鉄格子を挟んで
さて。今話は、この話を書き始めた当初から、ずっと書きたかったシーンです。ようやく、ようやっと、辿り着けました。
読書のおともに、皆様、苦いモノのご用意はよろしいですか?
……寒い。
天窓以外から光が届かない地下牢で、しかも今は極寒の冬。剥き出しの土に膝をつけば、冷気が身体を支配するのは当然だが。
ディアナが寒かったのは、身体以上に、心だった。
生まれたときから、もう一人の父親のように、ディアナの成長を見守ってくれたシリウス。感情を隠すのに長けた彼ではあるが、それだけ長く付き合って、その心情を一欠片も読み取れないほど、ディアナの感性は鈍くない。
彼が大事なことを隠して、敢えてデュアリスの『決定』を自分の意志のように話したことなど、お見通しだった。
デュアリスがシリウスに『被れ』と言ったわけではないだろう。あの父は、そんな卑怯なことはしない。おそらく、これが『当主決定』だと伝えろと、シリウスに命じただけのはず。
シリウスは、そんな父を庇って、悪者になろうとした。『闇』が動かない……否、動けない理由を、シリウスの『判断』にすり替えて。
(分かってる。きっと、『闇』が動くとまずい、理由がある……)
ディアナ自身、ずっと感じていたではないか。
どこかから。まるで、空に目があるかのように、動きが見透かされている、嫌な予感を。
必死に最善手を探しても、それすら『誰か』の掌の上で、思う通りに転がされているかのような、例えようもない気持ち悪さを。
それが、ディアナの気のせいではなかったとしたら。ディアナたちを見透かし、転がしていた、ディアナの知らない『敵』がいるのだとしたら。
ここで、クレスター家の『闇』が動くことも、きっと『次の手』として予想されている。予想されているということは、対応だって準備されていると見て、間違いない。
罠だと分かり切っているのに、そこに『闇』を放り込むなんて、ディアナにだってできない。……できるわけが、ない。
何か、ないのか。他にもう、手は打てないのか。
シェイラを死なせるなんて、ディアナには考えることすらできない。あの真っ直ぐな春空の瞳を、しなやかで折れることのないしたたかな心を、永遠に喪うなんて、そんなことが。
国の為じゃない。王の為でもない。
ただ。ただ、ディアナが。大切な友人を、喪えない――!
「……泣いてるの?」
――そっと響いた声に、心臓が、音を立てて跳ねた。
反射的に顔を上げると、格子を挟んだ向こう側に、黒装束の、よく見知った男が立っている。
相変わらず忍ぶ気のない隠密に、ディアナは呆れを通り越して泣きそうになった。
「なに、してるのよ、カイ……」
「ディーに逢いに来たんだけど? ……声が遠いなぁ、そんな壁際にいないで、こっちにおいでよ」
遠いと言っても、狭い牢の中だ。格子までは十歩もない。
すぐにでも駆け寄りたいと叫ぶ本能に、ディアナは首を横に振って抗った。
「ダメよ。話なら、上からでもできるでしょ? ……せめて、姿は隠して」
「嫌だよ。顔を見て話したいから、わざわざ降りてきたのに」
「見つかるわ」
「ディーを捕まえた奴ら、あんまり数は多くないみたいだね。牢番は、事情を知らない下っ端が担当してるみたい。平和な国って良いよねぇ、牢番がこっそりさぼっても、誰も文句言わないんだから」
今、見張り、誰もいないよ――。
それは、甘い、あまい――毒。
立ち上がりそうになる足を、必死で、抑えつけた。
この瞬間。ディアナは、痛いほどに、自覚する。
顔を見た瞬間、駆け寄って。
手を、伸ばして。縋りついて。
心のままに、「助けて」と叫びそうになる。
いつの間に。これほどまでに。
自分は、このひとに、心を預けていたのだろう――?
ただ、閉じこめられているだけなら。ディアナは迷いなく、この足を踏み出せた。……カイに、触れたかった。
けれど、今、カイの傍に行ってしまったら。
言ってしまう。願って、しまう。
危険この上ない、どうしようもなく、我が儘な『望み』を。
「……ディー」
ついに、顔を見ることもできなくなったディアナを、カイが呼ぶ。
ふるふると、小さく何度も首を横に振る彼女に、隠密は少し、笑ったようだった。
「……そうやって、小さくなって。ディーは、『何』を守ろうとしてるの?」
「カイ……!」
「言っとくけどさ。俺にとっては、こんな牢、何の障害にもならないんだよ。鍵だって大した構造じゃないから、すぐに開けられる。――ディーは俺に牢破りになって、ここから攫ってほしいの?」
「違う!」
あらゆる意味でそんなこと、できるわけがない。きっと正面の彼を睨むと。
――それ以上に強い瞳で、カイはディアナを、心ごと射抜いた。
「じゃあ、来てよ。俺の傍に。……触れさせて」
この、ひとは。どうしていつも、外さない。
欲しい言葉を。……欲しい、温もりを。
欲しいときに、与えてくれるのだろう。
強い意志を宿した、瞳と言葉に。ディアナが逆らう術はなかった。
ふらふらと立ち上がり、吐息が感じられるほどの距離まで近づく。
格子の隙間から伸びてきた手が、優しく、ディアナの頬を撫でた。
紫紺の瞳が、甘やかに細まる。
「……怪我は、ない?」
「平気、よ。そもそも、触られてないし。牢に入るとき、背中を押された以外は」
頬を撫でていた手が、首筋に落ちた。そっと這う指先が、熱い。
「リタさんに聞いたよ。偉そうな奴らだった、って。……背中を押したのも?」
「そうね。私が入るのを躊躇っているように見えたんじゃない?」
「行きがけの駄賃に、喉でも裂いていこうか」
「そんなことしなくても、クレスター家はあの男を見逃さないわ。そのうち、死んだ方がマシな目に遭うことが決まっているバカを、わざわざ楽に死なせてやることない」
「安心したよ。ここまでした奴をディーが庇ったら、どうしようかと思った」
「さすがに私、そこまで優しくも、お人好しでもないわ」
無実の罪を被せられ殺されそうになっているときに、そうと知った上で相手を庇おうとするのは、人間をやめた聖人か、平和惚けしたただの馬鹿である。ディアナは人間をやめた覚えもなければ、命の危機を感じられないほど危機管理能力に欠けているわけでもないので、卑怯な手を使う『敵』一同に、これでも怒っている。
首に触れていた指が、そのままディアナの体の線をなぞるように、肩へ、腕へと落ちていく。彼の指の熱が伝わったのか、気付けば、身体中が熱かった。
「……よかった」
静かに、カイが呟く。
「ちゃんと、元気だね。毒の後遺症も残ってないみたい」
「……それを、心配していたの?」
「当たり前でしょ。あんな無茶して、死んだらどうするの。肝が冷えたよ」
「ごめんなさい。……ずっとついててくれた、ってリタから聞いたわ」
「解毒薬が効いて、自発呼吸が再開するところまでね。一般的には息の根止めるダンドロに、あんな効果があったなんて、驚いたよ」
「殺すばかりじゃない、ってダンドロが教えてくれたの。合わせ方次第で、命を救うこともできるって」
「……ダンドロに、教えてもらったの?」
「耳と心を澄ませれば、彼らの『声』を感じ取ることはできるのよ。……ってリタに言ったら、『それはディアナ様にしかできない』っていつも返されるんだけど」
「そればっかりは、リタさんに同感だね」
……そうなのだろうか。ディアナにとっては、そこまで難しいことでも、特別なことでもないのだが。
カイの指が、ディアナの左手に絡まった。
「ちゃんと、全身に気が巡ってる。……ディーが、死ななくて良かった」
「カイ……」
「ディーに、死ぬつもりがなかったことは、分かってるよ。けど、無茶は無茶だった。そうでしょ?」
「……はい」
「頼むから、これからは、ここまで綱渡りな手しか残らなくなる前に、何とかしようね。王様を庇って、後宮が平和なふりなんかしなきゃ、方法は他にもあったんだから」
あぁ。この人は――。
「もうするな、って言わないのね」
「言ったって無駄でしょ? ディーは、これが『最善』だと判断すれば、これからも同じようなことをするよ」
「……そう、ね」
「俺も、何だかんだで好き勝手させてもらってるからね。俺にディーを止める権利なんかないし、止められるとも思わない。ディーってホント、頑固だから」
「それ、あなたが言う?」
「言うよ。だから、俺にできるのは、頑固なディーが命を張る前に、それしか手段がなくなる前に、他の道を作っておくこと。どちらを通っても同じ結末になるなら、安全な方が良いでしょ?」
笑いながら、けれど言葉の内容は真剣だった。昨日のことだけを言っているのではないと、ぴんと来る。
下がろうとして、囚われたままの指先が、それを許さなかった。
「シェイラさん、攫われたんだってね」
「カイ、」
「居場所も、安否も不明。ディーのことだから、脱獄してでもシェイラさんを探しに行きたいって、思ってる」
「……放して」
「頼みの綱のシリウスさんたちは、今回動けない。その理由も……さっきの様子を見るに、ディーはもう、分かってるみたい」
「――カイ!」
何もかも見通す、この男は。
必死に取り繕う、ディアナの最後の一枚を、剥がそうとしてくる。
「お願い、黙って」
「黙らない」
「言いたくないの。だから」
「ディーにしては察しが悪いね。言わせようとしてるんだよ」
「分かってるわよ、だから黙って!」
「――言ったはずだ、俺を守るな!!」
滅多にない、強い口調。呑まれて見つめた、その先には。
自信と、誇り。そして決意に満ちた、男の瞳があった。
口をつぐんだディアナに、一言一言噛みしめるように、言葉が注がれる。
「俺だけは、ディーに守られたりしない。俺は、ディーを守るために、ここにいる」
「カイ……」
「ディーの身体も、その心も、丸ごと全部。……守るために、いるんだ」
最後の一枚が、剥がされていく。力を失い、崩れていく身体を、格子の隙間から差し込まれた手が支え、勢いを殺してくれた。
絡め取られた指の隙間に、一本一本、カイの指が入り込んでいく。
……身体の熱は、心までも侵していくのだろうか。
あれほど凍えそうだった心は、今。燃えるように、熱い。
「言って、ディー」
優しいのに、逃げることを許してくれない声が、ディアナの全てを支配する。
「ありのままの、ディーの望み、全部。俺に言って」
「カイ……」
「怖がらないで。――俺を、信じて」
……もう、ダメだ。
叫ぶ心を、抑えられない。
「……け、て」
熱い何かが、一筋、頬を流れ落ちていく。
「たす、けて。お願い、シェイラを助けて。死なせないで!」
「ディー……」
「分かってるの。犠牲を最小限に抑えるためには、シェイラを救いに行くことが『悪手』だって、私にだって分かってる。でも、でも!」
格子の間から、伸ばした右手は。
気がついたら、縋るように、カイの服を掴んでいた。
「シェイラを喪うなんて、耐えられない。たとえ、もう、嫌われてしまったとしても構わない。シェイラが生きて、笑っていてくれたら、それだけで良いの」
大切な、大切な親友。
喪うかもしれない今だからこそ、その重みは計り知れない。
シェイラを死なせたくない。それはディアナの我が儘で、けれど譲れない願いだった。
カイの服を掴む力が、強くなる。
我が儘を言いながら、それが目の前のひとを危険な場所に送ることを、ディアナは痛いほど、理解していた。
……あぁ。喪いたくないものばかりが、増えていく。
「ごめんなさい、カイ。危険だって、分かっているのに、私は!」
「いいんだ」
「シェイラを、助けて欲しい。けれど、助けに行ったひとも、無事でいて欲しい。――私は誰も、喪いたくない!!」
それは、おそらく。
ずっとずっと、願い続けて。
不可能だと分かっていたからこそ、言の葉に乗せることを諦めてきた――。
「――やっと、言ったね」
痛いほど、服を握り締めていた手が、ふわりとした熱で包まれる。
促されるように、顔を上げると。
「ディーの、我が儘。ディーが笑うために、絶対譲れないもの。……やっと、言ってくれた」
――信じられないほどに美しい瞳が、そこにはあった。紫紺の夜空に、星がちりばめられ、きらきらと光っている。
絡め取った指は、そのままに。もう片方の手で、カイはゆっくりと、こわばったディアナの手を撫でた。
「何度でも言うよ。俺は、ディーの全てを守る。ディーが望みを全て叶えて、幸せになれるように」
「カイ……」
「シェイラさんを助けることが、ディーの望みなら、俺はそれを叶える。俺に死ぬなと望んでくれるなら、殺されたって俺は死なない」
「カイ……!」
絡め取られた指を、ディアナはぎゅっと、握り返した。
「お願い、死なないで。生きて、シェイラを助けて、戻ってきて」
「それでいいんだ。――俺は、これが欲しかった」
服を掴んでいた手から、力が抜ける。落ちるかと思ったそれを、カイはそっと支え、――自らの口元へと、引き寄せた。
どくん、と。心臓が、これまでとは違う、動き方をする。
「カ、イ……?」
「欲張りで、我が儘で、意地っ張り。――けど、何より、誰より、優しくて温かい。そんなディーの、心からの望みが、俺は欲しかった」
「で、も……」
こんな望みは。本当に、単なるディアナの我が儘だ。
誰も、何も、喪いたくないなんて。ものの道理も分からない幼子じゃあるまいし、世の中がそんなに甘くないことくらい、もう、ディアナは知っている。
知っているのに。なのに、いざとなったら割り切れなくて――。
くすりと笑う、カイの瞳に。ぞくりとする、艶が混じった。
逃げ出したいのと同じくらい、その艶に惹かれて。
まるで金縛りに遭ったかのように、ディアナは身動きが取れなくなる。
「……怖い?」
「分からない、けど。……亡くすことは、怖い」
「ディーは、何も亡くさないよ。俺を信じて、無事を願って、帰りを待ってて。――それが、俺の、俺たちの力になる」
死なないでと、願うひとがいること。帰りを待つひとがいること。
それは、ぎりぎりの死線で『生』を選択する力を生むのだと、ディアナはかつて、聞いたことがあった。
それが……カイの、望みなら。
「死なないで。――生きて」
「ディー……」
「約束したでしょう? いつか――全て終わったら、ショウジのついた家を、その町並みを、一緒に見に行くって。私、忘れてないわ。本当に楽しみにしてるのよ」
「……!!」
強い力で、腕を引かれる。カイの吐息が、指先から腕へと駆け抜けた。
「こんな、ところで。抱き締めたくなるようなこと、言わないでよ」
「カイ……?」
「そうだね。約束した。実現するためにも、こんなところで命の危機とか、言ってられないね」
カイは、笑う。優しく――そして、強く。
「シェイラさんを助けて、二人で無事に帰ってくるよ。ディーの危険は一切去ってないけど、大丈夫?」
「私のことは、心配しなくてもお父様たちが助けてくれるわ」
「だね。俺もそこは、信頼してる」
「私も……信じて、待っているわ。あなたたちが、帰ってきてくれるのを」
そっと、微笑んで。ディアナはそっと、自分から、引かれたままの腕を、カイの方に寄せてみた。
一瞬の、間を置いて。
「そういう無防備なこと、他の奴にしちゃダメだよ」
こうなるんだから――。
囁きとともに、腕の内側に、濡れた柔らかいものが押し当てられる。
何が、と思う間に、目の前の隠密は、文字通り闇に溶けていた。
(……え。まって。今のって)
ああいう触感のものは、人体には……特に人間の顔には、およそ一つしかないのではなかろうか。
それを、意識的に、どこかへ押しつける行為には。一般的に、何か呼び名があったような。
(無防備って。こうなる、って……!)
思わず一連の動きを反芻してしまい、ディアナは、場所も忘れて身悶えた。
違う。そんなつもりじゃなかった――! と。
「○○越し」なシチュエーションに萌えます。今回みたいな見て触れる系から、ガラス越しに触れないけど熱は感じられる系、壁越し、ドア越しに声だけで相手の存在を感じて系も含め……! 何を全力で主張しているんでしょうね、私は。
そして、この2人がどんだけ甘くても、このお話の主題にしたい『恋愛』には掠りもしない残念な現実が目の前に。……うん、まぁ、いっか。
次回はこのまま、カイメインでお届けします。




