虹の草原に抱かれて
タイトル詐欺再び、な回です。
全編エクシーガ視点となっております。
煌く朝の光が、草原を色鮮やかに美しく輝かせている。
「――姫。こちらがスタンザで最も美しいと評判の、ヒーリー草原です」
ディアナと二人きりで馬を並べ、己の領地の中でもずば抜けて美麗な景観の土地を眺めながら、エクシーガは高揚する気持ちを抑えきれずにいた。
***************
スタンザ帝国へ帰還してからのエクシーガは、おそらく人生で最も忙しい日々を過ごしていた。朝は早く起床し、大学へ行って溜まっていた仕事を片付けつつ国使団の報告や事後処理を済ませる。夜はあちこちからお呼びが掛かり、スタンザの有力者の屋敷を巡っては国使団の〝武勇伝〟語りだ。どうやら国使団の事務担当たちがスタンザ帝国へ出していた報告書は、エクシーガが目を通した後にかなりの部分が書き換えられ、誇張したものになっていたらしい。エルグランド王国でのスタンザ国使団は、正直なところかなり肩身の狭い思いをしていたので、その鬱憤を偽りの報告書で発散していたということだろう。スタンザ帝国の力にエルグランド王国の王や貴族は感服しきりだの、今すぐにでも属国へ降らんばかりの勢いだの、そんな報告書を見せられてしまったら、女性ばかりのエルグランド国使団が、友好使節とは名ばかりの人質だと広く思われてしまってもおかしくないし……事実、そのように誤解されるような書き方で彼女たちのことを知らせていたのだから、エクシーガとて同罪であろう。
報告書をまるっと信じ、エルグランドへはいつ攻め込むのかと逸る有力者たちに、エクシーガは(半ば自業自得とはいえ)誇張部分を訂正し、エルグランド王国は油断のならない国であり、下手に攻め込むよりは友好状態を維持した方が賢明であると、そのためにエルグランド王国も国使を遣わしたのだと、説明する羽目になった。エクシーガの説明に納得する者、残念がる者、怒る者と反応は様々であったけれど、その先のことは彼の職分ではどうにもならない。
そんな、以前はなかった朝晩を過ごすことになったエクシーガにとって、ディアナとの昼の時間は、気が抜けないながらも楽しく、刺激多く、学び深い――要するに、かけがえのないものとなっていた。皇都を案内することになった最初の日、ディアナが迷わず貧民街へと足を踏み入れてから、エクシーガの常識は破壊されてばかりである。
〝皇族の権限で皇都のどこへでも客を連れて行くことができる〟ということと、〝皇都のどこであっても問題なく案内ができる〟ことはまるで違う。そんな当然のことに、ディアナが貧民街へ行きたがるまで、エクシーガは思い至らなかった。皇族の権があれば、どの場所のどんな責任者とて、彼を拒むことはしないだろう。けれど、エクシーガ自身がその場所のことを知らなければ、客が満足いく案内をすることはできない。
エクシーガが実際に見知っている〝皇都イフターヌ〟は、皇宮殿の中と、大学内のほんの一部。後は、皇宮殿の外に構えている別邸がある南区くらいだ。皇都の全体図はもちろん把握しているけれど、それはあくまでも紙の、地図の上での話。建物間の行き来は馬車で、途中で降りるなんてことも滅多にない。「どこへでも案内できる」なんて嘯いておきながら、エクシーガはイフターヌのことなど、まるで知らないに等しかったのだ。……ましてや、この広い〝皇都イフターヌ〟で、民が日々どのように暮らし、何に喜び何に嘆いて、どんな思いで生きているのかなんて、考えたことすらなかった。
――ディアナの目は、最初から……それこそ、船を降りたその瞬間から既に、〝民〟を見ていた。今のエクシーガには、それが分かる。彼女にとって〝国〟とは、皇帝でも宮殿でもなく、その土地に根ざして生きる人々なのだ。
スタンザへ戻ったあの日、馬車の前に飛び出し斬り捨てられそうになった貧民の子どもを庇ったディアナは、兵士たちを止めることすらせず流そうとしたエクシーガに、絶対零度の怒りを垣間見せた。あのときは正直、ディアナが何にそれほど怒っているのか理解できず、心優しい彼女らしいとしか思えなかったけれど……イフターヌで民と触れ合うディアナに付き合ううち、まるで霧が晴れるかの如く、これまで見えてなかったものが見えてくる。
ディアナと出会い、彼女と言葉を交わす民は皆、〝生きて〟いた。紙の上、数字で表される人口の〝一〟としてではなく、まごうことなき一人の人間として生きていたのだ。エクシーガが見下ろし、景色として眺めていた彼らは、実は何に隔たれることもなく、同じ人間として同じ世界に存在していた。身分が違えば暮らし向きも違い、裕福な者や貧しい者といった違いはあるけれど、本質的な部分で彼らはエクシーガと何も違わない。
そんな人々が寄り集まり、集団となって、やがて一つの社会になる。――〝国〟になる。統治者は国のあり方を定め、民を支配する存在ではあるが、統治者そのものが〝国〟ではないのだ。統治者がいても民がいなければ、国は国として成り立たない。
だから、あの日。自身の一部であるはずの民を当たり前に見捨てようとしたエクシーガに、ディアナは本気で怒ったのだ。優しさゆえにではなく――民を守り生かす責務を果たす者として。
一度、民を同じ〝人〟として見てしまうと、彼らが……特に、貧民街の者たちがエクシーガへ向ける冷ややかな視線に気付かずにはいられなかった。イフターヌに住む貧民たちのほとんどは、かつてスタンザ帝国に滅ぼされた国に住んでいた民の子孫だ。本国民より高い税を課せられ、納めることができなければ、即座に罪人として奴隷身分へ堕とされる宿命を背負った者たち――強大な国を安定して治めるために必要な身分としか認識していなかった彼らもまた、心を持った人間だ。敗戦国、属国の民であるという理由だけで、何世代にも渡って理不尽を強いられている貧民たちの、帝国への恨みは深い。
――このままではいけない。帝国の仕組みそのものを変えなければ、近いうち、この国は内側から崩れていくだろう。
日が経つにつれ、そんな危機感をエクシーガは抱き、それに気付かせてくれたディアナに、これまで以上の尊敬と愛おしさを感じるようになっていた――。
「姫。少し、馬から降りて歩きませんか? この丘の上から見下ろすのも良いですが、朝陽を浴びて虹色に輝く草原の中を歩くのも、まるで天の世界に迷い込んだかのような心地を味わえて素晴らしいですよ」
「……そうですね。では、この子たちにはこちらで待っていてもらいましょう」
エクシーガの言葉に応え、危なげなく馬から降りるディアナ。一見するといつも通りにも見えるが……その瞳にはやはり、覇気がない。
ディアナがスタンザ帝国に降り立ってから、今日でちょうど十日。……そろそろエルグランド王国が恋しくなると同時に、自分の気持ちを客観視できるようになった頃合いだろう。
――毎日、ほぼ同じ時間に会う人ならば、その変化は顕著に感じ取れる。ましてやディアナは、エクシーガにとって恋しくて愛おしくてたまらない女性だ。ほんの僅かな違和感だって、素通りはできない。
来たばかりの頃はともかく、ここ数日のディアナは、見るからに元気を無くしていた。民と言葉を交わすときはさすがの切り替えで気分の落ち込みなど感じさせないが、行き帰りの馬車の中やエクシーガとのちょっとした会話の反応などは、日に日に調子を落としている。
スタンザ帝国へやって来てしばらくは、国使として気を張っていたのもあり、寂しさなど感じる暇もなかったのだろう。民と交流を重ね、少しずつスタンザ帝国に慣れてくるとともに気持ちの余裕ができて……エルグランド王国やジューク王のことを思い出し、気分が塞ぐ時間が増えた、ということか。
落ち込んでいる女人をこれ幸いと口説くなど卑怯極まりないとも思うが、いつも毅然としていて隙のないディアナがようやく見せてくれた貴重な隙だ。エクシーガとて本気でディアナを欲している。なりふり構ってはいられない。
エクシーガは皇帝陛下に直談判し、ディアナを後宮から、イフターヌから連れ出す許可を得た。正規の手順を踏めば聡明な彼女に回避されることは分かり切っていたので、早朝に前触れなく訪ね、そのまま連れ出すことで逃げ道を塞ぐ。国使という彼女の身分上、侍女全員を拒否することはできなかったが、一人だけに抑えることができたのは上々だ。――ディアナにつく侍女の数が少なければそれだけ、ディアナと二人っきりで過ごす機会を多く得られる。
そうして、ディアナを皇子領ラーズへと誘い、自慢の宮殿へ迎えて。宮殿を隅々まで案内し、食事を共にして、食後のお茶を飲みながら取り留めもない雑談に耽る……寝室はさすがに別だが、眠るとき以外は常にディアナが側にいる時間は、エクシーガにこれまで感じたことのない充足を与えていた。己のテリトリーで愛する女性と同じ時間を共有する心地良さを、エクシーガは初めて知る。
ただ、肝心のディアナの気分は、あまり上向いたとはいえないようで……そこでエクシーガは、早めの朝食後の遠駆けにディアナを誘い、スタンザ帝国で最も美しいと評判のヒーリー草原へとやって来た。サンバは書類仕事があり、ディアナの部屋に山ほどの物資と侍女を送って室礼を整えざるを得ないようにしたので侍女も同行できず、こうして念願の二人きりの時間を確保できたわけだ。これまでもディアナとほぼ一対一で話す時間は持てていたが、周囲に従者も侍女もいない、本当の意味での二人っきりはこれが初めてである。
「どうですか? 美しいでしょう」
「えぇ、本当に。土地の角度と、日の差し込み方が絶妙なのかしら……こんな風に植物が輝く様は、初めて見ます」
ヒーリー草原は、小高い丘に囲まれている。そのせいか、太陽光の差し込み加減がやや変化するのか、この季節、午前中のこの時間だけ、草原が虹色に輝くのだ。
あらゆる色に光る草の海をゆっくりと歩くディアナは、飾り気のない乗馬用のローブがまるで気にならないほど、神秘的な美しさに満ちていた。着替え一式を持ってこなかったディアナが今ローブの下に纏っているのは、スタンザの伝統的な女性衣装のはずで、それもまた彼女に近付けたかのような喜びを覚える。
「――姫」
虹草原の中央で、エクシーガは静かに、ディアナを呼び止めた。振り返った彼女は――静かで凪いだ、何もかもを承知している瞳をこちらへと向ける。
ゆっくりと、慎重に。エクシーガは言葉を紡いでいく。
「姫がスタンザ帝国へいらして、今日で十日が過ぎました。……いかがでしょう、我が国は」
「……そうですね」
問われたディアナは、一瞬だけ遠く、空の彼方に視線を向けて。
「気候や風土、大地の特色――そしてそれらと付き合ってきた人々が織り成す文化と、積み上げてきた歴史。当然ながらどれもエルグランド王国とは大きく違い……ですがわたくしには、その違いこそ好ましく映りました。それは、スタンザ帝国の人々が、与えられた世界と真摯に向き合って生きてこられた証でしょうから」
「姫……」
「生きる場所は違っても、各々の〝当たり前〟はそれぞれ異なっても、身近な誰かを大切に想い、大切なひとの幸福を願い、昨日よりも今日、今日よりも明日、より良い一日であることを望んで、そのために努力を重ねることを惜しまない。――そんな〝人間〟のたくましさに共感できるのならば、言葉を尽くして分かり合うこともきっとできると……そう、信じることもできました」
ディアナの言葉は静かで、穏やかだった。怒りや哀しみではなく、ただ深い理解と確信を抱いて、今の彼女は話している。
「いろいろなことがありましたが……帰国までにもまた何かしらはあるのでしょうけれど、それでもわたくしは、スタンザ帝国へ参ることができて良かったと思います。外から、書物や地図や又聞きで学んだだけでは、真にその国を知ったことにはならない。やはり、実際に見て、聞いて、感じて――関わらなければ、分からないことが沢山ある。前々からそう考えてはいましたけれど、今回、改めて実感することができましたから」
それは、どこまでも学びに真摯で、対峙する世界全てに深い愛情を注ぐ、ディアナらしい温かな言葉だった。ディアナがスタンザ帝国を知ろうとしてくれたことが、エクシーガには素直に嬉しく……けれど、やはり彼女の心の第一にはエルグランド王国が、エルグランド王が居座っていることが苦しい。
「……姫は、本当にお優しい。そして、どんなときでも公平な視点を失わない、冷静なお方です」
エクシーガの返しに、ディアナは無言で視線を向けてくる。
少しだけ苦笑して、エクシーガは続けた。
「エルグランド王国の価値観に照らし合わせれば、スタンザ帝国の身分制度も、我々特権階級の者たちの下層民への仕打ちも、決して認められるものではないでしょう。ですが姫は、スタンザ帝国へいらしてから一度も、『それは決して許されないことだ』とは仰いませんでした」
「……確かに、スタンザ帝国の制度の中には、エルグランドの価値観とわたくしの信念にそぐわないものもございます。ですが、ところ変われば価値観もまた変わるもの。エルグランド王国の価値観が絶対であると信じ、スタンザ帝国にそれを押し付けることは、それこそ貴国の積み上げてきた歴史の否定に繋がる愚行でしょう」
「そう、なるのでしょうか?」
「わたくしはエルグランド王国国使として、王国の価値観と信念に沿って行動して参りましたが、それをスタンザ帝国の方々にも強制しようとは思いません。エルグランド王国が他国に価値観を共有して頂くのは、そちらのお国が傘下に降り、王国の支配下に置かれたときだけです。――我々は伝統的に、外つ国独自の風習を、文化を、価値観を尊重して参りましたゆえ」
「どう、して……」
「わたくしども自身、数千年の長きに渡り、自分たちの価値観を尊び、外から安易に口出し手出しをされることを厭ってきたからです。自分たちの価値観は大切にして欲しいのに、他の国のそれは蔑ろにして良いなんて、そんな道理はございませんでしょう?」
エルグランド王国について語るディアナは、どこまでも清廉で美しく、何より誇り高かった。国の話をしているのに、彼女の言葉はいつの間にか〝自分たち〟と自分を含めた〝人間〟を指す単語へと変化している。――無意識の領域でごく自然に、彼女は己もまたエルグランド王国の一部であると信じ、そこに誇りを抱いているのだ。
(……欲しい)
その誇りも、民への眼差しも――彼女ごと全て、スタンザ帝国へと招き入れることができたなら。
この国はきっと……美しく甦ることが、できる。
――エクシーガが感じた〝終末〟を迎える、その前に。
「……姫のお心は、よく分かりました。ですが、もう手遅れだ」
エクシーガは覚悟を決め、一歩を踏み出す。
「たとえ、姫が強制されずとも。支配者が民を慈しみ、その身を捧げて守ろうとする国があることを、イフターヌに住む民たちは知ってしまった。……スタンザの価値観が絶対ではないことに、気付いてしまった」
「……はい」
「イフターヌの、特に貧民街の者たちは、スタンザの特権階級に深い憎悪を抱いております。……正直、兵士たちという壁を無くした状態で民たちの前へ出て、あれほどあからさまな憎悪に炙られるとは思いませんでした」
「……えぇ」
「非公式ではあったにせよ、皇族である私に形だけの礼すら執らなかった彼らが、スタンザ帝国の価値観が絶対ではなく、〝王〟が変われば〝国〟の有り様も変わるのだと気づいてしまったとしたら――……この国はもう、長くは続かないでしょう」
覚悟を決めたエクシーガの言葉に、ディアナはただ、感情の読めない静謐な瞳だけを返す。
それは、エクシーガが気付くより、きっとこの国の誰よりも早く、ディアナがこの結論に辿り着いていた証左に他ならない。
大きく息を吸い、エクシーガはディアナに近付いた。
「姫に、感謝致します。姫に請われ、直接イフターヌの街を歩かなければ、私はこの国の真の姿に気付けなかった。……国を支える民を蔑ろにし、より下の捌け口を作ることで不満を逸らし、一部の支配階級だけが肥え太る、醜く歪んだ残虐な姿に」
「殿下……」
「……私は図らずも、この国の支配階級に、皇族に生まれ落ちました。人は生まれを選べず、私個人にはそんな才覚も実力もございませんが、それでもスタンザ第十八皇子という身分である以上、私にはこの国を守り支える責務がございます」
「……えぇ、分かります」
「以前の私は、国を守るということが何を意味するのか分かっていなかった。――ですが、今は分かります。民の……身分に関わりなく、この国に生きる全ての民を守ることこそ、〝国〟を守ることなのだと。戦や領土拡張はあくまでもその手段に過ぎず、そうして領土を得たのであれば、新しく我が国の民となった者たちの命も背負わねばならない。そうでなければ……いずれ〝国〟から手足は腐り落ち、落ちた手足が怨みの牙へと変化し、頭を喰らい尽くすでしょう」
……真面目な話、その方が良いのかもしれないと囁く弱い自分がいることも確かだ。スタンザ皇宮殿の腐敗は深く、比較的マシな人選をしたはずの国使団にすら、ロクでもない者たちが潜んでいた。ここまで腐っているのならいっそ、ゼロから造り直した方が早いのかもしれない、と。
――けれど。
「長い時間の果てに、スタンザ帝国は民のことなど目に入らぬ、傲慢な者たちが治める国になってしまった。……ですが、始まりは違うのです。この大陸は水の確保が難しく、少しでも住み良い土地を求めて、昔から争いが絶えませんでした。スタンザ帝国の初代皇帝は、そんな血気迅る人々を一つに纏め、大陸統一を果たすことで争いのない世界を築こうと、その一念で国を強大にすることを誓われたのです」
「……はい」
「初代皇帝が描かれた理想の世界と、今の我が国は違うでしょう。……ですが少なくとも、スタンザ帝国が大陸統一を果たすことで、大きな争いはなくなった。それだけは揺るがぬ事実」
「……」
「今、スタンザ帝国が崩壊すれば。この大陸は再び、大小様々な国が立ち乱れ、戦乱の世へと逆戻りしてしまいます。国が滅びなければ守れたはずの命も、奪われてしまう。それを考えると……国を守り支える責務を持つ者として、この状態の国を見過ごすことはできないと、身の程知らずにも考えてしまうのです」
エクシーガの吐露を言葉少なに、読めない表情で聞いていたディアナは――……覚悟と決意に満ちた言葉を紡ぎ終えた瞬間、音も無く唇を綻ばせた。
「……殿下のお心は、この国に生きる民たちにとって、紛れもない希望となることでしょう」
「さて……所詮私も、彼らにとっては憎い支配階級の一人に過ぎません。実際、つい先日も私は、罪もない子どもを見殺しにしようとした」
「その行為が、民の側から見れば〝見殺し〟であると気付ける方は、殿下が考えるよりもずっと少ないのです。生まれながらに高貴なご身分のお方であれば尚更に、民の側に立って国を見る〝目〟を持つことは難しい。……殿下は先ほど、国を守り支える才覚などないとご自身を卑下されましたが、己の傲慢さを自覚し民の視点を知ろうとするそのお心は、充分に才覚の一つと存じます」
「……やはり、あなたは聡明で、公平なお方だ。こんな愚かな私にも、温かいお言葉をくださる」
至近距離で、ディアナを見つめ。
――エクシーガは、用意していた最後の言葉を放つ。
「――ディアナ姫。あなたのそのお心をどうか、エルグランド王国の民だけでなく、我がスタンザ帝国の民にも頂けないだろうか。私はこの先、皇族として、帝国に生きる全ての民が安寧であるべく、この身を捧げるつもりだ。生涯をかけて、帝国の身分制度撤廃と、軍事国家から平和国家への転換を目指す」
「……殿下」
「……最初はただ、あなたを好きになっただけだった。今も、あなたを愛しく思う気持ちは変わらない。あなたを知れば知るほどに、私はあなたに恋い焦がれていく」
「……、それ、は」
「だが――女性としてのあなたを想うと同時に、今の私はあなたというひと自身を尊敬し、生涯を共にしたいと願うのだ。私の目を開かせてくれたあなただからこそ、どうかこの先の歩みを見てもらいたい。……民を思うその崇高なるお心を、スタンザの者たちにも与えてやりたいと、そう願う」
「……」
「ディアナ・クレスター姫。――どうか私の手を取り、スタンザ帝国第十八皇子妃となって欲しい」
言うべき言葉は、全て告げた。嘘偽りや誤魔化しなど一切ない、ありのままのエクシーガを見せた。
エクシーガの目をじっと見ていたディアナにも、それは伝わったことだろう。エクシーガの告白を受け、ディアナは静かに瞳を伏せて――。
「殿下のお心は、とてもありがたく、この身に余る光栄に存じます」
足音を立てず、一歩、エクシーガから遠のいた。
「……ですが、以前も申し上げました通り、わたくしはエルグランド王の側室筆頭『紅薔薇』にございます。わたくしのような取るに足りない女をここまで高く買ってくださる殿下のお心は、この上なくありがたいことですが――わたくしは、殿下の気持ちにお応えできる身上ではございません」
「――っ、あなたを愛してもいない、この先もきっと愛することなどないであろう男のために、何故そこまで操立てするのです」
「誰が誰を愛しているかなど、それこそ民の安寧の前には些事ですわ」
「あなた自身の幸福はどうなる!」
「これも、以前申し上げました。――わたくしは、今のままで充分に幸福です、と」
「……私ならば、あなたにもっと大きな幸福を見せて差し上げることができる。命ある限りあなたを愛し、民を愛するあなたの理念に寄り添い、あなたの望む理想の世界を、共に目指すことができる!」
「いいえ。――わたくしが真に望む未来は、殿下では決して実現できません」
一縷の迷いもない、ディアナの即答。どれほど言葉を尽くしても決して揺らがないディアナの想いに、元からそれほどなかったエクシーガの余裕は、ついに崩れて消え去った。
「何故……何故、分からないのです!」
ディアナが離れた分の距離を詰めると同時に彼女の腕を掴み、エクシーガは衝動のまま、細い肢体を腕の中に引き入れる。女の力では逃れられないよう、強く、深く抱き込んだ。
「あの王は、王としては優秀なのかもしれないが、男としては最低です。真に愛する女を得ておきながら、政略のためなのか何なのか知らないが、あなたを『紅薔薇』として縛り続けている。あなたの愛を利用して、あなたが自分から離れることはないとタカを括って、都合よく使っているだけだ。そんな男に尽くしても、あなたは決して幸福にはなれない!」
「……お放しください、殿下」
「このままあなたをエルグランド王国へと帰し、再びあなたの愛があの王に搾取されるのかと思うと……耐えられない。それくらいなら、いっそ――」
「――殿下!」
「このまま、あなたを、私のものに――!」
腕の中、彼女の頤に指をかけ、そのまま顔を上向かせる。男の力の前に女は無力だと悟っているのか、言葉では抗っても、彼女の身体は抵抗を見せない。
赤く色づいた唇を得ようと、エクシーガは首を傾ける――。
「……理解に苦しみますね」
あと少しで唇が触れる、という瞬間。吐息が感じられるほど近くで聞こえてきたのは、あまりにも冷たい声と、恐ろしいほど鋭利な気配だった。思わず身体を起こすと、蒼の瞳を鋭い怒りで光らせて、ディアナはエクシーガを真正面から射抜いてくる。
「わたくしを愛していると仰るのに、わたくしの言葉は聞いてくださらない。……わたくしの心を、想いを、願いを、大切にはしてくださらない。そのような自分本位なお振る舞いが〝愛〟であるなど、到底理解できません」
「……理解、できませんか」
「相手の心を、その幸福を第一に考えてこその愛でしょう。――自分勝手な想いをぶつけるだけなんて、年端も行かぬ幼子が駄々を捏ねているようなものではありませんか」
……あぁ、綺麗だ。このひとの心は、本当に、
――いっそぐちゃぐちゃに汚したくなるほど美しく、残酷だ。
「……なるほど。あなたには、欲というものが無いらしい。そんなあなたには、こんな薄汚れた感情を理解しろという方が無理な話でしょうね」
「……欲?」
「一度、恋に落ちてしまえば。ただただひたすらに、相手のことが欲しくて堪らなくなる。相手の心など斟酌する余裕もなく、その存在に身も心も溺れ、同じ時間を、笑顔を、涙を……他などまるで目に入らず、ただそのひとだけが欲しくなるものだ」
「……!」
ディアナの表情が、初めて大きく動いた。その切れ長の目を極限まで見開き、呆然とエクシーガを見上げる。
「相手の心を、斟酌できない……?」
「そうだ。あなたは先ほど、『幼子が駄々を捏ねている』と仰ったが……ある意味、それよりもっと手に負えない。いい大人が、自分の感情をまるで制御できないのだから」
「そんな、自分勝手で欲深な想いを……〝恋〟だと仰るのですか?」
「身も心も汚れないあなたには、理解できまい。私は、あなたが誰を愛そうが、何を望もうが……そのようなことは一切関係なく、ただあなたが欲しい。あなたに恋をした、その瞬間から」
「そのような……それはあまりにも身勝手というものです」
「恋とはそもそも、身勝手な感情だ。相手の想いや事情などは余所に、心がひたすらにそのひとだけを求めるのだから」
エクシーガが言い募るほどに、ディアナの表情はどんどん強張り、ついには視線をずらして俯いてしまう。先ほどまでとは違い、指先まで力が抜けた放心状態に陥ったディアナには、誰がどう見ても明らかな〝隙〟があった。
この機を逃せば、二度目はない。そう直感し、エクシーガは再び、ディアナの頤に手を伸ばす――。
「……どうぞ」
触れる直前、ディアナの瞳が真っ直ぐに、エクシーガを突き刺した。先ほどと同じようで、その瞳に映っているものは、何もかもが違っている。
「わたくしを欲しいと、そう仰いましたね。……差し上げましょう。心以外の、全てなら」
感情が全て抜け落ちたかのような、抑揚のない響きで紡がれる、エクシーガが何より欲しかったはずの言葉。
……否、違う。彼女は感情を失くしたのではない。
今の彼女を支配しているもの。それは――。
「わたくしの立場も、身体も、全て殿下のお好きにして構いません。ですが、心だけは不可能です。……随分と前に、わたくしの心は、たったひとりに捧げてしまっていますから」
昏く、深い、絶望――。
「ひ、め……」
「どうなさいました? わたくしの心など、どうでもよろしいのでしょう?」
「それ、は」
「わたくしには、何より欲して止まない未来がございます。大切なひとと交わした、最愛の誓いがございます。――それら全ての希望が絶たれ、生きていく意味を見失って……魂の抜け殻となったわたくしの身体だけでよろしければ、いくらでも差し上げますわ」
足元から冷たい〝何か〟が這い上がり、エクシーガは反射的に、ディアナの身体を放してしまった。そのまま数歩、後ずさる。
ディアナの眼差しは、強い。強いのに、昏い。
あれほど瞳に輝かしい希望を乗せるひとが、今は深い絶望に沈んでいる。まるで急な嵐に遭遇したかのように、その美しい蒼の瞳が灰色に曇って見えた。
(……それほど、までに)
エクシーガのものとなることは、彼女にとってこれほどの絶望なのか。……心の死を確信するほど、耐え難いことなのか。
「……あなたを愛する私の手を取るよりも、他の女を愛し、あなたのことなど見向きもしない男を愛し続ける道を選ばれるのか。それが、あなたの望みか」
「他ならない殿下が、先ほど仰ったではありませんか。相手の心など関係なく、ただそのひとだけを望むのが、恋だと。……あのひとが何を望み、誰を愛しているかなんて、わたくしの想いとは関係のないことです」
「それで……あなたは、幸福なのか?」
「……分かりません。ですが、この想いを捨て去って殿下に愛される道を選んでも、決して幸福になれないことだけは分かるのです。――もしもいつか、あのひとが私から離れる日が来るとしても、そのときまでは一緒に居たい。自分から手を離すなんて、そんな後悔することが分かり切っている道を選んで、幸福になんてなれるわけがないから」
後半の言葉は、エクシーガに聞かせるというよりも、思わず零れ落ちた本心のようだった。それだけに、そこには深い心情が灯っている。
――本当に、真の意味で、彼女の心は揺らがないのだ。たったひとりだけを深く、深く想い、自らの幸福など投げ打つ勢いで、恋情の全てを捧げている。
ディアナが誰を愛していようとも、彼女を求めるエクシーガの心は変わらない。
けれど……そうやって無理やり彼女の身体を奪い、自由を奪ってスタンザ帝国に留めたところで、心が死に絶え、ただ灰色の瞳に世界をぼんやり映すディアナが手に入るだけなら。エクシーガが焦がれて止まない、真っ直ぐに世界と向き合い、慈しみ続ける〝ディアナ〟は、永久に喪われてしまうのだろう。
(望みは……ない、ということか)
ディアナの心など関係ない、とは言った。
けれど、どうでも良いわけではない。――どうでも良いわけが、ない。
生まれて初めて恋い焦がれた女性だからこそ……ディアナには誰よりも、幸福であってもらいたいのだ。
自分が彼女を得ることが、彼女にとっては永遠の幸福の喪失に等しいのなら……これ以上、望めるわけがないではないか。
――じわじわと迫ってくる現実を、瞳を閉ざして受け入れる。ディアナにくるりと背を向けて、エクシーガは大きく息を吸った。
「……お返事、ありがとうございます。私はしばし、この辺りを視察して参りますが、姫は如何されますか?」
「わたくしは……一度、部屋へ戻ろうかと」
「左様ですか。姫は乗馬もお得意のようですから、案内をつける必要はありませんね」
これ以上の手出しはしないという遠回しな宣言をディアナは正しく理解してくれたらしい。数拍後、彼女が姿勢を正す気配がする。
「……殿下のお心遣いに、感謝致します」
言葉少なに礼を執り、そのまま彼女の気配は遠のいていく。
やがて、足音も完全に聞こえなくなり――。
「これを……失恋、というのだろうな」
美しい草原の中央で、エクシーガは独り、空を見上げるのだった。
なんでしょうね、この絵に描いたような『当て馬さんの墓穴』展開……(真っ先に思い浮かんだタイトルこれでした)
エクストリーム勘違いさんとか、諸々可哀想なあだ名つけられがちなエクシーガ殿下ですが、私は別段嫌いじゃないです。てか、相手が悪かっただけで、立場も性格も普通に少女漫画の王道ヒーローだと思うんですよね。
連続更新、ひとまず明日で一区切りです。また明日、お目にかかれますように。




