閑話その2 ~寵姫の回想~
今回からしばらく、ヒロインシェイラ視点です。
――あの日からもう、『幸せ』にはなれないのだと、思っていたの。
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カレルド男爵家は、シェイラの曾祖父の代に爵位を賜った、所謂新興貴族だ。彼の興した貿易事業の成果が認められてのことである。貴族となってからも商売は続けていたので、むしろ一家の感覚は庶民に近いものがある。
シェイラの父の代まで、貿易事業は続いていた。幼い頃に母親を亡くしたシェイラにとって、仕事の合間にたまに遊んでくれる父親は唯一の家族。触れ合える時間は少なくても、優しい父の愛情が注がれていた少女時代、シェイラは確かに幸せだった。
その幸せに陰りが出たのは、シェイラが社交界にデビューしてすぐのこと。いつものように仕事で出掛けていた父が、出先で事故に遭い、突如として還らぬ人となったのだ。
シェイラはかろうじて成人を認められただけの娘。男爵位を継ぐには荷が重く、そもそも未婚の娘に男親の爵位継承権はない。次代カレルド男爵となったのは、半ば縁を切っていた叔父だった。
祖父や父が苦労して得た収入を、たまにやって来ては奪っていく叔父。遂には堪忍袋の尾が切れた父から、『二度とウチに顔を見せるな!』と怒鳴られて追い出されたことを、シェイラは知っている。その叔父が、いつの間にか出来ていた妻を連れ、カレルド男爵家をまるまま乗っ取ったのだと、聡いシェイラは理解した。
曾祖父が興した事業は、売り払われて他人のものになった。多額の金銭を手に入れた叔父と叔母は、毎日働かずに遊んでばかり。形式上は二人の養女となったシェイラの実際は、給金の要らない召し使い。社交界など当然出してもらえる訳もなく、粗末な衣装に身を包み、朝から晩まで働かされた。ときには突然機嫌の悪くなった叔父叔母から、折檻も受けた。
あぁ、私の人生は、このまま終わっていくんだわ。
生きる希望すら見出だせず、ただ絶望だけが支配した春先。
カレルド家の屋敷に、見知らぬ人間が訪れた。
突然叔母に呼び出され、父の生前に買ってもらったドレスを着せられ、客の前に出て来るようにと言われ、シェイラは戸惑った。『余計なことは言うんじゃないよ!』と念まで押され。
部屋に入り、ひとまず一礼したシェイラを見て、そのお客は言った。
『ほぅ、これは美しい。かような娘御が、カレルド男爵におられたとは』
『いえいえ、貧相なだけの娘でございますが……一通りの礼儀作法は、このとおり、躾けてございます。いかがでしょう?』
『ふむ。確かにお宅のご令嬢ならば、申し分ない』
『おぉ、では……!』
『感謝致しますぞ、カレルド男爵。なかなか人が集まらず、困っておったのだ』
『いえいえ、滅相もない。あの、ただ、うちも可愛い一人娘を手放すわけですから…』
『もちろん。相応の謝礼は、出させてもらいますとも』
頭を下げたまま話を聞き、シェイラは血の気が引いていくのが分かった。
叔父は、自分を、どこか別の場所へやろうとしているのだ。それも、このお客から金を貰って。これではまるで、体の良い身売りではないか。
どこへ連れて行かれるのかは分からない。一番可能性が高いのは、このお客の妾だろうか。しかし、どこへ連れて行かれるにしても、もう二度と、生まれ育ったこの家には戻れない――。
嫌だ、と口をついて出そうになった言葉。しかしシェイラが叫ぶ前に、『商談』は成立したらしかった。
『このままお連れしても構わぬのですかな?』
『えぇ、えぇ。どうぞ連れていってください』
――名残惜しむ間もなく、シェイラは生家を後にした。
これからどうなるのかと、不安と恐怖で胸を埋め尽くされていたシェイラではあったが、幸いにして色ボケジジィの妾となることはなかった。しかし状況は、それと似たようなものだ。
何も分からぬまま、服と装飾品だけ最低限与えられ、放り込まれたのは現国王の後宮。側室の一人となったシェイラは、ある意味生家よりはマシな扱いを受けた。
『カレルド男爵家のお家騒動』は末席の貴族の間では有名で、評判は地の底まで落ちている。そんな家から売られるように後宮に入った側室を、侍女たちは軽んじた。王宮に勤める侍女たちは、貴族もしくはそれに連なる身元のはっきりした娘。シェイラとは、身分もそう変わらない。丁重に扱われるわけがなかった。
一応、一通りの世話はしてくれる。しかしそれも適当だ。やることやれば後は放置とばかりに部屋を出て行き、侍女が四六時中控えているお姫様など、どこの夢物語かしら? と思う。掃除などは特に適当で、仕方なくシェイラは、暇な時間を使って自分で掃除するようになった。それでますます、侍女たちには蔑まれる。
それだけならば、まだ叔父叔母と暮らしていた頃よりはマシだと思えたかもしれない。しかし後宮は、シェイラが入った頃から徐々に、彼女のような新興貴族の者にとって、息のしにくい場所となっていった。
シェイラと同時期に後宮に入った『牡丹様』、ランドローズ侯爵家令嬢リリアーヌは、古くから続く名門の血筋の姫君。貴族としての矜持が高く、新興貴族の家からやって来た側室たちを、あからさまに蔑ろにした。後宮トップの姫がそんなことをしたら、当然続く者たちが出て来る。夏を迎える頃には、名門や古くからの貴族、高位にある家から来た側室たちが、リリアーヌを筆頭に、新興貴族出身の側室たちを押さえ付け、苦しめ、半ば支配する、そんな場所に後宮はなっていた。
実家が新興貴族の側室は、昼日中には廊下も歩けない。下手に歩いて見つかれば、最悪手打ちにされることすらあった。シェイラにとっては、叔父叔母の折檻に脅えていたあの頃と、そう変わらない暮らしだったのだ。
そんなシェイラにとっての唯一の慰めは、まだ日が昇り切る前に、後宮の渡り廊下の陰で、小鳥たちにパン屑をやるひと時。食事どきに出されるパンを少しくすねておき、朝日よりも早く起きて、廊下の陰の小さな植木の傍にパン屑を撒く。気付いた小鳥たちが降りてきてパン屑をつつく、その仕草を眺めるひと時だけが、シェイラにとって唯一の慰めであり、救いでもあった。
幼い頃から小動物が好きだったシェイラは、度々父親に、動物を飼いたいとせがんでいた。しかしカレルドの屋敷は、貿易の商談に様々な人が訪れる。動物嫌いの人もいるかもしれない、そんな中では、飼いたくとも飼えない。
『ウチでは動物は飼えないんだよ』という言葉にむくれる娘に、父親は提案した。『だから、自然に生きる動物たちと、仲良くなろう』と。
父娘でパン屑を撒き、寄ってきた小鳥と遊ぶ。それはシェイラが父と過ごした中でも、特に幸せな時間だった。あの頃の幸福を想い、そして今また小鳥たちの仕草に癒されるために、シェイラは後宮に来てからほぼ毎日、パン屑を撒いた。次第に小鳥たちも慣れ、シェイラの肩に停まったり、指先で囀ったりと、嬉しい行動も見せてくれるようになったのだ。
――そんな、唯一の癒しの時間に波風が立ったのは、夏も真っ盛りなある日のこと。
その日、いつものように小鳥たちと戯れていたシェイラは、いつもとは違う気配を背中に感じた。
まさか『牡丹様』の方々に見つかった!? と慌てて振り向いたシェイラ。しかしそこに居たのは、『牡丹』に連なる側室でも『牡丹』自身でもなく、予想だにしない存在だった。
艶やかな髪が朝日を反射し、一層きらめく銀髪。
涼やかなアイスブルーの瞳は大きく見開かれ、自分を――間違いでなければ、シェイラを映していた。
誰? それがシェイラの頭に浮かんだ言葉だ。後宮にいる男性となれば真っ先に浮かぶのは国王その人だろうが、シェイラが後宮に来てから今まで全く音沙汰なかった御仁を、即座に連想しろというのは無理な話だ。ましてシェイラは国王の姿など遠目でちらっとしか見たことがなく、雲の上のお方だと思っていたため印象にも残っていない。故に第一印象は、この人誰? としかならなかったのだ。
『そなたは……?』
『え?』
『そなたの、名は?』
何が何だか分からないが、どうやら名前を聞かれているらしい。しとやかに淑女の礼を取り、シェイラは答えた。
『シェイラ・カレルドと申します』
『シェイラ……か。そなたは、側室なのか?』
『あ……はい。畏れながら、末席を頂戴致しております』
『そうか…』
目の前の男の意図が分からず、シェイラが首を捻った、そのときだった。
『陛下!』
渡り廊下の向こうから、数人の騎士たちが駆けて来るのが見えた。先頭の赤茶色の髪をした騎士が、近付くなり叫ぶ。
『陛下、お一人で何をなさっておられたのです!』
『余の後宮だ。余が一人で出歩いて悪いか』
『お守りする者のことも、考えて頂かなくては……と、そちらの方は?』
シェイラはみるみる青くなる。現実感のない目の前の会話の対象になったことで、今自分が話していたのが誰なのか、嫌でも理解したからだ。
『も、申し訳ございません! ご無礼を!!』
慌てて平伏したシェイラに、男――国王は、優しい声をかける。
『良い。そなたが貴族の末席にある家の娘なら、余の顔を見知らずとも無理はない。そのように畏まる必要もない。……立て、シェイラ』
『……は、はい』
売り飛ばされて後宮にやって来たシェイラは当然、国王とのニアミスなど、想像してすらいなかった。やっとのことで立ち上がったものの、血の気は引き、今にも倒れてしまいそうだ。
そんなシェイラの手を、国王はそっと握った。
『驚かせてしまったようだな。だが私も驚いた。小鳥たちが次々舞い降りるのを見て、何かあるのかと覗いてみたら……そなたがいたのだから』
『申し訳ありません、勝手なことを』
『構わぬと申したであろう。そなたも側室の一人なら、後宮でどのように暮らそうが自由だ。――いつもここで、小鳥にエサを?』
『は、はい。動物が好きなのです。……それに、小鳥たちといると、とても幸せな気持ちになりますので』
最後の言葉は、恐る恐る、国王の目を見ながら言う。声の調子から彼が怒っていないことは分かったが、どういうつもりなのかは、まるで分からなかったので。
シェイラと視線がぶつかった国王は、柔らかく笑った。
『――確かにな。小鳥は実に愛らしい。そなたの気持ち、分かる気がするぞ』
『ありがとう、ございます……!』
この国の頂点にいらっしゃるお方が、自分のささやかな幸せを認めてくれた。それはシェイラにとって、久々に感じる喜びであった。自然に笑みが零れ、国王と見つめ合う。
『――陛下、そろそろ』
『……ん。そうだな』
しかし、その穏やかな時間も終わりを告げた。国王はシェイラの手を離し、どこか寂しげな笑みを浮かべる。
『……そなたのような娘が、後宮にいたとはな』
『私は末席の側室ですから。ご存知ないのも当然ですわ』
『そう、か…』
『どうぞお気をつけて。いってらっしゃいませ』
会話の終わりに見送りの言葉を発したのは、昔の名残だ。仕事に出掛ける父親を、いつもこの言葉で送り出してきた。
『――あぁ。行ってくる』
そう言った国王に頭を下げて、シェイラは彼を見送った。完璧に気配が去ってから、顔を上げて今の邂逅を思う。
夢のような時間だった。国の頂点に君臨するお方が、自分をその目に映してくださり、お情けではあろうけれども、お優しいお言葉をくださったのだ。父との思い出を肯定してくださった、その事実はきっと、これからの人生の辛いとき、シェイラを支える光となってくれるだろう。
ささやかな喜びに胸を震わせ、シェイラはそっと、目を閉じた。




