいえ、それでもまだ、エルグランド王国における貴族と平民の身分差は歴然としている。よほど財力があるなら話は別だが、基本的に貴族の要望を平民は断れない。だからこそ、代々のクレスター伯爵は、よほどのことがない限り民に助力を請うことも、要望を告げることもして来なかった。
「俺たちがどれだけ民の目線に降りたとしても、そもそも〝降りる〟ことでしか同じモノを見られない以上、どうしたって立場の差は存在する。領民たちは気易く接してくれるが、決してそれには甘えるな。同じ平民同士なら単なる〝お願い〟に過ぎないようなことでも、俺たちが言えば絶対逆らえない〝命令〟になるってことを忘れてはならない」――幼い頃からデュアリスに言い聞かせられてきた、貴族としての心得だ。
カイがもし、ディアナのことを特に何とも思っていなかったとしても。ディアナの気持ちを知ってしまったら、身分の違いから無碍にはできないのだ。あれだけ優しい人なら尚更に、自分の感情よりディアナを優先してしまうと思えばこそ、カイ自身の心と自由を守るには〝恋〟を封じるほかないと、無意識のうちに考えてしまったのだろう。
(……まぁ、身分違い云々に関しては、落ち着いてからカイと、あとリタにも笑われたけど)
「いやいやディー、どんだけ俺のこと美化してるの」
「此奴なら、どうでも良いご令嬢から想いを寄せられるなんてヘマはそもそも冒さないでしょうし、万一そんな事態になったなら、ご令嬢が血迷った真似をなさる前にさっさと逃げますよ。身分の違いから断れず、好きでもないご令嬢とお付き合いするなんて殊勝でお優しい振る舞いは、まず選択しないかと」
「そうだね。そもそも俺、自分のこと正規のエルグランド人だと思ってないから、あの国の貴族とか王族への敬意も遠慮も忖度も持ち合わせてない。誰を尊敬するか、尊重するか――優先するかは、最初から全部そのひとだけを見て、勝手に、自由に決めてるよ」
言外に、ディアナに優しくしているのは身分に配慮したからではないと、ディアナ自身がカイにとって優しくしたい存在なのだと告げられては、赤面しないでいるのは難しかった。「気持ちを抑えていた」と言ったカイは、ディアナと二人きりのときや、信頼できる人しか近くに居ない場合に限って抑えることを止めたらしく……自身に向く好意に鈍いと定評のあるディアナでも感じ取れる程度には、言動が甘い。
そんな自分たちを、リタがどこか呆れたような、それ以上に安堵した表情で、優しく穏やかに見つめてくれていた。
「一時はどうなることかと思いましたが、収まるべきところに収まってくださり、本当にようございました」
「……リタは、反対も、驚きもしないのね?」
「お二人が惹かれ合っておいでなのは、傍で拝見すれば自ずと分かることですから。カイがディアナ様にとって害となるような男なら反対しますが、そうでないことは明らかですし。驚くような展開でも、反対する理由もございませんよ」
「……俺の気持ちはダダ漏れだったと思うけど、ディーも?」
「あなたも、お相手限定で変に鈍いですね。……いえ、鈍いというよりは〝好いた相手に同じ気持ちを返してもらえる〟なんて幸福が自分の身に起こるとは考えていなかった、といったところでしょうか」
「あ、それちょっと分かるかも。カイって他人のことはよく見てるし、大事な人を幸福にすることは躊躇わないけど、自分の幸せには変に無頓着というか、あんまり興味向けてない感じがするのよね」
「……それ、ディーにだけは言われたくないかも。自分の幸せ後回しにするのはディーだって一緒でしょ」
「私は後回しにしてるだけで、いつかは幸せになりたいと思ってるわよ?」
「だったら、俺だってそうだよ。……てかぶっちゃけ、ディーに逢うまで俺、父さん以外にここまで大事に想えるひとができるなんて思ってなくて。自分の全部賭けても惜しくないどころか本望とまで感じられるひとと巡り逢えるって、それだけで結構な幸せだって実感してたから、〝それ以上〟を求めるって発想がなかったよね、たぶん」
「普段は遠慮も容赦もないくせに、肝心な部分で随分と慎み深いですね……」
「うん。おんなじこと、シリウスさんにも言われたことある。――ま、そんな偉そうなことを言いつつ、割と頻繁に欲しい気持ちは湧いてたよ。求めるつもりないのに欲望は際限ないって、自分で言ってて意味不明だけど」
「ううん、分かる。……分かったわ、やっと」
本で読んでいるだけでは、人から話を聞くだけでは、「へぇ、そういうものなのか」という知識に過ぎなかった感情が、自分の中ではっきりとした形となった今、実感として理解できる。ときに理性と反して衝動的に動いてしまう、後から振り返れば「何であんなことをしたんだろう」と恥ずかしくなるような振る舞いをしてしまう、そういった矛盾に満ちた感情が〝恋〟、なのだと。
――カイと、リタと穏やかに過ごした昨日を思い返しつつ、滅多にないことながら寝台の上でうつらうつらしていると、寝室の外からリタの声が聞こえてきた。
「ディアナ様。お休みのところ申し訳ありません」
「ん……。大丈夫、起きてるわ」
いつもの起床時間はとっくに過ぎているのだ。むしろ、今まで起こされなかった方がイレギュラーである。
身を起こし、見苦しくないように衣服を整えたところで、タイミングを見計らっていたらしいリタが入室してきた。
「おはようございます、ディアナ様」
「おはよう。……寝坊しちゃったわね、ごめんなさい」
「特に何か用事があるわけでもないですし、たまには良いでしょう。……昨夜は随分と遅いお帰りだったようですし」
「そっ、そこまで遅くはなかったはず……たぶん」
「まぁ、お帰りの時間が早くても遅くても、眠りが浅ければ同じことですね」
「…………わか、る?」
「顔色はよろしいようですが、寝不足でいらっしゃることは何となく。――昨日はディアナ様にとって激動の一日だったことでしょうから、無理もありませんが」
……こういう場面では、揶揄われるより真面目に労られる方が、どうやら恥ずかしいものらしい。せっかく出てきた寝台へ逆戻りしたい羞恥心に駆られつつ、ディアナはリタが持ってきてくれた、スタンザ式衣装の中でもまだ露出が少ないものを大人しく着る。衣装の上からローブを纏って一息つくと(エルグランド人であるディアナはさすがに、いくらリタしか居ない室内とはいえスタンザ式衣装だけで過ごすのは心許なく感じてしまう)、リタがモーニングティーを運んできてくれた。
「寝室でお茶を飲むのはお行儀が悪いですが、少しでもゆったりとできる方が、ディアナ様も落ち着かれるかと思いまして」
「……ありがとう。いただきます」
ほのかに甘く、柔らかな口当たりのハーブティーだ。モーニングティーより、どちらかといえばナイトティーに出される方が多いお茶ではあるけれど。
「……それで、昨晩のカイとのデートは、楽しまれましたか?」
「――っ」
質問するタイミングは考えてくれていたらしく、お茶を吹き出しこそしなかったけれど、ティーカップを持っていたことに変わりはないので、危うく美味しいハーブティーを盛大に溢して無駄にするところだった。意識して深呼吸し、ディアナはカップをそっと皿に戻す。
「……デートじゃ、ないから。ちょっと気になることがあって、一緒にヒーリー草原へ行ってもらっただけ。遊びに行ったわけじゃないし、アレはデートとは言わない」
「ですが、ヒーリー草原とはスタンザ帝国内でも一二を争うほど、素晴らしい景観なのでしょう? そのような場所へ、夜、二人きりで出向かれるというのは、充分にロマンチックなデートの条件を満たしているのでは?」
「条件を満たしてても、ちゃんと真面目な用事があっての外出だったんだから、デートじゃないでしょ。時間帯が夜になったのだって、日が沈んでからじゃないと人目を避けて動くのが難しいっていう理由あってのことで、別にロマンチックな雰囲気を求めてのことじゃないし」
「なるほど。では、特にそういったロマンチックな雰囲気にはならなかったと?」
「…………ならなかった、とも言えないけど」
……正直に言うならば、昨晩のカイは最初から最後までとろっとろの蜂蜜のようだったというか、彼の言うところの「抑えるのを止めた」状態だったので、うっかり外出の目的を忘れそうになる程度には〝ロマンチックな雰囲気〟ではあった。本人が申告するところによると、「こんな風に誰かを想うのはディーが初めて」らしいけれど、それはディアナとて言うまでもなく同じだけれども、なら何故彼はあんなに落ち着いていて余裕があるのか、ちょっと真面目に問うてみたい。昨日からディアナは、カイの一挙手一投足に振り回されっぱなしだ。
「まぁ、ディアナ様のお考えはともかく、二人きりで夜に出掛けることになった時点で、彼奴の中ではデートという認識でしょうから、どう足掻いてもロマンチックな雰囲気にはなるでしょうね」
「……やっぱり?」
「お気持ちのズレが不快であったり不安に感じられるようなら、早いうちに告げておいた方が良いですよ」
「違うの。……不快とか、不安とか、そんなことはなくて。ただただ、困るの」
「困る、とは?」
「色々と、ね……ただでさえ重い気持ちなのに、これ以上重くなったらどうしよう、とか」
「それ、困るのはディアナ様だけで、アレは間違いなく喜ぶだけ喜んで終わりますね」
「それも、困る……カイって本当、私に甘過ぎるわ」
カイの醸し出す雰囲気に流されないよう頑張って、気になっていたことを確認して。とはいえ細かいところまでは分からなかったので、それは直接カイが現地へ行って調べてくれることになった。その打ち合わせをし、一人で帰れるというディアナの言葉をスルーしてカイが離宮まで送ってくれ、寝室へ入るまでを見届けてくれて――最後の最後に柔らかく抱き寄せられ、「おやすみ」の言葉とともに頭のてっぺんに口付けを落とされてしまったら、うっすらあった眠気など一瞬で空の彼方へ消え去ってしまう。かろうじて寝衣に着替えるだけの判断能力は残っていたけれど、着替えて寝台へ潜り込んだところで、穏やかな眠りなど訪れるわけがない。
(あんな風に、まるで宝物を扱うみたいに、大事に、大切に、されたら。あんな優しい、なのに熱を隠さなくなった瞳で、四六時中見つめられたら。何だか、自分がとても上等で、素晴らしいものになったみたいに、錯覚してしまう。錯覚して……ますます、カイに溺れてしまう)
以前、どうしてもカイの温もりが欲しくて、カイでなければ耐えられなくて、かなりの我儘をぶつけたことがあったけれど。あのとき、カイにあんな風に触れられて、慈しまれて、それで安心して深い眠りに落ちることができた自分の心理状態が理解できない。……カイへ向けるこの感情の正体に気付いてしまった今ではもう、絶対に無理だ。触れられるだけ心臓が早鐘を打って、眠るどころか覚醒状態へと導かれてしまうだろう。
「――良いのではありませんか?」
ディアナの困惑を見透かしたかの如く、リタが軽やかに笑う。
「ディアナ様は少々、ご自身に対して厳し過ぎるところがおありですから。ディアナ様がご自身に厳しい分カイが甘やかしているのだと考えれば、釣り合いは取れているのでしょう。――どうしてもそれでお困りなら、カイがディアナ様を甘やかす分、ディアナ様もカイを甘やかせばよろしいのでは?」
「カイを、甘やかす……? どんな風に?」
「難しくお考えにならなくても、ディアナ様がカイにしたいこと、カイのためにできると思われたことを、素直に行動に移されれば良いですよ」
「そんなので良いの?」
「はい。賭けても良いですが、カイもディアナ様を意図的に甘やかしているわけではなく、単に自分がしたいように接しているだけでしょうからね」
「えっ、無自覚ってこと? 無自覚でアレって怖過ぎない? 無自覚であのレベルってことは、あのひとが自覚して色仕掛けしたらどうなるの……?」
「歴史に名を残す傾城の色男になるか、逆にとんでもない大根か、そのどちらかでしょうねぇ。個人的には後者な気しかしませんが」
「どうして分かるの?」
「……ディアナ様、天然は天然だから怖いんですよ?」
リタの言葉は抽象的ではあったが、何故か世の真理のような気もして、気付けばディアナはコクリと頷いていた。……いずれにせよ、もらいっぱなしというのもディアナの性に合わないので、何かカイのためにできることがあるなら、積極的にしていきたいとは思う。
(まずは……そうね、取り急ぎは後宮に残ってくれているみんなと、エルグランド王国に帰ってからはお父様、お母様、お兄様と、あとクレスターの皆と……他の方々はお父様に相談してからになるとは思うけど、できるなら早い段階で、カイとのことを伝えたい)
ディアナの『紅薔薇』という立場上、恋人なんて言葉は間違っても使えないけれど……信頼できる友人たちにくらい、〝死ぬまで一緒にいると約束したひと〟だと話して、万一ディアナに何かあったとき、国から簡単に切り捨てられない立場を非公式でも確立させておきたい。
それに何より、もっと単純な心情として――。
(カイに対しても、皆に対しても、嘘はつきたくない。この感情が側室として不義理なものであるなら、その不義理に対して誠実でありたい。――『下賜制度』を持ち帰るのなら尚更、私自身が側室の恋心を否定するのは間違ってる)
……厳密には、〝カイのためにしたいこと〟とは少しズレているのかもしれないけれど、それでも今ディアナがしたいと、するべきだと思うことは揺らがない。大切な家族、信じる仲間には、きちんと自分の気持ちを打ち明けたいのだ。
――沈黙してカップを口に運ぶディアナを、リタが静かに見守る。穏やかな静寂が室内を満たしたところで、正扉の前から《失礼致します》と声が掛けられた。少し前から気配を察していたらしいリタが、即座に動いて対応に出ていく。
《おはようございます。何かご用でしょうか?》
《おはようございます。朝からお騒がせしまして、申し訳ありません。――皇子殿下のお託けを、預かって参りました。お渡ししたいものもあるのですが、入室の許可を頂けますでしょうか?》
《少々お待ちください。主に確認して参ります》
確認するまでもなく声はよく聞こえる。……正直、エクシーガとはヒーリー草原でかなり気まずい別れ方をしたので、どんな託けであれ、対応は非常に難しい。が、こちらが客である以上、追い返すのも礼儀に反する振る舞いだ。
やってきたリタに無言で頷くと、リタもしょうがないと達観した風で、《主の許しがでました。どうぞご入室ください》と告げる。
《ありがとうございます。こちら、皇子殿下から預かりましたお託けの文と、贈り物にございます》
《……お心遣い、痛み入ります》
《いえ。朝早くから、失礼を致しました》
相手は本当に、長居する気はなかったらしい。用件だけを告げて、渡すものだけ渡して、そのまま部屋を去っていった。気配が遠ざかったのを確認して、ディアナはそうっと寝室から出る。
「何だったの……」
「さぁ……取り敢えず、文とこちらの箱を届けにいらしたようですが」
「……文から読むわ」
ディアナが国使でエクシーガがスタンザ帝国との橋渡し役である以上、どれだけ個人的に気まずかろうと、避けて通ることはできないのだ。感情は感情として割り切り、冷静に仕事上のお付き合いを続けるしかない。
そう覚悟を決めて、文を開くと――。
「……ん?」
「どうかなさいましたか?」
「なんか……業務連絡、っぽい?」
「は?」
『本日の日暮れより、近隣に住まう名家の者をこの宮殿へお招きし、小規模な宴を開く予定となっております。エルグランド王国国使として、ぜひご出席ください。国使としていらした以上、イフターヌの民だけでなく、皇宮殿である程度発言権のある方々との繋がりを得てご帰国なされば、エルグランド王にも良い手土産となりましょう』
文に書かれていたのはこれだけだ。昨日の一件を感じさせない、実に簡素な内容である。……考えてみれば気まずいのは向こうも同じ、ここはお互い、昨日の件には触れないようにして粛々と仕事を遂行するのが無難と判断したわけか。
ディアナから文を受け取って読んだリタも、安心したようなどこか釈然としないような、微妙な表情を浮かべている。
「この文章を見る限り、ディアナ様のことは諦めて、エルグランド王国へきちんと帰してくださるお気持ちになられているようですから、ひとまずは良かった……ですかね?」
「そうね。そこは素直に喜んでおくべきかも」
「と、いうことは、こちらのお箱は――あぁ、やはり」
平べったい箱の中に鎮座していたのは、植物性の糸で織られた、装飾の美しいローブだった。全体的に紅く、裾やフード周りは刺繍や色石で彩られている。シンプルなスタンザ式のローブを華やかなエルグランドのドレス風にした感じだろうか。フードには顔を隠す覆いもついていて、完全に着込めばイフターヌで外を歩いている女性たちと同じく、目しか出ない仕様となっている。
ディアナはローブをまじまじと観察して、一つ頷いた。
「華やかな宴に、装飾のないローブは場違い。かといってエルグランド王の側室である私を、王の許しなく男性客の前に晒すわけにはいかない。ならば、ローブを宴仕様にすれば良い――うん、実に合理的ね」
「ご出席なさるのですか? こちらをお召しになって?」
「だってリタ、このローブすっごくお金がかかってるわよ? わたくしがスタンザへ来てから仕立てたのだろうし、かなり大変だったはず。……殿下のお心遣いでもあるし、無碍にはできないわ」
「国使という立場も面倒ですねぇ……」
ため息をつきつつ、リタが箱からローブを取り出す。――瞬間、甘い香りがふわりと立ち上った。
「これは……香水、でしょうか?」
「えぇと……ちょっと待って」
ローブに触れ、香りのもとを探る。植物であれば、特定は容易だ。
それに、この香りはどこかで――。
「――誘惑の花、ランラ」
「……この香りの正体、ですか?」
「後宮の女性たちが、好んでつけていた香りだわ。……彼女たちの香水はこれよりもっと控えめで、落ち着いた感じに調香されていたけれど」
「こちらは、調香なしで?」
「えぇ。生花から香りの成分を抽出して、ローブに染み込ませたみたいね。ランラはもともと、とても香りの強い花なの。オアシスにのみ咲く花で、その香りで生き物を呼び寄せ、受粉の手伝いをさせる。そこから、女性がランラの香りを身につけると魅力が増し、男性を惹き付けることができると言われているわ」
「随分とお詳しいですが、どこでそんな知識を?」
「以前、イフターヌの大学で、植物学棟へお邪魔したときにね。スタンザ帝国にしか咲かない植物には、単純に興味があったから。知識としては知っていても、実物を見たことがなければ、こんな風に気配から正体を掴むこともできないし」
「なるほど……」
ディアナの話を聞いたリタは、一気に険しい表情となっている。
「そんな花の香りをローブに染み込ませるなど……いったい、皇子殿下は何をお考えなのでしょう?」
「スタンザじゃ、ローブや服に香水をつけるのは普通のことみたいだし。ランラの香りそのものも、後宮じゃごく一般的なものだし。普通に慣習なのかもしれないわ」
「ですが、女性が男性を誘惑するときに纏う香りなのでしょう? そんなものをつけたローブなんて、招待客とやらにディアナ様を襲わせようとしているようなものではないですか。まさか、フラれた腹いせに……」
「その可能性もあるけど、この香り、かなりしっかりついちゃってるから、一度洗濯したくらいじゃ取れないわ。ローブの装飾が繊細すぎて、香りを飛ばすような洗濯をしたら着られなくなっちゃうし」
「それはそうですが……」
「大丈夫よ。宴は夜でしょう? それまでに風通しの良いところに干しておけば、かなり香りは飛ばせると思う。――それに、ランラの香りが誘惑に使えるっていうのはあくまでも生き物を呼び寄せる姿から言われているだけで、実際、ランラの薬効に魅力を高めたり相手を誘惑できる要素なんてないしね」
(ただ……懸念が全くないわけでも、ないけど)
ランラは、単体であればただの香りの強い花でしかない。
しかし、ランラの特に香りが強い成分と、その他二つの要素が重なったとき……ある意味、どんな毒よりもタチの悪い劇薬へと変貌する素質を秘めているのだ。
スタンザで、その〝劇薬〟がどの程度知られているのかまでは不明だが――。
(念のため――)
目を閉じ、緑の〝声〟を聞いて。
――ディアナは静かに、目を開ける。
「――リタ。厨房に朝食をお願いして。食事が済んだら、少し出かけましょう」
「承知致しました。して、どちらへ?」
「この離宮からヒーリー草原へ向かう途中に、小さな泉を囲む雑木林があるの。そこなら……」
「……ディアナ様?」
「……もどかしいわね。こんな薬、後宮に戻ってエルグランドから持ってきた薬草を調合すれば、すぐに作れるのに。今からイフターヌへ発っても、さすがに日暮れまでには戻れないわ」
「何を……」
「――ごめんなさい、大丈夫。あくまでも念のためなんだから、そこまで完璧なものを作る必要もないわよね。あんまり構えすぎるのも、エクシーガ皇子に失礼だし」
そうだ。世の中何が起こるか分からないから〝念のため〟に備えるだけで、ランラが〝劇薬〟に化ける可能性は、現状、限りなく低い。
頭を振って嫌な予感を追い払い、ディアナはリタへ笑いかけた。
「さ、リタ。まずは朝食にしましょう」
「……かしこまりました。ディアナ様、行きすがらきちんと、お考えをお聞かせくださいね」
「分かったわ」
頷いて、ディアナは何事も起こらないことを祈り、スタンザの空を見上げるのであった。
前話に頂いたご感想で、どなたもディアナさんを心配しないどころか、むしろエクシーガを心配する声に溢れてて、「何だかんだ愛されてるじゃないか皇子……」とちょっと安心した作者です。
エクシーガ、私も嫌いじゃないんですよね。むしろ好きです。




