終わらない『未来』へ
お話の前に、皆様に一つお知らせです。
「悪役令嬢後宮物語 3」、電子書籍版の配信が決定いたしました!
配信時期は2月12日から順次の予定で、それぞれの電子書籍配信サイト様によって多少のズレがあるそうです。詳しくは各サイト様にてご確認をお願い致します。
ちょくちょく調べた感じだと、紙よりはちょっとお得な感じですか? 電子書籍を利用したことがないアナログ人間なので、詳しいことが分からず申し訳ありません。
本来ならば詳しいことを活動報告でお知らせすべきなのですが、現在ちょっとあちこちの作業が立て込んでおりまして余裕がなく、前書きのみでのお知らせとなりますことをお許しくださいませ。
さてさて皆様、お待たせ致しました。前回で予告しました方々のターンです。
意外なことに、主室から出て行ったのは『名付き』の三人だけではなかった。ほとんど手付かずのまま冷め切ってしまっていたお茶を淹れ直し、リタを含めた侍女たちまで、言葉もなく退室していく。控えの間と私室へ二手に分かれて消えていったので、『紅薔薇の間』そのものには留まるつもりらしいけれど。
広い部屋の中、シェイラと二人きりになったところで、空色の瞳が強くディアナを見つめてくる。
その可憐な唇から吐息が漏れた瞬間、何の前触れもなく抱きつかれた。
「……ディー」
いつものように、当たり前みたいに呼び掛けられて、咄嗟にどう返して良いか分からない。
『ディー』が『紅薔薇』だとシェイラにバレたと分かっていても、そしてそれをシェイラが好意的に受け止めてくれていると知っていても。本当の意味で顔を合わせて話をするのは、これが初めてなのだから。
言葉の出ないディアナを前に、シェイラは止まらなかった。
「ばか。ディーは、ばかよ」
「シェイラ……」
「私ずっと、紅薔薇様……『ディアナ様』のこと、ちゃんと『好き』って言ってきたじゃない。それなのにどうして、正体を明かしたら嫌われるなんて思い込んだの」
「だって……怖かったの。好きでいてくれてるからこそ、正面から会って『騙された』と思われたら、って。ましてや『紅薔薇』やってるときの私は、間違ってもシェイラに好かれるようなことしてなかったのに」
「ディーは隠し事は山ほどしてたけど、一度だって嘘をついて、私を騙したことなんてなかったわ。『紅薔薇様』のときだって一緒よ。いつだって優しくて、気高くて、自分のことより他人のことばかり。そんな人を好きになるのは当たり前なのに」
「……そうやって私の行動を好意的に捉えてくれる人は、貴族社会では本当に、極々少数なの」
ぎゅうっと、シェイラの腕の力が強くなる。
「だから。目も耳も飾りで、ついでに頭も空っぽな人たちなんて、放っておけば良いのよ。ディーを悪く言うのは、噂に惑わされて目の前の現実もろくに見られない、あちこち残念な人ってだけ。一目瞭然、分かり易くて良いじゃない」
「……えっとそれ、夏頃の陛下を思いっきり貶してるんだけど?」
「そうね。反省の素振りが見られなかったら幻滅していたわ。……逆に、あれだけ噂を真実だと思い込んでいらしたのに、そこから抜け出して自分の目で見ようとなさるのは凄いと思う」
心の底から安心した。『ディーに酷いこと言ってた陛下なんてキライ!』とか言われたら、ディアナはイロイロな意味で、しばらく立ち直れない。いわんやジュークをや、だ。
(……それにしても)
改めて、シェイラの鋭さに感心する。『クレスター』への態度からその人の内実を推し量る、それはまさに、アストとポーラストが交わした『誓約』そのもので。シェイラはときどきこうやって、物事の本質をズバリと突いてくるのだ。 単なる感覚かと思いきや、きちんと論理的思考を積み上げた上での結論だったりもするから侮れない。
思い返して苦笑する。
「……ほんと、そうね」
「ディー?」
「『紅薔薇』も『ディー』も、どちらもあれだけ全力で好きになってくれたシェイラが、正体を明かした程度でぐらつくわけないのに。……失いたくなくて、知らないうちに臆病になってた」
「ディーが変なところで怖がりなのなんて、今に始まった話じゃないわ」
「えぇ?」
きょとんとすると、くすくす笑われた。腕をほどいたシェイラは姿勢を戻し、改めてお互いに向き合う。
「あぁ、すっきりした。いつかディーと顔を合わせる日が来たら、まずは思いっきり抱きつこうって決めてたの」
「なに、それ」
「だってディー、『顔を見たら怖がられる』『嫌われる』って、いつもいつも神経質になってたから。どんな顔をしていようとディーはディーで、怖いなんて思うわけないのに。それを証明するにはやっぱり、抱きつくのが一番かなぁと思って」
「……私、ときどきシェイラの理屈が分からない」
「うーんとね。簡単に言えば、私がディーに抱きつきたかったの」
むしろ理屈からは遠ざかった気もするが、ここまできっぱり言われたら「そうなの」としか返しようがない。
しかしシェイラはその返答が不満だったようで、唇を尖らせた。
「分かってないでしょ、ディー」
「抱きつきたかったのは分かったわよ?」
「その動機! 好きだから、本当の本当に大好きだから、その気持ちを思いっきり伝えたかったの!」
……相も変わらず、「ちょ、それ女の子同士じゃなかったら限りなくアウト!」なシェイラである。ここまで来ると、見知らぬ『ディー』に嫉妬していたジュークの方が正しかったのではないかと思えてしまうから、友情はなかなか難しい。
この積極性をジュークにも遺憾なく発揮してくれたら、たぶん話はここまでややこしくならなかったのにと、思わず見当違いの文句をシェイラにつけたくなってしまった。
さすがに顔を見合わせての沈黙は、素直に内心がだだ漏れていたらしく、シェイラに睨まれる。
「……言いたいことがありそうな顔してる」
「うん、えっと。シェイラの気持ちはとっても嬉しいし、私だってシェイラのこと大好きだけど。なんかここでラブラブしちゃうと、陛下に悪いような気がして」
「陛下への気持ちとディーを大好きなのは、別の話だもの。陛下もいちいちお怒りにはならないわ」
「怒らないけどヘコむの。シェイラ知らないと思うけど、あの人ヘコんだら面倒くさいんだから」
「今の話のどこに、ヘコむ要素があるの?」
「陛下曰く、『恋心とは厄介なシロモノ』らしいけど。シェイラだって、あり得ないとは分かってるだろうけど、陛下のお心がシェイラ以外に向いたら嫌でしょ?」
「……それは、そうだけど。正直、私ずっと、そうなっても仕方がないと思いながら陛下をお迎えしていたから。後宮の側室の皆様に比べて、私は特別な取り柄があるわけでもなくて、所詮はただの凡人でしかないわけだし」
よし、ツッコミどころしかない発言が来た。
「複数の誘拐犯のところから重要証拠を持ち出しつつ逃げて、後宮の皆様引き連れて議会に乗り込んで、あんな目立つ場所で堂々と発言した挙げ句、魔王面のお父様と組んで犯人を追い詰められるようなご令嬢が『凡人』なら、この世界には凡人以下しかいないと思う」
「議会の証言はあちこちいじったから、実際はそこまで凄いことなんてできていないのよ。誘拐犯のところから無事に逃げ出せたのも、証拠の紙と鈴を手に入れることができたのも、私じゃなくてカイさんのおかげだし」
当然のようにシェイラの口から出てきた名前に狼狽する前に、声と存在が同時に上から落ちてくる。
「いやー、あれはシェイラさんのファインプレーでしょ。俺が助けに入る前に自力で小屋から脱出してたし、証拠を抱えていた奴を把握していたのも、そいつの心を動かして鈴を渡されたのも、俺じゃなくてシェイラさんじゃん」
「あら、いらしたのですか。ノーラン商会までお礼を申し上げに参ろうと思っておりましたのに」
「うん、イヤミったらしく『建前』を信じたフリするのはやめようね」
「ですが私どもと別れた後、ノーラン商会の方々と合流なさったのでしょう?」
「そりゃ、偽の身分証明云々とか、細かい設定決めなきゃだったし。……しっかしジンさん怖かったなぁ。なんで父親のデュアリスさんはあんなにあっさりなのに、叔父のジンさんの方が俺に風当たり強いの?」
最後の問いかけはディアナに対してだ。久しく会っていない叔父の名前を聞いて、ディアナは少し苦笑した。
「ジン叔父様、お元気だった?」
「あーうん、超お元気」
「……ウチの家が男系一族って話はしたことあったっけ?」
「いや、聞いたことないかな」
「そっか。クレスター家、特に家を継ぐ長男には昔から何故か、女の子が滅多に生まれなくてね。フィフィ叔母様はだいたい二百年ぶりに生まれた直系女子だったの。そのせいかお祖父様のデレデレっぷりは凄かったらしくて、『ワシ以上にフィフィを愛する男でないと嫁にはやらん!』が口癖で、叔母様が叔父様と恋に落ちたときは、全力で婿イビりに走ったんだって」
「うっわぁ……」
「まぁ叔父様と会ったなら分かると思うけど、娘溺愛の山賊オヤジに負けるほど、あの方も甘くはいらっしゃらないから。お祖父様の婿イビりを見事クリアして、フィフィ叔母様をお嫁さんにして、ノーラン商会をますます発展させて。……で、私が生まれたのよね。叔母様以降、あと最低百年は生まれないだろうと思われていた『クレスターの末娘』が」
娘はおそらくできないと知りつつデュアリスに嫁いだエリザベスも、「いもうとがいい!」とダダを捏ねつつ「期待はするな」と冷静な父親から宥められていたエドワードも、それはもう喜んだそうだが。
ある意味それ以上に喜んだのが、叔母であるフィオネだった。
「我が家にとって『末娘』が特別なのは、滅多に生まれないからよ。百年単位で生まれないってことは、よほど『末娘』が長生きしない限り、同じ時代に二人の『クレスターの直系女子』は存在しない。だから叔母様は大事に育てられて、……本当のところは孤独だったんだと思う」
長男の血を受け継いだ子どもは、男だろうと女だろうと例外なく悪人面に生まれてしまう。息子は父からその悪人面の活用法を学べても、性別が違う以上、娘が父に倣うには限度があって。『悪女』の風評を受けながらしかし、その境遇を分かち合えるひとは、昔の記述の中にしか存在しない。
悪人面に生まれた姪を不憫に思うより先に、己の知識や経験を直接伝えて支えることができると、フィオネは喜んだ。商会の仕事で忙しい合間を縫ってディアナを訪ね、本当に慈しんでくれて。
愛する妻が、息子たちとは別方向に溺愛する姪っ子を、ジンも可愛がってくれたものだ。
「叔父様は昔からよく、『フィーを救ってくれてありがとう』と私に言っていたわ。私は特に何もしてはいなかったけれど……いろいろ知るにつれ、何となく分かるようになったの。私が生まれたことできっと、叔母様は『末娘』の孤独から解放されたんだろうな、って」
「……なるほどね。フィオネさんを救って、フィオネさんが可愛がる姪っ子のディーだから、ジンさんにとっても特別なわけだ。だからって初対面の人間相手に、挨拶すっ飛ばして『君、年収は?』はイロイロ失礼だと思うけど」
「ちなみにおいくらなんですか?」
「コレだから商人はイヤなんだよ! どうせスズメの涙ですよー、悪かったね!」
「まぁ、大変。ディー、甲斐性のない男の方につきまとわれると苦労するわよ?」
「いや、うん。カイと、カイのおとうさまの年収が平均より低いのは、たぶん我が家のせいだから。自分で言うのもなんだけど、ウチを避けつつ『裏』稼業で稼いで普通に食べていけるって、かなり優秀だと思う」
甲斐性のない男に金蔓にされるのが、世間一般で言うところの『苦労』に当てはまるのは否定しないが。カイはこれまで一度だってディアナに金の無心をしたことはないし、仕事を選びまくっていたせいでかつかつの暮らしだっただけだから、甲斐性がないとは言えない気がする。
……それよりディアナには、先ほどからずっと、かなり気になっていることがあった。
「シェイラ、カイに何かされた? なんだかカイへの当たりがキツくない?」
「ちょおっと待った、ディー。何でそこで、俺がシェイラさんに何かした前提になるの。逆の可能性は考えないワケ?」
「だってシェイラは初対面の、しかも危ないところを助けてくれた人相手に、理由もなしにキツく当たるような子じゃないもの。となると、あなたの方に原因があるとしか」
「ディー……!」
「いやいやいや。ちょっとは俺のことも信用しようよ」
「信頼はしてるわよ、当たり前でしょ? けど、それとこれとは話が別。あなたの態度はときとして、人を食って馬鹿にしてるようにも見えるから。……最初はリタにもそれで怒られてたし」
「否定はしないけどさ。俺だって理由なく、ケンカを買ったりしないよ?」
「待ってください、最初にケンカをふっかけてきたのはそちらでは!?」
「いーや、シェイラさんだね。俺はかなり大人な対応してたもん」
「……模範的な『大人の対応』が盛大に苦情を申し立てますよ。アレのどこが『大人』かと」
うん、よく分かった。理由は不明だがこの二人、トコトンまでにそりが合わないらしい。
シェイラが一方的にキツいだけかと思いきや、カイも流さず張り合っている。カイは仕事柄、他人の感情を宥めて受け流すのが得意なのに。それをしないということは、要するにシェイラの言は流したくないのだろう。
『ケンカするほど仲がよい』という名言もあるし、素で言いたいことをぶつけ合っている以上、お互いの存在を認めているとは分かるけど。これは仲の良し悪しとは別次元の問題で、まさに『そりが合わない』のだとしか言いようがない。水と油が互いに反発し合うようなものか。
「……そこまで険悪で、帰り道にトラブルはなかったの?」
カイなら必ずシェイラを助けてくれると信じて、そう約束したから揺らがず、牢の中でも耐えられた。
しかし、まさかここまでこの二人が水と油になるとは、完全に想定の範囲外である。道中ストレスでお互いに胃が痛くなるようなことにはならなかったか。
問われた二人はぴたりと言い合いをやめ、シェイラが不本意そうに首を横に振る。
「腹が立つくらい安全だったわ。用意された馬車も、走る速度も、選んだ道も全部完璧で、驚くほどすんなり王都に帰れたもの」
「馬車と道を選んだの、俺じゃないけどね。最強の補佐陣のおかげで、帰りは割と楽だったよ」
「王都についてからは、待機していらした後宮近衛のグレイシー団長に守られて、安全に後宮まで一直線。……知らなかったわ。グレイシー団長って、ディーの未来のお義姉さまなのね」
「貴族社会ではまだ公表されていないけど、お兄様がクリスお義姉さま以外を選ぶわけがないからね。……お義姉さまが仰ったの?」
「えぇ。『紅薔薇様をお助けしたい』と必死に話したら、見とれるくらい綺麗に笑われてね。『義妹をそこまで想ってくれてありがとう』って。格好良い方ね、クリス様」
「もちろん。私、お義姉さま以上に格好良い女性を知らないもの」
見た目だけならちまっとして可愛らしいのに、剣を構えるクリスの凛々しさときたら、同性であってもうっかり見惚れてしまう。初めて見たときはテンション急上昇のままクリスにまとわりついて、エドワードにぽいされたものだ。……あれもひょっとして、ジュークの言うところの『嫉妬』だったのだろうか。いやでも、あの兄がまさか。
遠い目になるディアナの前で、シェイラが少し、眉根を下げた。
「本当に、……ほんとうに。皆さん、心配されていたわ」
「そ、れは……」
「クリス様だけじゃない。ディーが毒を飲んだって知っていらした『名付き』のお三方も、そんなことは知らなくてもディーを……『紅薔薇様』をお慕いしている側室の皆も。一睡もせずに、ディーの無実を証明するために動いていたの」
知らされた事実に、瞬間息ができなくなる。シェイラとカイ、『紅薔薇』を取り繕う必要のない二人の前で、唇は勝手に動いて。
「どうして……」
「ディー?」
「どうして、そこまでして、私を」
「……それが分からないから、きっとディーは、簡単に無茶ができるのね」
寂しそうに、シェイラが微笑む。カイも苦笑した。
「理由があるとしたら、一つだけだよ。……みんな、ディーのことが好きなんだ」
優しい、優しい言葉が……今は、痛い。
「好きだから、喪いたくない。大好きだから、守りたい。――大切だから、幸せになって欲しい。ディーもさっき、『ワガママ』だって言ったでしょ? それと一緒よ。ディーがワガママなように、私たちだってワガママなの」
「分かってる。けど、理由が分からないの。だって私、シェイラにも『名付き』のみんなにも、助けてもらってばっかりで。好きになってもらえるようなこと、何一つしていないのに」
「理由なんて要らない。ディーがディーだから、私たちはあなたが好き」
ついに言葉を返せなくなったディアナを、シェイラが再び、優しく抱き締めた。
「大好きよ、ディー。だからみんな、ディーが無茶したら怒るし心配するし、ディーの危機には理屈抜きで駆けつけるの」
「シェイラ……」
「さっきの話で、いざというときのディーの無茶が止められないのは分かったわ。だからディーも、無茶をしたら私たちに死ぬほどの心配をかけることと、こうやって怒られて泣かれること、ちゃんと分かっておいて」
怒られるだろうことは、最初から分かっていた。けれど、泣くほど心配されて、徹夜までさせるほど必死に思ってもらえる資格が……果たして、自分にあるのだろうか。
無言のディアナに何を思ったのか、シェイラの腕の力が強くなる。
「……あのね、ディー。ディーが自分のことをどう思っていたとしても、私はずっと、ディーのことが好き。それだけは、お願いだから否定しないで」
「シェイラって……ほんとに、鋭い」
「ディーが分かり易いのよ」
「……それ、前にカイにも言われたわね」
「紅薔薇様モードのディーはともかく、素のディーは普通に顔に出るしね。……ついでにここまでのシェイラさんの言葉も、完全同意だから」
カイの発言が何らかの合図になったのか、シェイラの温もりが離れていく。何となく冷たい目で、シェイラがカイを見た。
「それ、ずるくありませんか?」
「どーだろうね。逆にストレートに言えるシェイラさんに妬けるけど、俺は」
「嫉妬深い男の方はモテませんよ?」
「古今東西、男の方が嫉妬で身を持ち崩すって父さんも言ってたなー。ご忠告どうも、気をつけるよ」
「……ねぇ、さっきから何の話?」
シェイラとカイの間に見える火花は幻覚の類だと思うのだが、心なしかホンモノに感じてしまう。というか本当に、帰り道に何があった。
大丈夫だろうかこの二人、と案じるディアナの前で、シェイラがディアナとカイの双方を交互に見て、ふぅっと大きくため息をついた。
「……お任せしても、よろしいですか」
視線とともに言葉を投げられたカイが、少し沈黙して頷く。
「シェイラさんも、部屋に戻って休みなよ。……ディーもそろそろ休まないとね」
「……私は平気だけど、シェイラには休んで欲しいかな」
「ディーも休むの。これ以上無茶したら、今度こそ許さないんだから」
軽く笑って、シェイラも立ち上がる。一緒に立って、部屋を出て行くところまで見送った。
扉をぱたんと閉めたところで、後ろから呑気な声がかかる。
「侍女さんたちが寝台を整えてくれたみたいだよ。お休みの時間だねー」
「太陽、かなり高い位置なんだけど?」
「はいはい、どうせ昨夜は寝てないんでしょ。……ちょっと、どこ行こうとしてるの」
閉めた扉を再び開こうとしたのを見抜かれたか。痛くないのに強引に腕を引かれ、振り払えずにディアナはよろめいた。バランスを崩したのをこれ幸いと、あっさり抱き上げられてしまう。
カイの腕の中で、ディアナは抗議の声を上げた。
「ちょっと、カイ!」
「なーに」
「眠くないから、まだ寝ない。……行かなきゃならないところがあるの、あなただって分かってるくせに」
話している間に寝室について、そのまま寝台に降ろされた。立ち上がる前に、頭に手を置かれて動けなくされる。
「行って、どうするの? ――ディーがソフィアさんのところに行ったって、ベルとライノの二人が生き返ることはないよ」
ほとんど反射でカイの手を弾き落とそうとして、逆に動いた手を掴まれた。立つことはできるようになったけれど、腕が掴まれたままでは動けない。
残酷な真実を告げる男を、真正面から睨みつけた。
「それでも! それでも、あんな状態のソフィア様を独りになんてしておけない!」
「独りじゃないよ。ディーならそう言うって分かってるから、ちゃんとミアさんとユーリさんがついてる」
「私のせいなのに、関わることも許されないの!?」
――叫んだ瞬間、強く抱き締められた。
頭に大きな手が回り、身動きが完全に封じられた状態で、静かに深い声だけが響く。
「自惚れるな。――ディーのせいなわけがないだろ」
「な……」
「この国の保守派貴族が馬鹿な企みをして、疑うことを知らない連中が踊らされて、ソフィアさんが操られた。その原因の一端は、確かにディーにもあるかもしれない。……けど、ディーは何一つ悪くないのに、何で誰かの死まで背負おうとするんだ」
いつも、……いつも。
暴きたくない最後の一枚を暴くのは、どうしてこのひとなのだ。
堪えたいのに、この優しくて強引な腕の前では、ディアナはどうしたって抵抗できない。
「……だって」
言葉が、……心が。滑り落ちていく。
「私が、もっとちゃんと、ソフィア様と向き合っていたら」
「ソフィアさんは、ディーがどれだけ言葉を尽くしても、ベルを選んだ。ディーにとって、リタさんが特別なようにね」
「私たちが、必要以上に三人を追い詰めなければ」
「悪事を企んでる奴らを見逃せば良かったの? あの時点でディーたちがしたのって、本人にも気付かれないようにこっそり見張ることでしょ。……それを察知して、ろくに『陣』も組めてない呪符を与えた奴が悪い」
「もっともっと、他にやりようはあったはずなのに」
「それでも、悪事に走るのを決めて、明らかに怪しい呪符を使い続けたのは本人たちだ。踏み留まる機会はいくらでもあったのに。――救えなかったこと、生まれた嘆きを、きっとディーは一生忘れないんだろうと思うけど。このことでディーが自分を責めるのは、違う」
痛いほどに抱き締められて。カイの言葉だけが、注がれる。
「後悔しなよ。悔いて、嘆いて、助けられなかった事実を抱え続けたらいい。……ディーのせいじゃないから忘れろって言ったって、それであっさり忘れられるディーじゃないし」
「カ、イ」
「そういう後悔なら、いくらでも付き合う。――だけど、今後一切あいつらの死を自分のせいにして、ディー自身を無価値みたいに言うな。ディーを蔑む奴は、例えディー本人でも許さない」
「……ひ、どい」
人工的な暗闇で、視界が歪んだ自覚すらなかった。言葉にして初めて、自分が泣いていることを知る。
カイに縋り、しゃくり上げた。
「ど、して。どうして、死ななきゃ、ならなかったの」
「ディー……」
「ベルが、ライノさまが、どうして!」
自分を責めるな、と言われたから。
もうディアナには、理不尽な現実を責める言葉しか出てこない。
幸せになりたかったのだ。ベルとライノはただ、堂々と幸せになりたかった。
やり方は間違えたかもしれない。目的のために『妹』すら手段にしたことは、ディアナも認められない。
でも、人は間違うのだ。どれだけ気をつけたって、間違ってしまう。
その間違いが『罪』なら、償って。そこからまた、始めれば良いだけではないか。
身分違いの恋に苦しんでいるのはきっと、ベルとライノだけではない。たくさんの人が、想いと現実の狭間で揺れ動いている。恋することは、好きになることは、罪でもなんでもない。それが認められないのはきっと、現実の方が歪んでいるのだ。
同じ境遇の仲間たちと共に、歪んだ現実に立ち向かう道だって、きっとあった。……生きてさえいれば、その道を選び直すこともできたのに。
――どうして、もっと早くに気付けなかった。『文様』を知ろうとしなかった。
助けられたかもしれない。知っていれば……『知識』があれば。自ら死地へ踏み出そうとするベルを、止めることができたかもしれないのに。
泣き疲れ、薄れゆく意識の向こうで、深く煌めく紫紺がいつまでも、ディアナを包み込んでいた――。
† † † † †
「……眠りましたか?」
「うん、ようやく。……良かったよ、寝てくれて」
泣いて泣いて泣いて、結局は何もできなかった『無力な己』を責めて、そうしてディアナは現実を手放した。どれだけ「自分を責めるな、蔑むな」と言ったところで、目の前で儚く散った命を惜しんで、救えなかった現実に苦しむのが『ディアナ』だ。……そう分かっていても、万能の人間でない以上どうしても、できないことはある。
寝室の向こう側で気配を消して、ずっと見守ってくれていたリタに、カイは切なげな微笑みを向ける。
「……いつも、こんななの?」
「えぇ。――残酷な世界を前に、それでも最後まで救おうと足掻いて、救えなかった現実に心を痛めて。そのどれもがディアナ様のせいではないのに、『救いたかった』とダダを捏ねられるんです」
「欲張りで、ワガママで、意地っ張りだから。しかも諦めるってことを知らないし、……全部守るって決めたけど、難しいね」
「守っていますよ。……充分すぎるほどに」
リタは、眠るディアナの髪をそっと撫でた。
「こんなとき、ディアナ様の泣き場所になれる人は、これまでクレスターのご家族しかいらっしゃらなかったんです。私はディアナ様に忠誠を誓った従者で、どれほど慕って頂いても、あくまで『守る』対象なのでしょう。……甘えてはくれても、寄りかかってはくださらない」
「『守る』対象がいるからこそ、強くなれる側面もあるよ。俺とは違う方向で、リタさんもきっと、ディアナの心を守ってる」
守られてることに引け目を感じる必要なんてない、と呟きを落とし、カイは静かに窓の外を見た。
自分たちの心中とはかけ離れ、外は腹が立つほど穏やかに晴れている。
「……本当は、笑っていて欲しいけど。悲しみに埋もれて心を凍らせるくらいなら、泣いて荒れた方がいくらかマシだと思ったんだ。独りで悲しみに浸かると、馬鹿みたいに沈んじゃうから」
「シリウス様も、同じことを仰っていました」
振り返り、リタはカイに笑いかける。
「しばらくは、この部屋にいますか?」
「……いても良いなら、いたいかな」
「分かりました。ディアナ様をお願いします」
「リタさんは?」
「どうも議会の様子から、後宮の側室方も数名、近いうちに強制退去となる見込みが強まったようですので。皆様が忙しい中、呑気に部屋に詰めてばかりでは叱られてしまいます」
側室の強制退去。……そんな話がぽーんと出てきたということは。
「……議会が動いたの?」
「とりあえず、ハーライ候とメルセス候、ココット候のお三方の職は今日中になくなるみたいですよ。さすがにその状態で、娘を側室にし続けることはできないでしょう。マーシア様に関しては毒の中継役となった容疑もありますから」
「さっすがクレスター家。仕事が早いねー」
「今回に関しては、皆様怒髪天を突き抜けていらっしゃいますもの。王宮中を巻き込んだ騒ぎに発展したことで、むしろ展開が遅い印象を受けるくらいです」
怖ろしいことをさらりと言い放ち、有能な侍女は今度こそ『紅薔薇の間』を後にした。
寝台で眠る少女と二人、部屋に残された隠密は――。
「動いた時代は、要らないモノも山ほど起こしちゃったみたいだね。……俺たちの望む未来まで、まだもうちょっと、越えなきゃならないものがありそうかな」
不屈の闘志を紫紺の瞳に光らせながら、大切で愛おしい少女へと、静かに語りかけるのだった――。
来週、ひとまずの『最終回』です。




