ヴィヴィアンとアルシオレーネ
新キャラ、続々登場です。
朝から毒草騒ぎでバタバタしつつも、無事に朝食を終えたディアナたち(生まれて初めて毒草を食べたという王宮組は恐々だったが、びっくりするくらい体調に変化が無いことで吹っ切れたらしく、途中からは普通に食べていた)は、ユーリとロザリーを仮病役として部屋へ残し、残りのメンバーで少し後宮内を歩いてみることにした。別に全員で部屋に引き篭もり、次のアクションを待っていてもよかったのだが、あんまりこちらが萎縮し過ぎると調子に乗って、より行為がエスカレートする可能性もある。相手の嗜虐心をほどほどに満たした上で〝嫌がらせ〟を終わらせるには、毒草にある程度の効き目があったと思わせつつ、けれどこれ以上やり過ぎると手痛いしっぺ返しを喰らうと実感してもらうのが手っ取り早い。そのため、探索組全員、少し化粧を濃いめにして(顔色が悪いのを誤魔化していると思ってもらうためだ)、いつもよりややゆっくり歩くことにした。
(これで引っかかってくれるような、分かり易い性格の人だと良いのだけれど)
堂々と後宮を練り歩くディアナに、すれ違う者たちはあからさまな奇異と敵意の視線を向けてくる。エルグランドの後宮の何倍も広く、女性の数も多いスタンザ帝国の後宮に、ディアナは内心呆れ返っていた。
(去年、エルグランドの後宮に入ったときも、同じこと思ったけれど。皇帝陛下一人に妻が百人以上って、無駄と非効率この上ないわよね。……まぁスタンザの場合、奥さんの数は男性の権威と財力の象徴みたいになってるらしいから、国のトップともなれば、これくらいの規模は必要なのかもしれないけれど。にしたって、これだけ奥様がいらして、逆によく四十五人もお子ができたものだわ)
生まれる前、あるいは無事生まれても成人前に儚くなった皇子皇女もそれなりにいらしたそうだから、実を結んだ人数はもっと多いのだろう。女色に溺れ、今でも夜ごとに違う女を召し出してはお励みになっていると専らの評判な皇帝陛下だが、事実ディアナも昨晩召されそうになったわけだが、よくもまぁそんな有様で順調にお子を増やせたものだ。どれだけお励みになったところで、タイミングが合わなければ子はできない。毎晩違う女性と戯れていらしたのだとしたら、一人の女性のタイミングを掴むのは逆に難しいだろう。よほど運が良いのか――あるいは。
《きゃあぁっ!》
物思いに耽りそうになったその瞬間、折良くというべきか、廊下の奥の方で悲鳴と、何か物が壊れる音がした。周囲の視線がそちらを向く中、ディアナも物音の原因を確認するべく奥へと向かう。
色彩鮮やかな陶器の破片を前に震えていたのは、美しいがまだ幼い、侍女らしき娘。以前に聞いていた通り、スタンザの後宮には使用人用の制服は存在せず、衣服の豪華さや宝飾品の有無で地位を表している。それでいくと、刺繍もほとんど施されていない質素な衣服を身につけている彼女は、恐らく側室ではあり得ないだろう。
ディアナが彼女のもとへ足を向けたと分かった周囲が、一斉に道を空けた。異国の女がどんな風に動くのか見極めようという心算だろうか。一方、ディアナに気づかれたと悟った少女は、気の毒なほど青ざめてガタガタ震えている。……尋常ではない。
「あ……」
ディアナのすぐ後ろに控えていたリタが、短い声を上げた。少し立ち止まって、リタの方に耳を寄せる。
《ディアナ様。この娘、今朝方私どものお部屋へ朝食を運んできた者です》
《……そういうことね》
ほぼ無音声のヒソヒソ話だからエルグランド語でも良さそうなものだが、念のためにスタンザ語で会話する。リタの気の利かせ方はさすが、異国でもまるで揺らがない。
そして、少女のこの怯え方を見たところ、この子が毒の入った料理をそうと知って持ってきたことは、どうやら間違いないようだ。……まだ幼く、十より上には見えない、こんな子どもに。
(昨日も思ったけど、スタンザ帝国は子どもの扱い方が雑すぎるのよ。未来を担う国の宝であるはずの子どもたちを、当たり前の顔をして大人が虐げるなんて)
内心憤りつつ、ディアナはちらりと、背後のルリィへ視線を送った。使用人同士の人間関係に聡いルリィなら、この少女がどこの誰に仕えている者なのか、短い時間で割り出せるだろう。ディアナの意図を正しく理解したらしいルリィは、黙って一つ、首肯を返してくれる。
それに感謝の目礼を返してから、ディアナは改めて、震えている少女へと近付いた。
《大丈夫? 怪我はありませんか?》
《は……っ、》
《落ち着いて。ゆっくりと呼吸をしてください》
できるだけ穏やかに話しかける。声も満足に出せない様子の少女を追い詰めるつもりはないが、このままでは単純に、この廊下が危ない。見たところこの後宮、靴を許されているのは側室か上級使用人だけで、この少女のような下級侍女は裸足だ。割れた陶器の破片が残っていては、誰かが怪我をするだろう。
《見知らぬ異国人であるわたくしどもを見て、驚かれてしまったのね。申し訳ないことをしたわ》
《あ、あの……》
《落としてしまったものはなぁに? ……破片からすると、花瓶か何かかしら》
《え、と……》
《代わりになるかどうかは分かりませんが、後ほど、国からお持ちしたものを差し上げましょう。わたくしのせいで割れてしまったものなのだから》
王宮が用意してくれた備品ならばディアナの一存であげたりすることはできないが、今回ディアナが持ち込んだ贅沢品の数々はクレスター家がディアナに与えた私物なので、堂々と勝手なことができる。……こうなってみると、わざわざ国使団の準備を貧相にしてくれた保守派のお歴々にお礼を言うべきかもしれない。
ディアナは敢えて花瓶の届け先も少女の名前も聞かず、そのままリタを振り返った。
《リタ。掃除道具はあったかしら?》
《お部屋にはございました。取って参りましょうか?》
《えぇ、お願い。破片が散らばったままじゃ、危ないから》
ディアナの常識的な言葉に、何故か周囲がどよめいた、そのとき。
《まぁ。エルグランド王国とは、随分と下賤の国でいらっしゃるのね》
廊下の奥の方から聞こえてきた、声も言葉の内容も高飛車な、驚くほど直接的な嫌味。軽く驚いて声が聞こえてきた方を振り仰ぐと、一目で金と手間暇がかかっていると分かる衣服を身に纏い、有り余るほどの宝飾品をじゃらじゃらつけた女性が、大勢の侍女を引き連れて悠然とこちらへ向かってくるのが見えた。浅黒い肌に瑠璃色の瞳、腰まである艶やかな黒髪は複雑華麗に編まれている。エルグランド王国にはなかなかいないタイプではあるが、文句なしの美女であることは確かだ。
彼女の姿を見るなり、周囲は一斉に目を伏せて道を空ける。ある程度の身分はあるだろうと思われる側室らしき女性も、例には漏れない。
側室すらも気を遣って道を空ける、身分ある女性。見たところ歳はまだ若く、ディアナとそう変わらなさそうだ。皇女か、あるいは皇帝陛下の寵姫か。
ディアナの前まで悠々と歩を進めたその女性は、ゆったりと一礼した。
《お初にお目にかかります。皇帝陛下より後宮の一室を許されております、ヴィヴィアン・クスプレオと申します》
《ご丁寧にありがとうございます。エルグランド王国国使団が長、ディアナ・クレスターにございます》
挨拶に挨拶を返しながら、ディアナの頭はフル回転する。女性――ヴィヴィアンの姓はクスプレオ。確かこの国では、側室から生まれた皇子皇女は例外なく、スタンザウムの姓が与えられる。普通に考えれば、スタンザウムと名乗らない彼女は側室ということになるが。
(クスプレオ、って確か……)
《昨晩ご紹介頂いた側室方の中に、クスプレオと名乗るお方がいらっしゃいましたね。確か、イライザ様……大勢のご側室の中でも一際美しく、皇帝陛下からのご寵愛とご信頼も厚いお方とお見受け致しました》
《勿体ないお言葉ですわ。異国の国使様からそのようなお言葉を賜ったと知れば、母も喜ぶことでしょう》
《イライザ様が、お母君でいらっしゃる?》
《えぇ。ですがわたくし自身は、スタンザ皇室と血の繋がりはございません。母は最初の結婚相手である父を亡くした後、畏れ多くも皇帝陛下直々に見初められ、側室として後宮に上がりました。その際、皇帝陛下の慈悲により、母の娘であるわたくしもお部屋を頂けることとなったのです》
なるほど。言うなれば彼女は、側室イライザの連れ子というわけか。エルグランド王国では、連れ子は自動的に新しい家の養子となるが(母親の連れ子のほとんどは新しい父親の姓に変わる。ごく稀に、総領娘に子連れの男が婿入りすることもあるが、その場合は当然総領家の養子となり、姓も総領家のものとなる)、スタンザではそういうわけでも無いらしい。さすがにスタンザ皇室事情にまで精通しているわけではないので、ヴィヴィアンが稀少例なのか慣例通りなのか、そこまでは分からないが。
ふむふむと考えているディアナの前で、ヴィヴィアンはころころ笑う。
《さすが、国使様は噂に違わぬお方ですわね。祖国の国王陛下と後宮だけでは物足りず、我がスタンザの皇帝陛下と後宮まで手中に収めようとしていらっしゃるなんて、実にお志高くていらっしゃるわ》
《……まぁ。そのような畏れ多いお話、どちらから流れてきたのでしょう?》
《ご謙遜なさらないで。わたくし、国使様をご尊敬申し上げているのです。やはり、女として生まれついた以上は、その利点を存分に活かして上を目指しませんとね。国使様のように美麗なお姿に生まれついたのなら尚更、それは天が国使様へとお与えになった、素晴らしい宝なのですから》
(今度のイヤミは、それなりに遠回しかしら?)
ざっくばらんに解釈すれば、「綺麗な顔と体に生まれついたからって、自国だけじゃなく他国の王まで籠絡しようとするなんて、どれだけ欲深いんだアンタ」という盛大なイヤミだろう。エルグランド王国のお貴族方ほど分かり難くは無いが、やはりスタンザ帝国の上流階級でも、遠回しなイヤミ話法はそれなりに親しまれているらしい。
《そのような……あまりお気遣いなさらないでくださいませ。わたくし、それほど大した女ではございませぬゆえ》
《ふふ。己を慎み深く見せることもまた、必要ですものね。しかし、昨晩の宴だけで皇帝陛下のご寵愛深い側室の名を覚え、そつなく褒めてみせるなんて、この後宮を狙っていなければできないことですもの。過ぎた謙遜は、却って卑屈に映りますわよ》
《いいえ、まさか。ご挨拶くださった方々の御名は一度で覚えるようにと、幼い頃より厳しく躾けられて参っただけにございます。それに、イライザ様にはとても親切にして頂きましたから、特に印象に残ったのですわ》
幼い頃から「領民たちの名前は可能な限り一度で覚えた方が良い」とデュアリスに躾けられてきたことは確かだし、イライザには実際昨晩、宴の終わりにディアナの寝室までついて来ようとした皇帝を嗜めてもらったという恩がある。ので、嘘は一つもついていない。
ディアナの緩い反論に、ヴィヴィアンはどこ吹く風で笑って。
《ですが国使様、さすがに下賤のお仕事を取り上げるのは、卑屈が過ぎましてよ。掃除道具など、高貴なお方が持つものではありませんでしょう。そのようなお振舞いは、エルグランド王国の格を下げてしまいかねません。――ただでさえ、そのように野蛮ではした無いお衣装のお国なのですから》
《は、はぁ……?》
《まぁ、お分かりになりませんの? 婚姻を結んだ殿方以外の前で、そのように胸を強調した露出の多い衣装で歩くなど、慎み深く貞淑なスタンザの女性であれば、身を裂かれても拒むことでしょう。スタンザで堂々とそのような服を着て外を歩くのは、自らの身体を売り物としている最下層の女くらいです。お衣装の違いはお国柄ゆえ仕方ありませんが、スタンザでは最も卑しいとされている女のような格好を高貴なお方が好んでされているのだという現実は、重く受け止められた方が賢明かと存じますよ》
……なるほど。あくまでも国使として自国流を貫けば、エルグランド王国そのものが娼婦だらけの国だという悪印象を持たれかねないぞという、遠回しな脅しか。ストレートなイヤミを忠告という殻で包んで脅しに繋げるとは、ヴィヴィアンというこの女性、なかなかに高度な会話術を使う。
(それにしても、服装か……)
ヴィヴィアンの言う通り、当たり前だが国によって服装はそれぞれ違うわけで、仮にエルグランド王国の貴族女性の正装がスタンザ帝国の性風俗業の衣装と似ている部分があったとしても、それこそ偏見の一言で終わる。し、ディアナ自身は正直なところ、娼婦に間違われたところで痛くも痒くも無い。貴族社会での評判が超遊んでる女な時点で、ある意味似たようなものだ。そもそも、自分自身や家族を養うために、自らの身体を商売道具にすることを選んだ彼、彼女たちのどこが、卑しく野蛮なのか。
そうは思うが、それはあくまでもディアナ個人の感情であって、皆の気持ちはまた別かもしれない。ディアナはエルグランド王国国使という立場上、エルグランド王国の衣装を脱ぐつもりはないけれど、各々がどうしたいかは、一度話し合った方が良さそうだ。
そこまで考えてから、ディアナはにっこりと、特大のイヤミをぶつけてスッキリした様子のヴィヴィアンへ笑いかけた。
《ありがとうございます、ヴィヴィアン・クスプレオ様。ご親切にも助言を頂きまして》
《な……んですって?》
《わたくしども、スタンザ帝国の文化には不慣れゆえ、今後も何かとお気に触ることがあるかもしれませんが、どうぞご忌憚なく仰ってくださいませね。――エルグランド王国は、王族に対し不躾な言葉を放ったからとその場で手打ちにするような、野蛮な未開の国ではございませんので》
ディアナが特大の笑顔で放った最大級のイヤミ返しに、ヴィヴィアンの顔が真っ赤に染まる。スタンザウムの姓を許されていない以上、ヴィヴィアンが皇族身分でないことは確かで、ということは建前上、準王族であるディアナの方が、期間限定ではあるが身分は高い。「仮にも準王族であるわたくしに対し、少々言葉が過ぎるのではないか? エルグランド王国の王族が、皇族や寵姫だからと民に横暴な振る舞いをするスタンザ皇室のようでなかったことを感謝せよ」というディアナの痛烈な一刺しは、正しく伝わったようだ。
真っ赤になったヴィヴィアンが笑顔のディアナから目を逸らしたところで、奥の方からぱたぱたと、箒を持った少女たちが駆けてくる。騒ぎを聞きつけ、掃除に来たらしい。
係の者が来てくれた以上、部外者がすることはもう無い。ディアナはドレスの裾を華麗に捌き、ヴィヴィアンに《では、ご機嫌よう》とにこやかに会釈して、彼女の横をすり抜けた。
《……後悔、しますわよ》
通り過ぎたところで物騒な言葉が聞こえたが、それは聞かなかったことにして。そのままゆったりと歩いていくつか廊下を渡り、気配を読んで人気の少ない方へと足を運び、遂に誰もいなくなったところで、ディアナは足を止めた。
「はー……びっくりした」
「まさかの、感想それ?」
しんがりを守ってくれていたカイが、くすくす笑う。ディアナは真面目に頷いた。
「いやだって、来て早々あんなストレートに喧嘩売られるなんて思わないでしょ普通」
「下賤だの野蛮だの……よくまぁ言いますよね、あんなこと」
「いくらエルグランドの正装が胸を強調するデザインでも、ディアナ様が娼婦に間違われるなんてあり得ませんよ。ここまで豪華で手の込んだドレスを着ている娼婦は居ません」
「まぁ別に、間違われたところで害はないけどね。外を歩いてて襲われたら、返り討ちにすれば済む話だし」
アイナの憤慨にはそう返し、「というか、」と素朴な疑問を口にする。
「肌の露出度で言えば、正直な話、エルグランド王国よりこっちの方が激しいわよね? あの暑そうなベールの下がほとんど下着みたいな格好で、ちょっとびっくりしたのだけれど」
「あー、ですねぇ。胸だけ隠しているような上半身と、巻きスカートと、裸足にサンダルですもの。外出するときはベールで全身覆われているのかもしれませんが、家の中でアレでは、あまり貞淑とは言えないのでは」
リタの発言に、ミア、ルリィ、アイナの王宮組がうんうん頷き、外見だけ美女に化けているカイは全力で苦笑している。女の明け透けな会話に男は口を挟むモノではないと、賢く察しているようだ。
――そう。昨日、案内されてスタンザの後宮に初めて足を踏み入れた際、ディアナと王宮組が心底衝撃を受けたのが、住人たちの服装だった。てっきり街で見かけた民衆たちと同じく、全身をベールで覆って生活しているのかと思いきや、そこは実に色鮮やかな華やかさに満ちていたからだ。
色鮮やかなだけならば、エルグランドの後宮でもそれなりに見慣れている。驚きはしても、衝撃までは覚えなかっただろう。――彼女たちの衣服デザインが、とんでもなく露出の多いものでなければ。
「エルグランド王国のドレスって、実はそれほど肌の露出多くないのよね。足は完全に隠れてるし、正装なら指先までグローブに覆われて、腕がちらっと見える程度だし。今は胸の大きい女性が美人って時代だから、若者の間では特に胸を強調するデザインが人気ではあるけども、それだって絶対じゃない。首辺りまで覆われたドレスだってあるわけだから」
「ライア様がよく、襟元豪華なドレスを選んでいらっしゃいますよね。華やかなお顔がよく映えて、本当にセンスが良い方だなぁと常々思います」
「そう考えれば、エルグランド王国のドレスで確実に露出する箇所って、実はお顔と頭くらいなのでは?」
「だと思いますよ、ルリィ。ディアナ様も『紅薔薇様』仕様のときはこんな感じのお衣装ですけれど、普段はお色気の欠片もないような、首元まであるお服がお好みですよね?」
「服は別に、色気を出すためのものじゃないでしょ……こういう服って、胸を強調するために下着をきつめに締めなきゃだから、単純に苦しいし動き辛いのよ。初めて大人用のドレスを着せてもらったときのこと覚えてるけど、軽い拷問かと思ったわ」
苦しくはあるが、コルセットを締めた時点で少なくとも胴回りは隠れるため、エルグランド王国では高貴な女性がお腹周りを露出することは、それこそ夜の寝台で夫や恋人と睦み合うとき以外あり得ない。足元も同様で、今はかなり意識が変わってきたものの、一昔前はうっかり男性の前で走って踝を見せようものなら、「誘っている」と解釈されてその場で押し倒されても文句は言えなかった。
そんな国から来た身としては、いくら身内しか居ない室内でとはいえ、上半身は布一枚で胸を覆っただけ、腰から下は膝下丈の巻きスカート、もしくはサルエルで、靴もまるで足を隠さないサンダルという服装は、下着よりなお軽装という印象が拭えない。皇帝陛下以外の男性の前では徹底的に隠すのかと思いきや、昨晩の宴では少数ながら、同席を許された男もいた。側室たちはそんな彼らの前で室内時の格好をしていたのだから、ディアナは心中でずっと、首を盛大に捻っていたのだ。夫以外の男に肌を晒すべからずという貞淑なスタンザ女性の概念、どこ行ったと。
「ベールの下まで厚着じゃ、日中の気温がものすごく高いこの国じゃ大変だろうから、家の中では涼しい格好をするのが合理的だというのは分かるのよ? でも、何というか……あの格好で『露出が多い』って言われても、いまいちピンと来ないわよね。どう見たって、出ている肌面積はあちらの方が多いもの」
「あの方は恐らく、謁見の間で不特定多数の男性を前にエルグランド式のドレスでいらしたことを、揶揄していらしたのでしょうけれど」
「だとしてもよ、ミア。その理屈だと、昨夜のご側室方はどうなるの?」
「スタンザ帝国で禁忌とされているのは、〝夫の許しなく〟夫以外の男性に肌を見せる行為です。皇帝陛下が許して宴に招かれた方の前で側室方がベールを脱ぐのは、禁忌には当たりませんよ」
「あくまでも、夫の気分次第なわけね。エルグランド王国でも、特に貴族階級では、女を男の付属物のように扱う風習が根強く残っているけれど。スタンザ帝国はエルグランド王国以上に、女性の自由が少ないみたい」
分かってはいたが、面倒な国だ。一度大きく伸びをして、ディアナは深く呼吸する。
ディアナの気持ちを察したか、カイが苦笑したまま切り出した。
「どこの国でも、男ってのは勝手で支配欲旺盛で、ついでに色欲に忠実ってことなんだろうね。この国の女性の服装なんか、あからさま過ぎて笑えてくる」
「あからさま、って?」
「分かんない? 外出するときはもちろん、家の中であっても、男の来客があれば夫の許しなしにベールは脱げない。夫以外の前で肌を晒すことは禁忌、なんでしょ?」
「えぇ。だから、勝手で支配欲旺盛だっていうのは分かる。けど、色欲に忠実って?」
「女の人には、理解し難い感覚かもなぁ……。夫以外の男の前ではベールを被った貞淑な妻、けれど唯一ベールを剥ぐ資格のある夫の前でだけは、肌を露わにする〝女〟。そういうシチュエーションに唆られる男は、割と多いってことだよ」
「ふぅん……?」
説明はしてもらえたが、イマイチ理解が追いつかない。ディアナが首を傾げた横で、リタが心なしか冷たい目をカイに向けている。
「つまり、あなたもそういう男の一人ということですか?」
「俺? 俺は好きな娘だったら何でも良いよ。ドレスだろうが下着だろうがベールだろうが、一律で燃える自信ある」
「それ、節操なしとも言いません……?」
「言わないでしょ。好きな娘限定だもん」
「好きな人限定の節操なし……」
「ディアナ様、大丈夫ですか……?」
「そこでどうして私に振るの」
何故か本気で心配そうなアイナの問いに、真顔で突っ込む。ミアとルリィが顔を見合わせてため息をつき、リタは呆れ顔になり、カイは困ったように笑った。
皆の様子にまた首を傾げつつ、ディアナは軽く周囲の気配を探る。
(慣れない異国でいきなりケンカ売られたせいか、少し疲れたかも。植物と触れ合って癒されたいな……)
――ディアナが喚びかければ、その土地の植物は大抵応えてくれる。今も、ディアナの心を察してくれたのか、更に奥の方から〝声〟がした。
「ちょっと、あちらへ行ってみましょう」
「唐突ですね」
「緑と触れ合いたい気分なの」
「なるほど?」
リタとやいやい言いつつ、奥へと進む。少し狭い、道なのか隙間なのか分からないようなところを通り抜けたところで、カイが静かに鋭く「ディー」と声を上げた。
「どうしたの?」
「この先、人がいるよ。危険な感じはしないけど、気をつけて」
「……分かったわ」
カイが『通詞』を発動させたのを確認してから、改めて奥へと進む。角を曲がった先には――。
(はな、ばたけ……?)
それほど広い庭ではない。けれどそこには、色とりどりの、溢れんばかりの可憐な花が咲き誇っていた。もうそろそろ冬へ向かう時季だというのに、まるでこの庭だけ、季節が春で止まっているかのようだ。
そして、その花畑の中央には――。
《あ――》
慣れた手つきで花がらを摘み取る、小柄で可憐な、咲く花の妖精のような少女がいた。緩やかに編み下ろされた金の髪は太陽の如く輝き、灰色の瞳はどこか神秘的に青みがかっている。優しげな顔立ちは、見る者に警戒心を抱かせない。
《これは、失礼を致しました。異国の……エルグランド王国よりいらした、国使様でございますね》
口から流れ出る言葉も、纏う雰囲気を裏切らない優しげなもの。近付くディアナに対し、淑やかに一礼して。
《私、こちらの後宮にてお部屋を賜っております、アルシオレーネ・バルルーンと申します。エルグランド王国よりいらした国使様を、心より歓迎致します》
《ご丁寧な挨拶、痛み入ります。エルグランド王国国使団の長を務めております、ディアナ・クレスターにございます。……失礼ですがアルシオレーネ様、ご家名をバルルーンと仰いましたか?》
《はい。バルルーン家とエルグランド王国には、深いご縁がございます。かつて、今の御当主様の妹君が、エルグランド王国より留学にいらしていたお方と恋に落ち、婚姻を結ばれたそうで》
《やはり、そうでしたか。そのお方の名は、ローレン。ローレン・ストレシア様でございましょう?》
ディアナの言葉に、アルシオレーネと名乗った少女は、神秘的な青灰の瞳を大きくさせた。
《ご存知なのですか、ローレン様を?》
《もちろんですとも。ストレシア侯爵ご一家には、大変お世話になっております。閣下と奥方様はもとより、お嬢様のライア様には言い尽せぬほどの御恩がありますの》
《まぁ。御当主様の姪御様ですね。お元気でいらっしゃいます?》
《無論のことです。今回、わたくしがスタンザ帝国へ参る際にも、たくさん助けて頂きました》
スタンザ帝国へ来て、スタンザ人とエルグランド王国人の話ができるとは思わなかった。ストレシア侯爵家は、今となってはほとんどバルルーン家と音信不通らしく、細かい近況は分からないと言っていたが……アルシオレーネの様子を見るに、当主の娘ではなさそうだから、分家からバルルーン家の娘として後宮へ上がった、という感じだろうか。
《それにしても、実にお見事な庭園ですね。こちら、アルシオレーネ様が?》
《はい。……父が、長年植物の研究をしておりまして》
《まぁ》
《スタンザの植物は、水が少なくてもたくましく育つが、華やかさに欠ける。花の時期も短い。エルグランドの植物は華やかだが、水がなければすぐに枯れる。ならば、その両方を掛け合わせれば、水が少なくとも華やかに咲く花が生み出せるのではないかと》
《……素晴らしいわ》
ディアナも『賢者』の一族として人工的な交配の可能性には気付いていたし、いくつか試した記録を実家の地下に保管してある。けれど、例によってその知識は静かに眠り、いずれは目新しくもない当たり前の知識となるはずだった。……その〝いずれ〟が生きている間に訪れるのは、『賢者』の一族にとって何よりも嬉しいことだ。
(……海を超えた先で、こんな景色を見ることができるなんて)
世界はときに、『賢者の慧眼』すら飛び越える。だからこそ面白くて、目が離せない。
《こちらのお花、形はマァリに似ていますね》
《マァリをご存知なのですか? えぇ、ベースはマァリです。そこにナーバと、それからモモノを掛け合わせたと、父は申しておりました》
《なるほど。良い掛け合わせです》
マァリは水が少なくても枯れはしないが、花が咲くのは一年に一度、雨季だけと決まっている。
モモノはエルグランド王国ではよく見かける花で、一年に二度、春と秋に花を咲かせることで知られている。その分水が多く必要で、雨の多いエルグランド王国では問題なく繁殖するが、スタンザ帝国では育てることが難しい。
そして、全く違うように見えるこの二種類の植物、実はナーバという多年草から分岐進化した、同種の植物だということが分かっているのだ。ナーバはエルグランド王国でもスタンザ帝国でもよく見かける、畑を作れば勝手に生えて定期的に抜かねばならない、いわゆる雑草である。繁殖力と生命力ピカイチな、エルグランド人なら誰もが見たことのある身近な植物第一位であろう。ちなみに、ナーバの花は驚くほど小さく、散って種になるのも早いのであまり知られていないが、よくよく見れば実に可憐な形をしている。
(マァリとモモノを掛け合わせるのに、そのままだと遠過ぎるから、間に同じ先祖のナーバを挟んだのね。実に合理的で、有効的な一手だわ)
こんな学者が存在しているとは、世界はやはり、驚くほど広い。可能ならばぜひ、会って話を聞きたいものだ。
《国使様は、お花に詳しくていらっしゃるのですか?》
《はい。生き物全般がとても好きで、特に植物には幼い頃から親しんでおります》
《そうなのですね! スタンザ帝国ではあまり、趣味でお花を育てる人が居なくて……》
《育てようにも、気候が邪魔をしますからね》
《えぇ。だからこそ父は、スタンザの気候に合って、かつ人々の目と心を楽しませる花を生み出したいと》
《素晴らしいお父様ですわ。こちらの花の種も、お父様から頂いたのですか?》
《いえ……父から貰ったわけではないのですが、父が生んだ花であることは確かです》
少し寂しげな表情で、どこか遠くを見つめながら、アルシオレーネはぽつりと呟く。
彼女の表情に何となく素通りできないものを感じて、ディアナは一歩、近づいていた。
《アルシオレーネ様。またこちらの庭園にお邪魔しても構いませんか?》
《そ、それはもちろん。ですが、このような花畑など、エルグランド王国の方々には珍しくもないものでしょう》
《いいえ。これほど丁寧にお世話されたお庭は、滅多にお目にかかれません》
《国使様……》
《差し支えなければ、ディアナとお呼びください。わたくし、地位や役職名で呼ばれるのは、あまり慣れていないのです》
《……よろしいのですか?》
《もちろん》
《ではあの……私のことも、レーネと。アルシオレーネは少し長くて、異国の方には呼びづらいでしょう》
《そのようなことはありませんが……お心遣いは、ありがたく頂きますわ。――レーネ様》
レーネの控えめな微笑みに、ディアナも笑顔を返す。
二人の間を、涼しげな秋の風が吹き抜けた。
――もうすぐ、太陽が中天へと昇る。
スタンザ編を書くにあたり、色々な民族衣装の書籍を参考にしているのですが、衣装一つ取ってもその国の歴史や風土が垣間見えて、実に面白いです。
日本の十二単などもそうですが、たかが服、されど服。衣装について深く学べば、着ている人々の生活習慣まで浮かんでくるというのは、奥が深いですね。




