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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
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決意を胸に

いつも感想、誤字脱字報告、ありがとうございます!


 様々な思惑を孕みながらも、表面上は和やかに幕を閉じた側室会議。

 そんな昼間の諸々を思い返しながら、ディアナは今一人、『紅薔薇の間』の寝室にて読書に耽っていた。


(……やっぱり、スタンザ帝国の宮廷について詳しく書かれている本をエルグランド王国で見つけるのは難しいわね。スタンザ帝国の文化風土とか、歴史の概略程度なら本になってはいるけれど、それだって実際にスタンザを見聞きした人が纏めたものは少ない)


 スタンザ帝国の正確な地図すら、スタンザ帝国へ移住したクレスター家の親戚が居なければ手に入らなかったのだ。貿易が全面解禁された頃とは違い、今は二国間で学生の交換留学なども行われているのだから、地図くらいあっても不思議ではないはずだけれど。


(にしても――広い国)


 エルグランド王国とて、決して小さな国ではない。クレスター家屈指の馬術を誇るディアナの祖父が、馬を交換しながら最速で王国の最北東から最南西まで突っ切るとなると、二週間は確実にかかると言っていた。しかしそれも、半分人間を辞めて馬と同化しているような祖父だからできる常識外れであって、普通はもっとかかる。遠駆けでなく馬車を使うとなると、一月では足りないかもしれない(この国の王が毎年律儀に一ヶ月かけて視察をしているのは、一月の視察を三回繰り返してようやく全領土を回り切れるくらい、国が広いからである)。

 しかし、地図で見る限り、スタンザ帝国はエルグランド王国以上に広い。ざっと見た感じ、国土の総面積はエルグランド王国の二倍弱といったところか。


(世界的に見て、エルグランドやスタンザの国土面積って広い方なのか狭い方なのか……考えてみれば私たちエルグランド人って、話に聞いたことがあるだけで、世界にどんな国があってどんな人々が暮らしているのか、その実態をほとんど掴んでいないのよね。この世のどこかに、世界全体を記した地図を作っている人とかいないのかしら。たった一人で測量するにはこの世界は広過ぎるけれど、たとえばあちこちの国の地図を繋ぎ合わせて、一つの地図を作るとか。それなら、それぞれの国で地図を作っている人に協力を呼び掛ければ、一生の間には完成できそう)


 ディアナは手元にあるスタンザ帝国の地図と同じ縮尺のエルグランド全図を引っ張り出し、何となくで合わせてみる。――合わせて、眉根を寄せた。


「これじゃダメね……」

「――何が?」

「縮尺が合ってても、国の間にある海がどの程度の広さでどんな形なのか、分からないもの。エルグランドとスタンザの総合地図を作るには、二国の地図だけじゃなくて間にある海の地図もなくちゃ……って、カイ」


 そろそろ、この神出鬼没な隠密に突然話し掛けられて、違和感なく答える癖をどうにかしたい。つい先ほど、書棚からエルグランド王国の地図を取り出したときは、カイの姿は確かに室内のどこにも見えなかったし、気配も感じ取れなかったのに。慣れたといえばそれまでだけど、コレに慣れてしまうと不意の侵入者への対応もワンテンポ遅くなってしまいそうだ。


「いらっしゃい。何か食べた? サンドイッチあるけど」

「ありがと、もらう。……なんか最近、俺がこの部屋でメシ食べるの当たり前みたいになってきてるよね」

「あなたが見つかる危険を侵して厨房とか倉庫から食糧くすねるより、こっちの方が効率良いでしょ。前は犯罪だったけど、今は陛下の了承取り付けてるから、私たちも堂々とカイの分置いとけるし」

「前にそれしてたのは、『クレスター家と関わるな』って父さんの言いつけがあったからであって、今は『闇』の人たちの交代に合わせて食糧届けて貰えば済むんだけど……」

「シリウスなら確実に、『闇』が一々食糧運ぶより、三食きっちり食べてるこちら側がカイの分の食事も用意しておいた方が良い、って判断するでしょうね」

「そっくりそのままそう言われたね。『お前の食事管理は、我々よりもディアナ様の方が適任だ』ってさ」

「シリウスに同感。あなた、放っといたらホントにご飯食べないもの」

「丸一日寝食忘れて書庫に籠るディーに言われたくない」


 ……それはアレか、スタンザ帝国の国使団が来国することになって、里帰り中に大急ぎでスタンザ語の基礎を詰め込んだときのことか。確かにあの頃は、食事も睡眠も、周りに言われなければ適当この上なかったが。

 ディアナと軽口を叩いている間に、カイは皿の上のクローシュを外し、サンドイッチをもぐもぐしている。


「あ、美味い。具材、ハムエッグだね」

「えぇ。今日のメインがハムステーキだったから」

「俺、後宮(ここ)に詰めるようになって初めて知ったけど、この国の王族サマって意外と庶民的なもの食べてるんだよね。ハム肉なんて、俺でもそこそこ仕事頑張れば買えるくらい安いし。なんか勝手に、毎日豪華なフルコース食べてると思ってた」

「ひょっとしたら陛下や王太后様より、侯爵家とかの夕食の方が豪華かもね。基本的に社交期間(シーズン)は夜会でビュッフェ食べるし、それ以外の時季も夕食時にはお客様招いて晩餐会するのが、古参貴族の慣例みたいになってるところあるし。けど真面目な話、そんなに毎日豪勢な料理食べてたら、身体壊すわよ。栄養が足りないのも健康を阻害するけれど、栄養過多状態が長年続いても不健康になるのが人間だもの。摂取した分の栄養を消費していれば問題ないけれど、身体を激しく動かす趣味をお持ちの方は少数派だろうし」

「だから、何もない日の王族サマの食事は質素なんだ?」

社交期間(シーズン)は特にね。最低でも週の半分は、晩餐会の予定が入るから。リファ小母様……リファーニア王太后様は特にそういったご予定を入れていらっしゃらないけれど、小母様のお食事管理はある意味この王宮中の誰よりも厳しいわよ。今は特に、なかなかお外で身体を動かすことができないから、あの抜群のプロポーションを保たれるために、相当努力していらっしゃるわ」

「スゲー。女の人の肉体美って、努力の賜物なんだねぇ」

「男の人だってそうでしょ? 『筋肉は使わないとあっという間に落ちる』って、社交期間(シーズン)中は特に、お兄様がよく愚痴ってるもの」

「あ、それはある。正直、去年まではあんまり考えたことなかったけど。馬に乗る機会が圧倒的に減って、足の力弱まったなって実感したことあるよ。これまでは自然と鍛えられてた部位だったけど、これからは意識して力を落とさないようにしないとなーって」


 喋りつつサンドイッチを完食したカイに、ディアナはお茶を注いだカップを渡して。


「男女関係なく、体型維持や筋力保持は大変ってことね。そのためにも、食事は大切」

「言ってることは分かるけど。ディーは忙しいと、まず食事から抜くよね?」

「普段から栄養不足状態じゃなければ、一食二食抜いたところで死にはしないもの。それより水分不足の方が危ないから、食事は抜いても水は飲んでるわよ? 余裕があればお茶淹れて飲むようにしてる。そっちの方がお茶の栄養も摂取できるしね」

「……人の食事は気にするくせに。そういうの、矛盾って言わない?」

「言わないわ。私はリファ小母様と違って、別に抜群のプロポーションを保つ必要もないし、そうしたいとも思わないし。あなたやお兄様みたいに、筋力と仕事の能率が直結するわけでもないもの。太り過ぎは寿命を縮めるから、食べ過ぎることがないようにだけ気をつけてる。あと、運動ね。後宮だとどうしても運動不足になっちゃうから、意識して身体を動かさないと」

「……まぁ、ディーは別に、ストイックに体型管理しなきゃいけない状況にないか」

「そういうこと。だいたい、この国の貴族女性の『理想のプロポーション』って時代によって全然違うからね。今はリファ小母様みたいにメリハリのある身体つきが持て囃されているけれど、一昔前はちょっと太り過ぎじゃない? ってくらい豊満な体型が理想とされてたし、それより前は逆に栄養不足を深刻に心配しなきゃいけないくらいスレンダーな女性が最高の美人って言われていたもの。私はたまたまこの時代の流行に合う体型だけど、胸の大きさなんか自分でどうにかできるわけでもないし、考えてみれば理不尽で勝手な話だわ」

「……それ、多分に男側の好みの都合もある気がする」

「あぁ、夜の営み的な意味での?」


 大変珍しいことに、お茶を飲んでいたカイが盛大にむせ込んだ。ディアナとしては単なる相槌程度の感覚だったが、カイからすれば想定の範囲外の返しだったらしい。

 ちょっと驚きつつ布巾を渡して、何となく背中を叩く。


「大丈夫?」

「いやうん……大丈夫。前から聞きたかったんだけど、ディーってそっち方面の知識、どの程度あるの?」

「どの程度って……一般常識程度よ?」


 カイから困惑の表情が抜けなかったため、ディアナはもう少し詳しく説明する。


「男女の身体の仕組みと、女性が子どもを胎内に宿すまで、具体的にどういった行為を経ているのか。単純に子どもを宿すためだけじゃなく、恋愛関係にある男女が互いの愛情と信頼を交わす目的でも、そういった行為は営まれること。行為そのものが生み出す快楽を目的に、〝遊び〟として求める人もいること――とか」

「……この国のお貴族サマの一般常識と、普通に生きてる人の一般常識には、割と齟齬があると思う」

「あー……」


 カイのもっともな指摘に、ディアナは少し考えて頷いた。


「言われてみれば……貴族の常識ね、これは」

「だよね。俺は仕事上避けては通れないから、専門の人たちから一通りのレクチャーは受けたけども。この国の平均初婚年齢考えたら、十代でその手の知識豊富な子は割と〝進んでる〟部類だよ」

「貴族の子女は、遅くても社交デビューまでには、いわゆる〝子作り〟が具体的にどういう行為を指すのか教わるわ。デビューして成人と認められるということは、建前上、いつでも結婚できるわけだからね。それこそお祖母様の時代じゃ十五、六歳で嫁ぐのは当たり前だったし、お母様の頃でも散見されたらしいし、今でも全くないわけじゃないから。デビュー前には分かっておかないと」

「ひょっとして、お貴族サマ的には必修だったりするの?」

「大概の令嬢教育の座学を『まぁこういうコトもあるわよね』的に流したフィフィ叔母様が、割としっかり時間をかけて教えてくださった部分だから、たぶんそうなんじゃない?」


 とはいえフィオネの教えは、行為そのものについてと、もしもそういう行為を無理やり迫られた場合どう切り抜けるかが、半々くらいの比率であったが。ディアナも遊び易そうな見目ではあるけれど、若かりし頃の二つ名がシンプルに『悪辣娼婦』だったフィオネにかけられた〝誘い〟は恐らくディアナの比ではなく、それゆえ教えられた〝撃退法〟は実にバリエーション豊富だった。見た目こそ大金巻き上げる系の娼婦でも、恋愛方面でのフィオネは実に一途かつ純情だったようで、「よくもまぁこんなに考えましたね」と言ったディアナに臆面もなく、「だって、ジン以外の男なんて死んでもごめんだったもの」と返してくれたものだ。

 呼吸を落ち着け、ベッドに座ったカイの横に、ディアナもちょこんと腰を下ろして。


「……そう考えると、貴族ってある意味、性教育しっかりしてるのかしら? というか、一般の人たちはその手の知識、いつ、誰から教わるの?」

「俺に聞かないでよ……さっきも言ったけど、俺だって必要に迫られて教わっただけなんだから。俺に言えるのは、普通に生きてる大多数のエルグランド人じゃ、間違いなくあんな教わり方はしないってことだけかな」

「……不本意だったの?」

「いや? 説明されて必要だと思ったから教わったわけだしね。別に不本意とか、嫌な思いしたとか、そういうことはないけど……ああいうことを遊び感覚で気軽にできちゃう人種が一定数いるっていうのが、純粋に不思議なだけ」

「あぁ……それは、心底同感」


 ディアナは未経験なので完全に読み齧り、聞き齧りの知識でしかないが、聞くところによるといわゆる性行為は、単純にとても気持ちの良いものであるらしい。まぁ、人間は他の動物と違って発情期があるわけではないので、行為そのものに原始的な快楽がなければ、そもそも行為そのものが営まれず、子孫が増やせないという生物的事情によるものだろうけれど。

 しかし、人間には思考能力があり、その思考によって生み出された社会があるのだ。快楽さえ得られれば相手は誰でも良いという姿勢は、ある意味生物的欲求に忠実なのかもしれないが、一つの社会に属する〝人間〟としてはいかがなものか。何よりも知を尊ぶクレスター家の一員としては、そんなことを考えてしまう。


「貴族の人たちも一定数は、割と気軽に〝遊ぶ〟もの。百歩譲って未婚なら、お互い将来のための経験になるかな、ってギリギリ好意的に受け止められるけど。結婚後まで遊びたがるのはさすがに擁護できないし、理解はもっとできない」

「てか、この国って一夫一妻制だから、確か浮気は犯罪でしょ?」

「……古い、ふるーい法律が、地味に生き残ってるのよ。『王族、貴族の男性は例外』って定めた、嫌な一文がね。正妻に子ができなかった場合、他所で子どもを作らないと家が途絶えるって理由で」

「何ソレ、時代錯誤も良いとこじゃん。この前エドワードさんに教えてもらったけど、後継ぎのいない家は近い血筋の親戚から養子をもらって継いでもらうのが、今では一般的なんでしょ?」

「えぇ、その通り。だからそんな条文まるっと削除すれば良さそうなものなんだけど、例によって保守派の猛反対にあって、議題に上がっては消えていくのを繰り返してるみたい」

「何で保守派は反対してるの?」

「『貴族家はともかく、王家の養子を認めるわけにはいかない』だって」

「あー、いつもの」

「そう、いつもの」


 カイは本当に頭が良いので、話がすらすらと進んでとても楽しい。……スタンザ皇子と学術討論しているときとは、また違った種類の楽しさだ。


「女の私に言わせれば、そんなのただの建前で、単に反対派の皆様方が自分好みの美女と遊べなくなるのが嫌なんじゃないのって邪推したくなる話だけどね」

「邪推どころか、八割方そうでしょ。この国のお貴族サマって政略結婚がほとんどらしいから、必ずしも好みの女の人と結婚できるとは限らないわけだし。好みの女じゃないと満足できないって馬鹿な野郎なら、堂々と浮気を認めてくれる法律を変えたいなんて思うわけない」

「……カイからすれば、そういう男の人は馬鹿なんだ?」

「うん、弩級の馬鹿。政略だろうが何だろうが、まず向き合うべき相手に向き合わずに自分の好みだけを優先させるような奴は、馬鹿としか言いようがないよね」

「厳しいのね……」

「厳しい、というか。顔とか体型とか抱き心地とか、そんなもの全部その時々で変わるし、自分自身の好みだって不変じゃないし。そんな曖昧なものを求めて浮気繰り返すなんて、シンプルに無意味じゃない? 無意味なことに心血注ぐ奴は馬鹿でしょ」


 ディアナとしてもその意見には全面的に賛成だが、カイの言葉には深い実感が伴っており、それが純粋に意外だった。


(そっか……。カイが〝教わった〟のって、もしかして実技なのかな。私みたいに座学だけじゃなくて)


 そう思った瞬間、何故か心がざわっとした。これまで感じたことのないそれは、どちらかといえばマイナス寄りの心情で、カイと話していて一瞬でもそんな気持ちを抱いたことに驚く。


「ディー? どうかした?」

「えっ……何が?」

「何がって、今、なんか落ち込んだ風に見えたから」


 ……このひとはこういうとき、流して欲しい部分を絶対に流さないから、油断できないのだ。何でもない、と誤魔化したところで白状させられることは、これまでの経験上だいたい想像がつく。

 少し考えてから、ディアナはカイから視線を逸らしつつ、口を開いた。


「別に、くだらないことよ。……カイは、顔とか体型とか抱き心地とか、そういうのがその時々で変わるって分かる程度には、色々経験してるんだなぁって思っただけ。私は頭でっかちに、知識詰め込んでるだけだから」

「え……そこ、張り合う必要まったく無いでしょ。俺は仕事上、色仕掛けの有用性と危険性を分かっとく必要があったから、技も含めて教わっただけだよ。ついでに言うと、教わっただけで、今のところ本番はしたことない」

「……そうなの?」

「俺の顔ってそれなりに整ってる部類に入るらしいから、顔だけなら色仕掛け系の仕事に向いてるんだろうけど。父さんも含めて、この道の先輩たちから『性格上絶対向いてないから、お前は色仕掛け回避の術だけ磨いとけ』って口揃えて言われてる」

「……色仕掛けのお仕事に、向き不向きがあるんだ?」

「色仕掛け系ほど向き不向きがはっきりしてる仕事もないって。単純に性技が上手いだけじゃ意味なくて、まず女の人に甘い言葉囁いてその気にさせなきゃ始まらないし、できれば前戯の最中に情報引き出すのがベストだから、最中の雰囲気壊さないように、やっぱり甘い言葉で女の人が話したくなるような聞き方しなきゃなんないし。超まどろっこしいよね、普通に首筋に刃物(ナイフ)当てて聞いた方が早いと思わない?」

「えぇっと……まぁ、そう、ね?」


 おそらく色仕掛けは、死の恐怖では口を割らないような意志の強い女性相手か、もしくは情報が漏れたことを相手方に気付かれるわけにはいかないか、そのような場面で活用される諜報手段かと思われるので、まず首筋に刃物を当てた時点でアウトだろうけれど、どうやらカイは本気で面倒がっている。……考えてみれば、実践で学んでいても、その感想が「コレが娯楽になるのが不思議」でしかないカイにとって、そもそも性行為はあまり魅力的なモノではなかったのだろう。


「噂で聞くほど、気持ち良いモノじゃないってことかな……」

「イイか悪いかで言ったら、イイとは思うけど。人によってはハマって抜け出せなくなるらしいし。でも別に、無理して知っとかなきゃいけないようなモノでもないよ。――心配しなくても、万が一、望みもしないのにディーがそんな行為を強いられそうになったら、俺がどんな手段を使ってでも阻止するからさ」

「そこは大丈夫。フィフィ叔母様から、そういう不届き者を追い払う手段は両手両足の指の数以上に仕込まれてる」

「それは知ってるけど……それってあくまでも、〝エルグランド王国の貴族社会の社交場〟って限定された場面での話でしょ?」


 これまでと変わらない調子の声で、凪いだ瞳で、カイは不意に切り込んできた。

 思わず顔を逸らそうとして、ぐいと身体ごと引き寄せられる。


「逃げないで、ディー」

「カイ……」

「昼間、お嬢ちゃんとやり合ってるときのディーを見て、だいたい分かったよ。たぶん、『紅薔薇の間』の侍女さんたちも、ライアさんたちも……シェイラさんも、分かったんじゃないかな」

「私……そんなに、分かりやすい?」

「〝ディー〟を知ってる人には、ね」


 ……そうだろうな、と冷静な自分が脳内で頷く。テーブルを回ったときのシェイラの視線も、挨拶を終えて戻ってきたディアナを出迎えてくれたライア、ヨランダ、レティシアの表情も、ディアナの決意を察して案じていると伝わってくるものだった。

 きっと、今、彼女たち全員がベッドの中で、ディアナの決意を覆すべく策を練っている。……ディアナが皆の立場なら、そうする。

 分かっているから、ディアナも同じように、皆を説得するだけの論説を組み立てねばならないのに。


「だめ……はなして、カイ」

「嫌だ」

「お願い。本当のことは、言いたくないの。なのにあなたはいつだって、私の本音を察して、拾って、大事にしまってくれる。……こんなの、あなたの負担にしかならない」

「ディーが、俺の負担? それ、まさか本気で言ってないよね?」


 ふと身体が軽くなったかと思うと、視界がぐるんと反転する。次の瞬間には背中に敷布の滑らかな感触が触れ、天蓋を背景にカイがディアナの瞳を覗き込んでいた。


「忘れてるなら、何度でも言うけど。俺は別に、クレスター家に雇われてるわけじゃない。俺がディーの傍にいるのは、俺の意志だよ」

「カイ……でも」

「ディーの傍にいるのも、ディーを守るのも、こうやってディーと同じ時間を過ごすのも。全部、俺がそうしたくてやってることだ。……もう一度、言おうか? 俺を案じて、俺を止めるな」

「……っ」


 耳元で、ほとんど囁くように、どこまでも傲慢で何より優しい言葉が吹き込まれる。とても静かなのに脳まで侵されるような強さに満ちたその声に、背筋がぞくぞく痺れて返す言葉さえ奪われた。


(どうして……)


 カイの熱は、想いは、いつだってディアナをおかしくさせる。カイといると、これまで知らなかった自分自身に気付く。

 ときには、理性までも奪われそうになって。知をこよなく愛する『賢者』の一族にとって、そんな存在は危険極まりないはず、なのに。


(このひとを、喪いたく、ない。……離れたくないって思うのは、どうしてなの?)


 それでも。――どれほど、〝このまま〟を願っても。


「……こわい、の」


 まるで深い星空のような紫紺の瞳に、貼り付けていた虚勢は剥がされて。握られている左手を、力なく握り返す。


「行くしかないって、分かってる。この事態を打開できるのは――エルグランド国使団を〝生きて帰せる〟可能性が現状一番高いのは、私だから。国使団派遣の流れが止められないのなら、私が出るしかない」

「……それを、どれほどディーが望んでいなくても」


 カイの言葉に、溢れそうになる涙を、ぐっと堪えた。


「スタンザ帝国は、未知数だわ。国の成り立ちは分かっても、肝心の宮廷内に味方はいない。……皇子殿下はもしかしたら、『自分しか頼る者が居ない状況下なら、心変わりするのも時間の問題』だと思っているのかもしれないけれど。そうやって、私のことは守るつもりでも、私の他に選ばれるであろう国使団の人たちはきっと眼中にない」

「……ぽいね」

「エルグランドの宮廷とは比べものにならないほど黒い陰謀が渦巻いている場所で、私は本当に皆を守れる? ……誰一人奪わせず、再びエルグランド王国へ帰ることが、できる?」

「ディー……」

「……皇子殿下も、こわい。あのひとが私へ向ける想いは、まるで鋭利に尖って残酷なまでに美しい氷柱のよう。恐ろしいのに、その透き通った美しさには、感嘆せずにはいられない」


 カイの熱い手が、ディアナの頬をゆっくりと撫でる。首筋を這う指先に、少しだけ心が落ち着いた。


「ディーが本気で嫌なら、どうしてもスタンザへ行きたくないのなら、俺は今すぐスタンザ皇子の息の根を止めてくる。……でもきっと、ディーはそんなこと、望まないよね?」

「……そうね。彼がエルグランド国内で命を落としたその瞬間、スタンザ帝国にはエルグランド王国を攻める大義名分ができる。自然死に見せかけようが、そんなもの、〝皇族が死んだ〟事実の前には些事でしかないでしょうから。国土を戦火に堕とすような、そんな真似は死んでもできないわ」


 ……だから、ディアナは。


「怖くても、行きたくなくても、私はこの運命から逃げてはいけない。――スタンザ帝国へは、私が行く。行って、誰一人欠けさせることなく、戻ってみせる」

「……うん」


 穏やかに頷いたカイは、きっとディアナの決意も、その奥にある本心も、全部最初から分かっていた。……いつだって、このひとはそうして、ディアナの〝総て〟を守ってくれる。


「ディーなら……いつだって目の前のもの全部諦めたくないディーなら、そう決めるよね。俺だって本音を言えば、あんな奴らがまだ良心的な部類に入るらしい国になんか、ディーを行かせたいわけがないけど。それ以上に俺は、ディーのやりたいこと、やるって決めたことを、全力で支えていきたいから」

「ありがとう……」


 カイが後押ししてくれたことで、気持ちがふっと楽になる。先ほどよりは強く手を握り返して、ディアナもそっとカイの頬に触れた。


「後宮のみんなのこと、どうかお願いね」

「……言葉の意味が、よく分かんないんだけど? まさか俺に、エルグランド王国に残れって言ってる?」

「残れっていうか……残るしか、ないでしょ? 国内はまだしも、スタンザまでは船旅になるし。運よく密航に気付かれなかったとしても、言葉も文化もまるで違う異国で上手く隠れて付いてこられるとは思えないし、スタンザの宮廷がこの後宮みたいに隠し通路だらけなんて可能性はゼロに近いだろうし。同行するのは至難の業よ」

「その辺の課題をクリアする方法は、おいおい考えるけど……ディーが危険な場所へ赴くのに、俺がついていかないなんてあり得ない。置いていこうとしたって、どんな手を使ってもついてくからね」

「カイ……」

「だからさ、ディー。何もかも独りで背負おうとしないで。俺にだけは、全部見せて、預けて。ディーが守りたいものは、俺にも守らせて。――欲しい未来は、一緒に掴もう?」


 カイが言葉を注ぐたび、ディアナの中の〝何か〟が溢れ、決壊していく。瞳からぽろぽろと落ちる滴を、カイが柔らかく拭ってくれた。


「……離れないで、良いの? 一緒に、いてくれるの?」

「ディーが望む限り、俺はディーの傍にいるよ」


 カイとともにスタンザ帝国へは、どう頑張っても行けないと思っていた。スタンザ側は恐らく、エルグランド国使団をていの良い人質としか認識していない。武官どころか文官すら拒否られる可能性は、残念ながら非常に高いだろう。

 それでもカイは、どんな手段を使ってもディアナの傍にいてくれると宣言してくれた。このひとがそう言い切ってくれた以上、きっとこの手は離れない。


(……独りでは、守り切れなくても。カイと一緒ならきっと、違う景色が見える)


 恐怖が薄れ、ほのかに灯ったのは希望の光か、

 それとも、まるで別の〝何か〟か。


 真実は今しばらく闇に隠れ、夜は緩やかに更けていく――。


というわけで、Twitterさんで愚痴ったカイディー回でした。そんな予定はゼロだったのにねぇ……そして会話が際どいよ?

前にも言ったかと思いますが、『にねんめ』はこのまま進むとレーディングの限界に挑戦することになりそうな予感がひしひしとしているので、「それはアウトやで!」な描写があれば、運営さんに消される前に教えて頂けると助かります。

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― 新着の感想 ―
[一言] つまり、スタンザに着いてからディアナが「死ぬ」のが……
[一言] 互いに想いあっている男女が二人きりとあれば、想定以上の何かが起きてしまうのも致し方ないのでは...? 何が言いたいかというと、レーティングの限界どんとこいです!! むしろキスすらしていないの…
[良い点] 穏やかな時間が過ぎていくなぁ。 嵐の前の温かい時間だなぁ。 優しい気持ちで、いられる!! 相手を思い合う気持ちは温かくて、 カイのディアナにだけイケメンっぷりもサイコー!! [気になる点]…
2020/06/14 15:27 あさちゃん
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