イフターヌ散策
今回は、少し短めな箸休め回です。
――そして、午後。
《ディアナさま。ここが、この辺りでいちばん大きな食堂です》
《ありがとう、ポルテくん。まぁ、本当に立派な建物ね》
予定通り、ユーリを供にエクシーガの案内で貧民街を訪れたディアナは、すっかり元気になったポルテと、姉のサージャたっての願いで、約束していた〝観光案内〟をしてもらうことになった。治療費を払えないことを理由に診察を断ったポルテを納得させるための方便だったが、どうやらこの姉弟、とても律儀な性格のようだ。ポルテはサージャに育てられたようなものだそうなので、正確にはサージャがきっちりしているのだろう。
ポルテが案内してくれるイフターヌの街は、当然のことながら彼の生活圏内なので、北地区に限られている。しかしながら、彼の案内は思っていた以上に知的好奇心を唆られるものだった。一昨々日、初めてイフターヌへ出た日はポルテの診察と薬草の調合で一日が終わり、一昨日は西の学術宗教地区を、昨日は東の商工業地区を視察したので、実は北区をじっくりと見て回るのは今日が初めてなのである。
(イフターヌって、本当に面白い街だわ。殿下も仰っていたけれど、それぞれの地区で受ける印象が全く違う)
学問と宗教の西区は、厳格で静謐な空気を纏っていて、学者の街らしく建物も整然と並んで見えた。
商業と工業の東区は、職人たちの街。東区の中でさらに細分化されてそれぞれの専門職たちが纏まっており、高いところから見下ろすと、まるでパッチワークのよう。
そしてここ、多種多様な民が住う交易の街、北区は――。
「喩えるなら、ひっくり返したおもちゃ箱ね……」
《ディアナさま? どうかしましたか?》
《あぁ、ごめんなさいね、ポルテくん。なんでもないのよ》
建物の大きさも、建てられ方も、並び方も、計画的に進められたわけではないと一目で分かる。人が集まり、暮らしていく中で自然に町ができ、広く、大きくなっていた歴史ある〝街〟だ。おそらく、皇都イフターヌの中で最も古いのがこの北区なのだろう。――民の営みがありありと感じ取れる、取り繕わないこの乱雑な感じが、ディアナは決して嫌いではない。
ポルテを案内に食堂を訪れたディアナを、イフターヌの民たちが遠巻きに眺めている。昼飯時は過ぎているとはいえ、あまり長居しては商売の邪魔になりそうだ。ポルテへのリクエストはたった一つ、『北区の中で人が沢山集まる場所を廻りたい』なので、そろそろ促して次へ行くべきか。
そう考えたまさにそのとき、タイミング良く食堂の扉が開き、店の人間らしき男が掃除道具片手に外へと出てきた。彼を見た瞬間、ポルテの表情が変化する。
《だんなさま……》
《旦那様? あの方は、こちらのお店のご主人なの?》
《はい。……あの、ごめんなさい、ディアナさま。ちょっとだけ、ごあいさつしてきても良いですか?》
《えぇ、もちろん》
ポルテの表情は、会えて嬉しいけれどそれ以上に申し訳なさそうな、幼子が浮かべるには年齢不相応にも程があるものだった。事情が分からないながらもポルテが挨拶したいと言うなら、それを咎める理由もない。ディアナから離れ、男へと近づくポルテを見守っていると、背後からサージャが近づいてくる。
《弟が申し訳ありません、ディアナ様。ご案内を放り出して私情を優先するなんて、ご無礼を……》
《きちんと断っていましたし、無礼なことは何もありませんよ。こちらのお店のご主人とポルテくんはお知り合いなのね》
《はい。ポルテの年齢ではまだ、何処かに雇って頂くことができませんから……毎日、街のお店を巡って御用聞きをしては、こなした用事に応じてお駄賃を頂いているんです。ポルテを贔屓にしてくださっているお店の中でも特にこちらのご主人は親切で、いつもポルテ用の仕事を用意して、お駄賃も相場以上にくださるので……病で御用聞きができなかったことを、ポルテは気にしているのだと思います》
《そうだったの》
何度も小さな頭を下げるポルテに、店の主人だという男は優しい表情で話しかけ、その頭を優しく撫でている。その様子から怒りは感じられず、ポルテが元気になったことを純粋に喜んでいるようだった。……主人の気持ちはよく分かる、ポルテのような良い子を厭うのは難しい。
主人に挨拶し、ハキハキ受け答えをしているポルテの表情は、明るいものに戻っている。主人が怒っていないと知って、安堵しているのだろう。その姿は、年齢よりずっと大人びていた。
素直に感嘆して、ディアナはサージャを振り向く。
《あんなに小さいのに、ポルテくんは本当にしっかりしているわ。きっと、サージャさんの育て方が良いのね》
《そのようなことは……》
首を横に振って謙遜してはいるものの、幼い弟一人では心配だからと、保護者として同行することを申し出るほどしっかりしているサージャだ。ディアナより幾つか歳下だろうに、そんな年齢差はまるで感じられない。弟が年齢以上にしっかりしているのだから、姉もまたそうであるのは自然なことかもしれないけれど。
《私や弟がしっかりしているように見えるのだとしたら、きっとそれは、私を育ててくれた両親と街の皆さんのお陰です。両親は、たとえ貧しい暮らしでも心まで卑しくあってはならないと礼儀作法を私にきちんと躾けてくれましたし、イフターヌへ参ってからは周囲の方々が沢山助けてくださいました》
《えぇ、そうね。サージャさんのご両親は素晴らしい方だったのでしょうし、互いに助け合いながら生きているあの街だからこそ、ポルテくんと二人でも生きてこられたのは確かなのでしょう。……でもね、サージャさん。そうやって周囲の人々に感謝することと、これまで頑張ってきた自分自身を労い、肯定することは、決して矛盾せず両立するわ》
目を丸くするサージャに、ディアナは柔らかく微笑んで。
《ご立派な親御さんに恵まれて、周囲の大人に助けられて、そして何よりあなたが必死で生きて、誠実に自分と、ポルテくんと……世界と、向き合ってきたから。残酷で理不尽な現実を前に、それでも心を腐らせることなく、大切なものを大切にし続けてきたからこそ、今がある。わたくしは、そう思うわ》
《ディアナ様……》
《本当に、よく頑張りましたね。――ありがとう、サージャさん。生きて、わたくしと出会ってくれて》
サージャの瞳から、透明な滴が零れ落ちる。肩を震わせるサージャを、ディアナはそっと抱き寄せた。
響く嗚咽を堪えようとする、細く小さな背を、ゆっくりと何度も叩く。――泣いて良いのだと、伝えるために。
(生きることすらままならない世界で、日々を生き抜くだけじゃなく、弟をこんな良い子に育てて、危険な目に遭ったときは命がけで守って……そうまでしても、この国の貧民身分の民にとってそれは全部日常の一部で、サージャはこれまで、誰に認められることも、褒められることも、感謝されることもなかったんだわ。ご両親が生きていればきっと、ポルテの世話を頑張っているサージャを褒めて、沢山の「ありがとう」を注いだんでしょうけど)
エルグランド王国では、子どもに「ありがとう」を注ぐのは大人の役割とされている。我が子はもちろんのこと、顔見知りの子もそうでない子も、何か手伝いをしたら褒めるし、労うのが当たり前だ。子どもは皆で育てるものだとされていて、不幸にも事故や災害、病などで二親を亡くした子は、顔見知りの家に引き取られるか、地域の神殿で預かって地域ぐるみで育てていく。エドワードもディアナも、そうやってクレスターの街の人々にお世話になりながら大きくなった。
悪いことをしたら叱られ、良いことをしたら褒められ、手伝いをするたびに「ありがとう」と言ってもらって――それらは全部、あなたはここにいて良いのだと、生まれてきて良かったのだという、自らの生そのものの全肯定に等しかったのだと、大人になった今ようやく理解できる。
(……私は、スタンザ人じゃない。この国の在り方に意見することも、無責任に救いの手を差し伸べることも、私にはできない)
それでも――せめて、これくらいは許してほしい。必死に足掻く小さな命を前に、その存在を肯定するくらいのことは、どうか許して。
泣きじゃくるサージャの小さな身体を、ディアナは気付けば、ぎゅっと抱き締めていた。少し時間が経って落ち着いたらしいサージャが、緩く腕を動かす。何となく察して腕を解くと、涙に濡れたくりっとした瞳が、こちらを見つめていた。
《申し訳、ありません。お見苦しいところを……》
《謝ることは、何もありませんよ。泣きたいときは泣いた方が良いわ。泣くのを堪えていると、そのうち心の痛みに鈍感になって、苦しいことすら分からなくなってしまうから》
《……こんな世界では、痛みや苦しみに鈍感な方が楽に生きられるのかもしれません。事実、泣きも喚きもせず心を殺して生きている人の方が、この国では長生きします》
《そう……》
『統治者が統治者であり続けることだけを目的に造られた制度は、強固な支配と引き換えに〝人間〟を歪ませるんだな』――大回廊で聞いたカイの言葉が、ディアナの脳裏を過ぎる。サージャの言葉はまさに、強固な支配と引き換えに人が歪んでいる現実を、ありありとディアナに見せつけた。
《けれど……サージャさんやポルテくんが心を殺しているようには見えないわ。お互いを大切に思い、周囲の人々に感謝して、笑顔を忘れずに生きているあなた方の心が死んでいると、わたくしは思えない》
《はい。辛い現実を前に心を麻痺させることは、きっとやろうと思えば簡単なのでしょうけれど……心を殺して長生きするより、短くとも心のままに大好きな人と笑い合える人生の方が良いと、私はそう思うので。心を殺せば痛みや苦しみは感じなくなりますが、同時に嬉しいことも幸せなことも、何も分からなくなってしまいます。そちらの方が、私にとっては辛いことですから》
サージャの言葉に、目頭が熱くなった。これほど気高く、純真な魂は、国など関係なく滅多に出会うことはできない。過酷な現実の中、いかに楽に生きるかではなく、苦しくとも喜びや幸福を大切にする生き方を選べるサージャは、本当の意味で強い心の持ち主だ。
《わたくし……本当に、本当に、あなたと会えて嬉しいわ》
《そのお言葉は、私こそ申し上げねばなりません。私とポルテの命は、ディアナ様に拾われたようなもの。……私に国を移る自由があれば、この先の人生全て、あなた様に差し上げることも厭いませんのに》
《そのお気持ちだけで充分ですよ。サージャさんの人生は、まだまだこれからなのですから。誰かにあげることを考えるのは、あまりに気が早いわ》
……割と真面目な話、クレスター家の領地と資産力をもってすれば、イフターヌ貧民街の住人くらいなら、丸ごと受け入れることができることはできる。しかしながら、スタンザ帝国にて国外移住が認められているのはごく一部の上級民に限られているので(そうでなければとっくの昔に、帝国の横暴に耐えられなくなった人々が難民と化し、国外へと逃げていることだろう)、それは本当に最後の最後、スタンザとの全面戦争が避けられない局面まで切れないカードだ。それに、スタンザ帝国で苦しんでいるのは、何もイフターヌの貧民たちだけではない。
ディアナが何の責任も持たないただの旅人であったなら、場当たり的に目の前で苦しんでいる人だけを救っても問題にはならないが……今は、それでは駄目なのだ。
(エルグランド王国国使の立場で、エルグランド王国とスタンザ帝国の友好を築くべく、スタンザ民に希望の〝種〟を蒔く……)
タイムリミットは、あと十日。……おそらく、今のエクシーガに『エルグランド王国国使団がスタンザ帝国に滞在するのは二週間』という取り決めを守るつもりはないだろうから、きちんと帰りの船を出してもらえるよう、スタンザの宮廷にも働きかける必要があるだろう。
ちらりと、気付かれないよう背後のエクシーガを盗み見ると、彼は実に複雑そうな表情で、ディアナと、ディアナと話すサージャを眺めていた。どうやらこの国では、貧民身分の者が皇族と直に言葉を交わすことは禁じられているらしく、サージャとポルテは本来の案内役であるはずのエクシーガをすっ飛ばし、ディアナとばかり会話している。間にサンバを挟めばエクシーガの意見を聞くことはできるはずだが、ディアナが最初に《案内する場所はポルテくんにお任せします》と言ったからか、姉弟は敢えてエクシーガの存在を見ないようにしている雰囲気だった。自分たちに重い税を課して苦しめ、斬られそうになっても知らぬ存ぜぬな相手と積極的に話したいとは思えないだろうから、ディアナも何も言わずに流しているが。
(でも……あの表情を見るに、さすがに殿下は気付いているわね。――今のスタンザ帝国が抱える、危うさに)
一昨々日、ポルテの診察に貧民街を訪れたときも感じた、この国の危うさ――支配階級に対する、下層民の憎悪。それが、あからさまに態度で見られるほど顕在化しているばかりか、ぐらぐらに煮詰まっている。
――最初、ディアナを高位身分の人間だと思って怒りと憎しみの目を向けていた貧民街の住人たちが、ポルテに薬草を分け与えた異国の娘だと知るや否や、態度をがらりと変えて膝をついた。自分たちを救いに来た人だと、聖女だとまで口にした。自国の支配層に下げなかった頭を、一応仮想敵国なはずのエルグランド人であるディアナに向かって下げたのだ。
それはつまり、この国の下層民の心が、既にスタンザ皇室から、支配者たちから離れている証明に他ならない。離れているだけならまだしも、彼らの心にはこれまで抑圧され、虐げられたことへの怒りと憎しみが募りに募っている。先ほどサージャが、民たちは心を殺して理不尽な支配を耐え忍んでいると言っていたが、その段階も過ぎつつあるということだろう。……おそらく、ほんの僅かなきっかけで、その怒りと憎しみは激しい炎となって燃え上がり、帝国全土を覆い尽くす。
エクシーガは、馬鹿ではない。自分たちの支配が薄氷の上に成り立っていると、いいや最早〝成り立っているように見えている〟だけの状況にまで逼迫していると、嫌でも感じ取っているはずだ。一昨々日、一昨日、昨日と別地区を巡ったことで、貧民たちの憎悪はより顕著に見えるだろうし。
(皇宮殿のお膝元であるはずのイフターヌに住んでいる彼らですら〝こう〟なら、離れた場所に住んでいる貧民たちは、より皇族への敬意が薄いはず。……そう考えれば、大きな戦はなくても常に国の端の方では小さな反乱が起きているって国情も納得がいくわ)
ここが、スタンザ帝国の分水嶺だ。今のままの統治に固執すれば、遠からず皇族たちは玉座から引き摺り下ろされるだろう。……そういえば、エルグランド王国もここまで追い込まれていないとはいえ、絶対王政、中央集権の限界が見えている。過去の歴史を振り返れば、どこかの国で大きな節目を迎えているとき、『湖の王国』でも同じような状況に向かっている、あるいは少し前に過ぎたということはままあった。国が違えど、生きているのは同じ人間なのだから、多少の違いやズレはあっても、歴史の大きな流れは変わらないのかもしれない。
《ディアナさま、おまたせしました!》
――思考の淵に沈みかけていたディアナを、帰ってきたポルテが引き戻した。明るく笑うポルテに、ディアナも笑い返す。
《それほど待ってはいませんよ。お話はできましたか?》
《はい! ありがとうございます》
《ポルテ。ディアナ様はお優しいから許してくださったけれど、案内を任されているときにお客様を一人にしてはダメよ》
《はぁい、ごめんなさい》
小言を言いつつ、サージャもポルテの不安がなくなったのは嬉しいようで、その顔には笑みが浮かんでいる。仲の良い姉弟の会話に癒されながら、ディアナは心中だけで嘆息した。
(スタンザ皇族や、この国の高位身分の方々がどうなろうが、私の知ったことじゃないけれど。大きな内乱になれば、戦う術のないこの二人は、真っ先に命が危うくなってしまうわね)
それに、アルシオレーネのように本当は高位身分でも何でもないのに、運命の悪戯で名家の令嬢になってしまった人もいるのだ。できるなら、戦は避けるに越したことはない。
(あと十日で、エルグランドとスタンザの友好を築き、スタンザ民に希望の〝種〟を蒔いて、戦の火種をできる限り小さくする……)
とてつもなく難しいけれど、正直言って不可能な気もするけれど、諦めない限り道はどこかへ繋がっていると信じたい。
《それで、ポルテくん。次はどちらへ案内してくださるのですか?》
《はい! 次は、この街の人たちがよく行くバザールへ……》
ポルテの言葉に頷きながら、ディアナは決意を新たに、己の為すべきことを見つめるのであった。
サージャとポルテの姉弟はとても素直なので、書けば書くほど自分たちの事情をどんどん教えてくれるのですが、「うんごめん、そこまで突っ込んで書くとスタンザ編が終わらない勢いで長くなるわ……」状態でして、あんまり書いてあげられないのが申し訳ないです。
ここまででも充分に長いことは自覚しているのですが、スタンザ編はそれでも書く内容を厳選して、スッキリ纏められるよう努力はしているのですよ……形になっているかは、ちょっと自信がありませんが(汗)




