地下牢の中で
今話、ディアナ視点の本編後に、視点変更で話が追加されています。しかも、本編より長いです。
カットするか閑話として挟むか迷ったんですが、できれば閑話を挟まないまま次話まで続けたかったのと、補足を入れないと何か大人組が可哀想な気がしたので、こういう形になりました。
本編と合わせて、ご覧くださいませ。
――さて、これからどうするか。
冷たい石に囲まれた地下牢に、文字通り投獄されたディアナは、遙か頭上にある天窓から差し込む光を見つつ、思案する。
彼女の現在地は、外宮の、兵士たちの詰め所付近の地下にある、罪人用の普通の『牢屋』だ。王宮には貴人用の、衣食住が保証された、牢というよりは監禁室と呼ぶべき場所があるのだが、保守派にディアナを丁寧に扱う気はさらさらないらしい。
(どこまでお約束を踏む気なんだか……)
敵方に、少しでも『クレスター家』を警戒する頭があれば、現当主の娘であるディアナにこんな仕打ちはしないだろう。捕らえておくにしても、場所くらいは選ぶはず。あちらはディアナを殺す気満々で、短い命の女をどこに放り込もうが結果は同じと考えているのかもしれないが。
(このままわたくしを殺せる、って確信している辺り、救いようがないわね)
確かに、今回の謀に対し、ディアナたちはどこまでも後手に回っていた。捕捉した相手は不気味に沈黙し、まるで魔法のようにどこからともなく『毒』が出てきて。乗り越えたかと思えば、シェイラが奪われディアナはこの有様だ。『誰か』が考えた筋書きの通りに、転がされた感は否めない。――腹立たしいことに。
しかし。『敵』は、分かっていない。
(わたくしたちが後手に回ったのは、いくつもの制約があったからなのよ)
その最も巨大かつ、強力な『枷』を。……『敵』は自ら、取り払ってしまった。
この先の展開を予測し、ディアナは我知らず、深い息を吐き出す。
頭上の天窓から落ちる、うっすらとした光を見上げ、夜明けが近いことを知った。
(落ち込んだって、時間が過ぎることは変わらない。……何か、できることを探さないと)
地下牢は広いが、ディアナが入れられた区画に、他の囚人は見当たらない。見張りは区画の外、ディアナからは見えない位置を守っているようだ。気配はあるが、視線は感じない。
狭い四角の牢は、三方が石壁に覆われ、天窓のついた壁の正面が、牢屋らしい鉄格子だ。縦方向のみで、腕一本くらいなら出せるが、身体全体が通れるほどの隙間はない。
(さすがに、牢の内側に抜け穴はなさそうだけど。この格子を越えることさえできれば、見張りに気付かれないよう外に出るのは難しくなさそう)
地下牢は広く、造りも複雑そうだった。罪人の逃亡防止の為だろうが、それは裏返せば、警備の抜け道にも通じる。この件に関わっているのは王宮騎士の中でもほんの一握り、見張りの死角を突いての脱出は、そう難しいことではない――が。
(たぶん……この件に、ランドローズ家が関わっているとしたら)
ディアナが逃げれば――安否不明のシェイラの命が、限りなく危険な状態に曝される。
『寵姫』誘拐を企てた主犯として、ディアナは王宮騎士に捕らえられた。現在身柄を拘束されている『実行犯』は、オレグ、ライノ、ベルの三人。仮に三人共が『誘拐は紅薔薇の指示』と供述したとしても、物的証拠がない状況では、あくまでも『疑い』でしかない。捕縛に動いたところで、『動かぬ証拠でもあるのか、耳を揃えて持ってこい』と言われれば、どうすることもできずに引き返すことになる。普通なら、あんなに堂々と、王の赦しもなく乗り込める段階ではないのだ。
にもかかわらず、彼らは動いた。そこに込められた『敵』のメッセージを読み解けないほど、ディアナは鈍くない。
『大人しく、言われた通りに捕まらなければ、シェイラの命はない』
シェイラの『誘拐』を仕組み、その罪をディアナに被せることそのものが、何よりディアナを縛る『脅迫』になると、『敵』は分かっているのだ。
ディアナが『ディー』としてシェイラと親交を深めていたことなど、保守派貴族が知っているはずもない。それでもこの『脅迫』がディアナに有効であると確信できるのは、実際にそうやってディアナの動きを封じた実績があるからだ。
『ココット侯爵家は、戦の準備をしていると』
年迎えの夜会で。リリアーヌと二人きりになったあのとき。
彼女の、あの一言で、ディアナは確かに止められた。『牡丹派』への容赦のない追撃を、諦めざるを得なかったのだ。
貴族として守るべき『弱者』。それは確かに、ある意味で、ディアナの弱点だ。そこを正確に突けるのは、実際にディアナと対峙し、その効果を実感したであろう、リリアーヌしかいない。
(さすがは、王国屈指の古参貴族。搦め手を使った卑怯な戦法なら、実に手慣れていらっしゃる)
甘く見ていたつもりはないが、考えていた以上にえげつないことを罪悪感なくやってくれる。おかげで、こっちはシェイラの安否を確認したくて、可能なら助け出したくてうずうずしているのに、身動きが取れない。
(それに――)
願うなら、この国も。――王も。
諦めたくは、ない。
『ディアナ様――』
待ち望んで、けれど来て欲しくなかった声が、落ちてくる。
天窓のある壁に背中を預け、ぐっと拳を握り締めて、ディアナはまっすぐ前を向いた。
「シリウス……」
『お怪我はございませんか』
「大丈夫よ。牢に入れられるときに背中を押されたけれど、あれくらいどうってこともないし。傷一つないわ」
『まったく……クレスター家のご令嬢をこのように扱って平然としているとは。救いようのない馬鹿がずいぶんと増えたものですね』
「仕方ないわよ。小さな事件はちょくちょくあっても、人の記憶に残るほどのものじゃない。かといって、百五十年前の『きっかけ』を子々孫々に伝えようなんて、よほど歴史に真摯じゃないと」
『デュアリス様も仰っていましたよ。『多少誤差はあるが、だいたい百年ごとにこの手の騒ぎは起きる。今回は爵与制度云々で五十年ずれた感じだな』と』
歴史の教訓は百年で薄れる――と、デュアリスは言いたいのか。
現状を正しく把握しているらしい父の言葉を聞くのが、今のディアナは、怖い。
身体の震えを、意志の力で抑えつける。
「それで……お父様は」
『『クレスター』に害なす輩を、総力を上げて殲滅する――それが、デュアリス様のご決断です』
短い言葉に込められた意味は、ディアナには分かりすぎるほど分かった。手加減も配慮もしない、剥き出しの力を『敵』にぶつけるということだろう。
今の、王宮で。『クレスター家』が本気を出せば……それは。
「……国が、沈むわ」
『やむを得ない、とのことです』
「王は、変わろうとしていらっしゃる。そう知っていて、それでも『総力』をぶつけるの?」
『ディアナ様。厳しいことを申し上げるようですが、王国の頂点に君臨なさる以上、『変わろうとしている』だけでは不十分なのです。確かに変わり、変わったことで違う景色を創らなければ』
ディアナは、激しく首を左右に振った。
「分からないわ。そこまでする必要がある?」
『いいえ。ディアナ様は、分かっているはずです。デュアリス様が何故に、今回の『決断』をなさったか』
「分からない。……分かりたく、ない」
上げようとしても、目線は下に落ちていく。……そう。本当は、分かっている。
デュアリスが、決断した理由。それは――。
『ここまで事態が拗れた最大の原因は、王の怠慢です。しかもその責を、無自覚とはいえディアナ様に負わせた。そのことにようやく気がついて、変わろうとしたところで、愚かだった過去は覆せず、こうしてディアナ様のお命が狙われました。……お分かりでしょう? 『間に合わなかった』と』
どうしようもない現実が、言葉となってディアナに刺さる。痛む胸を、拳で叩いた。
――分かっていた。保守派がディアナの命を狙って動き出したと知った、あのときから。
こうなった以上、父は容赦なんかしない。ディアナの命を狙った一味を、残らず刈り取るために動く。
派閥など関係なく、ディアナの――『クレスター』の命を脅かした者を、彼は等しく赦さない。
その粛清は、王宮に嵐を呼び。王権すらも脅かして。
この、エルグランド王国の体制を、根本から揺らがせる。
デュアリスのことだ。戦にはならないように、なったとしてもクレスター領に被害が及ばないように、その一線は守るだろう。彼が配慮をしないのは、王宮と政、そして貴族に対してだ。
『王国の悪を牛耳る、裏社会の帝王』たるクレスター家が、王を差し置いて貴族を処断する。絶対王政を敷くこの国でそれをすることが、王の治世にどれほどの衝撃を与えるか重々承知の上で、デュアリスは動こうとしている。
それは――現王のこれまでの振る舞いに、この事態の責任と原因があり、なおかつ、現状を乗り切る才覚と能力が彼に欠けていると、デュアリスが判断したから。
要するに。クレスター伯爵デュアリスは、国王ジュークを、『見限った』のだ。
俯いたディアナに、頭上から、静かな声が降ってくる。
『ディアナ様が無念に思われるお気持ちは、分かるつもりです。……もう少し、でしたからね』
「……お父様が、そう判断なさるだろうことは、分かっていたわ。けれど、わたくしは待ちたいの。そう、お父様に伝えて?」
『お望みとあらば、承りますが。……何故、それほど信じようとなさるのです?』
「どうしてかしらね」
自分でも、よく分からない。目を閉じ、考えて。
……あぁ、と思った。
「こうなった以上、もう何をしても、後悔することは決まっているわ。同じように後悔するなら、諦めるより信じ切った方が、未来に繋がる気がするの」
『ディアナ様らしいといえば、らしいのかもしれませんね』
「牢の中にいることしかできない、わたくしだもの。できるのは、信じることくらいよ」
むしろ、外にいる人に託すものの方が多い。
ずっと気にかかっていることを、ディアナは言葉に出した。
「――シリウス。シェイラの行方は、掴めている?」
『……いいえ』
ふっ、と。
シリウスの声から、温度が消えた。
――嫌な予感に、冷たいものが溜まっていく。
「生死も、分からないの?」
『左様で』
「……ひょっとして、『闇』はシェイラの救出に、動いていない?」
落ちた沈黙は、肯定の意。
大声を上げそうになり、右手で左手を痛いほどに掴んで、ディアナは声を殺した。
「どうして……!」
『デュアリス様は『総力』でと指示されました。『敵』を追い詰める足場を固めるのに、我らは今、全力を尽くしております。――人員に余裕がございません』
「『敵』を滅ぼすことが、シェイラの命より、大切なことなの!?」
『命に、重さがあるのなら。シェイラ・カレルド嬢よりも、ディアナ様の命の方が、我々には重く、大切です』
ディアナを救うために、シェイラを見捨てると。
シリウスは、言うのか。
……いいや。たぶん、違う。
「シリウス。騙せると、思わないで」
『ディアナ様……』
「人員に余裕がないのは、嘘じゃないと思う。でも、そんな理由で罪のない命を見捨てるような人間は、ウチにはいないわ」
『――それは』
「……お父様が、命を出したのね。シェイラを、助けるなと」
シリウスが、憎まれ役を買ってまで庇おうとする人間は、デュアリス以外に考えられない。
僅かな沈黙の後、苦渋に満ちたシリウスの声が聞こえてくる。
『ディアナ様。デュアリス様も、悩んで、苦しまれております。シェイラ嬢をお助けできないことに』
「……理由が、あるのね? わたくしには話せない」
『――はい』
短い肯定は、これ以上説明する気がないことも、如実に語っていた。
ディアナはのろのろと、頭を振る。
「どうあっても、無理なの?」
『我らが――クレスター家の『闇』が、シェイラ嬢の救出に動くことは、ありません』
シリウス自身も、歯痒いのだろう。答える声は、苦かった。
喪うかもしれない恐怖が、ディアナの全身を凍らせる。宴の席で膳をひっくり返し、イヤミを言ったあれが、最期になるかもしれないなんて。
(嫌だ――!)
こんな肝心なときに、ディアナは何もできない。ひたひたと、絶望の足音が聞こえてくる。
国を荒らす、始まりの鐘を鳴らし。
親友の命を、徒に危険に曝して。
自分はいったい、何をした。――何を、為した?
『ディアナ様。――デュアリス様より、伝言をお預かりしております』
声が出せなくなったディアナに、静かなシリウスの……デュアリスの言葉が落ちる。
『――思うまま、動け。後のことは心配するな』
……激励の言葉も、無力を痛感したディアナには、重く、苦しい。
シリウスの気配が消えると同時に、ディアナは膝からくず折れていた。
† † † † †
――ディアナが絶望に襲われ、土の床に力無く膝をついたことは、感じ取っていた。
どうすることもできない現実を前に、シリウスの心も暗くなる。
(どう足掻いても、万能になることはできない。……そう、分かってはいても)
シェイラが攫われ、それを企んだとしてディアナが囚われの身になったと聞いたときの、デュアリスの怒気は凄まじいものだった。魔王顔で常に無表情な彼は、知らない人間からは沸点が低いと思われているが、実際は滅多なことでは怒らないし、怒ったとしてもそれを表に出すことはない。
……その、デュアリスが。
『……これが、決め手か。――舐めた真似を』
シリウスをして、背筋が寒くなる声と。意識しての無表情ではなく、怒りのあまり表情が抜け落ちた顔で、『クレスター』の主は言った。
『まるで駒遊びだな。『奴』にとっては、我らもまた、掌中の駒の一つというわけだ』
『……いかが、なさいますか』
『この際だ。とことんまで付き合ってやろう。――案外その方が、差し手の思惑に早く気付けるかもしれん』
狂った超人の思考を、通常のやり方で推し量るのは至難の業だからな、と呟くデュアリスもまた、常人とはかけ離れている。
怒れば怒るほど口数の少なくなる主は、感情が高ぶるほど思考がさえ渡り、神憑った鋭さを発揮する、怖ろしい一面を隠し持っているのだ。
『シリウス』
『はい、デュアリス様』
『我らはこれより、『古の誓約』に基づき、総力を上げて事に当たる』
『……ディアナ様は、反対なさるでしょう』
『だろうな。しかし、『クレスター』の現首領はこの俺だ。『クレスター』の一員である以上、頭の決定には従ってもらう他ない』
『夏に比べ、『彼』は変わりました。それでも?』
『……エドは、納得せんか』
『いっそ、愚かなままなら。迷いを断ち切り、諦めることもできたでしょうが』
『そこまでする必要があるのか……か。そうだな。確かに、子どもたちは言いそうだ』
ディアナは牢の中。自由に動くことはできないが、クレスター家で最も機動力に優れた男は、その気になればどのようにでも動ける。
クレスター家の娘を殺そうと企み、動いた時点で、動いた者たちの末路は決まっている。――けれど、彼らをどう『処分』するにしても、やり方は何通りもあるわけで。
その気になれば、王宮を波立たせず、関係者だけをひっそり退場させる策だって、取れないことはない。
ディアナ以上にそれを分かっているエドワードが、『総力』の部分に反発する可能性は、低くなかった。
デュアリスは、重い息を吐く。
『これだけは、したくなかったが。……話すしか、なかろうな』
『まさか――』
『ディアナが『何』なのか。『我ら』にとって、いかなる存在か。……『彼女』を害すことが、即ち何を生み出すのかを』
――そう。デュアリスが『総力』を決断した、本当の理由は。
『クレスター』ではなく、『ディアナ』自身にある。
それを知っているからこそ、デュアリスの決定をディアナに話すことは、シリウスには辛かった。
……おそらくは、決定したデュアリス本人も。
ディアナは、知らない。知る必要はないと、デュアリスも、シリウスも――それを見抜いた『彼』ですら、そう思っている。
可能なら……知らないまま、その生涯を終えて欲しいとさえ。
『……エドワード様は、驚かれるでしょうね』
『驚いて、望みが絶たれたことを知って……荒れる、かな』
『それでも、そこで終わる方ではありませんよ。私は彼を、その程度の男に育てた覚えはありません』
エドワードはデュアリスの息子だが、同時にシリウスが幼少の頃より手塩にかけて育てた愛弟子だ。エドワードの強さなら、シリウスとてよく知っている。
少し苦笑して、シリウスは気持ちを切り替えた。
『『総力』の件、承知いたしました。――しかし、デュアリス様』
『分かっている。シェイラ・カレルド嬢の救出だろう』
デュアリスの周囲の空気が、ずん、と重くなった。
……それだけで、シリウスには何となく分かる。
『……シリウスは、どう見る?』
『確実に、『敵』は。我らの追撃を、見越しているかと』
クレスター家に味方する者が、関係者たちに張り付いた瞬間に、見張られていた者たちは動きを止めた。隠密行動の専門家、『闇』が担当した、ノーマードすら。
……『敵』は確実に、こちらの動きを把握している。『闇』すらも見通す、尋常ではない方法で。
『闇』を見抜いているのなら。シェイラを誘拐すれば、『闇』が動く可能性が高いことも、当然分かっているはずだ。
どんな罠が待ち構えているか、予想がつかないこの状況で。それでもシェイラの救出に動けるほど、デュアリスもシリウスも、無謀ではなかった。
彼らが優先するべきは、あくまでも『ディアナ』なのだ。
『シェイラ・カレルド嬢の救出に手勢を割けば、当然のことながらディアナ様の周辺は手薄になります。守りを分散させることも、『敵』の狙いの一つなら』
『『我ら』が動くことはやはり、悪手か……』
クレスター家の『闇』には、決定的な弱点がある。――主家への、絶対の忠誠だ。
金銭で雇われているだけの稼業者なら、いざというときは自分の命を最優先にし、雇い主を裏切ってでも生き延びようとするだろう。『命あっての物種』、昔の人は実に良いことを言った。
しかし。『闇』に限っては、それは通用しない。彼らは、『主家』たるクレスター家が、何があろうと自分たちを守ってくれることを知っている。それこそ、『国』を裏切り、逆賊となってでも、『家族』と呼ぶ『闇』を見捨てることはしないと分かっているのだ。
故に。『闇』は最期まで、クレスター家に忠誠を尽くす。裏切るくらいなら死を選ぶし、主家の人々の命が盾に取られれば、その瞬間に動けなくなる。今のように、主家の娘が牢に入れられている状況は、最悪の部類に入ると言っていい。
気持ちの上で、迷いなく行動することが難しいとはっきりしている状況で、さらに張り巡らされているだろう罠。
『シェイラ・カレルドを救い、全員無事に帰還せよ』という命を部下たちに出すことがデュアリスにとってどれほど残酷か、シリウスも分かっていた。玄人である『闇』は、それが命令なら、危険を汲んだ上で遂行してくれるだろう。あくまでもデュアリスが、主として、彼らを動かすことを躊躇っているだけだ。
けれど、これだけの精神的不安要素が揃っていて。なおかつ、相手の『罠』が読み切れないとなると。
『無理に『闇』を動かすと、『敵』の思う壺、になりそうな予感がひしひしと致します』
『だな。かといって、警戒して動かないのも、予想されていそうだ』
『……つくづく、忌々しい『差し手』ですね』
『腕は優秀なんだろうな。……だが』
その先の言葉を、デュアリスは言わなかった。遠くを見る眼差しで、何かを考えている。
『デュアリス、様?』
『……賭けるか』
『はい?』
『シェイラ嬢にとっても、ここが踏ん張りどころだろう。この程度で死ぬお嬢さんなら、どのみち正妃になんざなれん』
『誘拐は、割と大事かと思いますが』
『だが、今のところ、彼女の生死は五分五分だ。『敵』にとって彼女は、ディアナの……我らの動きを制限する『重石』。早い段階で殺してしまっては、こちらに反撃の準備を整える時間を与えるだけだと分かっているはず。短絡的に殺すほど、連中の頭は悪くない』
『実行犯たちにまで、そんな事情は降りていますでしょうか?』
『だから、そこが『賭』だ。実行犯たちが、とにかく『寵姫』のシェイラ嬢を邪魔に思う者たちばかりなら、彼女は長くは生きられない』
ディアナの友人ではあるが、デュアリスはシェイラと直接の面識はないし、せいぜい遠目に確認した程度だ。シェイラが死ねばディアナの心が壊れかねないと案じているから、ついでに自発的に『正妃』を目指そうと決めてくれた稀な人材だから、それ故気に掛けているだけで、『闇』や家を危険に曝してまで守りたい存在では正直ない。
重要なことなので繰り返すが、デュアリスに、『クレスター家』にとって、守るべきはあくまでも『ディアナ』なのである。
しかし。冷たいことを言いながらも、デュアリスの目は、誰かの命を切り捨てる者のそれではなかった。
『俺の予想が正しければ。シェイラ嬢の運は、尽きてないと思うけどな』
『……と、仰いますと?』
『実行犯たちの頭が残念なら、シェイラ嬢は連れ去られてすぐ、命を奪われているはずだ。そうなれば、あれほど仲良くしていたディアナが『兆』を感じないはずがない。……ディアナが平静を保っているということは、シェイラ嬢はまだ、無事だ』
親しい者に訪れた、命の危機。それを感じ取れる人間は、この国にはそれなりの数、存在する。
単なる感覚だと言ってしまえばそれまでだが、それがかなりの精度を誇っていることもまた、事実だった。
『シェイラ嬢が生存する時間が長いほど、実行犯たちに『上』の意向を理解した者がいる可能性は高い。それは同時に、彼女が生きていられる可能性も増えることを意味する』
『……と、同時に。彼女の救出に向かう者の危険も高まるわけですが』
『俺は、勝てない賭はしない主義だ』
きっぱりと、言い切って。デュアリスはシリウスを見た。
『クレスター家は、これより『総力』で動く。同時に今回、シェイラ・カレルドの救出には動かない。……そう、ディアナに伝えてくれるか』
『デュアリス様……』
『辛い役目を負わせる。全部、俺のせいにしてくれて良いから』
俺にエドくらいの技術があれば、直接出向くんだけどな、と言うデュアリスに、シリウスは苦笑した。
『そのような。エドワード様にすら、私は不法侵入の片棒は担がせませんよ。当主であるデュアリス様ならなおのことです』
『シリウス、お前』
『誰のせいでもありません。……強いて申し上げるなら、これは我々の力不足が招いたこと。『時代』のせいにせず、必要なものと割り切って、手に入れる努力をすれば良かったのです』
『それを『必要ない』と判断したのは、歴代の当主だ』
『あなた方は、優しすぎる。それ故に、判断を誤ることもあるでしょう。――『敵』がこういう手で出て来た以上、確かに必要はあったのですから』
滅多にないことではあるが、デュアリスの肩が落ち、目線が下がった。左手で顔を覆った彼から、苦渋に満ちた声が絞り出される。
『……済まない』
シリウスの主は、必要とあれば冷酷無比な作戦も立てることができる。
……けれど、決して心を痛めないわけではない。どれを取っても『間違い』にしかならない中、それでも必死に『最善』を模索し、突き進み、全てが終わったその後で涙を流す彼を、シリウスは幾度も目にしてきた。
娘に恨まれるだろう選択をして。十七年間築いてきた絆を、自ら壊すような道に踏み出しても。
彼には……『クレスター』を率いる『彼』には、譲れないものがある。
「景気の悪い顔してるね、シリウスさん」
角の向こうから、静かに出て来た、『闇』ではない隠密。
外の光が薄く注ぎ込む、隠し通路の中で、紫紺の瞳だけが鮮やかに燃えていた。
遠慮のない物言いに、シリウスは苦笑する。
「絶好調な顔ができるか? 主の葛藤を知りつつ、それをディアナ様に伝えることができない。せめて、デュアリス様とディアナ様の仲は、壊さないまま進めたかった」
「それ、すごくディアナを馬鹿にしてるよ」
直接的なカイの言葉に、思わずシリウスは、返す言葉を失った。
何もかもを見通しているような、不思議な瞳。色こそ違うがそれは、彼の父親にとてもよく似ていた。
「ディアナはきっと、自分のために、デュアリスさんがしたくもない決断をしたって分かってる。力不足の自分を責めはしても、デュアリスさんを嫌ったりしない」
「それは……」
「分かってくれるよ、ディアナは。事情は分からなくても、それしか方法がないんだ、って」
誰も間違ってないと思うよ、と語る、カイの声音は柔らかい。
娘ほども年の離れた若造に励まされていると知り、シリウスは笑うしかない。
「それで、お前はどうした?」
「……それ、今聞いちゃう?」
「我々は、ディアナ様の命を守る。それが第一義だからだ。しかし、それは……ときに、あの方の心を壊す」
リタが、悟ったように。シリウスも悟っていた。
ディアナの『全て』を守れるのは、たった一人だと。
託された男は、少し間を置いて……静かに、笑う。
「怒ってるんだよね、俺」
「カイ」
「こんな風に、何重にも卑怯な手を使ってきた奴も、ほいほいそれに乗っかって動いた奴らも、腹は立つけど。……自分に、いちばん、怒ってる」
ディアナを牢に入れようと、王宮騎士が部屋に踏み込んできたとき。カイは、近くにはいなかった。
この少年も、ディアナに負けず劣らず、自分に厳しい。
「価値がないんだ」
「価値が、ない?」
「俺にとって、ディアナが幸せになれない世界なんて、価値がないんだよ。この世界であの子が幸せになれないなら、全部壊して造り直したい。そう、本気で思う」
「お前は……」
「過激? リタさんにも言われた。……正直、ディアナを苦しめてばかりのこんな国、さっさと滅びろとすら思うけどさ。ディアナは何でか、この国が好きなんだよね」
手のひらを、じっと眺めて。カイは、両手をぎゅっと握った。
「シリウスさん。俺の、思うとおりに動いて良いかな」
「……何を?」
「ディアナが望まないことは、しない。ディアナの幸せが、笑顔が、俺の守りたいものだから。……そのためなら、使いたくないものも使うし、必要ないと拒絶もしない」
この、男も。おそらく何かを秘めている。
紫紺の瞳が、強い光を宿した。
「これから俺がどう動くかは、ディアナ次第だけど。――最低一人は、確実に、あの世に送る」
『あいつ』だけは生かしておけない――。
冷静に、何の感情も差し挟まず、そう語る彼は、まさしく『裏』を生きる稼業者だった。
こう宣言する『裏』の人間に何を言っても無駄なことは、シリウス自身よく知っている。軽く、ため息をついた。
「好きにしろ」
「ありがと。じゃあ俺、ディアナに逢ってくるから」
「……落ち込んでおられるだろう。よろしく頼む」
「大丈夫だよ。シリウスさんも、あんまり気にしないで」
態度はどこまでも軽いのに、愛がとてつもなく重い隠密を見送って。
シリウスは音もなく、その場から立ち去った。
2015/10/1、後書きの文章を本文末尾に移動しました。
アプリで開くと長文後書きが読めない、というご指摘がありまして……なろうにアプリなんてあったんですね、知らなかった。
ご迷惑をおかけした皆様、申し訳ありませんでした!




